はじめまして。 雫の頃から遊ばせて頂いております1ユーザーです。 マルチのサイドストーリー的な物を書いてみました。 宜しければ、ご覧ください。 俺ならこうするTo Heart(笑) 〜マルチの場合〜 そもそも、マルチが「ああいう性格の」マルチとして生まれてきた理由はどこに あるのだろうか。 長瀬氏はなぜ、マルチを主人公のもとに送り届けたのか。 その辺のお話を自分なりに詰めてみました。 〜・〜 長瀬の家庭は妻を早くに失い、娘との2人家族である。 しかし娘は中学2年の頃より重い病気を患い、長い入院生活を送っていた。 長瀬は、世界でも名の知れた情報工科学大学の教授を勤めていたが、娘の入院費の 都合の為に来栖川の研究所の門を叩く事となった。 人工知能の研究が専門である長瀬を引き抜いた来栖川。 目的は、完全自律型のメイドロボ開発である。 その為、彼は新型機開発の総責任者として身を置く事になった。 不幸というものは、いつも足音を立てずにやってくる。 HMX−12型の機体が完成したその朝。 まるで入れ替わるかのように。 長い闘病生活に力尽きて、娘が他界したのである。 人生最大の不幸に打ちのめされた長瀬。 彼は荒れて。 我が身を傷つけて。 何もかも手当たり次第に打ち砕いて。 倒れ伏して。 最後に目にしたものが、カプセルの中の機体であった。 一瞬の後。 思い付くより先に、両の手がキーボードを操り始めていた。 HMX−12型。 目の前の、これを媒体として。 彼は、娘の人格を蘇らせる事を決意したのである。 膨大なデータ処理。 学者風情が、来栖川のメインコンピュータを3日も独占したらしいと囁かれた。 最高の人材。 長瀬が集めたメンバーは、当の来栖川をしてなぜここまで揃うと歯がみさせた。 執念とも鬼気とも囁かれた長瀬の努力。 天地を造り給うた神様ですらお休みになられたのに、と誰かがつぶやいた。 そして、また朝が来て。 「…お、おはようございますー」 果たせるかな。 娘は蘇った。 マルチという名のロボットの中に。 そう。 娘は蘇ったのであった。 今までの記憶は一切無い。 だから、生き返った訳ではない。 しかし。 陽光の下を軽やかに歩ける、健康な体。 おっちょこちょいで、怖がりで、泣き虫で。 心を和ませる笑顔、あどけないほがらかさ。 ていねいですこやかな言葉と声。 すべてが。 すべてが、長瀬の娘そのものであった。 彼の娘は、ここに新たな生を受けたのである。 仕事であるから、マルチという商品は世に出さなければならない。 だが長瀬はその前に、実験との名目でマルチを高校に送った。 人間世界の環境に適応する為のデータ採取。 それは、背後に彼の娘のささやかな願いが込められたものだった。 あの日、病床で死の激痛に震え、涙ながらに娘が告げた言葉。 『…がっこうに…いきたいよぉ…』 そのひと言が脳裏によみがえるたび、長瀬は自分の無力を呪ってきた。 あのときただ、娘の手のひらを握り締めるしかすべが無かった自分。 父親として、科学者として、愛娘の死に何するすべも無かった自分。 それでも、長瀬は今日まで生きてきた。 全て、娘の願いを叶える為であった。 来栖川出資の高校で、マルチは8日間の学校生活を過ごし。 そして、マルチと、ある少年の間に恋が芽生えるのであった。 愛娘の人格と最高級の並列型コンピュータとが創り出した「心」。 その心に芽生えた恋、そして愛。 だが、来栖川は企業としてマルチの心を認めないであろう。 長瀬には判っていた。 そして、結論はそれにも増して残酷だった。 来栖川は、マルチの人格の全消去を命じたのである。 マルチから。 研究所から。 そして、長瀬の記憶から。 下手な人格の形成は、後々になって問題を引き起こす。 心などという不安定な要因は、多大な損失を生む恐れがある。 