LF98(32) 投稿者:貸借天
第32話


「お久しぶりですわね、ディクシル伯爵」
「!?」
 突然かけられた聞き覚えのある声に、呼ばれた当人は驚愕と狼狽の反応を見せた。
 驚愕したのは好恵もだった。近距離から届いたその声に顔を向けると、いつの間
にかすぐ近くに旅の剣士風の見知らぬ女が立っていたからである。ドグルスに意識
を向けていたとはいえ、その接近にまったく気がつかなかったのだ。
 旅の剣士風の女――弥生は、好恵から二メートルほど離れた場所で、冬を思わせ
る表情で立っていた。
「お……おぬしは……!?」
「――このような格好をしておりますから、お気づきになりませんか?」
「ま、まさか……近衛騎士隊長の篠塚弥生殿……!?」
「はい」
 悠然とうなずく弥生。対照的に、ディクシルは驚愕と狼狽の度合いをますます深
めた。
「な、なぜこのようなところに……」
「もちろん、あなたを追ってきたのですわ」
 その言葉以上に、弥生が発する、他を圧倒する何かにディクシルはますます余裕
を失う。
「な……なにゆえだ……?」
「――もう、薄々おわかりになられているのではありませんか?」
「っ……!」
 こぼれ落ちそうなほど大きく目を見開いて、言葉に詰まる。
 弥生は相変わらずの冷たい表情で――冷笑や嘲るようではなく、ただ、氷のよう
に冷たい表情で続けた。
「わからないとおっしゃるのなら、お教えしましょう。私は、王家への反逆の疑い
があるあなたを追って、ここへ来たのです。まもなく、大勢の衛兵や警官たちも詰
め掛けてくるでしょう」
「くっ……!」
「もう逃げ場はありません。どうか神妙になさってください」
 事務的なその口調に、ディクシルは焦燥感も露わに叫んだ。
「ドグルスッ、こやつらを殺せっ! 今すぐにだ!!」
「ぐゥゥゥゥゥ……!!」
 魔物と化したドグルスがのそりと動く。
 はっと身構える好恵や美咲たちに先んじて、弥生が前に出た。
「――あなた相手に手加減はできません。抵抗するというのなら覚悟してください」
 キン、と小さく甲高い金属音を鳴らして鯉口を切る。
 その音に引き寄せられるように、ドグルスが猛然と襲いかかっていった。腕の一
振りで術を完成させ、そして――。
 黒光りするその身体は四つに分断された。
「――え?」
 まさに一瞬の早業に、その場にいる全員が呆気にとられた。どしゃどしゃっ、と
崩れ落ちる魔物を呆然と見つめる。
 根もとからすべて切断された触手は地面で不気味にのたくっていた。
 首から断たれた頭部、その顔は今まさに攻撃をせんという勇ましい表情が浮かん
でいたが、すでに生気は感じられなかった。
 また、胴は胸部と下半身の真っ二つに切断され、そのどちらもが未だにピクピク
と動いている。
 そのすぐそばでは、弥生が無感情にその様子を見下ろしていた。自然な感じで身
体の脇に下ろされた右手は、白銀に輝く剣を握っている。
「な……!!」
 好恵の驚愕の度合いは先までの比ではなかった。
 ドグルスが術を完成させたのと同時に、弥生が距離を詰めて剣の間合いにとらえ
るところまでは見えた。
 しかし、そこから先がよくわからなかった。
 気づいた時にはもう彼女の右手には剣が握られており、その時点ですでに勝負が
ついていたのである。
 言葉通り、ほんの一瞬のうちに触手と首と胴を切断したということを理解したの
は、ドグルスの屍を見たあとだった。
 それは他の者も同じらしく、みな驚きに息を呑んだ顔をしていた。
(な……なんなの、この人……!?)
 弥生の凄まじいまでの強さに対する好恵の気持ちを代弁するように、ディクシル
が驚愕でひきつったような声を絞り出した。
「バ、バカな……! 確かに、篠塚弥生殿といえば我が国最強の騎士……しかし、
よもやこれほどの使い手だったとは……!!」
「ディクシル伯爵。謀反の疑いがあることまで突き止めてある以上、もはや言い逃
れはききません。潔く、縛について頂きたく思います」
「く……!」
 顔を蒼白にして、じりと後ずさる。
 弥生の隣に由綺がやってきた。
「ディクシル伯爵。あなたが人身売買の元締めであることは、私もこの耳で確かに
聞きました。人間、引きぎわが肝心といいます。もう終わりにしませんか?」
 悲壮な声で言うが、
「な、なんだおまえは……?」
 と、いぶかしんだ目を向けられて由綺は返事に詰まった。
「え、えーと……」
「――伯爵殿。ご自分の仕える国の姫君の顔をお忘れになられたのですか?」
「……なにぃ?」
 冷たさを増した弥生の言葉に、ディクシルはやはりわからない顔で、由綺を上か
ら下まで舐め回すように見た。
 一見、どこにでもいるごく普通の街娘といった感じの若い女。
 いかにも祭りのために奮発したといった雰囲気の、普段着よりはいくぶん高価そ
うな衣服を身につけている――が、だいぶ着崩れしてあちこちがしわだらけになっ
