「Brand new heart,Bring your heart.」 〜志保の場合〜 投稿者: てくら
皆様こんにちは。
てくらと申します。

先日のマルチ編は題名が高飛車かと思いましたもので変える事にしました。
では、志保編をお届けします。

志保のエンディングででラブラブにならないのが物足りないという評価が
あるということをこのHPで知りました。
んじゃまあ、なぜラブラブにならなかったのか、と考えたのがこの文のネタと
なっております。
青紫様が「今後大人の三角関係が始まる」とHPや初音のないしょに書かれて
おられましたのに触発されてます。

本作はTH志保シナリオのED付近の書き換えという感じになっています。
失礼になります様でしたらお叱りください。
また、THのシナリオに意見するものでもありません。
ただ書きたかっただけですので、ご容赦くださいませ。

志保が浩之に抱かれて、帰るはずが帰っていない…ということになってます。
それと、修学旅行が終わったら転校したという事になってます。
卒業までみんなと一緒にいるのが正しいのですが、それよりも志保が引っ越して
しまうという方の設定を活かす事にしました。

それでは、お時間ございましたらどうぞ。


           「Brand new heart,Bring your heart.」

                〜 志保の場合 〜


                  〜・〜

ささやかな吐息を胸元に感じる。
いつのまにかうつらうつらとしていたらしい。
壁の時計は午前2時。
朝はまだ遠い。
その遠さが心地よかった。
ゆっくりと胸元に手をやって。
目の前の栗色の髪を指で梳いてやる。
さらさらと指の間を流れ落ちるショートカットの髪。

「ん…」

志保の吐息がほんの少し悩ましい。
俺たちふたりがこんなに静かに時を過ごしているなんて初めてだよな。
そう気が付いて、俺は苦笑した。
志保はまだ夢うつつのままに、俺の胸に頭を預けている。
そんな彼女を呼び覚ましたくて、俺は髪を梳いたのかもしれない。

ふたりがふたりのままでいっしょにいる、静かな時間。
まどろみと微笑みにつつまれた、やさしい時間。
いままで感じたこともない、きれいな時間。
そんな時間が、いま、俺達のあいだに流れていた。

「…ん〜、はぁああああぁ〜」
「おはよう、かな」
「〜んん、あ?ヒロ…って…」

一瞬の沈黙。

「え? あ? き、きゃ…」
「きゃ?」
「きゃああああああああああああああああああああああああああああーっ!」
「うわあっ!」

いきなり高らかに悲鳴が揚がった。
きぃぃぃぃんとした痛みが耳を襲う。
静かもやさしいもきれいもあったもんじゃねぇ。
いきなり頭に、明日の朝のご近所の様子が想像できた。

「ちょっと奥さん、藤田さんとこ、きのうの夜中に女の子の声が聞こえたんですのよ」
「まあ、浩之くんもああ見えてなかなか…」
「親御さんが丁度、おられないってのも…」
「便利ですわね(笑)」
「便利ですわね(笑)」
「便利…なんですか?」
「あら…あかりちゃん、おはよう」
「おはようございます」
「何でもないのよ、浩之くんも隅に置けないわねってね」
「あかりちゃん、大変よねぇ〜」
「ほーんとうに、大変よねぇ〜」
「?」
「あらあら、朝市が終わっちゃうわ、さぁさぁ奥さん」
「じゃね、あかりちゃん」
「あ、はい、さようなら…」

…んで、あかりは無邪気に突っ込むタイプだからな。

「ねえ浩之ちゃん、便利なことってなに?」
「あぁ?いきなり訳わからねーぞ」
「隣のおばさん達が、おじさん達居ないから浩之ちゃん便利だって言ってたよ」
「…え?」
「隅に置けないわねって」
「…(汗)」
「あかりちゃん、大変よねぇ〜って」
「…(冷汗)」
「ねえ、何が便利なの?」

なんてな展開になるに決まってる。
…目も当てられねえじゃねえかよ、おい。

頭の中で恐ろしい結論をはじき出して、俺は血の気が引くのを感じた。
絶対にこうなる。俺のこの手の勘は外れた事がない。
だから。
その災いの元を黙らせなければならないのだ。
ばたばたと暴れる手足はほっといて、とにかく志保の耳元に口を寄せた。

