雨霽れて、月は朦朧の夜に  前編 投稿者:西山英志
   雨霽(は)れて、月は朦朧の夜に


 <Praeludium〜前奏曲>

 ちりん、
 ちりん、
 鈴が、鳴っていた。
 それぞれの心を写す、様に。
 ちりん、
 ちりん、
 鈴が、鳴っていた。

 十年前。

 ヒョーイッ・・・・・、
 ヒョーイッ・・・・・、
 ヒィョロロロ・・・・・・。
 夜風に、笛の音が響く。
 ドン、
 ドドンッ・・・・・・、
 太鼓の音が、聞こえる。
 夜の闇に光が、浮かび上がる。
 夏の夜、だ。
 光は、提灯であった。
 八月の、終わり。
 盆祭りであった。
 提灯の光が周囲を、映し出す。
 色とりどりの、お面。
 からから、と音を立てる風車。
 静かに水面に浮かぶ、水風船。
 どれもが、夏の風情を感じさせる。
 浴衣姿の人々が、行き交う。
 その人混みの中に、小さな少女が、いた。
 年の頃は、七、八歳といった処か。
 バッサリ、と肩の辺りで切った髪は、深い碧色をしている。
 その躰には紺色に染め上げられた、浴衣を纏っており、端正な日本人形を思わせた。
 瞳は大きく、未だ幼いあどけなさが、ある。
 その瞳には怯えの影が、宿っている。
 少女は迷っていた。
 一緒にお祭りに来た姉達と従兄と、はぐれてしまったのだ。
 周囲は、知らない大人達。
 怖い。
 その感情が、少女を押し潰そうとする。
 その時。
「どうしたんだい?」
 少女はその声に、反応する。
 目の前に優しげな笑顔が、あった。
 眼鏡を、かけている。
 やや色白の肌をしていた。
 少女の前に、少年がしゃがみ込んでいる。
 歳は一番上の姉より、上のようだ。
 十七、八といった、処か。
「どうしたんだい?」
 少年は再び、問う。
 少女は、答えない。
 否。
 答えられなかったのだ。
 少女の瞳には、大粒の涙が、浮かぶ。
「ああっ、泣かないで・・・・・・」
 少年は情けなく、おろおろ、しながら少女を宥める。
 ポケットから取り出した、ハンカチで少女の涙を、拭う。
「・・・・・・はぐれたのかい?」
 優しい、声。
 こくん。
 その声に少女は、小さく頷く。
「よし」
 少年はそう言うと、少女の手を握る。
「お兄ちゃんが、一緒に探して、あげる」
 優しい、微笑み。
 その笑みに少女もつられて、笑う。
 そんな、微笑み、だった。
 少年がゆっくりと、少女の手を引いて、歩き始める。
 少女も、歩き始める。
「・・・・・・そういえば、君の名前は?」
 と、少年が聞く。
 少女は少年の方を、向き。
 真っ直ぐ、澄んだ瞳で。
「・・・・かえで。・・・・柏木楓です・・・・・・」
 と、言った。


