LF98(20) 投稿者:貸借天
第20話


「……結構……あっけなかったですね……」
 息ひとつ乱していない葵が、ぽつりと言った。
「そうだね。それほど強敵って訳でもなかったみたいだね」
 雅史もまた息ひとつ乱さず、肯定の言葉を返した。
「……ま、まあ、雅史の言うとおり、何事にも例外ってのはある訳よ。うんうん」
 腕組みをした志保は得心顔でうなずいていたが、内心では舌打ちしたい気分だっ
た。もしこのことが浩之の耳にでも入ったら、いったい何を言われるのか手に取る
ようにわかるからだ。
 ゼミルドと雅史、ベリンダと葵の二組は、対峙してのちしばらくはにらみ合いを
続けていたが、まず最初に葵が仕掛けた。それをベリンダが受けた時、雅史もまた
ゼミルドの間合いへと踏み込んでいた。そして、四者の攻防が始まった。
 しかし、闘いは実にあっさりと終わってしまった。
 あらゆる角度から空を斬り裂いて飛ぶ剣撃を、しかし葵は鮮やかにかわしながら
易々とベリンダの懐に入り、拳の一撃を腹部に叩き込んだ。そして、前のめりにな
った相手のえり首に手刀を落とした。これがとどめとなり、目を裏返らせてベリン
ダは昏倒した。
 雅史の方は、ゼミルドの回し撃ちをかわし、続けてのバックブローを避けてから
中段回し蹴りで返撃。それなりに鍛え込まれた腹筋にダメージの浸透を阻まれるが、
足を引き戻すやいなや、今度は頭部に蹴りを入れた。そしてさらに、逆の足でもう
一度頭部へ追い打ちをかける。脳を激しく揺さぶられ、ゼミルドは仰向けにひっく
り返った。一度は立ち上がる素振りも見せるが、やはり動くことはできずにそのま
まダウンした。そこで、決着。
 雅史や葵が敗れるような事態はもちろん御免こうむりたいところではあるが、志
保としてはもう少し骨のある相手であって欲しかった。これでは、『強敵』と言っ
た自分の立つ瀬がない。
「こほん。で、でも松原さんと雅史がそれだけ強いってことでもあるのよね。さて
と、邪魔者は成敗したことだし、ヒロのバカの助太刀にでも行くとしましょうか」
 いささかきまりが悪そうに志保が言った。
「う、うん、早く浩之ちゃんのとこに行こ」
 浩之と綾香がいる方を見ながら、あかり。焦りも露わな彼女は、浩之が心配で仕
方がないようだ。
「そうだね、行こう」
 あかりの気持ちをくんだ雅史がすぐに駆け出した。そして、あかりを先頭に他の
メンバーも雅史のあとを追いかけた。