「だあぁっ!騒ぎになるだろ静かにしろっ!」

蓋でも塞ぐかのように志保の口に手を当てる俺。

「もがもがもがもがもがもがが」
「いいから静かにしろー頼むー」
「もががもがもがもがもがが」
「きゃー、場末の悪人みたいよー、って…え?」

まさか…

「…おまえ、はなっから正気じゃねーか?」
「ももがっももがぁもがもがが」
「うら若き乙女としては取りあえず、恥じらってみせるのがマナーっていうやつよ?」
「もが」

何がマナーなんだか。
まったく、やってくれるぜ…。
とりあえず俺は志保の口から手を放した。

「もががもがもがもがもがが」
「それはもぉええっつーの」
「あははっ」

ベッドのサイドテーブルからオレンジジュースを取って、半身を起こす。
枕をクッション代わりに背中に当てて、と。
少し腰をずり上げて、俺は身を起こした。
シーツを少し引き上げる。
と、志保がいない?
…って、目の前のシーツがごそごそと動いてやがる。
と思うと、その中から志保が顔を出してきた。

「お・は・よう」

甘い吐息にうっすらと紅色の頬は、さっきのふたりの時間が本当であった事を
証明している。
うなじから肩口、そして胸元。
普段なら制服のタイがかかっているはずのその場所。
だけど、今は何らかけられているものはない。
俺の胸板に押し当てられる膨らみ。
その真ん中にある可愛らしい二つの乳首。
志保の乳房の全てを感じ取って、俺はきゅんと胸が鳴るのを感じた。

「んん〜? なに? ヒロったらてれてる?」
「ずけずけいうかな」
「クールな二枚目浩之くん、その実態はあんがいウブ。お誘いチャンスは
 勇気を出して…って感じでいいかしら?」
「…まさかおめー」
「志保ちゃんニュース恋占いページよ、ラッキーカラーはマーブルタンビーっと」
「どんな色なんだよ」
「っていうかトーン」
「…『花とゆめ』読んでるなお前」

突っ込みつつも思わずぷっと吹き出した。
まあ、こうじゃないと志保じゃない。

ひとしきりきゃあきゃあと話に花を咲かせて、俺達は夜を過ごしていく。
やがて声のトーンは少しずつ落ちていった。

「…ヒロはさぁ…」
「ん?」
「…その…あのさぁ…」
「何だっつーの」

珍しく、両手の指を絡めて照れる仕草を見せながら、志保が切り出す。
ああ、そういえばこの仕草も最近見てなかったなぁ。
志保とはここしばらく、こんな風に話もしなかったのか。

「初めて…だったの?」
「…ああ」
「…そう…」

一瞬、志保は思いっきりさみしそうな顔をした。

「なんだ?」

ついつい出した声に志保ははっとなって我に帰る。

「…ねぇ」
「どうしたんだ? なんかおかしいぞ」
「ねぇ、聞いて」

いつになくきりっとした声音。
そのいきなりさに、今しがた彼女が見せた憂い顔の影はない。
聞く機を逃して、俺は志保を見つめた。

「中学の頃の『3つのお願い』って覚えてる?」
「…お前、まだそんな事覚えてたのかよ」

昔、志保に何かの賭けで負けて、あの頃は小遣いも少なくて出来立てのヤックって
訳にも行かず、ごねる志保に謝り倒して『3つのお願い』に変更してもらった事が
あるのだ。
その頃はヤックに行くのはかなりお洒落なことで、洒落好きの志保をなだめるのに
苦労したっけな。

でも、なんで今ごろそんなことを?
そう考えた矢先に、志保の言葉。

「ひとつは、今日のこと、忘れないで」
「…え?」
「ひとつは、あたしのこと、忘れないで」
「な…」
「そして最後は…」

嫌な予感がした。
語尾をかすれさせる志保が、不意に、とても小さく見えた。

「…あのこを…あのこを…幸せにしてあげて」
「志保!?」
「あたしじゃないの…あたしじゃ、あたしじゃないの!!」
「志保!」

唇を噛み締めたそれは、見果てぬ決意を込めた表情。
だからこそ、俺は志保の言う事が判らなかった。
今までのような冗談じゃない。
しかし、だからといって落ち着いて聞ける話じゃなかった。
ぐいと志保を引き寄せ、胸にかき抱く。
さらりと落ちるシーツ。
あらわになった背中に手を廻し、志保を思いっきり抱きしめる。
そうでもしなければ。
今この場で、志保が消えてしまうような気がして。

