結末の果てに―優しさの結末_第二章―第二三話・優しさの対立……そして結末 投稿者:雪乃智波 投稿日:6月23日(土)20時35分
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結末の果てに
第二章
第二三話

						雪乃智波

 胸の痕はふさがらない。
 手で押さえても出血量が減るだけで、別に治癒の助けになるよう
なものでもない。いくら鬼の血を引いているとは言え、何もかもが
自由だという意味ではない。
 痕、そこからだらしなく流れ落ちているのは自分の血液だけでは
ない。柳川はなぜ死を選ばなくてはならなかったのか? なぜこれ
ほどに多くの人が命を失わなくてはいけなかったのか? 楓ちゃん
も、初音ちゃんも、すぐ傍にいた人々でさえ多く死んでいった……。
 それは怒りであったり、悲しみであったり、行き所のない色んな
感情の集まった訳の分からない黒いモノだった。それが血液と一緒
に胸から流れ落ちている。あふれだしている。
 ――逃げだしたい。
 切実にそう願った。逃げだせるものならとうに逃げだしていた。
鬼の血を引く能力者としての責任や、千鶴さんのことや、死んだ人
のことも、全部捨てて逃げだしたかった。
 結局のところこの柏木耕一という男が逃げないのは、もうどこに
も逃げ場がないから、ということ以外にはない。
 もしも上から来てる鬼たちがおりてきて――抵抗しないというの
ならお前だけは助けてやる――。と、言ってくれば、喜んで身を投
げ出していただろう。
 ……そうはならないから、戦う以外にない。

 本当にそうか?

 ――核が落ちてくるんだぞ。このままヨークを浮上させずにじっ
としているのが一番なんじゃないか? 柳川はヨークを浮上させな
いと殺せないと言っていた。だからこのままじっとしていれば少な
くとも自分は助かることができるんじゃないか?

 そして柳川の遺志は無駄になり、ヨークに対して核が有効である
ことを証明もできず、隆山は核の炎に包まれ、みんな、死ぬ。

 ――そうしなければ俺が死ぬ。

 そう、柳川も分かっていたはずだ。ヨークを浮上させ、核を直撃
させるとしたら、そのときヨークに乗り込んでいる人間も無事には
すまない。ヨークを過小評価するわけではない。核爆弾というもの
を正当に評価すればそういうことになるはずだ。
 そして問題はヨークを浮上させたところで隆山への被害を抑えら
れるのかどうか。そればっかりは分からない。
 無駄死にするか、生き残るか……。
 一瞬、死が、名誉ある選択に思えた。
 ――違う!
 英雄になりたいなどと思ったことはなかった。むしろ平凡に生き
ていきたいと望んでいたはずだ。
 それなのに……。
 いざ覚悟ができたつもりになると、がくがくと膝が揺れた。
「恐ぇ……恐ぇよ、千鶴さん」
 柳川の遺志を受け取ったとき、一度は覚悟を決めたはずだった。
分かっていた。分かっていて、決めたはずなのに、ここまで怯えて
いる自分が情けなくてしかたなかった。
「でも、こわいんだよ。チクショウ! ……ちくしょう」

 結局のところ、核爆発で死ぬというのはまだ楽かもしれない。全
ては一瞬で終わるだろうから。
 そう思うことで足を進めるしかなかった。
『死』は刻一刻と落ちてくる時刻を待っている。




 ――――

 空を見上げると、黄金色の蓋。
 死を意味する光。

 死は恐れるべきものだが、同時にそれはどこにでも転がっている。

 あのヨークの大群によって死ぬのと――。
 階段で転び、打ち所が悪くて死ぬのと――。
 誰かのために戦って死ぬのと――。
 全てから逃げ出してどこかで野垂れ死ぬのと――。

 何も変わりはしないのだと思った。

 ……でも、何時死ぬのか、ということはとても重要だ。

 だって一秒でも長く生きたいだろう?
 だって一瞬でも痛いのはいやだろう?

 命を捨てられるだけのなにか――。
 そんなものが本当にあるのだろうか?

 ――――




・優しさの対立……そして結末・

1.	終え行く者たち

 ――浅水和弥――

 靴が金属質の床の上で鳴いた。煙でも噴きそうなほどこすりつけ
て、体を後ろに躍らせる。首筋をかすめていくのは、明らかな死と
いう代名詞を持つ金属の刃。通常の生物が持ち得ぬ圧倒的な武器。
 引いて体勢を整えなおし、床に手をついて一瞬待つ。
 戦闘中に止まる、という矛盾した行為が焦りとなってぢりぢりと
全身を焼いた。その背中をかすめて、真空に近い空圧の刃が背後の
壁を裂く。びしゃ、と、ヨークの体液が背中を濡らした。
 床を蹴って左に跳ぶ、が、僕を狙って爪を振るったダリエリが返
す腕で空圧を放った。跳んだ姿勢のまま床を蹴る。しかしそうやっ
て完全に宙に浮いた僕には続くダリエリの攻撃を避ける手段が残さ
れていない。
 がつん! と、両腕に強い衝撃が走り、床に叩きつけられる。
「がぁぁぁぁっ!」
 後ろに転がるように起き上がり、思いっきり床を蹴飛ばして後ろ
に跳んだ。
「ぜぇっ、ぜぇっ、ぜぇっ」
 最大の計算違いは、電波がまったく通用しないことだった。確か
にエルクゥには電波の力に近い同調能力がある。しかしそれは回線
をオープンにする力で、クローズすることはできないと思っていた。
いや、実際にほとんどのエルクゥにはできない。ダリエリが特別な
のだ。
 このままじゃ倒すどころか足止めさえできない。
 反撃に転じるどころか、攻撃を受け流すだけでやっとなのだ。
 しかし記憶が正しければ、ダリエリのジロウエモンに対する固執
ぶりは、親の仇よりずっと深い。どんなことがあっても、ダリエリ
はジロウエモンを殺そうとするだろう。それこそ止めるには殺すし
かない。
 ――でもこのままじゃこっちがやられてしまう。
 それ自体はそれほど恐くもなんともなかったが、そのために耕一
さんに危険が迫るのであれば話は別だ。
「和弥君……」
 その声はまったく、完全に、唐突に、鼓膜を叩いた。
 声が喉から飛び出すより早く、ダリエリが咆哮を上げる。
「ジローエモンッッッッッッ!!」
 通路から現れた耕一さんは胸を抑えて苦しそうに歩いていた。ダ
リエリの攻撃を受けられるような状態じゃない。考える暇も、余裕
も無かった。ただ、足が床を蹴った。