(これならどうだ!?)
 小技を二回絡めての、鋭い突き。セリオは体勢を崩していて、かわされそうな気
配はない。
 この攻撃は、英二には自信があった。
 かわせないと知ったか、セリオが剣の軌道上に左の手のひらを持ってきた時には、
ますますその思いを強くした。
 が、あろう事か、短剣はセリオの手のひらにぶつかる前に止まってしまった。
(なに!?)
 よく見ると、手のひらからわずかに離れた空間に、紅く輝く魔力文字が浮かび上
がっている。それに遮られて、セリオの手に届いていないのだ。
(こんなマネもできるのか……!)
 力任せに押してみるが、ビクともしない。英二はそれを続けながら、残るもう一
方の剣を振り下ろした。
 その瞬間、セリオは力を抜いて軽やかに後ろへと退がった。
 不意に力の行き場を失い、英二の身体が前へ流れる。そこへ、セリオは顔面を狙
った左のハイキックを放った。
 しかし英二はこれを読んでいた。といっても、左ハイキックを読んでいたわけで
はなく、前のめりになった自分の顔面に攻撃が来ることを予測していたということ
である。また、それを迎撃するために、左腕にはすでに意識を向けてあった。
 そして、蹴り足を斬りつけるべく、セリオの動きにあわせて英二は短剣を振るっ
た。
 だが、セリオはそれに素早く反応すると、急激に蹴りの軌道を変え、顔面狙いか
ら一転してローキックへと変じて、英二の右のふくらはぎをしたたかに打ちつけた。
(くはっ……!)
 たまらず、膝が落ちる。
 先ほど好恵が逆のパターンを使ったのを思い出しながら、英二は激痛に顔をしか
めつつ、次の攻撃に備えて神経を張り詰めた。
 鋭い踏み込みから、セリオが左の正拳突きを繰り出してきた。
 英二が屈み込んだ途端、左の膝が跳ね上がってくる。
 屈んだままどうにか後ろへとかわすが、いきなりセリオの攻撃射程距離が伸びた。
膝蹴りが、そこから前蹴り上げとなってあごに襲いかかったのである。
 からくも、英二はそれをかわした。背中にいやな汗をかいていることを自覚しつ
つ、痛む右足を引きずるようにさらに後ろへと退がる。
 さらなる追撃を予想していたが、セリオは動かなかった。その間に、英二は体勢
を立て直した。
(く……!)
 地面を強く踏みしめてみる。右足に受けたダメージは思いのほか深く、いまだ力
があまり入らない。間違いなく、体さばきに支障が出る。
 英二は胃が縮まるような焦燥感を覚えていた。
 好恵の言うとおり、セリオは強い。それも、底が見えないほどに。
 はじめの方は肢曲で闘いを優勢に運んでいたのだが、それも見極められてしまっ
た。ことごとくリズムを崩され、流れを狂わされてしまうのだ。
 どれだけ攻め立ててもセリオはのらりくらりとかわし、異様に厳しい時もあれば、
やたらゆるやかな反撃もしてくる。明らかに英二は遊ばれていた。
「くっ……!」
 英二はセリオを通り越して、向こうにある三つの黒い壁を見た。あとどれだけの
時間が残されているのか、今はもう漆黒と言って差し支えない色になっている。
(時間がない……! 強行突破だ……!)
 遊ばれていることなど、この際どうでもいい。いや、いったいどういうつもりで
手加減しているのか知らないが、それならそれで好都合だった。まともに相手をし
て、わざわざ倒す必要はないからだ。
 英二は、次にセリオがスキを見せた時に彼女の横を通り抜け、向こうにいる魔道
士を優先的に倒す心算だった。足にダメージがあるとはいえ、全力疾走するのにそ
れほど影響はない所までには回復している。
 深く腰を落とし、それから地面を蹴る。
 距離を一挙に縮め――しかし半身に構えたセリオに攻撃を仕掛けず、急制動をか
けていったん左後方へと跳び退いた。リズムを変えて、そこからもう一度間合いを
詰める。
 小技を二回絡めての、鋭い突き。先と同じパターンだが、今回はかわせるように
若干甘くしてある。
 そして英二の思惑通り、セリオは体勢を崩しつつ、今度は手のひらで受け止めよ
うとはせずに、身を沈めた状態から後ろへと避けた。
 そこへ、セリオを追って踏み込みながら、足もと低くを狙った払い斬りを仕掛け
た。これは相手を浮かすための技である。払い斬りを空中に避ければ、もう一方の
短剣による攻撃をかわすことはできない。だが、セリオほどの者ならそれくらい瞬
時に判断して、真上へ跳ぶことはしないだろうと踏んだ。
 果たして、読み通りセリオは真上へ跳ばず、変わりに後方へ大きく跳躍して、い
ったん仕切り直した。
 しかし、それこそが英二の狙いだった。
 今までは通りの真ん中にセリオが陣取っていたのだが、英二が斜め方向から攻め、
セリオはその方向に対して真後ろに退がったので、道が大きく開いたのだ。
 その機を逃さず、猛然とダッシュをかける。遅れて、今着地したセリオがそのあ
とを追いかけた。
 英二の脚力は素晴らしく、ドグルスとの距離はみるみる詰まっていった。
 三人のうちの誰かに残忍な笑みを浮かべて話しかけていたドグルスが、接近する
英二に気づいて一度そちらを見た。が、まるで気になっていないかのように、すぐ
に顔を戻した。
(周りには敵の気配はない……! セリオも俺の後ろ……! 今、ヤツを護る者は