「…う、うう、ううっくっ…」

くぐもった声に、俺ははっとして腕の力をゆるめる。

「…わ、悪い…苦しかったか…」
「…うっ、ぐすっ」

しゃくりあげる声。
胸に落ちる熱い涙の粒。
ああ。
志保が…泣いてる。

どうして、こんなに切なくなるんだろう。
どうして、こんなに不安になるんだろう。
どうして、こんなに悲しくなるんだろう。

志保。
泣かないでくれ。
悲しまないでくれ。
ただそれだけを願いながら、俺はそっと志保を抱きしめる。

「…来月なの…」
「?」
「父さんの…転勤…大阪で……もう…あたし…帰ってこれないの」

言葉も出ない。
転勤?
帰ってこれない?
そんな馬鹿な!?

「修学旅行が終わったら…すぐなの」
「そんな…嘘だろ?」
「これだけは…本当よ」
「だって、だって、俺とあかりと雅史とお前で…」
「そうね、いつも一緒で…あかりがいつもヒロの後追っかけて…雅史が困ったなって
 苦笑いして…あたしがきゃらきゃら笑って…楽しくて楽しくて…」

志保は泣き笑いの様にして言葉をつなぐ。
端々に含まれるしゃくりは、あまりにも残酷な現実の証明だった。

「…ずっとこのままでいれたらいいなって…思ってたのに…思って…たのに……」
「志保…」
「まさかあたしだけ…いなくなっちゃうなんて…」
「…」
「でも…ね、本当に悲しいのは…ヒロに、ヒロに会えなくなること…だから…」

だから急に家に来て。
だから急に部屋に来て。
そしていま、こうして一緒にいる。
興味本位で来たように見せて。
必死だったのだ。
誰にも見せたことのないけなげな想い。
ただただそれだけを胸に抱いて、志保はここに来たのだ。

「でもね、あたしには資格はないの」
「…何の資格だ?」
「ヒロのそばにいる資格」
「なぜ…なんだ?」

大きく息を吸って、そして大きくため息をついて。
志保の声は、その後に聞こえた。

「あかりの…あかりの気持ちを知ってるから、よ」
「それでも…いや、別に俺とあかりが付き合うって決まってる訳じゃ…」
「ううん、それだけじゃなくて」
「…」
「あかりから聞いて、そしてあたしは…ヒロもあかりもどっちも大切だったの」

志保の話は続く。
俺の周りに女の子が増えるたびに、あかりは心配したらしい。
俺が矢島に紹介してしまったあの日、一日泣いたらしい。
そしてその時に、志保がずっとそばにいたと。
知らなかった。

「あかりから…そう、ずっと前に聞いてから、あたしはあたし達の関係を壊したく
 なかったの。壊れないでいれば、今のままで過ごせるって思ったから」
「志保…」
「男の子で一番好きなのはあなた。そして女の子で一番好きなのはあかり」
「俺と…あかりか」
「あなたには恋、そしてあかりには…妹のような愛情かな」
「だから…」
「そうよ、両方とも大切すぎて…あたしはどちらも選べなかったの」

まるで誰か知らないやつのうわさでも話すかのように。
志保は淡々と自分の話をして。
俺はただ聞くしかすべが無く。
そしてふっと志保の声色が変わった。

「あたしはね」
「…」
「あかりが普通の…普通の女の子だったら…あなたをあきらめたりしない」
「普通の…?」
「あの子が泣くのは、あなたと周りの女の子にやきもちを焼いてるからじゃないの」
「…」
「あの子さ、自分に魅力がないから、いつもとろくって迷惑ばっかりかけてるから、
 だからあなたが振り向いてくれない、妹から卒業出来ないんだって言って泣くのよ」
「そんな…俺はそんな事思ってもないし言った事も…」
「そうよ。あの子はそういう子なの。あなたには素振りも見せないけど、ね」

いつしか、母親が娘を慈しむ時のまなざしをたたえて。
志保はあかりの事を、誇らしげに話し始めていた。

「あなたが悪い、他の女の子が気に食わないって言うんだったら、あたしはとうに
 頬のひとつもひっぱたいてるわよ。でも、あかりがそんな事言うのを聞いた事が
 ないわ」
「俺は…そんな事知らなくて…」
「あの子はああ見えてほんとうに芯の強い子よ。だから、あたしもほんとうに好きに
 なっちゃったのよね」
「志保…」