 ――衝撃――。

「和弥君ッ!」

 ――間に合った。耕一さんは無事だ。青い顔でこちらを見ている。
その視線を追って胸を見下ろすと、五本の紅い棒が突き出ていた。
「違う……」
 耕一さんは完全に固まってしまっていた。目の前で起きたことが
理解できていないのか。この人らしくなかった。いや、それは僕の
持つ耕一さんのイメージで、本当のこの人はこういう感じなのかも
しれない。
「違う、これは死じゃないです」
 背中には串刺しのダリエリ。見なくても分かる。僕の胸を貫くの
と同時に、僕の背中にくっついてきたヨークの翼が無数の槍になっ
てダリエリを貫いている。翼。唯一の勝機。ただ背中からでないと
できなかった。
「僕も、ダリエリも、エルクゥには死はありません」
 言葉を紡いでいるつもりだったが、口からは血があふれていて、
ちゃんと言葉になっているか不安だった。
「早く気付いてください」
 意識が混濁していく。不安。今度は意識を保てないかもしれない。
「宇宙を駆けて来た獣は問題じゃない。人類が、優先的に、最優先
に殲すべきはヨーク、雨月山のヨーク、このただ一体」
 だから早くみんなに教えなくてはいけない。
「エルクゥなんてただの感覚器官に過ぎないんです。――すべての
本体はヨーク。――母なるレザムもエルクゥなんて種族も本当は存
在なんかしていない――」
「和弥君……」
 急激に意識の混濁が進行する。伝える言葉がまとまらない。いや、
言葉があっても喉がそれを発さない。声帯を震わす力が、もう足り
ていない。唇が震える。ただ、通じることを一心に祈る。
「僕は、僕は浅水和弥じゃ――ナイ。それはすでに死にま――た。
はやは、はは、ダリエリわすぐにさいせいしま……」
 それは白血球と同じだ。外側からの侵入者を自らの命と共に排除
し、そしてまたすぐに生産される。そして僕も……。
「かギが、はつねちゃん、デル、ヨークデル前に……」
 どっ、と、体が床に倒れた。もうもたない。
「和弥君ッ!」
 これ以上耕一さんをここに引き止めるのは無意味だった。一刻も
早く、でも耕一さんは僕を見捨ててはいけない。僕がここにあれば、
それだけで耕一さんを引きとめてしまう。たとえそれが死体でも…
…。
「……ヨーグ、モドシテクレ……」
 小さく、その呟きが終わった瞬間、床が蠢いて包み込み、そして
再び、今度こそなにもかもが消えた。


 ――月島拓也――

 両膝を抱えて、椅子の上に座っていた。
 もうどれくらいそうしていただろうか?
「――信じられないでしょう。信じられないと思います。でも私の
語ったことがすべて事実であることを、来栖川が保証します」
 もう何度見たとも知れない自分自身の語る映像が、奇妙に現実か
ら真実味を失わせているようだった。手の中のリモコンをかちかち
と弄ると、どこのチャンネルでも似たような内容だった。
 来栖川に何が?
 各局の見出しを平均したらそんなところだろう。時間は深夜帯だ
というのにどこからかき集めてきたのか、どこの局も知識人と呼ば
れている芸能人をコメンテーターとして使っている。
 マスコミ側とすればもともと格好のネタだったのかもしれない。
昨日、自衛隊の攻撃と同時に来栖川の財源が全て凍結されていた。
もちろん日本政府の意向だ。おそらく裏づけを取っていたマスコミ
が、来栖川の次女によるこの映像を放っておくはずがない。

 ――つまらない。

 本当につまらないと思ったのだ。テレビの中では私の語った内容
について信じる、信じないの意見が飛び交っている。

 ――そうじゃないでしょ? そういうことじゃないでしょう?

 鬼の脅威に加え、自衛隊の出動があり、東京には戒厳令が出され
た。誰もが怯え、家の中に閉じこもっている。その一方で警察も機
動隊も出動せず、一部の興奮した人々が町中を叫び、駆け回ってい
るという。
 わずか一日にして日常は崩れ去った。
 いや、以前から、鬼の出現が始まってからその傾向は始まってい
たのだろう。けど、誰もがそれを対岸の火事のように感じていたは
ずだ。
 ――飛び火したのだ。危険は誰の喉元にも迫っていたのだ。
 いまだ信じられない人は外に出て、空を見上げればいい。
 そこに蠢く星にあらぬ光はなんだ?
 恐怖は十分に人々の胸に届いた。だから次は希望だ。
 恐怖と戦うための光が必要なんだ。
 ――ふわ、と、軽い感触が肩にかかった。
「……セリオ」
「綾香様、もう少し暖かくしないとお風邪をひいてしまいます」
 肩からかけられた毛布を引寄せる。確かに深夜を回れば、少し肌
寒い。それに硬くなった体が少しほぐれたような気がした。
 なんにせよ、一人で考えすぎている。それは十分に理解している
つもりだ。
「ねぇ、セリオ、私うまくできたかな?」
「はい、綾香様は立派でした」
「なら良かった」
 ふぅ、と息を吐く。
 そして自分は安心したかったのだと気付いた。
「ありがとう、セリオ」
「いいえ、こちらこそありがとうございます。綾香様」
「お疲れ様だったね、綾香君」
 一礼をしたセリオの後ろに、月島拓也と、瑠璃子の姿が見えた。
「二人とも、お疲れ様、ありがとう。なんつかやれるだけのことは
できたわ」
「いいや、まだ足りない」
 月島拓也の唇がまるで邪悪なもののように歪められた。
「足りない?」
「そう、君の役目はここまでだ。来栖川綾香君」
 すぅと、背筋が冷たくなった。不安。これはなにを意味している
の? この人はなにを言っているの?
「なに? どういうこと?」
「和弥君からの伝言だ。『君は捨てなくていい』以上」
「どういう意味よッ!」
 和弥の名前に思わず声が大きくなっていた。なぜ、この男が数屋
からの伝言を預かっているというのか。和弥はどこかに行ってしま
った。それがどうして!?
「ここから先は汚れ役の出番だと言うことだよ。――結局のところ
人類も、地球というシステムの一部に過ぎない。システムは他のシ
ステムに侵食されようとすると自衛機構が働いて、異物を排除する。
いかに人類がその本能から遠くになろうとも、システム自体はそれ
を求める。君の演説は人類に異物排除の命令を起想させた。それで
十分だ」
「……ちゃんと分かるように説明しなさい!」
「その必要はないな。瑠璃子」
 月島瑠璃子は兄に応えて頷いた。
「ちょっと待ちなさいよ。二人とも、一体なにを!」
 しかし私の叫びを無視して二人の思念波、電波は東京タワーとい
う概念的な増幅装置を通じてセリオを構築する人工衛星ネットワー
クに流れ、二五の星から死角なく地上へと降り注いだ。

