体が重い。 体中についた無数の爪痕。 とくに左腕の出血が酷かった。 その左腕をかばうこともなく、ただ呆然と歩いていた。 水門からこっち、私の血の雫が点々となっていることだろう。 これほどの重傷でよくも生きていられるものだ。 自分の力がこれほど忌まわしいと思ったことはない。 いっそ、死んでしまっていたならどれほど楽なのだろう。 しかし、それは不可能なことだ。 けた外れな生命力は、傷の悪化よりも再生を早める。 残ったのは、決して癒えることのない心の傷跡だけだ。 ギシ… 背骨がきしむ。 これでも快復している方なのだが、その痛みは悲鳴すら許さぬのだ。 もとより、悲鳴を上げる気力すら残されてはいないのだが…。 ギシ… 痛い…。 痛みを感じると言うことは、私が生きていると言うことだ。 自分が招いてしまった事とはいえ、あまりに残酷。 全身に溜まる鈍痛は、これが夢ではないということを確信させるに十分だった。 なにがおこったのか、すぐにはよくわからなかった。 夜の水門。 自分の腕の中で、物言わぬ物体となった従兄弟の男性。 右腕にまとわりつく彼の血。 とても大切な命を奪ったことで、立ちつくす私。 その光景を、光鬱な瞳で見つめる一匹の獣。 私は、泣き出してしまいたかった。 でも、それよりはやく体が動いた。 獣に対する憎しみと自分に対する怒りがどろどろと溶け合わさりただの野獣とかした私は、相手の獣に向かっていった事をかすかだが覚えている。 私の力では到底かなわなかった。 一瞬で地面に打ち付けられ、めり込んだ体に体重がかかる。 どこをどう攻撃されたのか解らなかった。 ただ、がむしゃらに右腕をかばっていたのだと思う。 全身血だらけだが、右腕についた血だけは、私の物ではないと確信できるからだ。 感覚的に、この血は純粋な彼の血だと解る。 それ故に、かばっていたのだ…と。 それからどうなったのかはよく覚えていない。 気がついた時、満身創痍の私は公園のそばをこうして苦しげに歩いていた。 時間は深夜。 当然歩行者などいるわけもなく、いたとしても助けを借りる気にはなれなかった。 公園を過ぎ、街路樹のある歩道を抜ける。 夏になると、公園へ花火をしによく妹たちと歩いた道だ。 自宅の庭でもできるのだが、末っ子の初音がどうしてもと言うので川沿いの公園に来るのは柏木家の恒例だった。 長女の私が花火を買ってきて、梓が作ったお弁当を持ち、楓と初音の手を耕一さんが引いていく。 とても平和で、穏やかな光景。 でも、もう二度とそれを迎えることはできない。 私が、奪ったのだ。 歴史を感じさせる古い道を歩き、途中何度か曲がった。 武家屋敷風の家屋のならぶ道を5分ほど歩くと、一つの家が見える。 表札には古めかしい文字で柏木と書いてある。 私の家だ。 明かりがついている…。 妹たちが寝静まってから出てきたはずなのだが。 私は、おぼつかない足取りで玄関の戸をくぐった。 玄関には、見慣れた少女が立っている。 どうやら私の帰りを待っていたようだ。 「楓、明日も学校なんだから、もう寝なさい…。」 楓と呼ばれた少女は、表情を変えずに私の事を見つめる。 「千鶴姉さん…。」 多分この子は、全てを知っているのだと気づくのにそう時間はかからなかった。 いや、もともと気づいていた言うべきかもしれない。 「お姉さんのいうことが聞けないの?」 「…。」 「楓、お願いよ…。」 「姉さん…。」 「お願いだから、そんな目で私を見ないで!!」 「…!」 いつのまにか声を張り上げていた。 私の剣幕に驚いたのか、楓は一言おやすみなさいといって、部屋へ戻っていった。 「楓…。ごめんなさい…。私が…。私が…耕一さんを…!」 泣き崩れる私を包み込むようにして、静かな夜は過ぎていった…。 あれからどれくらいの時がたっただろう。 いつしか夏と呼ばれた季節は過ぎ去り、山を彩る紅葉はすでになく、地面を覆っていた白銀は春の訪れとともに海へと帰っていった。 そんな四季の巡りが、何度か繰り返された。 時刻は深夜。 公園を過ぎ、街路樹のある歩道を抜ける。 かつてその道は、私に夢を見せてくれた道であり、そして全てを失う船頭ともなった。 まるでもとから花火など無かったかのように柏木家からその話題はついと消えうせ、かわりに従兄弟の命日というものを迎えるまでになった。 今年で何度目? 楓が高校を卒業したから、2度目…か。 そう考えて、やっとあの悪夢から2年の歳月が経ったことを感じる。 