 <Allemande〜アルマンド・第一楽章>

 暗い、部屋だった。
 窓という窓のカーテンは、閉め切られている。
 昼間だというのに、夜の闇に紛れ込んだ様な錯覚を覚える。
 俺がその部屋に入って、見たモノはあまりに凄惨な光景だった。
「ふぅっ・・・・・・、はぁぁぁっっ・・・・・・」
 一人の女性が、むき出しの床に裸の姿で寝そべっていた。
 その眼に正気の光は、無い。
 その首には、拘束の為の鎖が光っている。
 じゃらん、
 じゃらん、
 女性が身悶える毎に、首の鎖が音をたてる。
 その手足も、拘束具で自由を奪われていた。
 しかも、その女性は俺の良く知っている顔だった。
「・・・・・・・・由美子さんっ!」
 小出由美子。
 それが俺の目の前にいる、女性の名前だった。
 俺は由美子さんの側に、駆け寄る。
「由美子さんっ、由美子さんっっ!!」
「ううううっ、ふあああっっ・・・・・・」
 俺の声は、彼女に届いていなかった。
 瞳はまるで死人の様な、影を落としていた。
「耕一さん・・・・・・・・」
 俺の後ろで声がする。
 楓ちゃん、だった。
「・・・・・・・・どうしたんです・・・・・・」
「楓ちゃん、見るんじゃないっ!」
 そう言って、俺は自分の来ていた上着を由美子さんの躰に、掛ける。
 床には、汚れた異臭の液体が飛び散っていた。
 それを見ただけで、楓ちゃんはどんな事があったのか、容易に想像できただろう。
 くそっ。
 言い様のない、怒りに俺の躰は震えていた。
 その時。
 どくんっ、
 俺の中の『エルクゥ』が反応する。
 どくんっ、
 どくんっっ、
 同じ『エルクゥ』の匂いを。
 そして、
 多分、俺の『敵』である者を。
「・・・・・・耕一さん」
 楓ちゃんの声が、聞こえる。
「・・・・・・・・『奴』に間違いないんだね?」
 こくん。
 俺の言葉に、楓ちゃんが頷く。
 『奴』の存在に、楓ちゃんも気が付いたらしい。
 よし。
 俺はゆるりと、躰に力を溜め込む。
 体の中に潜む『エルクゥ』を開眼させる。
 ずくんっっ、
 俺の躰に、力が漲る。
 鬼の力、を。
 『奴』を殺す為の、力。
「・・・・・・・・・・耕一さん」
「・・・・・・楓ちゃん、由美子さんと一緒に、下がって」
 俺の視線は、玄関の扉に釘付けになっていた。
 ぞくり。
 周囲の室温が、下がっていく様な冷気を感じる。
 ・・・・・・いる。
 間違いなく、あの扉の向こうに『奴』は、いる。
 『奴』がこの隆山市で起こった、連続猟奇殺人事件の犯人なのだ。
 そして、由美子さんを陵辱し、
 この俺に、奇妙な悪夢を見せていた。
 俺は、全てに決着をつける為に、此処に来たのだ。
 一刻の、静寂。
「・・・・・・来ます」
 静かに、楓ちゃんが言った、次の瞬間。
 ガゴオオオオオオオッッンッッ!!
 耳を塞ぎたくなる様な、轟音が響く。
 俺の目の前に、巨大な鉄板が飛んで来る。
 それは、玄関の扉だった。
「ちいいっっ!」
 俺の右手が、孤を描く。
 右手が飛来した玄関の鉄製の扉を、まるでバターを斬る様に、真っ二つに切り裂いた。
 扉の向こうから『奴』が疾って来るのが、見えた。
 眼眩ましの、心算か?
 だんっ、
 俺の足が地を、蹴る。
 『奴』との間合いが瞬く間に、詰まる。
「しっっ!!」
 鋭い呼気が、俺の口から迸る。
 左の手刀が風を、薙いだ。
 しかし、手刀は空を斬る。
 『奴』の躰は、俺の頭の上を掠めて跳んでいた。
 じゃうっっ、
 俺の後ろで、殺気が蜷局を巻いて、襲いかかる。
 無意識に俺の躰が、前に倒れた。
 後ろ髪が数条、散る。
 手加減の無い、蹴り。
 まともに受ければ、俺の頭など西瓜を潰す様に、粉々になっていただろう。
 俺は両手を床に着き、それを発条に、跳ぶ。
 『奴』はまだ空中に、いた。
 躰が回転して、俺は蹴りを、放つ。
 左からの、回し蹴り。
 左足が『奴』を捉えた。
 どずんっ、
 まるで、堅い甲冑を蹴る様な鈍い感触が伝わる。
 ドンッッ!
 『奴』の躰が、後ろの壁に叩き付けられた。
 俺の躰は猫の様に、しなやかに床に着地する。
 ゆらり。
 と、『奴』が立ち上がる。
 互いに、致命傷は与えられなかった様だ。
 不意に。
 窓のカーテンの隙間から、光が射し込み。
 『奴』の顔を、浮かび上がらせた。
「・・・・・・お前は・・・・・・!」
 俺は驚きの声を、洩らす。
 『奴』の顔。
 何度か、見た顔だ。
 線の細い、些か神経質そうな、顔。
 確か、柳川といった。
 隆山署の刑事だ。
 その瞳は、薄暗い部屋の中で、金色に輝いていた。
 俺と同じ『エルクゥ』の瞳、を。
「柏木・・・・・耕一・・・・か」
 にっ、
 柳川の口元に笑みが、浮かぶ。
 冷たい、氷の様な、笑み。
「・・・・・・・・あんたが、例の殺人鬼、だったとはね・・・・・」
 静かに俺は、柳川と対峙する。
 それだけで部屋の大気が、奇妙な緊張で張りつめた。
 ぷちぷち、と鳥肌が起ってくる。
 何時殺されても、可笑しく、無い。
 そんな、雰囲気だった。
「だと、したら・・・・・・どうする?」
 柳川の笑みは、崩れない。
「あんたを、倒す」
「出来るかね?」
「出来るさ」
