雨霽れて、月は朦朧の夜に  中編 投稿者:西山英志
 <Courante〜クーラント・第二楽章>

 再び、十年前。

 祭りの喧噪の中を、柏木楓は少年に手を引かれて、いた。
 暖かい手、だった。
 不思議と安心させる、暖かさ、だった。
 まるで、叔父の賢治の様な。
「大丈夫かい?」
 少年が、話し掛ける。
 こくん。
 楓が、頷く。
 眼鏡の奥の、少年の瞳が微笑む。
 とても、優しく。
 その時。
 祭りの喧噪の中から、声が聞こえる。
 女の声、だ。
 楓を呼ぶ、声だった。
 姉の千鶴の声、だった。
「・・・・・・見つかったみたいだね」
 少年はそう言うと、楓の頭を撫でてやる。
 その顔は、少し寂しそうな影を、落とす。
「さっ、お姉さんの処へ、行ってあげなさい」
 少年の手が、楓の手を離す。
 楓が姉の方へ、歩き出す。
 数歩、歩いた後。
 楓は振り向き、少年の処へ戻ってくる。
「・・・・・・?」
 不思議そうな顔をした、少年の前に楓の小さな掌が、差し出された。
 ちりん、
 楓の掌の中で、涼しげな音が、する。
 それは、銀の小さな鈴、だった。
 ちりん、
 ちりん、
 楓から少年の掌に渡された鈴は、静かに音を、たてる。
 とても澄んで、心地よい音。
「・・・・・また、あってくれる?」
 鈴を渡した楓は、少年に尋ねた。
「ああ、また逢えるよ」
 少年は、答える。
 ちりん、
 また、鈴が、鳴る。
「・・・・・・いつ、あってくれる?」
「そうだね・・・・・・」
 少年の口が、動く。
 祭りの喧噪が、少年の声を、掻き消す。
 ちりん、
 ちりん、
 鈴が、鳴っていた。

 ちりん、
 ちりん、
 鈴の音が、聞こえていた。
 柏木楓は、鈴の音で、目を覚ました。
 どうやら、昔の夢を見ていたらしい。
 どの位、気を失っていたのだろう。
 ゆるりと躰を起こし、周囲を見渡す。
 殺風景な風景、だった。
 むき出しの木の床に申し訳程度の家具しか、ない。
 窓から月の光が、煌々と輝いていた。
 外からは、僅かであるが虫の声が、聞こえる。
 真夜中らしい。
「・・・・・・耕一さん」
 楓が、呟く。
 耕一は、どうなったのだろう。
 楓の目の前で、大量の血を出す、耕一。
 藻掻きながら歩き出す、耕一。
 たのむ。
 お願いだ。
 連れていかないで、くれ。
 繰り返し、耕一が呟いていた、言葉。
 その表情は、親に置いて行かれた、小さな子供の様な顔をしていた。
 それが、楓の最後に見た光景、だった。
 きゅ、
 胸が、痛かった。
 自分の所為だ。
 その為に、耕一は・・・・・・・。
「耕一さん・・・・・・」
 行かなきゃ。
 楓はそう思い、歩き出そうと、する。
 しかし、それは出来なかった。
 足が、動かなかった。
 手と足に、皮で出来た拘束具が鈍く、光っていた。
 楓の腕と足が、拘束されていたのだ。
 じゃら、
 じゃら、
 拘束具の鎖が、音をたてる。
 その時。
 ちりん、
 鈴の音が、聞こえた。
 幻聴では、無い。
 ちりん、
 ちりん、
 音が近付いて、くる。
 此方へ、向かって。
 ちりん、
 ちりん、
 ちり・・・・・・・・。
 音が、止まる。
 目の前の、扉の前で。
 かちゃ、
 鍵を外す、音。
 がちゃ、
 扉が音を立てて、開く。
 月の光を背中に浴びて、人影が立っていた。
 瞳が金色に、輝いている。
『エルクゥ』の瞳。
 柳川祐也で、あった。