『アレは敵だ。敵だ。敵、敵、敵! 殺せ、排除しろ。壊せ、潰せ。
容赦なく、容赦なく、容赦なく、完膚なきまでに、跡形も残さず、
細胞の一欠けらもこの大地に残すな。武器を手に取れ。武器、武器、
武器、殺すための手段。殺。尖ったもの、鋭いもの、爆発し飛び出
す小さな塊、爆発するもの、壊、三重水素。結合と融解、毒を撒き
散らすもの。壊し、侵し、潰し、消滅させろ。違うものはハイジョ。
違うモノはハイジョ。チガウモノハハイジョ。形の違い、色の違い、
思想の違い、チガウモノは殺し、壊せ。殘すな、欠片も殘すな。見
上げろ兄弟達。くそまみれのケダモノがソコに、壊、壊、壊!!!』

 頭蓋の奥で爆発でもしたかのように広がる他者の思考が、あっと
いう間に自分の思考であったかのように拡散して、馴染んでいく。
 そう、エルクゥは人類と別物だ。恐ろしく危険で、排除すべき敵
……、それはその通りだ。しかし、しかしそれでも。
「違うッ!」
 左の拳を床に叩きつけると、鈍い音がした。小指の骨が折れた。
殴り方をまずったのだと、どこか冷静な声が告げてくる。
「違う、違うわよ。確かに人は協力してエルクゥを排除すべきだわ。
でも、こんなやり方は違う、違うんだから……」
 貫くような拳の痛みは脳に覚醒を与えてくれたが、それも一瞬の
ことだった。それを超えて圧倒する喪失が包み込んでくる。電波を
浴び、それに抵抗し、その上で叫びなどしたものだから、脳の過負
荷を招いたのだ。
 全身から力が抜けた。


 そしてこの事件における来栖川綾香の役目は終わった。


 ――柏木千鶴――

「姉上様……」
 そう呼びかけられて、私は足を止めた。
 私のことをそう呼ぶのは一人しかいないから。
「……エディフィル?」
 振り返ったそこにいたのは懐かしい姿の彼女だった。
 肩口まで伸びた髪、鋭い眼光、憂いを帯びた表情、忘れるわけが
ない。
「生きていたの?」
 ふるふるとエディフィルは首を横に振る。
「この肉体はヨークが私のエルクゥを元に再構築したにすぎません。
生きていたという表現は正しくありませんね」
「じゃあ、楓は……?」
「ここに、います……」
 エディフィルが自分の胸に手を当てた。
「喜ぶべきことと言うべきか、それとも悲しいことにと言うべきか
は分かりませんが、私たちは非常に深く同化していたので、エルク
ゥの復活に引きずられるように柏木楓の意識もここに残っています。
別個の意識としてではなく、統一体として、ですが……」
「それは、微妙ね……」
「姉上様も同様ではないですか……。もう過去の呼ばれ方に違和感
を感じることもないようです」
「……そうね、まったくそうね」
 言われてみればいつの間にかそうだった。リズエルの記憶はほぼ
回復し、彼女の意識は私の中に溶け込んでいる。それが、あまりに
も自然すぎて気がついていなかっただけだ。
「もう少し早く目覚めていれば良かった……」
 ぐっ、と、私を見るエディフィルの瞳に力が入る。
「気付いていればあるいは、次郎衛門ともう一度……」
 どくん、と、心臓が大きく打った。
「あ、……ご、ごめんなさい、私は……」
「いいえ、分かってはいるのです。所詮は敵わぬ願い。どんなに想
い焦がれようともこの身の幻なれば、姉上様のように人として愛さ
れるほうがどれほど良いか……」
「エディフィル、ごめんなさい。あの、昔のことも……」
「いえ、むしろ私こそ申し訳ありませんでした。結局姉上様方にも
ご迷惑をおかけいたしました」
「そんなことないのよっ! ……そんなことない」
「……そんなことより姉上様」
 エディフィルがぐるりとあたりを見回す。
「もう、あまり時間が残されていませんね……」
「そうね、初音がいなければ、どうしようもないわ」
「それは問題ありません。リネットは必ずここに来ます。それより
も姉上様に話しておかなくてはいけないことがあるのです。――お
そらくはすでに疑問に感じておられるとは思いますが……」
 疑問、そう、気がついていて目を逸らしていた。
「……エディフィル、なぜ貴方は復活しているの?」
「……はい、私も人づてに知ったことはでありますが、まず私たち
エルクゥとヨークの関係から、全てを話さなくてはなりません――」

 ――――

 本当のことを言うと、もうずっと前から違和感は感じていた。
 なぜ、私たちは五百年の時を経て、再び生を受けたのか。
 エルクゥの概念に輪廻転生は無い。
 死は、死で、それは私たちが喰らうものだ。
 私たちは死を啜って生きる。そうやって喰われるのに、なぜまだ
生きているのか?
 そしてなぜエディフィルは昔の姿でここにいるのか……。

 ――本当のことを言うと、私は父も母も知らない。
 ただ、漠然とそれがいるように思っていただけだ。
 ――思っていただけだ。

 ――――

 全てを語り終え、エディフィルは私の言葉を待った。
「つまり――、私たちはエルクゥなどという種族ではなく、ヨーク
が生命を摂取するために作り出した働きアリのような存在なの
ね?」
「はい、そういうことになります。働きアリと違うのは、私たちの
生命はあくまでヨークの伴にあるということです。私たちはヨーク
の一部分なのです。
 ですから、エルクゥさえ戻ればすぐに再生することもできますし
――」
「ヨークが死ねば、私たちも死ぬということね」
 エディフィルが頷いた。