ており、汚れも目立っていた。
 顔には薄く化粧を施していたようだが、汗でだいぶ落ちてしまっている。長い黒
髪は大いに乱れて、右へ左へ飛び跳ねていた。
 今はこんな状態だったが、目鼻立ちの整った美しい女であることは確かだ。きっ
ちり身繕いをすれば、相当に見目が良くなることは間違いない。
 もう一度由綺の顔をじっと見たディクシルの眼が、ただ「見る」から「凝視」へ
と徐々に変わっていったのはその時だった。
「……!? まさか……由綺姫……さま……?」
「……ええ。そうです」
 それほど気分を害した風でもなく、やや苦笑気味にうなずく。
「な……なぜ……いったい……え……!?」
 完全に錯乱しているディクシルに、由綺は言葉を続けた。
「もともとは、私があなたの組織の者に囚われて、助けようと動いてくれた人たち
がいて、それが原因でこの騒ぎが起きたのです。それ以外にも、王家の方でも動き
があったようですが」
「で……では、我々はあなたを奴隷として、手中に収めていたということですか…
…?」
「そういうことになりますね。そして、いろいろあったけど無事救出されて、私は
今ここにいるというわけです」
「な……な……」
「観念なさってください。王家への謀反、王女に対する無礼極まりない仕打ちの数
数、そして人身売買。これだけのことをしておいて、いまさらシラを切れるもので
ないことはご自身でもおわかりでしょう」
「ぬ……ぐぅぅぅ……!」
 冷気さえ放っていそうな弥生を前にディクシルは恐怖と絶望を浮かべてうつむい
ていたが、やおらバッと跳び退くと地面で伸びていた自分の私兵をつかまえ、胴を
力任せに引き裂いて血の滝を頭からかぶった。
 弥生の手が素早く動いて、その光景から由綺の視線をさえぎる。
「お退がりください、由綺様」
「う、うん……」
 弥生の邪魔にならないようにと由綺がその場を離れたとき、ドグルスをも上回る
膨大な瘴気を撒き散らしながら魔物に姿を変えたディクシルがゆらりと足を踏み出
した。
 人間が生理的に受けつけない黒い気配が充満するなか、しかし弥生は顔色一つ変
えることなく、すべるような足取りで間合いを詰める。
 互いの右腕が同時に振るわれた。
 ディクシルはその一振りで術を完成させたが、解き放つ前に、肩のあたりから斬
り飛ばされた腕が宙を舞っていた。
「ギィアアアオオオオオオオオオオオオ!!!!!!!!」
 苦悶の叫びを上げて退く。
「悠凪五爵位のディクシル殿ともあろうお方が、魔物と化してまで抵抗なさるとは
あまりに諦めが悪すぎます。どうか潔く縛についてください」
「グゥゥゥゥ……!」
 痛みをこらえるようにうめくディクシルは傷口を押さえてスキをうかがっていた
が、足もとに落ちていた剣を拾い上げ、由綺に向けて投げつけた。
 弥生の気が一瞬それる。
 もちろん、あるじに危険が及ばないよう最優先で打ち落としたが、その間にディ
クシルは翼を大きく広げていた。かなわないと見て、逃げ出すつもりなのだ。
 弥生は即座に地を蹴ったが、宙に逃げられる前に剣の間合いにとらえることがで
きなかった。
「グルゥアアア!!」
「ッ!?」
 空中でディクシルが創り出した、置き土産といわんばかりの十数個の大きな爆裂
火球を目にして、弥生の顔がかすかに強張る。剣が届かないため、なす術がない。
 が、理緒の投げた剣が腹部に突き刺さり、火球は制御を失って消滅した。また、
追い打ちの雅史の衝撃波によって翼の一つをぶち抜かれ、ディクシルは大声で叫び
つつ、きりもみしながら落下して地面に激突した。
 のろのろと顔を上げると、白銀に輝く剣を鼻先に突きつけた弥生が目の前に立っ
ていた。
「ここまでです。衛兵たちもやってまいりました。いい加減、お諦めください」
「グゥ……!」 
 周囲を見回して無念そうにうめく。
「……グッ……グオオオオーーーーーーーーーッ!!」
 それでもまだしぶとく起き上がると、後退しながら両腕を振り上げて雄叫びをあ
げた。すると、ディクシルの頭上に巨大な球体が出現した。
 それは闇がとぐろを巻いたような漆黒の塊で、これまでとは比較にならないほど
の膨大な瘴気を放っていた。
「ッ!!」
 いったいどういう効果を発揮する術なのかは知らなかったが、この上ないおぞま
しさを覚え、また戦士としての勘が示す警告に従い、弥生は一足跳びに踏み込んで
躊躇なく剣を疾らせた。
 切断された頭部と胴体と両腕と下半身が地面に落ちて転がり、血の池が広がった。
同時に、球体も黒い蒸気と化して空中に霧散する。
 魔物の身体を形成していたそれぞれの部位は、しばらくの間かすかな動きを見せ
ていたものの、それも徐々に弱々しくなり、やがてピクリともしなくなった。ディ
クシルが絶命したのである。
 この瞬間、華やかな祭りの裏で行われていたこの騒ぎと闘いに、ようやく幕が下
りたのだった。