 俺が目を覚まして、目に入ったのは、今にも泣き出しそうな初音ちゃんの顔だった。
「お兄ちゃん・・・・?」
 初音ちゃんの、声。
 頭がボンヤリと、している。
 何も、考えられない。
 どうしたんだ、俺?
 何が、あったんだ?
「・・・・・・初音・・・・ちゃん?」
 何とか、言葉を、紡ぎ出す。
「・・・・お兄ちゃんっ、お兄ちゃんっっ」
 初音ちゃんが泣きながら、寝ている俺の胸に顔を、押しつける。
 ずきりっ、
 俺の胸に、激痛が、疾る。
「痛っっ」
「あっ、ご免、お兄ちゃん、大丈夫?」
 初音ちゃんは俺から慌てて、離れる。
 痛みで、急速に意識がハッキリしてくる。
 ここは、柏木家の俺の部屋だった。
 障子から、光が射し込んでくる
 どうやら朝らしい。
 部屋には、異臭が漂っていた。
 甘い、薬の匂い。
 それと、つん、と鼻につく匂い。
 俺自身の血の匂い、だった。
「耕一っ」
「耕一さんっ」
 ばたんっ、と乱暴に障子が開けられる。
 二つの人影が、立っていた。
 千鶴さんと、梓だ。
 二人とも、初音ちゃんの様に泣き出しそうな顔をしていた。
「大丈夫ですか?耕一さん・・・・」
「ああ、大、丈夫、だよ」
 薬の所為だろうか。
 口が、上手く、動かない。
「・・・・・・耕一」
 梓はそう言うと、フイ、と顔を背ける。
 肩が、震えている。
「泣い、て、いる、のか・・・・・?」
「・・・・・・莫迦」
 そう言って、梓は鼻を鳴らす。
 そうだ。
 俺は一つの事に、気が付く。
「か、楓、ちゃん、は・・・・・・」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
 俺の言葉に、誰も答えなかった。
 そうだ。
 俺と楓ちゃんは、確か『エルクゥ』の力の波動を感じて、『奴』を探していた。
 奴はこの隆山市の連続猟奇殺人鬼の容疑者でも、あったんだ。
 俺達は『奴』を見つけた。
 そこで見たのは、陵辱された由美子さんの、姿。
 『奴』の正体。
 そして、俺と楓ちゃんは・・・・・・。
 そうだ。
 楓ちゃんは、奴に・・・・・・!!
「ぐっっ!!」
 痛みに耐えながら、俺は躰を起こそうとする。
「お兄ちゃん、駄目だよっ!寝てなきゃ」
「・・・・で、も、楓ちゃん、が、奴に・・・・」
 初音ちゃんを押し退けようと、俺は躰を動かす。
「耕一さん・・・・・・」
 俺の前に千鶴さんが、立ちふさがる。
「私達が、貴方の命を救えたのは、楓のお陰なんです・・・・・」
 静かに、千鶴さんが話す。
「楓、ちゃん、が、?」
「ええ、楓の『エルクゥ』が私達に貴方の危機を、伝えてくれたんです」
「・・・・・・」
「三十分でも私達が間に合わなかったら、間違いなく貴方は、死んでいたんですよ」
「・・・・・・」
「耕一さん、貴方の気持ちは、解ります。・・・・でも、今は躰を治す事が、先決です」
「・・・・・・」
 何も、答えられなかった。
 只、楓ちゃんを守れなかった自分が、許せなかった。
 それどころか、反対に楓ちゃんに救って貰う、なんて。
 あの時。
 あの時、迷わなければ・・・・・・。
 ぎりっ、と唇を、噛む。
 ずきんっ、
 ずきんっ、
 と、躰の痛みが俺の『後悔』を責め続ける。
 唇から血が、染み出す。
「お兄ちゃん・・・・・・」
 初音ちゃんが、心配そうに、俺を見つめる。
 前の俺だったら、心配ない、とでも言って、初音ちゃんの頭を撫でていただろう。
 でも、今はとてもそんな気分には、なれなかった。
 今は、さわやかな朝の日差しすら、俺は鬱陶しく感じていた。