たゆとう時間が少し。
そしてまた、志保が沈黙を破った。

「…罰かしらね」
「え?」
「あなたもあかりも大切で、両方一緒に取ろうとしたから、欲張ったから、どっちも
 失う羽目になったのかもね」
「…そんな…そんなこと」
「あたしが、逆にあかりに好きになってもらえるような子なら、あなたもあたしを
 好きになってくれたのかもしれないなぁ」

不意に、志保が顔を背けた。

「志保?」
「見ないで。あたし今、嫉妬してる顔だから」
「…」
「あなたも、あかりも、みんなうらやましい。人に好かれて、人を好きになって、
 そしてそれがどんなに羨ましがられる事か…知らないでいられるなんて」
「…」
「妬む以上に好きな女の子があかり…こんなにそばに居るのに、好きになれないのが…
 あなたなのよ」

志保に「あなた」と呼ばれたのは始めてだった。
それだけにその言葉の重みが良く分かる。
この日の為に、志保は言葉を大切に取っておいたのか。

「…あなたと口喧嘩できるのだって嬉しかった。生意気だって言われて嬉しかった。
 屋上にあなたを見つけて、あかりをびっくりさせたときなんか、本当にこのまま
 あなたを取っちゃおうか…なんて思ったわ」
「…」
「でもね、そんなことしないの。こんな思いあの子にさせたら、あたしはあたしで
 なくなるから。あの子を大好きなあたしが、嘘になっちゃうから」
「志保…」
「…次に恋をするときは…もうすこし…楽な恋をしたいわね…そ、そうす…れば…
 こんな…こんなつ、辛い思いは…っ」
「…志保…」
「うっ…うあっ、うあ、あ、ぐうっ、ぐううううううううううっ…」

声をかみ殺し、口元を己が両手で塞いで、志保は泣き始めた。
とめどもない涙が手の甲をつたい落ち、しゃくりあげる背中が寒々として。
たまらなかった。
身を切られる思いがした。
志保も、あかりもこんな思いをしている。
それを知らず、いやそれを知ってなお、何も出来ない自分が恥ずかしかった。

だから。
俺はゆっくりと、志保を抱きしめた。

「うっ、うあはっ、はあ、はぁっ」

しゃくりあげ続ける志保の手をどかせて、楽にしてやる。
ゆっくりと唇を目尻に寄せて。
流れ落ちる涙を、口先でそっと拭き上げる。
やさしく、ていねいに、心を込めて。
言葉じゃない。
今の志保に必要なのは、俺自身なのだ。

「返事はしなくていいから…うなずいてくれ」

こくりと志保の返事。
だいぶ落ち着いたようだ。

「もう泣くな。もう話すな。全部判った。だから、もう…悲しまないでいいんだ」

涙眼でぼんやりと俺を見つめる志保。
はぁはぁと速い息。
時折しゃくりあげる仕草。
その全てがいとしくて。
だから俺は。

「志保」
「…?」
「俺はお前が好きだ」
「!」

びくりと肩を震わせて、志保が跳ねる。
聞く筈がないだろうと、自分自身に封印されていた言葉。
その鍵を、いま、俺が解いてしまった。

「みんな、みんなわかったから…俺は今、お前を好きになりたい」

志保は何も言わない。
ただただ目を見開いて俺を見つめる。

「いいか?」

しばらくの沈黙。
そして。

…こくり。

ゆっくりとしたうなずき。
そして、背中に暖かい体温。
志保の手が俺の背中に廻されて。
そして、俺は志保に抱きしめられていた。

そのまま、右手で志保の頭を支えて、ゆっくりとベッドに寝かせる。
おとなしく、なすがままに志保は従う。
やがて、彼女の右手がシーツから出て、明かりを消した。
もう、何もいらなかった。
たがいに、お互いがそばにいる。
それだけで、充分だった。

幾度も幾度もくちづけを交わし、飽くことなく志保の体を撫で回す。
志保の中に入って。
志保に包んでもらって。
達して、抱き合って、そしてまた求め合って。
忘れないように。
さみしがらないように。
そして、心の奥まで判り合うように。
想いの限り、お互いが、お互いを愛し合った。