「・・・・・・ほう」
 きりぃっ、
 と、柳川の体内の殺気が、歪む。
 く、
 くく、
 く、くくくくく・・・・・・。
 喉の奥から、小さな笑い声が吐き出された。
 殺気が、更に、膨れ上がる。
「ならば・・・・・・、止めてみるが、いい」
 柳川の躰が、静かに、沈み込む。
 俺も躰に、力を溜め込み、捻る。
 柳川の口元から笑みが、消えた。
「・・・・我が、狂気、をっ!!」
 刹那。
 柳川の姿が、俺の目の前から、消え、
「・・・・なにっ!」
 俺の鼻先に、奴の姿が、出現した。
 信じられない踏み込みの、速さ。
 どんっっ、
 俺の腹部に、柳川の右掌が、叩き込まれていた。
「がっっ!」
 呼吸が、詰まる。
 攻撃は、更に続いた。
 左下からの、膝蹴り。
 やばい。
 直感して、右腕を使い防御する。
 奴の左膝と俺の右腕が、ぶつかる。
 めきっっ、
 右腕が、奇妙な音を、伝える。
 同時に。
 俺の躰が、約三メートルの距離を吹っ飛ばされた。
 素早く空中で体制を整える。
 ふわり。
 と、俺は着地して、壁への激突を回避した。
 防御すら関係ない、強烈な、攻撃。
 ずきり。
 俺の右腕に激痛が、疾る。
 多分、骨が折れたのだろう。
 こめかみで、心臓が鳴っていた。
「・・・・・・どうした」
 柳川の、声。
「・・・・・・どうした、俺を狩るのでは、ないのか?」
 嘲る様な、声。
 俺は乱れている呼吸を、整える。
 どうする?
 俺は、迷っていた。
 自分の中の『エルクゥ』を全開放すれば、確実に奴を倒せる自信は、あった。
 しかし。
 全開放した時、それを再び制御できるのか。
 もし。
 もし、制御出来なければ・・・・・・。
 数日前の光景が、俺の脳裏に浮かび上がる。
 水門での、闘い。
 鬼の力を発動させる、千鶴さん。
 それに呼応する様に目覚めた、俺の中の『エルクゥ』。
 俺の意識が『エルクゥ』に、飲み込まれる。
 哀しい声をあげる、楓ちゃん。
 しかし、その声は俺には届かなかった。
 千鶴さんとの、死闘。
 そして。
 俺を庇って、胸を切り裂かれる、楓ちゃん。
 俺の目の前に拡がる、血。
 紅い、血。
 楓ちゃんの、血。
 嫌だ。
 もう、あんな思いをしたくなかった。
「・・・・・・本気を、出して見ろ。気高き狩猟者の、血を」
 柳川の声に僅かな、苛立ちがあった。
 ぎりり、
 と、俺は奥歯を噛む。
「・・・・・・迷っているのか、お前」
「!!」
 読まれた?
 奴の言葉に、俺は驚きの色を、隠せなかった。
「・・・・そうか、・・・・ならば」
 柳川の躰が再び、疾る。
 俺へ、向けて。
「ちいっっ!」
 半瞬遅れて、俺も疾る。
 柳川の躰が宙を、跳ぶ。
 俺の頭上を疾り抜け、後ろに着地する。
 しまったっ!!
 柳川の目的に、気付いた時は遅かった。
 俺の後ろで小さな叫び声が、あがる。
 振り向くと、柳川が立っていた。
「・・・・・・耕一・・・・さ・・・ん」
 奴の腕の中には、楓ちゃんがいた。
 きつく締められているのか、苦しそうに喘いでいた。
「楓ちゃんを、離せっ!」
 俺の躰の中を、怒りが支配する。
「・・・・この娘、随分と大事らしいな」
 怒る俺に対して、柳川は更に冷酷な表情になって、いた。
 どくんっ、
 どくんっっ、
 俺の怒りに体内の『エルクゥ』が反応する。
 その時。
 玄関の向こうが、騒がしくなる。
 誰かが、やって来たのだ。
「ちっ」
 柳川は、楽しい遊びを邪魔された子供の様に、舌打ちした。
 その躰が、カーテンで閉め切られた窓へ、近付く。
 俺もその動きに、反応する。
「・・・・動くな、柏木耕一」
 柳川の掌が、楓ちゃんの細い首に掛かる。
 くぅっ、と楓ちゃんが、喘ぐ。
 奴が楓ちゃんの首の骨を折るのに、二秒もかからないだろう。
 俺は動きを、止めた。
「・・・・愚かな」
 そう言うと、柳川は腕を振り上げ、
 ひゅっっ、
 素早く、振り下ろした。 
 ぴううっんっ、
 と、大気が、哭いた。
 次の瞬間。
 しゅばああああぁぁっっ。
「・・・・なっ!?・・・・・・」
 俺の肩から胸にかけて、切り口がパックリと開き。
 紅い血が、しぶいた。
 痛みを感じる暇も、無かった。
 瞬く間に、大量の血が床に零れ、落ちる。
「耕一さんっっ!」
 楓ちゃんの悲痛な、叫び声。
「あ、あ、ああ・・・・・・」
 言葉が、出ない。
 『エルクゥ』の力も、急激に、消えてゆく。
 大量の出血の、為だ。
 膝が、床につく。
 目の前が、真っ暗になる。
「この娘は、預からせて貰うぞ・・・・・・その方が『狩り』を楽しめそうだ・・・・」
「耕一さんっ、耕一さーんっっ!!」
 薄れゆく、意識の中。
 柳川の声と、楓ちゃんの泣き声が、聞こえる。
 待て。
 待ってくれ。
 俺が、藻掻く。
 血が更に、噴き出す。
 構わずに、俺は躰を起こし、歩き出そうとする。
 一歩。
 二歩。
 三歩目で、俺は血溜まりに足を捕られ、再び床に倒れる。
 たのむ。
 お願いだ。
 連れて行かないで、くれ。
 楓ちゃん、を。
 やっと。
 やっと、出逢えたんだ。
 お願いだ。
 たのむ。
 誰か・・・・・・。
 だ、れか・・・・・・・・・・・。