いないというのに、迎撃の態勢も取らないとはどういうつもりだ……!?)
 老魔道士の挙動に得体の知れない不安が脳裏をかすめていったが、考えているヒ
マはない。相手が何をするよりも早く、一撃で仕留める。
 だが、剣を握る手に力を込めた時、後方のセリオの気配がやにわに膨れ上がった
……と思った次の瞬間、何かが後ろから豪烈なスピードで英二の横を駆け抜けてい
った。気が付けば、背後にセリオの気配がない。
 ふと見れば、行く先、ドグルスをかばう位置には朱い長髪の少女。
「なっ!?」
 我が目を疑い、英二は思わず足を止めて立ち止まった。
 置き去りにできるほど走る速度に差があったわけではなかったが、それでも追い
つかれる様子も感じなかった。にもかかわらず、この始末である。
(……つまり、今のがセリオの全力疾走ってことか……なんて迅さだ! くっ、や
はり彼女を先に倒さなければならないのか……? 時間はあとどのぐらい残ってい
るんだ……!!)
 セリオを倒すのは一筋縄ではいかない。それまで、妹たちは保つのだろうか。い
や、やるしかない。
 先にも増して力強いダッシュをかけると、同時にセリオも地面を蹴っていた。
 横薙ぎをかいくぐり、セリオは鳩尾に拳を突き出した。
 英二は相打ち覚悟で、逆手に持った右の短剣を振り下ろした。かわすことを考え
ていない分、振りが鋭い――が、それは左の手のひらで易々と受け止められた。
(あ、あれかっ! しまっ……!)
 思った時には、鳩尾に重い一撃。
「かはっ……!」
 吐息の塊が、苦痛のうめきとともに吐き出された。
 息ができない。身体がくの字に曲がる。そこへダメ押しの掌打が顔面に迫った。
 まともに入る。が、こちらは踏ん張りがきかないながらも自ら後ろへと跳び、衝
撃を多少やわらげることに成功した。
 着地に失敗して、身体が傾く。だが、セリオはそれ以上は仕掛けてこなかった。
「ぐっ……!」
 掌底による衝撃は、頭蓋を突き抜けて脳に直接響く。かすかにふらつく頭を落ち
着かせると、セリオの後ろでドグルスが嗤っていた。
「ひょっひょっひょっ、惜しかったのー。じゃが、その程度でセリオを出し抜くこ
とはできんよ。こやつは優秀じゃからな」
 氷を連想させる冷たい無表情でたたずむセリオを見、英二はゆっくりと息を吸い、
ゆっくりと吐き出した。
(落ち着け……今のは俺の技が荒かったせいだ……。こんな時こそ冷静にならなけ
れば、勝てるものも勝てなくなる。“月影の魔女”がどういうつもりで手加減させ
てるのか知らんが、それならそれでこっちには好都合なんだ。冷静になれ……相手
の動きを見極めろ……先を読め……!)
 意識を集中し、精神を安定させ、緊張を適度に保つ。
 己の動きを妨げるものを排除し、促進するものを活性化させる。
 舞台に立つ前に必ず行っている作業だ。そして今も、深い呼吸とともに静かに、
確実に自らを鎮めてゆく。
 が、ようやくおさまりかけていた風が、ドグルスの言葉によって前以上に嵐のご
とく吹き荒れた。
「よいか、セリオ。これ以上は決して近づけてはならんが、殺してもいかんぞ。適
当に遊んでおくのじゃ。もう少しすれば、グシャグシャのゲシャゲシャになった妹
との感動のご対面が待っておるでなぁ。もっひょっひょっひょ」
「了解いたしました」
「貴様あッ!!」
 心の戒めがあっさり破れ、英二が激昂して前へ出た。それを、セリオが迎え撃つ。
 大振りの一撃を難なくかわしたセリオに、強烈な掌打を胸のど真ん中に浴びせら
れて英二は為す術もなく吹っ飛ばされた。
 なんとか倒れないようにこらえきった次の瞬間には、足刀が鳩尾へと伸びている。
 とっさに腕でかばったが、英二はもう一度派手に吹っ飛ばされ、今度は耐えきれ
ずに地面を二転三転した。
「はあっ……はあっ……はあっ……!」
 身を起こし、片膝立ち状態の英二は肩で息をしていた。自嘲の笑みが浮かぶ。
(なにが冷静になれだ……)
 あんな大振りの攻撃をしたのは初めてだった。どうぞ、好きなように反撃して下
さいと言ってるようなものである。
 今の自分の愚行を認識することでようやく頭が冷めてきたものの、しかしセリオ
攻略の糸口はまるでつかめなかった。このままでは本当に、ドグルスの言うとおり
無惨な屍と成り果てた妹と対面してしまうことになる。
 とりあえず、新たに判明した事実がひとつだけあった。それは、セリオに命令を
下しているのは“月影の魔女”ではなく、今そこにいる老魔道士ということである。
 好恵は、セリオとフランを“月影の魔女”専属と言っていたはずだが、これはど
ういうことなのか。
(ふん……ま、どちらにせよ、この状況には特に関係ないな……)
 セリオにスキは無い。時間と体力が充分にあったとしても、英二の現在の実力で
は彼女を倒すことは限りなく不可能に近かった。
 だが、倒したいのはドグルスであって、セリオではない。彼女を倒す必要がない
ことと彼女が手を抜いて闘っているところから、なんとか突破口を見出すしかない。
 英二が立ち上がり、さらに厳しく己を戒めたその時だった……ドグルスが、最後
の光明を閉ざす言葉を口にしたのは。