…そして、夜はふけていった。

RRRRRRRRRRRRRRR…。

初夏の緑木にさわやかな風がそよぐ、ある晴れた日。
俺達は、ざわめきとあわただしさのごった返す新幹線のホームにいた。
間の悪い事に雅史は大会の予選で来れず。
俺とあかり、そして志保と志保の両親だけがそこにいた。
他の友人には、もう別れを済ませたと志保は言っていた。
今日は、あたしたちだけの日にしたかったのだと。
そう。
今日は、志保の見送りなのだった。

あれこれと言葉を交わす俺とあかりと志保の両親。
ここが始発駅の車両は、気を利かせた夫妻を先に吸い込み。
そしてホームには、俺達が残った。

「…お前の事だ、向こうの学校が大騒ぎになるんだろうなぁ」
「ひ、浩之ちゃん」
「何いってんのよ、大阪にはいない艶のある美少女登場ってやつ?いかすじゃない」
「艶はあってもトゲがあるだろーが」
「あらん、華麗なバラって言ってくれるわけぇ?」
「バラに失礼だ」
「………な、なんですってぇぇぇぇぇぇっ!」
「し、志保…みんな見てるよぉ…」

はっとして俺達は周りの視線からとぼける。

「…さみしく…なっちゃうね…」
「またまたあかりは〜そんな事じゃあたしも落ち着いて向こうでお勉強できないわ」
「お勉強せずに遊ぶってか」
「あんた赤点組なのよ、言えた義理なの?」
「うっ」

ってなやりとりが終わらないうちの事だった。
ぽふっ。
そんな音がして、視線を下げると。
あかりが、何も言わずに志保の胸の中に顔をうずめていた。
そして一瞬の後。

「志保…志保、志保、志保ぉ…!」
「…あ、あかり…あかりっ…」

ふたりが抱き合って、そしてむせび出す。
そう。
気持ちは痛いくらいに判った。
俺もこの前、そうだったから。

RRRRRRRRRRRRRRR…。

涙を拭い、そして志保は俺に目で合図する。
俺はうなずいて、あかりを受け取った。
発車の時刻だった。

たんとタラップに足をかけ、志保は乗り込んだ。
くるりとこちらを向いて。

「後は頼んだわよ、ヒロ」
「ああ」
「…しっかりやるのよ、あかり」
「う、うん、うんっ!」

『○番線…大阪行きひかり○号…発車致します…』

アナウンスがぼやけて聞こえる。
そして、志保の言葉。

「あかり」
「うん」
「あたし、あんたの事、ほんとうに好きだったわ」
「うん」
「あたしが男だったら、ヒロになんかわたしたりしないわ」
「うん」
「だから、がんばりなさい」
「うん、うん、うんんっっ!」
「…聞いたわね、ヒロ」
「ああ」
「約束は…守るのよ」

ぱしゅうううううっ。
だんっ。

あっとあかりが小さく叫んだ。
俺の体が、びくりと震えた。
扉が閉じたのだ。
そして。
ガラスの向こうの志保が、優しく微笑んだ。

(さよなら)

志保の口だけがそう動いて。
そして、それが揺れた。
がたん。
がたん。
がた、がた、がたん。
列車が、動き始めた。

熱にうかされたかのように、あかりが動いた。
列車の窓に手を伸ばし、数歩歩いて。
あっ。
そう思ったときには、もう列車はぐいと加速をかけて。
それでも、あかりは止まらなかった。

「しほおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

きゃしゃな体のどこにそんな力が有ったのかと思う勢いで、あかりが志保を追う。
ホームに残る人々の間をすり抜け、鉄の柱をすいとかわし、あかりが志保を追う。
って、危ねぇっ!

「くっ」

渾身の力であかりを追いかける。
と。

『PRRRRRRR、PRRRRRRR』

…って、こんな時にPHS?
まさか?!

「俺だ、今走ってる!」
『…だいじょうぶよ、ほら、もうホームの終わりで止まったわ』

…志保…落ち着いてやがるぜ…。

人垣の間から見ると、あかりはホームの最先端で泣き崩れていた。
俺は駆け寄ろうとして。

『…あかりのとこまで行くまで、歩いて』

という志保の電話の声に、歩をゆるめる。

『あかりに悪いけど…もう時間もないから…言わせて』
「ああ」
『あかりを幸せにするのよ』
「ああ、約束は守る」
『しっかり勉強するのよ』
「ああ、もう赤点はごめんだ」
『遊びに連れてってあげるのよ』
「おめーはほどほどにな」
『…ばかね…』