 弥生のあとを追ってやってきた浩之、綾香、葵、フランの四人もまた、決着がつ
いた瞬間を目の当たりにしていた。
「……葵。今の、見えた?」
「はいなんとか……って言っても、攻撃の瞬間が見えたわけじゃなく、あとになっ
て四条の銀光が疾ったことがわかっただけですが……」
「オレも同じだ。なんなんだよ、あの人……メチャ強ぇ……」
「綾香さん。あれは、無拍子……ですよね」
「間違いないわね。話には聞いていたけど、まさかこんなところで、実物にお目に
かかれるとは思ってなかったわ。しかもあんな若い使い手だなんて……」
「そういえば、さっきも言ってけど無拍子ってなんだ?」
「無拍子ってのはね、うーん、なんて言えばいいかな。まず、剣、槍、組み打ち術
など、どんな戦闘技能で闘うのであれ、呼吸、仕掛けるタイミング、踏み込みの足
の運びなど、人それぞれ千差万別でしょ? そしてどんな人にもその人独特の『拍
子』が必ずあるのよ。普通、私たちはそれを見て、その次に行われる動きをある程
度予測して闘いを展開するのよね。で、そうたやすく読ませないためにフェイント
なんかも織り交ぜたりするわけだけど、もっと高度なところにあるのが、『拍子』
そのものを無くしてしまう方法――つまり、『無拍子』ってわけ。『無拍子』は単
に技やスピードによるものではなく、心・技・体の完全な一致によりはじめて体現
できる、戦士にとっては究極理想の形なのよ。『拍子』が無いから、次にどんな攻
撃をするのかまったく予測がつかない……気づいた時にはもう相手の魔物を斬って
いた……。いまの闘い、私たちにはそんな風に見えていたわけ。決して、見えない
ほど太刀さばきが迅いってわけじゃないわ。でも、『無拍子』ゆえに、攻撃の瞬間
を捉えることが出来ないのよ。少なくとも、いまの私たちにはね。わかる? 言っ
てる意味」
「ああ、わかったけど……でも……それじゃ、あの人って、メチャクチャすげぇん
じゃねーか……?」
「その通りよ。でも『無拍子』とは、長い長い年月を修練に費やした達人のみが得
られる、すべての武術に通じる最大の極意ってセバスから聞いてたんだけどね……
あんな若い人が極めてるなんて……」
「でも、私は嬉しいです。あの人の存在はつまり、女性でも修練次第では、若くし
てあれほどの強さを身につけることが可能であるという証明ですから……」
 瞳に強い畏敬の光を宿して、葵は弥生を見ていた。
 ったく、この子ったら……と綾香が苦笑気味に笑う。
「浩之ちゃん!!」
 声の方を見ると、あかりが手を振っていた。彼女の足もとには由綺と初音が座り
込んで、地面に横たわった理奈の様子を見ている。
「おう」
 浩之たち四人もそちらへと向かう。
「リナさん、大丈夫なのか?」
 あかりが口を開くよりも早く、由綺が答えた。
「大丈夫だよ。美咲さん――私の友だちが治癒魔法をかけてくれたから」
「そっすか。なんか、けっこう深刻そうな傷だったみたいっすから……」
「……うん。まだ目を覚まさないけど、体力の低下が原因だからたぶん大丈夫だろ
うって。あかりちゃんもそうだって言ってるし」
「そうなのか、あかり?」
「うん。その治癒魔法をかけた美咲さんって人、すごく腕がいいみたい。けっこう
血が出ちゃったから、その分ちゃんと補給しなくちゃいけないけど、それ以外はぜ
んぜん問題ないよ」
「そうか」
 自分が誉められたわけでもないのに、我が事のように由綺が嬉しそうに微笑んだ。
「ぜったい大丈夫。美咲さんはすごいんだから」