 朝の光の中。
 楓は耕一と同じ朝の日差しを、見つめていた。
 じゃら、
 と、拘束具の音が、部屋に響く。
 床の上には、パンと果物の盛られた皿があった。
 量は半分程、減っている。
 昨夜。
 柳川が、持って来た物だ。
「・・・・食べておけ」
 そう、言った。
「お前に、何かあったら、奴との『狩り』が楽しめないからな・・・・・」
 にいっ、と、微笑う。
 冷たい笑みと共に、柳川は皿を置いていって、扉の向こうへ消えた。
 ちりん、
 と、鈴の音と共に。
 その後。
 楓は力を蓄えるために、果物を少し食べ。
 少し、眠った。

 浅い眠りの中。
 楓は、夢を見た。
 子供の頃から、見る夢だ。
 月が中天に、昇っている。
 さらさら、と水の流れる音が、する。
 美しい、月夜。
 満月、だった。
 そう。
 此処で、あの人と出逢ったのだ。
 次郎衛門。
 柏木耕一。
 そして私は、エディフェル。
 私は、柏木楓。
 じゃり、
 と、河原の砂が音を立てる。
 楓の目の前に、人影が立っていた。
 耕一だった。
 ただ、じっと、見つめている。
「耕一さん・・・・・・」
 エディフェルが、呟く。
 楓の声、で。
「・・・・・・来るな」
 耕一が、呟く。
 次郎衛門の声、で。
「どうして?」
 楓が、呟く。
 エディフェルの声、で。
 ただ、貴方の側に居たいだけ、なのに。
「・・・・・・死が、やって来る」
 次郎衛門が、呟く。
 耕一の声、で。
 その視線は、向こうの闇を睨んでいた。
 不意に。
 耕一の前に男が、現れる。
 柳川、だ。
 パックリと口を開けた死の淵の様に、其処に立っていた。
 柳川の口が、動く。
 楓には、聞こえない。
 柳川の言葉に、耕一が反応する。
 更に、柳川が喋る。
 耕一の瞳が、金色に輝く。
 柳川の瞳、も。
 互いに、『鬼』に変じる。
 やめて。
 楓は、叫ぶ。
 だが、その声は聞こえない。
 目の前で、殺し合っていた。
 耕一、が。
 柳川、が。
 互いに血を、流しあう。
 やめて。
 だれか、助けて。
 楓は、出ない声で、叫ぶ。
「・・・・・・どうしたんだい?」
 楓の後ろで声が、した。
 ちりん、
 ちりん、
 鈴の音が、聞こえた。
 後ろに、少年が立っていた。
 十年前。
 そう、十年前に出逢った、あの少年だ。
 あの時の様に、優しく微笑んでいた。
 お願い、助けて。
 楓は、少年に言った。
 少年は、哀しく首を振る。
「駄目だよ・・・・・・・・、だって僕は・・・・・」
 少年の口が、動く。
 ちりん、
 ちりん、
 鈴が、鳴っていた。
 ・・・・・・そこで。
 楓は、目を覚ました。