苦笑いする志保の声。
それにざざぁっとノイズが混ざる。
移動速度の限界なのだ。

『…もう…声が……』
「志保?」
『…だから…だからね』
「志保!」

電話が切れれば、志保を失うような気がした。
たまらず、耳に押し当てて志保の声を拾う。
そして。

『大好きよ…ひろゆき…』

その声が最後だった。
電話からは、もう何も聞こえなかった。

俺は、志保に何をしてやれたんだろう。
もっと昔は、もっと優しくしていた覚えが有るのに。
いつからか口喧嘩した時に、周りのみんなに受けたのが面白くて。
ただただそんな漫才もどきを繰り返して。
いつのまにか、志保をもてあそんでただけじゃないのか?

もっと大切にしてやれば良かった。
もっと遊びに行けば良かった。
家に電話があったとき、俺が必要だったんじゃないか?
服を買いに行ったとき、俺に見せたかったんじゃないか?
海外旅行の話のとき、俺はひどい事を言ってしまったんじゃないか?
志保、志保、志保。
俺は、お前に愛される価値のある男だったか…。

聞こえない電話を手に握り締め、後悔とも嘆きとも付かない言葉を頭の中で
唱えて歩く。
やがて、俺は少し落ち着いて。
そして、歩みは止まった。
目の前に、しゃがみ込んで泣きじゃくるあかりの背中があった。

「あかり」

そうだな。
志保との約束があったな。
そして俺は、守るって約束したんだ。

「おいで」

よろっと立ち上がり、そして振り向きざまに胸に飛び込んでくるあかり。
声だけで、俺の居場所も間合いも胸の位置も判るあかり。
俺の胸が泣き場所のあかり。
少しの間、こうしていよう。
あかりの心の中の痕が癒えるまで。
俺の心の中の涙の雫が止まるまで。
そう思って。
多分あかりもそう思って。
俺達はそっとホームにたたずみつづけた。

こんな悲しみが、いつしか思い出に変わって、人は生きていくんだな。
ふとそう感じて、俺はまた心の中で泣いた…。

………。

もういちど、さわやかな風。
控えめに照らし付ける、やわらかな陽の光。
クリアブルーの空にぽっかりと白雲が浮かぶ。
新緑の枝がざわわっと音を立て、木漏れ日をきらきらとはじく。
駅を出て、俺達は以前に花見に来た桜の公園を歩いていた。

「浩之ちゃん」
「ん?」
「なんか…今日、感じが違うよね」
「…?」
「優しい感じ…そばにいるとほおっとするくらい…優しい感じ」
「…そうか」
「…うん」

そう言って、つつましく微笑むあかり。
それはいつものあの『しょうがないなぁ』という微笑みじゃなくて。
なにか頼り甲斐のある大人を見つめるような、そんな微笑みだった。

「さあ、時間も有るし、どこかぱあっと遊びに行こうぜ!」
「うん!」

俺の右手をゆっくりとあかりに差し出す。
あかりの左手がちょこんとそれに重ねられて。
どちらからともなく、指と指が絡み合う。
優しく握り締めあう手と手。
さりげなく、けれどしっかりとお互いを支えて。
俺達は並木道をゆっくりと歩み続けた。

なあ、志保。
お前は、どっちも失っちゃいないさ。
俺達は…お前が好きだ。
そうだろ?

そう心でつぶやき、俺はあかりに振り向いた。
そこには、あかりの可愛らしい笑顔があって。
そして俺を、まっすぐに見つめていた…。

数年後。

「浩之ちゃん、今日はドイツ語でしょ、必修休みじゃないみたいだよ」
「わかってる、ちょっと寝過ごしたんだよ、行ってくるぜ」
「わたし今日講義ないから、ご飯作るよ。なにがいい?」
「八宝菜とか」
「いいよ、6時ね」
「ああ、うまいやつな」

アパートのドアを開け、上着を引っかけてかばんを握る。
ご近所への挨拶もそこそこに階段を駆け降りる。
小道から広い車道のある歩道に抜けて、後は直線で1キロ強だ。
急げば、教授が来る前に中くらいの席は確保できるはず…。

『PRRRRRRR、PRRRRRRR』

なんだぁ?PHS?
ええぃなんて間の悪いやつだあかりめ!
八宝菜のネタまで俺の好みをリサーチしようってのか!?
どうでもいいけど今走ってるんだぞ俺は!
とにかく受話器を耳に…。

『はあぃそこの学生、左に寄せて止まりなさ〜いっ!』
「なんだぁ!?」

度肝を抜かれて足を止め。
ぶんと振り向いた俺の目に映る赤いカブリオレ。
その運転席から空高らかに振られるノースリーブの腕。
唖然としながら。
それでも俺は心の中で苦笑いだった。

そうか。
やっと…やっと帰って来たんだな…志保。



                          お読み頂けまして
                         ありがとうございます。

                            「てくら」

P.S.