しかし、私の中の時間は2年前で止まっているかのようだった。 夜、瞼を閉じればあの日のことが今でも鮮明に蘇る。 その時代錯誤なモノクロ無声映画は、私を崩壊させるに十分だった。 歴史を感じさせる古い道を歩き、途中何度か曲がった。 武家屋敷風の家屋のならぶ道を5分ほど歩くと、一つの家が見える。 表札には古めかしい文字で柏木と書いてある。 私の家だ。 明かりはついていない。 初音は受験勉強をしないのだろうか? あとできつくしからないと…。 玄関をくぐっても、出迎えはない。 ただいまの声さえも、闇に吸い込まれ消えていく。 廊下の電気はつけない。 無限に広がる闇の中を、無言で風呂場へと向かった。 乱暴に服を脱ぎ捨て、蛇口をひねる。 冷たい…。 当たり前だ。 いくら温泉街とはいえ、ご家庭の水道にまでお湯を供給するほど地下水は膨大じゃない。 しばらく冷たいシャワーを浴びていると、しだいに暖かくなってきた。 私は、無言で全身を洗い流す。 全身にまとわりついた血を流す。 今日は何人狩ったかしら…。 数など数えていない。 ただ、無我夢中で切り刻んだ。 それだけだ…。 仕方がないことなのだ。 私を狙う人間がいれば、私はためらわずにそれらを狩った。 消えてゆく命の灯火に、哀れみなど感じない。 とうの昔に、そんな感情は無くしてしまったのだから。 2年前、この閑静な温泉街に連続して猟奇殺人事件が起こった。 とても人間技ではない殺し方。 あるものはただの肉片と化し、またあるものはその肉片すらも確認できないほど無惨だった。 観光客目当ての温泉旅館は、そのとばっちりをまともに受けたと言っていい。 無論、我が鶴木屋とて例外では無かった。 ぱったりと来なくなった観光客。 滞る経営。 おじいさまの代から続く、伝統主義の我が旅館は、倒産という不名誉を恐れある手段をとった。 経営者である私に許可を得ずに。 ある日、社員に案内されて私は自分の旅館の一室の通された。 当然、自分の旅館であるわけだから、この後起こる出来事を予測できるはずもない。 部屋はとくに変わった風もなく、ただ一人脂ぎった中年男性がいただけだった。 聞けば名うての資産家だという。 いわゆる出資者。スポンサーだ。 経営破綻を逃れるために、若い女社長が自ら体を売る。 そんな狂ったビジネスさえもまかり通ってしまうほど、この地は荒れ果てていた。 見ず知らずの男に汚される自分の肉体を、まるで他人事のような目で私は見ていた。 もう、失う物など何もなかったから。 辛いはずなのに…悲しいはずなのに…自分の中で何かが音を立てて崩れていく。 それが何かは、解らない。 耕一さん以外の男に抱かれたから? 信じていた人たちに裏切られたから? 違う…。 いうなれば、それは人から狩猟者への道しるべ。 人間であることに、意味を感じなくなっていた…。 その後、何人かの男と寝た。 旅館を維持するため? 社員は、私に何も言わない。 しかし、そんな事はもう関係なかった。 もう、私は柏木千鶴ではない。 人間名、柏木千鶴。 ただそれだけだ。 私は人間を「獲物」としか捉えなくなっていた。 私の体を貪るもの。 私を付け狙うもの。 それはみな野獣だ。 強力な生命体である私にとって、狩られてしかるべき獲物だ…と。 獲物は自ら死地へ飛び込んできた。 私を淫売と呼ぶマスコミ。 体目当ての男達。 そんな獲物達をかたっぱしから狩った。 当然警察も不信に感じ、私を付け狙う。 もはや、味方などいるわけがない。 だから、そいつらも狩った。 今日も狩った。 私の平和、私の夢。 それらを奪った奴。奪おうとする奴。 憎しみは何よりも強い力を持つ事を知った。 あの柳川という男を狩るほどの力を…。 奴は、あがなうこともできずに崩れ落ちた。 あれほど強大な力を持っていたのに。 私の中の憎悪は、それすらも簡単に凌駕したのだ。 もう、だれも私を止められない。 こうなるべくして、なったのだ。 自分にそう言い聞かせて、今日も体を洗う。 あの日、たった一度だけ耕一さんに愛されたあのころの綺麗な私に戻るために。 こびりついた血を洗い流していく。 こうして熱いシャワーに身をゆだねていると、いろいろ思い出す。 大好きだった人。 私はいつも笑顔だった。 愛してくれた人。 私は本当に幸せだった。 私が殺してしまった人。 あの日涙は全部流してしまった。 だから、もう泣くことも悲しむこともないのだ。 ひとしきりを洗い流し、シャワーを止める。 