「ひょっひょっひょ。あと十秒じゃ! この娘たちはあと十秒でつぶれるぞお!」
(そっ……そんな……!)
 ドグルスの歪んだ喜びの言葉を聴いた初音は、顔から血の気が引いていくのをは
っきりと自覚した。
 もはや抵抗するだけの体力も気力もない。身体を動かす余力は微塵も残っていな
かった。
 目がかすむ。呼吸困難によるものか、頭に靄がかかっている。思考すらかすみ、
深い闇の底へと落ちてゆくようだった。
 一番上の姉が脳裏に浮かび上がり、その隣に二番目の姉が並んだ。さらにその隣
には、ひとつ上の姉。
 そして最後に、大好きな従兄の笑顔が脳裏を占める。
(お姉ちゃん……! 耕一お兄ちゃん、助けて……!!)


 全身に脂汗を浮かべ、絶え間ない苦痛をなんとかこらえている由綺だったが、も
う希望は残されていないことを知った。
「弥生さん……ごめんなさい……冬弥くん……とうやくん……」


「に……い……さん……」
 顔を青ざめさせ、虚ろな表情の理奈が蚊の鳴くような声でささやいた。


「ちいいいっ!!」
 英二が飢えた野獣のように猛然と攻め込み、当然のようにセリオが迎え撃った。
 右の正拳突きを、これまでとは比較にならない反応で横に転身して避ける。
 流れるようにそのまま前へ出て、正拳を放った直後の状態のセリオの横を疾風の
ように駆け抜けた。
 すぐさま身体の向きを変えて今まさに地面を蹴ろうとしていたセリオに、走りな
がら肩越しに振り返って右手の短剣を投げつける。
 それに気を取られて出鼻をくじかれ、セリオは思わずその動きを止めて、飛来す
る剣を手刀で勢いよく叩き落とした。
 硬く澄んだ悲鳴を残して真っ二つに折れた短剣は、地面を転がりながらさらに小
さな悲鳴を上げ続ける。しかし、そのおかげで追跡を一瞬とはいえ、止めることに
成功した。
 追いかけようとセリオが駆け出した頃には、英二はすでにドグルスに肉薄してい
た。今からでは、さすがのセリオといえども間に合わない。
「げぇぇぇっ!?」
「おぉああぁ!!」
 気合いとともに英二の突き出した短剣が、ドグルスの首めがけて吸い込まれてゆ
く。

  どかぁぁっ!!