 ご感想頂きましてありがとうございます。ちょっとレス的なものを…。


UMA 様

>いいやねぇ、長瀬主任。 マルチシステム=主任の娘って設定はナイス。

 この設定が、この話の肝になります。
 あれだけ人間らしい人格の備わるマルチに、私は最後までもしかしたら実はやっぱり
 人間かも思いながらプレイしてました。

 ロボットに備わるはずのない「心」
 これが、マルチの中にどうやって生まれ出でたのか。
 そう思って一気に書き上げました。

 長瀬氏とマルチ。ビジュアル的にはなかなか意外な取り合わせでしょう?(笑)
 その辺りが判って頂けたこと、お礼申し上げます。


西青 スパ 様

>・・・鉄腕アOム!?(ごめんなさい!)

 あ…そういえばそうなんですね(笑)いや私アトムよりBBの人間なので。

>うう、長瀬博士悲しすぎ・・・娘さんもっとかわいそう・・・
>悲しいお話は・・・後に残ります。引きずっちゃいます。

 マルチという存在がなければ、このように読んで頂ける文章も書けなかった訳で。
 このあと、マルチが歩む人生はいろいろと考えられるのですが、私個人的には、
 「絶対にハッピーエンドを迎える」と思っています。
 それ以外考えていません(笑)

 というわけで、どうか私の文などに引きずられないで下さい。
 マルチは幸せになります。だいじょうぶです。はい。

 …それは、長瀬氏の娘さんが、やっと幸せになれるという事なんですから。


しもPN 様

>かなり情景描写がこなれてますね。
>プロの小説家が書く文体に近いように感じ、また読みやすかったので一気に読めて
>しまいました。

 ありがとうございます。
 昔からパソ通などでいろいろ書いています。んで、その辺りの経験が役に立って
 いるわけです。

>内容は原作とすこし異なっているくらいですが、その描写が上手いので興味を
>引きます。

 マルチの背景というものを書いてみようかと。サイドストーリーですね。
 これほどまでに愛されるマルチの中には、果たしてデジタルなAIだけしか収まって
 ないのだろうかと思ったんです。
 もしも、マルチの中に人格があるとしたら。
 もしも、それが人間のものだったとしたら。
 それはいったい誰なんだろう。
 その発想と、長瀬氏の存在、そして自分の考えというものを足しあわせました。

>また書いてくださいね…お願いします。 そしてありがとう…。

 今回は志保のお話です。
 よろしければどうぞ。

AE 様

>これ、マルチEDを見た直後に書いたモノでしょう?

 原本はまさにそのとおりです。
 いろいろと改訂を加えてはいますが。(ここ用に少しグレードを上げました)

>わかります、わかりますよおおお! その気持ち!マルチの過去や未来の事を
>考えずにはいられない、せつなさ。

 考え始めると悩んで悩んで。>マルチの未来。
 でも、浩之とマルチと、そして多分あかりの間に生じる微妙な三角関係は、案外
 うまく行きそうに思うんですよ。
 なんだか、そう思ってやまないんです。不思議とね。

>読んでいて、共感してしまいました。(変な文を書いて申しわけありません。)

 有り難うございます。物書き冥利に尽きる瞬間ですね。

>ところで、私なりには、源さんはもう少し「したたか」だと思っています。

 したたかを気取りながら、その心の中は純粋。長瀬氏のしたたかさは、処世術と
 いうか、ATフィールドというか、本心を守る為の知恵というような感じに捉えて
 います。(私的には)
 ちょっと難しい話になって私も戸惑ってますけど。
 したたかである事を楽しむ為の「したたか」ではないような気がするんです。
 私見ですけどね。


 ご感想有り難うございました。今後とも、宜しくお願いします。
 では、本日はこの辺で。さようなら。