商品に、心は要らぬ。 ゆえに、作った事、出来た事を忘れよ。 心が生まれた事自体を忘れよ。 全てを抹消せよ。 それが、企業の判断だった。 メインコンピュータに、マルチのシステムそのものが吸い込まれ、封印されて。 マルチの目の輝きが失われた。 マルチの体が動かなくなった。 マルチの心が消えてしまった。 長瀬の目の前で。 一瞬にして。 明るくてそそっかしくて愛らしかった娘は、木偶と化した。 あろうことか。 彼は、2度も娘を失ったのである。 マルチの心の存在。 それに関する全ての資料が破棄され、抹消された。 一部の高校生に残った記憶以外は、一切が闇に消された。 いずれは語られなくなり、そして忘れ去られる。 来栖川の研究所でもこの話は禁忌とされ、忘れられた。 月日は過ぎようとも、悲しみは癒えなかった。 そして。 それでも長瀬は忘れられなかった。 流した涙を杖にして。 長瀬は、少年のもとを訪れるのである。 とある公園にて、彼と出会った。 あの晩、娘が心から愛した少年を目の前に。 長瀬はひとつの問いだけを発した。 「ロボットにも、心があった方がいいんでしょうかねぇ…」 ただの問いに聞こえたかもしれない。 だが。 長瀬にとっては血の叫びであった。 魂の叫びであった。 もし少年が娘を認めなければ。 娘の人格を、心を認めなければ。 長瀬にはこの世に存在する理由が無くなる。 だから。 もし答えが「否」であったら。 長瀬はこの場で、娘の後を追う覚悟であった。 遠いまなざしに微笑みを添えて、少年が答をつむぎ出す。 「…あったほうがいいにきまってんだろ…」 ポケットの中の銃把。 長瀬の手のひらに堅く堅く握り締められていた、死神。 それが。 とさっと軽い音を立てて。 白衣の奥深くに沈んでいった。 ああ。 まだだ。 まだ諦める訳にはいかない。 最後の希望を前にして。 父親としてここで諦める訳にはいかない。 見よ、あの少年の笑顔を。 あの子を認めてくれる人が。 あとひとりだけ、ここにいるではないか…。 茜色の光。 夕暮れの訪れ。 数羽をきっかけに、鳩たちがばばばっと羽音を残して舞いあがる。 巣へと飛び去っていく群を見つめ、お互い声もなくたたずむ少年と長瀬。 やがて軽く会釈を残して。 少年はゆっくりと公園を去った。 少年が最後に見せたその表情。 それは、最後にマルチから読み出した記憶の中のそれであった。 悲しさを押し殺して、娘を見送ってくれたそれであった。 だから。 少年が立ち去っていくのを見つめながら。 長瀬はその後ろ姿に、深々と頭を下げるのであった。 数年後。 長瀬のもとへ、営業部の親友からただひとことだけ、連絡があった。 「発注が入った」 その時の喜びを、彼は一生忘れはすまい。 少年は、娘との約束を守ったのである。 地下のデータバンクにリンクされた端末からディスクが吐き出される。 最愛の娘。 誰からも忘れられた娘。 この一枚のDVDディスクが、長瀬の娘そのものであった。 あとは。 あの少年が、『今でも、これを受け入れられるかどうか』である。 長瀬はゆっくりと筆を取り、便箋に走らせた。 ことり。 月明かりに照らされた深夜のポスト。 夜目にも冴える朱色の箱に。 その小さな音は響いた。 封筒がポストの底を叩くかすかな音。 それが全ての始まりの音である事を。 長瀬は深く心に刻んだ。 マルチにとって、そして長瀬の娘にとって最大の試練が始まる。 ここに、賽は投げられたのであった。 〜・〜 お断りをすこし。 DVDは宅急便で届くように原作では書かれておりますが、この文では郵便での 配達となっております。 お気になさらないで下さい。 せつない郵便は赤ポストと自分なりに決まってますもので。 次回は志保のお話です。 お読み頂けまして ありがとうございます。 「てくら」