 しかし、剣の切っ先がドグルスののどへ埋め込まれようとする直前、激しい打撃
音とともに真横へ大きく吹っ飛ばされたのは英二の方だった。
 まったく予想もしていなかった第三者の攻撃に反応も抵抗もままならず、吹っ飛
ばされるまま右肩から壁へと激突して苦悶の声をあげる。
「なっ……!?」
 我が身に何が起こったのかが理解できず、食いしばった歯のすき間から驚愕と困
惑のうめき声を押し出すと、
「惜しかったなぁ〜」
 いつの間にか、ドグルスのそばには嘲笑を浮かべた男が立っていた。短剣が喉元
数センチに迫ったところで横から攻撃してきた第三者は、この男である。
 刺すような視線で英二が男をにらんだその時。
「圧殺開始ぃ……」
 気色の悪い喜色満面の笑みを浮かべたドグルスの声が聞こえた。
「――理奈ぁッ!」


「圧殺開始ぃ……」
 気色の悪い喜色満面の笑みを浮かべたドグルスの声が、初音にとっては絶望を意
味する言葉を紡いで、風に流れた。
 そして、今までとは比べるくもないほど凄まじい強さでもって、漆黒の壁は挟み
込んだ初音に容赦ない圧力をかけてくる。
 力が加わる。
 さらに力が加わる。
 まだまだ力が加わる。
 頭が割れるように痛み、身体中の筋肉という筋肉が、骨という骨が軋み、細胞す
ら悲鳴を上げているように思えた。
 目の前が黒く塗りつぶされてゆく。
 ひどい耳鳴りがする。
 胃が裏返ったような錯覚とともに、中身が喉元までせり上がってきた。それだけ
でなく、臓物までもが吐き出てきそうな気さえする。
 毒を含んだような悪寒が、全身を蹂躙した。にもかかわらず、頭から湯をかぶっ
たように汗だくの身体は、湯気さえ出てきそうなほどに熱い。
「あ……かっ……はっ……」
 心肺機能が明らかに低下していた。もはや呼吸困難どころではない。

『死』

 それが、すぐ隣り合わせに存在していることは、間違いなかった。
 意識もあやふやな状態だったが、初音は己のすべてを引き絞り、ありったけの思
いを込めて声にならない叫びを上げた。
(おね……がいっ……出てきてえええっっ!!)
 刹那。
 初音は急に身体が軽くなったように感じた。
(え……?)
 次の瞬間、馬にむち打つような鋭い音とともに黒い壁に亀裂が走るや、そのすべ
てが大小様々の魔力文字に分解されて散り散りになった。そして、色とりどりに輝
く文字たちはゆっくりと空気に溶け、音もなく消えていく。
 わずか数秒の出来事だった。
「え……?」
 力なく呟き、膝からガクンと崩れて座り込んだその直後、
「……かッ……ッごほっ……ごほっ……ごほごほッ、ごほッ……!!」
 さんざん圧迫され続けていた肺に大量の空気がどっと押し寄せ、たまらず激しく
せき込む。
 なんとかおさまってきたものの、いったい何が起こったのか理解できず、しばら
くの間、初音は呆然としていた。無意識のままに、目尻に浮いた涙を拭う。
 はじめは、己の中で眠っていた鬼がついに目醒めたのだという考えが脳裏をよぎ
ったが、すぐに違うことがわかった。
 圧殺黒呪から解放されたのは初音だけではない。明瞭になった視界には、自分と
同じように呆然と座りながらいまだ苦しそうにせき込んでいる由綺の姿と、四肢を
投げ出して地面に横たわっている理奈の姿をとらえていた。単に鬼が目醒めただけ
なら、解放されるとしたら初音一人のはずだ。
 その時になって、どうしようもないほど疲れ切ってはいるが、身体の諸機能と思
考力が回復し始めていることに彼女は気がついた。頭にかかっていた靄がゆっくり
と晴れつつある。
「由綺ぃぃぃっ!!」
 若い男の大声が聞こえた。思わず声のした方に目をやると、遠くから一組の男女
がこちらへ向かって駆けてくるのが見えた。さらに、その後ろにもう一組いる。
 そこまで見て、男の言葉の意味するところをようやく理解した。男は初音のすぐ
近くで座り込んでいる女性の名を呼んだのだ。初音は由綺を見た。
「とう……や、くん……」
 全身にうっすらと脂汗をにじませている由綺は、瀕死の重傷を負った時のような
憔悴しきった顔にかすかな笑みを浮かべて、恋い慕う男の名を小さくささやいた。


