自分の身が例えどうなろうと、ぼくは、この女性がこの世にいると知り、 かの女の声を飲み、かの女の近さを呼吸するのが、うれしくてたまらなかった。 かの女がぼくのために、母親になろうと、恋人になろうと、女神になろうと、 それはかまわない。 そこにいてくれさえすればいいのだ。 <ヘルマン・ヘッセ『デミアン』より> ふう。 俺はゆっくりと凍てつくような寒さの中に、吐息を溶かす。 今日は、十二月二十三日。 街はすっかり、クリスマス一色だ。 煌びやかな、ネオンの光。 ワンパターンなクリスマス・ソング。 行き交う人々の顔には、笑顔の比率が多い。 「うー、寒ぅ・・・・・・・・」 俺は人混みの中にひとり、佇む。 サンタの、格好をして。 今年のクリスマスも、バイトで終わりそうだな。 ふと、そんな考えが、浮かぶ。 「おーい、耕一君」 人混みの中で、声を掛けられる。 ずいぶんと、可愛い声だ。 「こーら、返事をしろい」 ぱかん、 と、本で軽く頭を叩かれる。 振り向くと、其処には俺より頭一つ背の小さい女の子が立っていた。 眼鏡がよく似合う、女の子だ。 「あれ、由美子さん、じゃないか」 小出由美子。 大学で俺と同じゼミに所属する、女子大生だ。 なにかと、俺とウマが合い、最近は俺の世話を良く焼いてくれる。 「由美子さんじゃないか、じゃないわよ?・・・・・・バイト?」 「まあね。今のウチに稼いで、年末年始は・・・・・・・スキーへ、と思ってね」 嘘である。 スキーに行くつもりは、無い。 このバイトしているのは、他に理由があった。 「ふーん・・・・・・・」 じろじろ、と由美子さんが俺を、見る。 明らかに、疑っている眼だ。 まいったな・・・・。 「ま、良いけどね。・・・・・・あ、そうだ」 パチンと両手を合わせて、由美子さんの顔に笑顔が、綻ぶ。 可愛い、笑顔だ。 「ね、明日、暇?」 少し上目遣いで、由美子さんが訪ねる。 「うーん、夜にはバイトは終わるけど・・・・・・・?」 「ね、じゃあ、デートしない?」 えっ!? その時、俺はかなり間抜けな顔をしていたに違いない。 目の前の由美子さんが無邪気に、微笑む。 「な、なんで・・・・・・?」 間抜けな、答え方だ。 それ位、俺は狼狽していた。 「キミとデートが、したいから・・・・・・・・」 その顔は、笑っていない。 真剣な、眼差し。 「ね、・・・・・・・・・駄目かな?」 もしも人から、なぜ彼を愛したのかと問いつめられたら、 「それは彼であったから、それは私であったから」 と答える以外には、何とも言いようがないように思う。 <モンテーニュ『エセー』より> かた。 かた。 北風が窓を、揺らしていた。 外は、すっかり暗くなっている。 柏木楓は、頬杖を突きながら、只じっと外を見ていた。 ちらり、と壁の掛けてあるカレンダーを、見る。 今日は、十二月二十四日。 クリスマス・イブだ。 しん、とした空気が周りを包んでいた。 今、柏木の屋敷には、楓しかいない。 長女の千鶴は、鶴来屋のクリスマス・パーティーに出席していた。 次女の梓は、部活のメンバーと同じくクリスマス・パーティー。 末女の初音も、学校の友達と。 それぞれ、思い思いのクリスマスを過ごしていた。 別に、楓も予定がなかった訳では、無い。 友達からは、パーティーに誘われている。 他にも、何人かの男子からはデートのお誘いが、あった。 でも、楓は全て断った。 ・・・・・・理由は、何となく解っていた。 かち。 かち。 かち。 静かな部屋にただ時計の、時を刻む音が、聞こえる。 「耕一さん・・・・・・・」 ふと、楓がそう、呟く。 何やっているんだろ。 別に、約束なんてしていないのに。 楓の心に、疑問が湧く。 かち。 かち。 秒針が、時を刻む。 もう、八時になっていた。 目の前に置かれた、カップのお茶はすっかり冷めている。 「・・・・・・・・」 きゅ、 楓は腕を自分の躰に回し、自分を抱きしめた。 躰が、震えている。 寒いから、ではない。 こつん。 額を窓硝子に、当てる。 その時。 窓の外に、白い結晶が降りてきた。 ・・・・・・雪だ。 雪の結晶が、降りてくる。 ひとつ。 ふたつ。 暫くすると、窓の外は真っ白い雪の降臨に埋め尽くされる。 「・・・・・・・・耕一さん・・・・・・」 窓の外を見ながら、楓は再び呟く。 あいたい・・・・・・・・・・。 楓は、ただそれだけを、想っていた。 朝起きるときは「今日も会えまい」と思い。 寝るときは「会えなかった」と思うのです。 長い長い毎日に、幸福なときは片ときもありません。 すべては物足りなさ、すべては悔恨、すべては絶望です。 <ラクロ『危険な関係』より> 俺は、ちらり、と腕時計を見る。 もうすぐ九時だ。 あと、少しで今日のバイトも、終わる。 こんな時、時間の進みがヤケに遅く、感じる。 くそう、早く終われよ。 俺は、内心毒づいた。 その時。 俺の目の前に、白い結晶が降りてきた。 雪だ。 雪の結晶が、降りてくる。 ひとつ。 ふたつ。 