 気が付くと、楓は涙を流していた。
「・・・・・・耕一、さん・・・・」
 ただ、一言。
 そう言って、楓は涙を一粒、床に落とした。


 <Sarabande〜サラバンド・第三楽章>

「待て、・・・・待てよ、耕一っっ!!」
 後ろから、梓の声が、聞こえる。
 俺は、耳も貸さずに歩き出す。
 しかし、十歩も行かずに、膝が床につく。
 躰が燃える様に、熱かった。
 まだ、完全に治りきって、いないのだ。
 ぜえっ、
 ぜえっ、
 ぜえっ、
 呼吸が、荒くなる。
「無理だよ、耕一。・・・・・・まだ、寝てないと」
 梓が俺に追いついて、腕を掴んだ。
 騒ぎに気が付いて、千鶴さんと初音ちゃんも居間から、姿を見せる。
「・・・・・・耕一さんっ」
「お兄ちゃんっ、駄目だよっ」
 二人が、駆け寄る。
 呼吸が、荒れる。
 大粒の汗が吹き出し、床に落ちた。
「・・・・・・千鶴さん」
「はい?」
 俺の言葉に、千鶴さんが応える。
「・・・・『エルクゥ』って、どうやって、使うんですか?」
「な、なにを・・・・・」
「教えてよっ!千鶴さんっ!!」
 俺は、千鶴さんの肩を掴む。
「・・・・俺は、俺は、守ってやるって、言ったんだ。なのに・・・・・・」
 オレハ、マモレナカッタ。
「・・・・もう、あんな思いなんて、させたくないのに・・・・・」
 オレハ、スクエナカッタ。
「なのに・・・・、なのに、楓ちゃんは・・・・・・」
 オレハ・・・・・・・・。
「い、痛いです、耕一さん・・・・」
 千鶴さんの顔が、痛みで歪んでいた。
 気が付くと、俺は無意識に力をこめて、肩を掴んでいた。
「あっ・・・・・・、ご、ごめん、千鶴さん」
 慌てて、俺は千鶴さんの肩から手を、離す。
 くそっ。
 俺は苛ついていた。
 あの後、テレビで連続猟奇殺人事件の犯人が、逮捕されたとの報道が、あった。
 犯人は、麻薬中毒の大学生。
 拉致されていた、女子大生・・・・由美子さんも無事、保護された。
 尚、数日前から行方不明になっている、柳川刑事の消息はわかっていない。
 共犯の疑いもあり、現在指名手配中、との事。
 あの死闘での俺の痕跡は、救出に来た千鶴さんが、消してくれた、らしい。
 つまり、表向きは、事件は解決したのである。
 だが。
 俺の事件は、まだ、終わっていない。
 楓ちゃんを柳川に、奪られた。
 その事実が、俺を更に苛つかせる。
 取り返さなければ。
 その気持ちが、俺を突き動かしていた。
「・・・・・・離して、くれ」
 呼吸を乱しながら、俺は立ち上がる。
 梓の腕を、振り払う。
 どくんっ、
 どくんっ、
 心臓の音が、聞こえる。
 『エルクゥ』が俺の苛立ちに、反応している。
 奴を殺せと、哭いていた。
 再び、歩き始める。
 床に、汗と血が滴り、落ちる。
 胸に巻かれた包帯から、血が染み出していた。
「耕一さんっ、しっかりして下さい」
 目の前に、千鶴さんが立ちはだかる。
 艶やかな黒髪を揺らして、すがる様な瞳で。
「・・・・・・どけ」
 きりぃ、
 と、俺の中で殺気が、膨れ上がる。
 瞳が金色に、輝く。
 千鶴さんが、たじろぐ。
 驚愕で、震えていた。
「・・・・・・怖い、・・・・今のお兄ちゃん、ものすごく怖いよ」
「耕一っ!あんた・・・・・・!」
 震える初音ちゃんを抱きながら、梓が叫ぶ。
 俺は、千鶴さんを押し退けて、玄関へ歩き出した。
 千鶴さんは、俺の殺気にあてられたのか、暫し呆然とする。
 俺は構わず、歩く。
 俺の目の前に、梓が回り込んだ。
「・・・・・・耕一」
 両手を広げ、俺の進路に立ちふさがる。
「・・・・・・行くな、・・・・行かないでくれ」
 そう言った、梓の顔。
 泣きそうな、梓の顔。
「・・・・・・どけ、梓」
「やだよ、・・・・・・何処にも、行かせないよ」
「どけっ!!」
「嫌だっ、嫌だっっ!!」
 梓が俺の胸の中に、飛び込む。
 まるで、子供が駄々をこねる様に、俺の胸板を弱々しく、叩く。
 俺は、そんな梓を自分から、そっ、と離す。
「・・・・・・耕一?」
「・・・・・・・・」
 俺は、何も言わずに歩き出す。
 梓の横を通り抜けようと、する。
 その時。
 どずんっ、
 俺の鳩尾に、衝撃が疾る。
 梓の拳が俺の鳩尾を、捉えていた。
 俺の意識が、急激に遠くなっていく。
 崩れ落ちる俺が、最後に見たもの。
 怯えて、千鶴さんの胸で泣いている、初音ちゃん。
 初音ちゃんを抱き締めて、哀しい瞳をした、千鶴さん。
 そして。
「・・・・・・・・・・馬鹿野郎」
 そう言って、倒れる俺を抱きとめる、梓の顔であった。