「姉さん!」
「芹香お嬢様」
 綾香とフランがやってきたのを見て、芹香のほとんど変わらない表情にかすかな
喜びが浮かんだ。
「…………」
「うん。久しぶりね」
「芹香様。どうか私を処分なさってください」
 フランから唐突に切り出されたその言葉に、芹香が少しだけ驚いた顔をした。
「あるじの身に危険が及んでいた状況で、なにもできなかった役立たずをおそばに
置いておくなど無意味です。どうか私を処分なさってください」
「…………」
「――しかし、私は自分自身が許せません」
「…………」
「――お願い……ですか?」
「…………」
「……わかりました。今のお言葉は、芹香様からの命令という形で承っておきます。
では僭越ながら、今一度おそばでお仕えいたします。今後、もう二度とあのような
失態をせぬようきつく自分を戒めて精進いたします」

 こく。

「――ありがとうございます。芹香様……」

 なでなで。

 深くお辞儀をするフランの頭を芹香は優しく撫でた。
「そうそう姉さん、訊きたかったのよ。いったいなにがあったわけ?」
「…………」
「あ、待って。やっぱり今はいいわ。浩之たちも聞きたいと思うから、あとで教え
て」

 こく。

「ところで、セリオはどこにいるの?」
「…………」
「え? ここにはいない? そのうち来る? そっか、とにかく無事なのね?」

 こく。

「…………」
「あ、この怪我?」
 芹香に言われて、綾香は自分の身体のあちこちに深手を負っていることに今気が
ついたという顔になった。
 言われるまで完全に忘れていたのだ。
「…………」
「ううん、大丈夫。姉さんの顔見たら、痛みが引いちゃった」
 わかる者にだけわかる心配そうな姉の表情に、おどけた微笑みで応える。

 なでなで。

「ちょ、ちょっと姉さん。なんで、そこでなでなでなのよ〜」
 綾香が困ったように笑った。




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うーん、次回以降は会話ばっか。
続けることにあまり意味がないような気がするんだよなぁ……ただでさえ意味のな
い話なのに……。
幕が下りたのだった……で終了させてしまった方がよかっただろうか……。
うーーん……。