2.	引き継ぐ者たち

 ――長瀬祐介――

「祐介君」
 その、とても懐かしいと感じる声で呼びかけられたとき、これほ
ど誰かを頼りに感じたことがあっただろうか?
「耕一さん!」
 振り返る前に叫んでいた。そしてそこには傷ついた耕一さんがい
た。全身に浴びた返り血と、そして胸からの出血。
「もうここに辿り着いていたんですね! 良かった!」
「ああ、なんとかね。……それは……初音ちゃんか……」
「そうなんです。初音ちゃん、生きてたんですよ!」
「そうか、良かった……」
 不意に感じた違和感はなんだったのか? 僕には耕一さんが本心
から嬉しがっているようには思えなかった。
「祐介君、時間が無い。初音ちゃんは俺が守るから、君は早く脱出
するんだ」
「脱出って、耕一さんはどうするんですか?」
「俺も後から脱出するよ。けれどまだ用事が残っているんだ」
「それじゃ、初音ちゃんはこのまま僕が連れて行きます。今の耕一
さんより、僕のほうがいくらかマシだと思います」
「それはダメなんだ」
 違和感が確信に変わる。耕一さんは僕に嘘をついている。しかし
どうして? そして何を?
「何がダメなんですか?」
「時間が無いんだ。初音ちゃんを渡してくれ」
「……イヤ、です」
「祐介君!」
「話してください。何を僕に隠しているんですか?」
「何も隠しちゃいないよ。……いや、正直に言おうか。祐介君に初
音ちゃんを任せるのは心配なんだ」
「……それじゃ、一緒に行きます。僕だって今の耕一さんをそのま
まにしていけない」
「ダメだ……」
「それじゃあ、本当のことを話してください。耕一さんはなにかを
隠してる。それを話してくれないと初音ちゃんは渡せません!」
「祐介君……」
 耕一さんが胸の傷に手を当てた。
「状況をせ……」
「時間が無いんだ!」
 ぞくんっ、と、背筋が凍りついた。分かる。これが人間の動物と
しての本能なのか、それとも僕の電波の力がそうさせるのか。耕一
さんの放つ殺気が僕の体を凍りつかせている。
 そしてそれと同時に理解もした。
「耕一さん、死ぬ気ですね。そして初音ちゃんも死ななくてはいけ
ないんですね?」
 殺気の揺らぎが、言葉より先に肯定を伝えてきた。
「それは、僕は認めません」
 ちり、と、音がした。
「何がどうなってるのか僕は全然分からない。分からないけど、み
すみす死にに行こうという人をそのままにはしておけないです」
「そうしないと、もっと多くの人が死ぬことになるかもしれないん
だ!」
「多くの命のために、目の前の小さな命を犠牲にしようとは思わな
い! そんなことをすれば僕は、僕は……」
 そう、僕は消えてしまう。
 ぢりぢりと電波が焦げた臭いを放つ。僕にしか感じられない知覚。
耕一さんは知っているが、気付くことはできない。できるのは推測
することだけ。
 しかしその一方で、耕一さんはその気になれば知覚するより早く、
僕を殺すことができるだろう。状況はお互いに銃を眉間にぶつけ合
っているようなものだ。
 先に引き金を引いたほうが有利だが、リスクが高すぎる。
「なら……」
 さらに気温が数度下がった。首元に当てられた刃の温度を感じて
いるようだ。
「君を殺して、初音ちゃんを連れて行く」
 それは宣言だった。そしてその覚悟はあまりにも悲しすぎる。
「小さな命を庇いながら歩くことを諦めてしまったんですね。それ
ともそれは僕が見えてないからそう感じるだけですか?」
「いいや、多分、話し合いでは解決しないことがあるという、ただ
それだけのことなんだろう」
「それが諦めていることなんだとどうして分からないんですか
ッ!」
「こうやって無駄話をしている間に世界が滅びたらなんの意味もな
いんだ! 分かるだろ。生き残って初めて全て意味があるんだ。そ
の意味を一つでも多く残したい……」
「無駄話なんかじゃないっ!」
 我慢なら無かった。
 電波なんてクソ食らえだ。
 僕は初音ちゃんを背負ったまま、耕一さんに殴りかかった。
 ぺちん、と、情けない音がした。
 それでも拳と手首が折れたんじゃないかと思うほど痛かった。
「生きるって事は、自分であるってことだ! だからここで僕が折
れたら、僕は死んでしまう!」
 僕に殴られるまま、耕一さんは悲しそうな瞳で僕を見下ろしてい
た。そして次に出てきた言葉はびっくりするほど優しい声で紡がれ
た。
「馬鹿を言うなよ。祐介君。まず大事なのは命があることなんだ。
生きてることなんだ。主義主張のために死ぬくらいなら、尻尾を振
ってでも生き残るんだ。生きろ、生きてくれ、お願いだ」
「じゃあ、なぜ、耕一さんは!」
「言ったら、初音ちゃんを渡して、逃げてくれるか?」
「それは卑怯です。話してください」
「…………」
「…………」
「…………分かった」
 根負けしたのは耕一さんのほうだった。
「まずここに核爆弾が降って来る。それまでにヨークを浮上させて、
このヨークで受け止める。そして、多分、このヨークが堕ちたら、
今、地上にいる鬼の全てが死ぬ。もしかしたら俺も、初音ちゃんも、
鬼の血を引くもの全てが死ぬ」
「どうして……と、聞いても分かりそうにないですね……」
「じゃあ、初音ちゃんを」
「分かりました。けど、僕は逃げません」
「どうして!?」
「諦めたくないからです。耕一さんの話し振りだと、鬼が死ぬこと
も、耕一さんたちが死ぬことも確信が無いみたいに思えます。そう
したら、みんなで助かる道も残されているかもしれないじゃないで
すか」
「でも、祐介君は今すぐ逃げたら助かるんだ」
「分かります。けど、一人でも多いほうが皆で助かる確率は上がる
かもしれないじゃないですか」
 ぐ、っと耕一さんの手が僕から初音ちゃんを取り上げた。抵抗な
どしようもなかった。
「祐介君、たとえヨークで核爆弾を受け止められたとしても隆山へ
及ぼす被害は相当なものになるだろう。隆山にはまだ残っている人
たちがいる。千鶴さんと梓はもうヨークの中にいるようだけど、他
の仲間はまだこちらには来ていない」
「……耕一さん、変わりましたね」
「ああ、今日一日でどれだけのことがあったか、もう思い出せない
ぐらいだ。後一時間少々。電波の力で無理をしないと間に合わない
ぞ」
「別にまたすぐ病院に逆戻りって言われても、もう慣れっこになっ
てしまいましたよ」
「よし、行ってくれ」
「見舞いの時はバナナだけじゃなくて、林檎もお願いしますね」
「特上品を持っていくよ」
 最後に初音ちゃんを抱いた耕一さんの姿を目に焼き付ける。そし
て僕は電波の力で自らの脚力の限界を開放させると、世界記録に迫
る速さで走り始めた。

 ――核落下まで残り一時間。


 ――来栖川綾香――

「嫌われてしまったかな……」
 月島拓也は憮然とした表情で、うつ伏せに倒れた来栖川綾香の体
を壁にもたれさせた。
 役目を終えたのは彼も同様だった。
 実際のところ彼が放った電波にどれほどの効果があるかは不明だ。
これほど近距離で浴びた綾香が耐え切ったように、効果を受けない
人も多くいることだろう。そのために綾香に演説させ、人々の心に
エルクゥに対する敵対心を予め植え付けさせておく必要があったの
だ。
「……正しいことをしたんだよ。間違っているかもしれないけれど」
「それは矛盾しているな。瑠璃子」
「……そうなのかな?」
「理想的なのは人々が自らの意思で立ち上がり、外敵を排除するこ
とだったんだ。でも……」
「無理だと思ったんだね? 賭けてみようとも思わなかった?」
「瑠璃子、お前はどうするのが一番正しかったと思う?」
「そうだね。――みんなで仲良くできたら一番良かったよ」
 そう言って月島瑠璃子は、月の見えない空を見上げた。
 まったくなんて素晴らしい可能性だろう。それがたとえ幻の光で
も――。
 月島拓也は笑った。
 そしてその体がぐらりと揺れたかと思うと、その場に崩れ落ちる。
「お兄ちゃん……」
 月島瑠璃子が床に座り、兄の頭を膝に乗せた。
「ああ、疲れたようだ。少し眠るよ……」
 こくりと瑠璃子が頷いた。そして月島拓也は目を閉じた。