 ちりん、
 ちりん、
 鈴が、鳴っていた。
 がちゃ、
 扉が、開く。
 部屋は墨を溶かした様な、闇が沈殿していた。
 日は既に、落ちている。
 部屋の隅で、楓は壁に寄り掛かって座っていた。
 起きている、みたいだ。
「・・・・・・食事は、すんだのか?」
 そう言って、柳川は床の皿に視線を向ける。
 パンと果物は半分、減っていた。
「なんだ、ちゃんと食べたようだな。人間ってやつは、しぶとく出来ている・・・・・・」
 楓の正面に、柳川が、座る。
 柳川は床の皿を取り上げると、残ったパンを口に運ぶ。
「・・・・・・さて、そろそろ大詰めだ。今頃、柏木耕一は血眼になっているだろう」
「・・・・・・・・」
「苛立ち、怒り狂い・・・・・・、そして、疲れ果てる、だろう」
 奥歯で、パサパサに乾いたパンを噛みしめながら、柳川は言葉を続ける。
「・・・・・・そして、奴は、俺と闘うだろう。・・・・・・命を賭けての『狩り』を、な」
「・・・・貴方の目的は、何なのですか?」
 楓は柳川の顔をじっと、見つめる。
「目的?・・・・・・・・目的か・・・・?」
 く、
 くくくくくく、
 柳川が、笑う。
「・・・・・・奴の血が、呼ぶのさ」
「・・・・呼ぶ?」
「そうだ・・・・、仲間を求めているのさ」
「・・・・・」
「柏木耕一は、俺と同類さ。・・・・・・奴にも『狂気』の血が、流れているんだ」
 ぽつり、と柳川が呟く。
「・・・・・・そんな、耕一さんは『鬼』を・・・・・・」
「確かに、一時的には克服した様だな」
「・・・・・!!」
「俺には解る・・・・、奴の『狂気』は、まだ消えていない」
「・・・・・・嘘」
「同じ波長を持つ者にしか、わからんよ・・・・。そして今、愛する者を奪われ、奴の心は
『狂気』へ向かおうと、している・・・・・・・」
「・・・・・・嘘ですっ!!」
 楓は、叫んだ。
 暫し、柳川は沈黙する。
「・・・・・・・・俺と奴は、奇妙な力で繋がっている。だから、どれだけ、奴がお前を愛して
いるのか手にとる様に解るのさ・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・愛する者を、奪われる苦しみは、十分解っているからな」
 柳川の脳裏に一人の青年の顔が、思い浮かぶ。
 楽しそうに、ギターを弾く青年の、姿。
 ・・・・・・貴之。
 寂しそうな影が、顔に一瞬、よぎる。
「そして、奴は『狂気』へ、踏み込もうとしている」
「・・・・・・それは、貴方が招いたことです」
 楓の言葉に、柳川が、嘲笑う。
「違うな・・・・・・、遅かれ早かれ、いつかは、こうなっていたさ」
「・・・・・・」
「奴の血が恋しがっているのさ、闇を求めて、な・・・・・・・・」
 ・・・・・・だから。
 その後の言葉を、柳川は口にしなかった。
「・・・・・・さて、もう寝ておく事だ。明日は、満月だ・・・・・・」
 柳川は立ち上がり、皿を取り上げる。
 そして、ゆっくりと扉へと、姿を消した。
 かちゃん、
 扉の鍵を掛ける音が、ヤケに大きく響いた。 
 柳川は溜息を一つ、つく。
 突然。
 がしゃんっ、
 柳川の手から皿が、落ちた。
 手が、震えていた。
「・・・・・・くっ」
 苦しげに、呻く。
 額に大粒の汗が、浮かぶ。
 ぜえっ、
 ぜえっ、
 喘ぎ声が、唇から吐き出される。
 床に柳川が、蹲る。
 ぜえっ、
 ぜえっ、
 ・・・・・・。
 ・・・・・・ぎい、
 ・・・・・・ぎいっ、
 喘ぎ声に混ざって、獣の声が、聞こえた。
「・・・・・・マダだ、まだ、もう少し、もってくれ」
 柳川は、床に胎児の様に丸くなる。
 その姿を窓の外の月の光だけが、静かに見つめていた。