やがて、無数の白い降臨は俺の視界を、埋め尽くす。 ゴーン、ゴーン・・・・・・・・。 どこかの鐘が、鳴る。 「柏木君、お疲れ。あがって良いよ・・・・・・・」 店長がそう言うが、早いか俺は飛び出していった。 後ろで、店長がなにか叫んでいるけど、それを無視して俺は駆け出す。 雪の中を、俺は走っていた。 間に合うかな? また、腕時計を見る。 ・・・・・・少し、遅れたかな?許してくれると良いけど。 白い息を吐きながら、俺は更に走る速度を上げた。 僕の存在には貴女が必要だ。どうしても必要だ。 <夏目漱石『それから』より> かち。 かち。 かち。 秒針が、時を刻む。 時計は十時を、指していた。 楓はただ、窓の外の雪を見ていた。 その表情は、暗い。 涙を堪えているように、見える。 「・・・・・・・・・耕一さ・・・・・ん・・・・」 何度目だろう。 この名前を呟くのは。 呟く度に、胸が熱くなる。 同時に、痛くなる。 燃え上がるような、熱さ。 えぐるような、痛み。 それが楓の小さな胸に、交互にやって来る。 「耕一・・・・・・さん・・・・・・」 また、呟く。 じわり。 楓の大きな瞳に、涙が浮かんでくる。 アイタイ。 ただ、それだけ、なのに・・・・・・・・。 アナタニ、アエナイ。 ものすごく、胸が苦しかった。 アイタイ。 アイタイ。 アイタイ。 ・・・・・・・・・あなたに。 「・・・・・・・・・・・・・・・耕一さん」 また、呟く。 でも、・・・・・・・・・・返事は。 「楓ちゃん・・・・・・・・・」 声がした。 懐かしい声。 聞きたかった声。 愛しい声。 楓が顔を、上げる。 目の前に、耕一が立っていた。 サンタの格好をして。 「・・・・・・・・どうして?」 涙を堪えながら、楓が言葉を振り絞る。 約束なんて、していないのに。 「呼んでいたろ、俺を・・・・・・・・」 「・・・・・・え?」 「会いたいって・・・・・・・さ」 耕一には、聞こえていた。 楓の声が。 想いが。 互いの『エルクゥ』が、伝えていた。 「聞こえていたよ、君の声が・・・・・・・・」 耕一が優しく、微笑む。 「・・・・・・・・メリー・クリスマス」 その言葉を聞いた時。 楓は、耕一の腕の中に飛び込んでいた。 一方、街角の小さなバーで、小出由美子は友人達と飲んでいた。 「えーっ、由美子。デート断られたの?」 「・・・・・・・あんまし、大きな声で言わないでよ」 仏頂面で由美子は、友人の声を聞く。 「・・・・・・・・なんか、さ、会いたい人がいるんだって、言われちゃった」 その声は、少し寂しげだ。 「ふられた、かな・・・・・・?」 由美子が顔を、伏せる。 口元にグラスを運び、一気に飲む。 「・・・・・・よーし、今日は飲むわよーっ!付き合ってよね!!」 「はいはい、お互い大変ねー」 そんな由美子の顔を見ながら、友人は微笑んだ。 接吻とは、そもそも何んでしょう? 顔と顔と打寄せて解けじと結ぶ誓いです。 忘れぬ為の約束です。 将た又、固めを願う標です。 恋と言う字の上に打つささやかな紅の一点です。 <エドモン・ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』より> 「・・・・・・・・耕一さん」 俺の胸の中で、楓ちゃんが呼ぶ。 俺はまだ、サンタの格好をしていた。 「どうしたの?」 「・・・・・・・・・なんでも、ありません」 そう言って、楓ちゃんは俺の胸に頬を寄せる。 幸せそうな、笑顔をしている。 まるで、猫に懐かれているような、気分だ。 随分、長い間こうしているような気が、する。 外は、まだ雪が降っている。 このぶんだと、明日は積もっているだろう。 あ、そうだ。 俺はポケットから、小さな箱を取り出す。 楓ちゃんに気付かれないように、箱から中身を取り出す。 小さな、ネックレスだった。 銀の鎖の、あまり飾り気の無いネックレス。 そっ、と楓ちゃんの頸に掛けてあげる。 「・・・・・・・えっ、これ・・・・・?」 「クリスマス・プレゼント」 一ヶ月前、街で見かけた物だ。 コレを買うために俺は今日迄、バイトに明け暮れていたのだ。 ネックレスは思った通り、楓ちゃんに良く似合っていた。 「耕一さん・・・・・・・・」 はにかんだような笑顔を、見せる。 見つめ合う、二人。 言葉は、無かった。 ごく自然に互いの顔が、そっ、近付く。 ・・・・・・・・・・その時。 「ただいま〜っ」 「あれ?誰か来ているよ?」 「あ、この靴、耕一お兄ちゃんのだ〜っ」 途端に、玄関が騒がしくなった。 千鶴さん達だ。 どうして、こう、間の悪いときに・・・・・・・。 俺は、溜息を一つ、つく。 その顔を見て、楓ちゃんは、くすり、と笑った。 まぁ、良いか。 俺はそう思いながら、楓ちゃんと一緒に玄関へと歩き始めた。 パーティーはまだ、これからなのだから・・・・・・・・。 全ての人達に、聖夜の祝福があらんことを・・・・・・・・。 聖なる夜に、口笛吹いて。 <了> 1997.12.23.UP