 底の知れない深い、深い闇が彼を包み込んだ。
 二度と光を見ることの叶わない深い、深い闇の中へ――。

 回線は、切れた。


 ――柏木梓――

 ヨークの中は暗く、狭い。
 もうどれほどその中を歩いたのか、梓はすでに時間の感覚を失い
つつあった。
「誰も、いないね……」
 ――まあね。出てきても同じエルクゥ同士だ。戦う必要も無いだ
ろうね。
 アズエルの言葉は梓には理解できないものであった。少なくとも
これまで多くのエルクゥと闘い、滅ぼしてきたではないか。
「向こうが襲ってくるかもしれないじゃないか」
 しかしアズエルの返答はどこまでものんびりとしていた。
 ――うーん、十中八、九それはないんじゃないかな。外にいたエ
ルクゥはみな様子がおかしかったけど、もうその原因も無くなった
みたいだし。
「じゃあ、このまま……? かおりの敵討ちは……」
 ――思うに、もう終わってるんじゃないかな?
「どういうこと?」
 ――かおりちゃんは誰かに操られていたわけだろ? おそらくは
あたしたちに襲い掛かってきたエルクゥも同じように操られていた
と思う。けれどそれが止んだ、ということは、操っていた誰かが倒
されたか……。
「単にやめただけかも……」
 ――まあね、でもそれはおかしくない? かおりちゃんにしろ、
他のエルクゥにしろ、明らかにあたしらを殺す気だったよね。だっ
たらこのヨークの中は格好の狩場なんじゃないかな? これだけ狭
い通路で退路を絶たれたらどうしようもないしょ? まあ、殺すの
を諦めただけかも知れないけど。
「う、ううーん、そうなったらあたしはなんでここにいるんだろ?」
 ――さあ? どちらにしろ、落ち着いてきたんじゃないか? そ
れだけでも良しとすべきだね。
 アズエルの言葉に、梓は自分がかおりを殺したことでどれほど逆
上していたかを思い出した。あの時は自分の命などどうでもいいと
さえ感じていた。
 しかし落ち着いてみると、それはそれで度を越えていたような気
がする。確かにかおりのことは許せないし、今でも絶対に仇を討ち
たいとは思っている。
 しかし、別な疑問がそれを覆い隠し始めてもいた。
「そう、かもね……。ねぇ、ところでどうして耕一はこんなところ
にいたんだろ?」
 ――それか? いろいろ考えられるんじゃないか? ほら、空に
いっぱいの光が現れたじゃないか。あれはヨークだ。ここと同じモ
ノ。あれだけの数なら、この星はやばいんじゃないかと思うケドね。
「な、なによそれーーっ!」
 ――大方、空のヨークと連絡を取ってどうにかしようと考えたん
じゃないかな? 姉様らしいけど、同時に無駄だとあたしは思うよ。
まー、ヨークの翼でかっとばしゃ、いくらか時間稼ぎにはなると思
うケド。
「ヨークの翼?」
 ――ああ、ヨークってのは星を渡る生物だけど、いくら寿命が長
いたって限界があるんだよ。そうなのに、どうやって星を渡るとい
うんだい?
 アズエルの言葉は梓にとってはまったく訳の分からない話だった
が、なんとなく言いたいことは理解できた。
「ええと、つまり、いわゆるワープってやつ?」
 ――君らの言葉を借りればそういうことになるかな。まあ、ヨー
クの存在次元がどうたらとかややこしい話があるみたいだけど、あ
たしは説明できない。瞬間長距離移動だと思えば間違いないよ。
 ――で、本来集団で移動する性質のあるヨークは、移動後ばらば
らにならないために互いに同期を取って移動する。だからこのヨー
クを浮上させて他のヨークと同期を取って飛べることまでかっとば
しゃいいんだ。一回飛ぶと、かなりの時間は光よりは早く移動でき
ないってエディフィルが言ってたよーな気がする。
「う、ううーん、よーはそうすれば、上のヨークがみんないなくな
るわけ、かな?」
 ――一時凌ぎに過ぎないだろうけどね。当然、姉様だって気がつ
いてるだろうさ。なんなら直接聞いてみたらいい。
「そういや、あたしどこに向かってんだっけ?」
 ――すぐに分かる。もうそこだ。