「・・・・・・どう、耕一さんは?」
 菖蒲が描かれた襖が開いて、姿を現した梓に千鶴は声をかけた。
 ぱたん、と襖が音を立てて閉まる。
「今は・・・・、薬が効いていて、眠っているよ」
「・・・・・・そう」
 ぼーんっ、
 ぼーんっ、
 ぼーんっ・・・・・・、
 正確に、十回、時計の鐘が鳴る。
 時計は、夜の十時を指していた。
 千鶴は膝枕で眠っている初音の頭を、撫でていた。
 その頬には、涙の跡が、あった。
「・・・・・・千鶴姉」
 暫しの沈黙の後、梓が口を開いた。
「なに?」
「・・・・あたしって、嫌な女だよね」
 梓の視線は、畳を見つめていた。
「耕一を止めようとした時、あたし、もの凄く悔しかった・・・・・・」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・もの凄く、嫉妬していた」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・耕一と・・・・・・楓、に」
「・・・・・・・・」
「このまま、耕一を自分のモノだけにして・・・・、ずっと、閉じこめてしまいたかった」
 きゅっ、
 梓の胸が、痛んでいた。
 耕一を独占できるかもしれない喜び、と。
 楓への妬ましさ、で。
「・・・・でも、結局、何も出来なかった。耕一の為に、何も・・・・・・」
「それは・・・・・・私も、同じよ」
 初音を撫でていた手が、止まる。
「・・・・・・梓」
「・・・・何?」
「あなたは、強いわ。あの時、自分を犠牲にしてでも、耕一さんを止めようとした」
「・・・・・・」
「私には・・・・・・、到底、出来ないわ」
 淡々と、千鶴は言葉を紡ぐ。
「・・・・・・何も出来ないのは、私の方よ」
「千鶴姉っ!」
 びくっ、と千鶴の躰が、強張る。
「・・・・・・そんな事、言わないでよ・・・・・・」
「ご免なさい、梓・・・・・・」
 その時。
「・・・・・・うう、ん、千鶴お姉ちゃん・・・・?」
 千鶴の膝枕の中で初音が、目を覚ました。
「あら、ごめんなさい。起こしちゃったわね」
 穏やかに千鶴は、微笑んで見せた。
 その微笑みは梓にとって、痛ましいものに、見えた。
「・・・・さ、初音、ベッドに行こうか?」
 梓が初音の手を、とる。
「う、うん・・・・・・、耕一お兄ちゃんは?」
「ああ、あいつなら、グースカ、ばっちり眠っているよ」
「・・・・・・そう」
 梓に連れられて、初音は居間から出てゆく。
 千鶴だけが、居間に取り残された。
 千鶴の肩が、震える。
 そして。
 その場に蹲って、泣いた。
「叔父様・・・・・・」
 震える声で、千鶴が呟く。
「叔父様・・・・・・、お願い、耕一さんを、守って下さい・・・・・」
 一人しか居ない居間に、千鶴の嗚咽だけが、静かに響いていた。