血だらけの服は捨てて、洗い立ての服に袖を通す。 スーパーで一番安い、ただの白いワンピース。 どうせこの服も血で汚れてしまうからと。 いつもならそうするところだが、今日は違った。 純白のシャツに紺のスカート。 仕立屋さんに頼み、わざわざ作ってもらった物だ。 今日は特別だから…。 ちょうど2年前。 あの夜着ていた物と同じ服。 髪を乾かし、廊下へ出ると暗闇の中に、人影があるのに気づいた。 「楓…?」 返事はない。 ただ、そうなのだとわかった。 暗闇なので、うなずいたかどうかもわからない。 「千鶴姉さん…。ちょっと…いい?」 消えてしまいそうなほど小さい声だが、夜の静けさに際だっていた。 その声は穏やかだが、計り知れない冷たさと、どうしようもない悲しさを感じた。 「どうしたの?もうこんな時間なのに。」 「いっしょに…来て…。」 そういうと、楓は玄関の方へと歩いていってしまった。 私はよくわからず、後に付いていく。 楓の影は、そのまま玄関を出て、道を歩いていく。 武家屋敷風の家屋のならぶ道を5分ほど歩くと、古めかしい道に出る。 その後途中なんどか曲がり、街路樹のある歩道を抜ける。 「ねぇ、楓…。どこへいくの?」 「…。」 答えは帰ってこない。 そんなことは解っている。 一体どんな答えを期待していたというのだろう? 公園を抜け川沿いの道を登っていくと、見覚えのある場所へ出た。 いや、鮮明に覚えている。 忘れようにも忘れられない場所。 水門…。 「千鶴姉さん…この場所覚えてる?」 ふいに立ち止まると、冷たい声で楓が話しかけてきた。 「覚えてるわよ…。小さい頃、梓がおぼれた場所でしょ?」 楓がそんなことを聞きたいんじゃないのは解っている。 でも、私にはこういう言い方しかできない…。 突き刺さるような長い沈黙。 夏を物語る一陣の風が吹き抜け、洗い髪から体温を奪う。 1時間…いや、本当は1分程度だったかもしれない。 沈黙を破ったのは、楓だった。 「私…知ってるの…。」 「知ってるって…何を?」 「全部…。」 その言葉は、一番聞きたくなかった。 解っていても解りたくなかった。 「だから…千鶴姉さん…ごめんなさい…。」 「ごめんって…なんであやまる…うっ!」 私がしゃべり終わるより早く、私の腹部に何かが突き刺さっていた。 「ごめん…なさい。姉さん…。」 突き刺さっていたのは爪。 柏木楓の爪。 それは閃光のごとく私の急所を見事に捉えていた。 「楓…あなた…。」 「千鶴姉さんは…女性でありすぎたのよ!」 「かえ…で。ごめん…ごめん…ね。」 あの日あの時と同じ服。 耕一さんの血で染まっていた場所が、今度は私の血で染まる。 ごめんね…楓…。 あなたの大切な人を、私は奪ってしまった。 楓は…何百年も待ち続けたのにね。 私は…たった数日でその人の体も命も…楓から奪ってしまった。 本当に…ごめんね…。 涙が溢れてくる…あのとき全部流してしまったと思ったのに…。 私が耕一さんを殺めたように、楓が私を殺める。 本当はずっと昔にこうなることが決まっていたのかもね…。 でも…これで耕一さんの所へいける…。 だけど…辛いね…悲しいね…。 楓に殺されることがではなくて…楓が私と同じ過ちを繰り返してしまったことが…。 本当に…ごめん…ね…。 ……。 …。 風の音がする。 水のせせらぎが聞こえる。 しかし、楓の耳には入らない。 楓は、ただ立ちつくしていた。 己の右腕を実の姉の血で染めて。 かつての姉と同じように…。 運命という名の狩人は、今夜も静かに走り続ける…。 The END -------------------------------------------------------------------------------- スーパーダークとジャンル付けした理由が解ってもらえたでしょうか? 己の過ちと、運命による判決。 それは、さらなる悲劇を生むのかもしれません。 楓は、ひとり自分を見つめる時。 今日という日が、始まりと終わりを繰り返させると気づくでしょう。 それは、とても残酷な物語。 これをかいているとき、自分の心が浸食されていくような感じがしました。 千鶴にとっての命のやりとり。 「狩る」ということと「殺める」ということの違いに含まれる千鶴の罪悪感を感じて下されば嬉しいです。 ご意見感想などはBBSにカキコしてくだされば多謝です♪ 意見・感想・説教 SS館へ戻http://user2.allnet.ne.jp/tuna/