 そしてその通りだった。
 二分も歩かなかっただろう。通路を抜けたその先の広くなった部
屋の中には見知った顔が二つもあったのだから。
「千鶴姉に、――楓?」
「あ、梓?」
 千鶴が呆然と梓を見つめた。エディフィルが現れたことで十分驚
いたが、梓のままで現れた梓にもっと驚いたのだろう。
「あなた、生きていたの?」
「あ、うん。耕一にもそんな言い方されたけど、どういうこと?」
「どういうことも、なにも、あなた死んだって……」
 そこまで言って千鶴は言葉を止めた。
 よくよく考えてみれば初音だって死んでいない。自分が見たのは
あくまで梓と刻印されたプレートに入った臓器のようなものだけだ。
それが果たして梓が死んだという証拠になるかといわれて見れば心
許無い。
「いいえ、なんでもないわ。生きていたのならそれでいいの。それ
でいいのよ」
「アズ姉様、お久しぶりです」
「え? あ、うん。久しぶりだね。楓……だよね?」
「はい。楓です。良かった。梓姉さんはまだ、なんですね」
「まだ? 何が?」
 エディフィルがちらりと千鶴に目配せして、千鶴はそれに頷き返
した。梓にはなんのことか分からない。
「分離、できるのね?」
「――はい、そんなに難しくはないはずです」
「な、なに? なに? なんのこと?」
「梓、あなた、なんだか変な記憶とかないかしら? それかもう一人
のあなたが、あなたの中にいるとか……」
「あ、ああ、なんかアズエルとか言うのがあたしの中にいるみたい
なんだけど……」
「そう、梓、アズエルと換わってくれる?」
「え、そう言われても、できるかな? ――デキルさ」
 語尾はすでにアズエルのものだった。少し口調がおかしいのは肉
体がまだ馴染んでいないからだろう。梓の肉体はアズエルに合わせ
て変化をはじめていたが、まだ追いついていない。
「そう、アズエル。まだ梓と同化してはいなかったのね」
「別にスルものデモナイと思ったんダヨ。こればっかりは本人が望
まないとネ」
「そう、それなら都合がいいわ。エディフィル、お願い」
「――はい」
 すっと、エディフィルがアズエルの頭に手を伸ばした。そしてエ
ディフィルの手と、アズエルの額がぽうっと鈍い光を放ち、エディ
フィルがアズエルの光を強引に掴むと、地面に叩きつけた。
「ヨーク、再構築を命じます」
 ぼこりとヨークが脈打った。そしてゆっくりと競りあがり、それ
は一人の女性の形に成る。
「アズエル、意識はある?」
 千鶴が新しく生まれた女性の方に問うた。すると生まれたばかり
の女性の肉体がそれに答えた。
「う、うん、安定はしていないが、なんとかなったようだよ。なん
だ、こんなこともできたんだ。バカみたいじゃないか」
 そして千鶴が梓に、梓に戻りつつある肉体に向き直る。
「……梓」
「うん、大丈夫。分かるよ」
「そう、結構、うまく行くものね。理解するということは偉大だわ」
「姉上様……」
「ええ、気がついてるわ。エディフィル、できるのね?」
「はい、間違いなく」
「なによ、あたしにも分かるように説明しなさいよ」
 しかし千鶴もエディフィルもアズエルも同じ方向を見たまま答え
ない。梓もつられるようにそちらを見て絶句した。
「こ、耕一……」
 そこには耕一がいた。梓がやってきたのとはまた違う通路から、
血だらけで初音を背負った耕一がいた。
「よ、なんだ、みんな揃ってたのか。エディフィルにアズエルも…
…、あれ、なんか変だな。なんで梓とアズエルが別々になってんだ?」
「理由を説明すると、ずいぶんややこしいと思うので止めておきま
すね。そういうこともできるんだって思っててください。お疲れ様
です。耕一さん」
「ああ、千鶴さんもお疲れ様。なんかやっとって感じだよな」
「そうですね。初音をこちらへ」
 千鶴に案内されるがままに耕一は初音を玉座の一つに座らせた。
「エディフィル?」
「はい」
 そしてエディフィルが初音の後ろに立った。
「さあ、これで準備はできたわけですね」
「千鶴さん、核のことは知って……?」
「はい、夕月さんに聞きました。ヨークを浮上させて受け止める気
ですね?」
「か、かかか、核ゥ!? ななななによそれっ!」
「……あら、梓は知らなかったのね」
 千鶴が苦笑を見せる。
「ちょ、ちょっと待ってよ。核ってあれでしょ? 核爆弾でしょ?」
「そうよ。それがここに落ちてくるの。だから私たちはヨークを浮
上させてこのヨークを殲すのよ」
「えっ? えっ? えっ? そのヨークの翼とかで上のをどこかに
飛ばしちゃうんじゃ?」
「それがね……、翼はすでに失われてしまったのよ」
「ある女性が故意にヨークの端末の一人に移植させてしまったよう
なんです。残念ながら……跳躍は不可能です」
「それからアズエル、あなたを梓から切り離した理由、分かる?」
「まぁ、だいたいね。どうせろくな理由じゃないっしょ?」
「まあね、そういうことよ。だから……耕一さん、梓をよろしくお
願いします」
 その儚い笑みに耕一はなんと答えれば良かったのか……。
「な、なんだよ、それは」
「ヨークが死ねば、エルクゥが死ぬ。それはつまり私の中のリズエ
ルの死でもあるんです。人は本来エルクゥの無い生き物ですから、
エルクゥが死んでもなんの問題もありません。しかし、私や楓のよ
うに意識の同化が進むと、片方の意識に与えられた死のイメージは
もう一方の意識も殺すことになるでしょう」
「それは俺も同じだろ!?」
「気がついていたんですね、でも違います」
 エディフィルが首を振った。
「――違います。耕一さんの中に次郎衛門はすでにいない。耕一さ
んの中に残っているのは単純にエルクゥとしての力だけ。エルクゥ
が死んでも、その死の意識に捕らわれ、引きずられることはありま
せん」
「そう、そしてそれは梓、あなたも同じ。エルクゥを引き離した今、
肉体的な遺伝因子による力は残るでしょうけど、それもヨークが死
ぬまで――。あなたたち二人はもう人間としての因子のほうが強く
なっているの、だから――」
「初音はっ!?」
「初音は――すでに死んでいるわ。単にヨークが肉体を生存させて
いるだけ。だからヨークの死は初音の死に直結する――」
「そんなっ!」
「いいんだ――。だいたいこんなところだろうとは思っていたよ。
あたしだってバカじゃない」
 アズエルが梓の肩に手を置いた。
「……あたしたちは長い時間は過ぎたけど、こうやって再び四人で
再開できただけで十分なんだよ」
「それにね、梓。私はもう十分耕一さんに愛を貰ったわ。――五百
年前にはエディフィルと、リネットが……、悲しい結末はいくつも
あったけれど、次はあなたの番でいいのよ」
「あ――アズエルは、もう一人のあたしはどうなるんだっ!?」
「だからいいんだよ。アズサ。君から貰った姉妹で過ごした日々の
記憶……、あたしにはこれで十分すぎる、むしろいくら感謝しても
したりないくらいさ」
「アズエル……」
 梓の声が止まった。もうどうしてもこの人たちを止められない。
いや、そもそも止めに来たわけじゃない。ただ、自分だけが生き残
ることに躊躇を感じているだけだ。
「千鶴さん……」
「耕一さん……」
「千鶴さんは本当にそれでいいのか?」
「本当は嫌ですよ」
 千鶴はけろりと答えてみせる。
「だってみすみす耕一さんを梓に譲るなんて、梓をここに残しても、
耕一さんと脱出したいというのが私の本音です」
「か、亀姉……」
 唖然と梓が呟いた。
「場が台無しじゃないか……」
「でも、たとえ梓を身代わりに脱出しても、ヨークが死んだらそこ
で私はいなくなるわけじゃないですか。だったら殺しても死にそう
に無い、一番頑丈そうな梓を耕一さんの傍につけておけば、私とし
ては安心してここに残れるわけです。
 さ、だから早く行ってください。もうヨークは起動していますか
ら、急がないと浮上する前に脱出できませんよ?」
「千鶴さんっ!」
 耕一が千鶴を両手で抱きしめた。そしてその頬に手を当てる。
 しかし千鶴の手が耕一の胸を押し返した。ぐっと握られた胸が痛
い。
「ダメですよ。耕一さん。未練が残っちゃいます。さ、早く……。
じゃないと、私がここで耕一さんを殺したくなっちゃうかも知れま
せんよ」
 千鶴がぺろっと舌を出して笑った。
 そうして同時に、ぐん、と、殺気が部屋に満ちた。誰もが千鶴の
本気を理解する。
 ぎり、と、耕一の歯が鳴った。
「行くぞ、梓。もう三十分も残されてない」
「ちょ、ちょっと待ってよ、耕一、アンタ!」
「来るんだ、梓!」
 無駄死にすることは許されない。多くの命の上に今、生き残って
いるのだから。
 その決意の表情の意味は梓には分からなかったが、今の耕一に有
無を言えないことだけは理解できた。
「千鶴姉、楓、初音……あたしは……」
「ありがとう。梓。もう一度四人で生きられて良かった……」
「――私もそうです」
「二人とも……、アズエル」
「あー、だから気にすることないって。あたしも姉様も、エディフ
ィルも、リズエルもみんな本当は五百年前に死んでるんだから、今
生きてるのは幸運なんだよ。だからいつ終わっても不思議じゃない
だろ?」
「でも千鶴姉は……」
「ここで私に同情してこの先に耕一さんの助けになれなかったりし
たら、それこそ死んでからも恨むわよ、あずさ」
 梓が大きく息を吸った。そして少し止めて、やがて大きく吐き出
した。
「千鶴姉も、楓も、初音も、……またねっ!」
 叫んで梓が走り出す。
「千鶴さん、ありがとう。……エディフィル、楓ちゃんも……」
「はい、耕一さん、本当に梓をよろしくお願いしますね」
「ああ、約束するよ」
「耕一さん……」
「エディフィル……」
「私は幸せでした。ありがとう……」
「俺もだ。そして次郎衛門もそう思ってたはずだよ」
「はい……」
「さ、それじゃ行くよ。梓に追いつけなくなっちまう」
「それでは、お気をつけて」
「お気をつけて」
 二人の声を背に耕一は走り出した。
 おそらくはそんなに遠くない夜明けに向かって。