 ドグルスは大きく目をむいていた。
 苦悶、憎悪、恐怖、絶望。
 由綺たちのそういった負の感情が爆発し、はじけようとするまさに一瞬前、そう、
まさに一瞬前に圧殺黒呪は砕け散ったのである。
 この世で最も美味なる想念を喰らい尽くさんとする至福の瞬間は、手を伸ばせば
届きそうな距離まで近づいていながら、しかしあざ笑うかのようにするりと逃げて
しまい二度と戻ってくることはなかった。
「……あ……?」
 その瞬間を今か今かと手ぐすね引いて待っていたドグルスは、まるでタヌキに化
かされたようにぽかんと口を開けていた。その血走った目は、空気に溶け込むよう
に消えていく大量の魔力文字を放心したように見つめている。
 何が起きたのか、まったく理解できていない様子だ。
「由綺ぃぃぃっ!!」
 張りのある大声が耳に飛び込んできて、ドグルスははっと我に返った。
 はじかれたように、声の聞こえた方向へ勢いよく首を振り向ける。しかし、ギラ
ついたその眼がとらえていたのは前列を走っている若い男ではなく、そのやや後ろ
を走っている若い女だった。その女が自分の邪魔をしたことを一瞬で見抜いたので
ある。
 何ものにも代え難き悦楽の瞬間がやってくるのに浮かれて、ドグルスは注意を怠
っていた。
 もはや、何人たりとも圧殺黒呪を止めることはできない。
 彼は勝手にそう確信していて、魔法による妨害があることをまったく念頭に置い
ていなかった。
 その結果、白魔法である<消去(イレイズ)>によって、圧殺黒呪は強制解呪さ
れてしまったのである。ドグルスにしてみれば、鳶に油揚げをさらわれたどころの
気分ではない。
 イレイズをかけた若い女は、祭りだというのにあまり着飾った様子はなく、むし
ろ質素で控えめな服装をしていた。ふとドグルスと目があうと、その殺せそうなほ
ど強烈な視線に彼女はひどく怯えた表情を浮かべ、慌てて目をそらした。
「セリオオオォォォォーーーーッ!! わしの邪魔をしたあの女を殺せええェェェ
ェーーーーッ!! 心臓をえぐり出して、ここへ持ってくるんじゃぁァァッ!!
それと、フラン!! もはや手加減は無用じゃ!! わしの邪魔をしようとする者
は、ことごとく皆殺しにせぇいッ!!」
 爆発寸前の火山にも似た雰囲気のドグルスは、魔法発動の残滓をとどめた若い女
の方に向けて突き刺すように指さし、大音声を張り上げた。
「了解いたしました」
 そんな主人の命令に、セリオはおよそ感情のカケラもない返事を返して地を蹴っ
た。その動作は軽やかでありながら恐ろしいほどの脚力で、残像すら残しそうな勢
いで彼女はターゲットとの距離をみるみる詰めていった。




*************************************
すっごく久しぶりに登場したぞ、あの四人が。