       ☆★☆

「それじゃあ始めましょうか、エディフィル」
「はい、でも、姉上様、なぜ耕一さんと一緒に行かれなかったので
すか? ここは私一人でも大丈夫です。最後まで耕一さんと一緒に
いたかったのでは?」
「……そうね、でも最後は笑ってさよならしたかったのよ。耕一さ
んの前で息絶えたら、また傷つけてしまうでしょ?」
「それでも耕一さんは最後まで姉上様と一緒にいたかったのではな
いでしょうか?」
「違うよ。エディフィル」
「アズ姉様?」
「姉様はあの娘のためにそうしたんだよ。耕一君が姉様のために泣
くところとか見たらそこに付けいろうなんてなかなか考えられない
じゃないか。まったく素直じゃないんだから」
「私だったら付け入りますけど」
 千鶴が舌を出して笑った。
「梓はそんな風にできる子じゃないですものね」
「そんなこと言って、本当は悔しいだけだけっしょ?」
「…………」
 ぷぅ、と頬を膨らませた千鶴がアズエルを睨む。それを見て微笑
んだエディフィルが初音の肩に手を置いた。
「それじゃあ始めますね。姉様方」

       ☆★☆

 ずん、と、地の底から突き上げるような衝撃が隆山全体を襲った。
 ある者は立っていられず地面に転がり、ある者は何かにしがみつ
いて難を逃れた。戦車の中では固定してある砲弾ががたがたと揺れ、
搭乗員が冷や汗をかいた。幸い車両等がひっくり返るほどの揺れで
はなかった。
「何事だ、地震か!?」
 断続的に揺れは続いている。震度にすれば3か、4か……、幸い
建物が倒壊するには至っていないし、倒壊したとしてもこの周囲に
人がいないことは確認済みだ。
「ち、違います。師団長、雨月山がっ!」
 隊員の一人が雨月山を指差した。
 自衛隊第一師団、師団長がその方向に視線をやって絶句した。
 雨月山から足が生えた。と、表現すればいいのだろうか? 隆山
を囲う山々の一つにしか過ぎないはずの雨月山の二合目あたりから
まるで噴水でも吹き出したかのように「何か」が天に向かって伸び、
そして地面に突き立った。
 それが次々と目に見える範囲で十本以上。
 その姿は山そのものが立ち上がろうかと踏ん張っているように見
える。そしてそれは想像の域を越えて現実であった。
「あれが陸尉から連絡のあった……」
 第一師団に飽和した恐慌は一瞬の間に人間の生存本能に火をつけ
た。
 視界の右から白煙を噴いた対戦車ロケットが「足」の脇を抜け、
山肌――すでに山かどうかは疑わしいが――に突き刺さって爆発す
ると、後は攻撃本能がすべてを支配した。
 轟音と爆発。
 もはや足元の振動が「何か」によるものなのか、攻撃によるもの
なのかが分からない。
「止めよ、撃ち方止めーっ!」
 師団長の叫びは誰の耳にも届かない。
 ただただ恐慌がその場を支配する。
「師団長! 本部より連絡ですっ!」
 轟音の中、声を張り上げた通信士からヘッドセットを受け取る。
「こちらっ、第一師団っ、山野辺ですっ!」
「――命令を通達する、今すぐ転進し、雨月山より距離を取れ」
「しかしっ、例のあれがっ」
「――こちらでも確認している。それよりも、だ。中国の所有して
いる核弾頭がそちらに照準を合わせていることが分かった。衛星に
偽装した型で、慣性落下で目標に到達する。迎撃は不可能だ」
「核!?」
「分かったな。今すぐ転進せよ。こちらでも最善の策を探している」
「りょ、了解しました!」
 ヘッドセットを通信士に返すと、不安そうな目で師団長を見上げ
た。
「全隊に通達せよ。転進する!」
「し、しかし、この状況では……」
「とにかく通達するんだ! 通信してダメなら直接人を向かわせ
ろ! いいなっ!」
「了解!」
 指令車から正面を見ると、無数のロケット弾が雨月山に向かって
降り注いでいる。その向こうでは何事もないかのように、徐々に雨
月山が持ち上がる。山肌が崩れ落ち、分厚い土砂に隠されていたそ
の正体が少しずつ露になっていく。
 大きな土砂が崩れ落ちるたびに足元が揺れた。
 雨月山の笠が開いた……。

       ☆★☆

「これは逃げ切れないな」
 車のバックミラーをちらりと見つめ、立川が呟く。
「そんな簡単に諦めないでくださいよ」
「動カナイデクダサイ」
 聖羅が、急に腰を起こした祐介を無理やり車のシートに座らせ、
足の治療を続ける。電波の力でリミッターを解除し走りつづけた祐
介の足は真っ赤に腫れ、もう電波の力を借りても動かなくなってい
た。
「…………」
「物凄い魔力特性か、そうなんだろうな。そもそもあれだけの質量
の下で五百年以上生存しつづけていたんだ。人類の常識でアレの生
命を測ること自体が愚かかもしれない」
「…………」
「それでも肉無しにはフィジカルなステージに干渉を及ぼすことは
難しいか……。そうだな、攻撃し、破壊することに十分な意味はあ
るだろう」
 バックミラーの中では、山肌を振り払いそれが姿を現しつつある。
「祐介君、核まで後何分だった?」
「後、二十分です……」
「くっ、隆山の地理は駄目なんだ。雨月山から直線で離れていく大
きな道があれば……」
 時速150キロを越えて走りつづければ20分で50キロは移動
できる。核相手に心許無い距離ではあるが、ヨークが上空で受け止
めてくれるというのなら……。
「立川さん、次の信号を左へ」
「セリオ!?」
 これまでずっと休止状態だったセリオが、いつのまにか目を見開
いていた。時速100キロ超まで加速していた車が急速に減速して、
十字路を左へ曲がる。
「二つ目の信号を右、そのまま直進すれば国道に出ます」
「そうか、助かった」
「…………」
「セリオ?」
「また、休止モードに入ったみたいです。……僕も寝ますね。薬が
回ってきたみたいだ」
「ああ、ぐっすり眠っててくれ」
 車がセリオの指示通りに二つ目の信号を右に曲がる。確かに道幅
が大きくなっていた。
「……逃げ切れるか?」
 立川が強くアクセルを踏み込む。ふと芹香が振り返って祐介が眠
っていることを確認した。
「…………」
「ああ、そうだ、芹香、そうだとも。祐介君の足はもう……」
 自然とハンドルを握る手に力が入る。
「だから絶対に生き残らなくてはならないんだ」
 芹香がしっかりと頷いた。

       ☆★☆

 轟音と振動が世界を埋め尽くしていた。
 崩れ続ける足元の中、オリンピック選手の全力疾走を遥かに越え
る速さで走り続けられるのは、単純に鬼の力だった。
「これが、ヨークかよ」
 思わずつぶやいて、舌を噛みそうになる。
「こーいちっ、あそこっ!」
 梓の叫びの意味はすぐに分かる。100メートルほど先で地面が
なくなっている。その向こうは崩れていない山肌、しかし高さはす
でに10メートルを越えていて、さらに高くなろうとしている。
「跳ぶぞ、あずさっ!」
「うんっ」
 数秒で100メートルを駆け抜け、前に跳ぶ。そこそこの距離を
跳ばなくては山肌の崩落に巻き込まれるからだ。
 ずん、と、足が地面の衝撃を伝え、しっかりした地面に立てるこ
とに心から安堵する。
「まだだよ、耕一!」
「わぁってるっ!」
 残り時間は10分程度、核から逃げるとしたら海に飛び込むぐら
いしか思いつかない。確か水は放射線を吸収するとか物理関係のテ
レビで見たような気がする。それがどれくらい効果があるのかは分
からないが、やるだけやってみるしかない。
「海は、海はどっちだ?」
「こっちだよ、耕一!」
 空が明るくなり始めていたことが幸いした。それで方角を知るこ
とができたのだろう。土地鑑のある梓が先導して走り出す。
「間に合うかっ?」
「黙って走れ、バカッ」
 走っている間に何度か振り返った。
 そしてその度に息を呑んで、転びそうになるのをこらえなくては
ならなかった。
 山肌をふるい落とし現れたそれは、あえて言うならばクラゲによ
く似ていた。山ほどもある大きい笠が、正真正銘、山だったのだ。
 笠に守られた球体が本体、と、言っていいのだろうか? そして
そこから数十本の足が伸びていて、体を持ち上げている。
「あれが飛ぶのかよ」
 口の中で呟いてすぐに、ヨークの笠がぐっと伸びて開いた。足が
曲がり、沈み込む。
 そしてヨークが地面を蹴った。
 思わず身構えたが、それほど衝撃は来なかった。実際のところ、
前動作にどれほどの意味があったのかと思うほどの軽快さでヨーク
は空に飛んだ。
 笠がクラゲが泳ぐときのように、空気を掻き分けていたが、それ
だけで飛べるとも思えないし、ヨークの動きはその重さを感じさせ
ない。
「軽いんだって、あれ」
 走りながら梓が叫ぶ。
「見た目的に重そうだけど、あの大きさで、あれだけの硬度を持っ
ていて、それで風船並に軽いって……」
 多分、アズエルの知識が残っているのだろう。俺自身に次郎衛門
の知識が残っているように。
「そんなんじゃ核を受け止められないんじゃ……」
「あの足、よく見て。あ、でも立ち止まるんじゃないよ」
 梓に言われるようにヨークの足に注意してみる。するとその足は
まるでヨークを持ち上げるように空中で踏ん張っている。
「仕組みを説明しろったってできはしないけど、あれは楔なんだよ。
どこにでも打ち込んで、固定することができるって」
「まったく、次郎衛門もリネットからそういう話も聞いてくれてり
ゃ良かったんだ」
「言っても仕方ないよ。ほらもうすぐ海だ」
 正面に森の切れ目が見えてきた。その向こうに絶壁があることが
分かる。
「ああ、ぎりぎり間に合ったか……」
 ぞくり、と、背中を冷たい汗が滑り落ちた。足が、止まる。
「どうしたんだ、耕一!!」
「先に行け、梓!」
「何を言って……」
 足を止めた梓が、こちらに向かって歩いてくる。
「バカ、行けっ!」
 時計を確認すると、タイムリミットまで数分も残されていなかっ
た。柳川がどれだけ正確な時間を言ったかというと、かなり適当だ
ったはずだ。だから……間に合うかもしれない。
「耕一、どうし――」
 声をかけてきた梓の手を掴む。そして全力で海に向かって放り投
げた。
「きゃ、ぁぁぁぁぁっ!」
 空に放り投げられた梓の体は、踏ん張りようもなく絶壁の向こう
の消える。
 そしてそれからあの絶壁のすぐそばが海かどうかを確かめていな
かったことに気がついた。
 まあ、梓なら無事だろう。
 そして森の中に視線を走らせる。
 違和感を感じたのはどれくらい前だったか? 一秒? 二秒か?
 振り返り、周囲を意識して、ゆっくり走り出す。
 そして200メートルも戻った辺りで、それを見つけた。
「おいっ!」
 声をかけると、それは飛び上がって走り出した。
 まだ小学生くらいの少年だ……。
 隆山がああなってしまったときに逃げ延びてきたのか……。
「待て、待ってくれ!」
 正直、鬼の脚力と人の子供の脚力では差がありすぎた。わずか数
秒で子供を捕まえる。
「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 腕を掴まれて少年はあらん限りの声で叫んだ。
「大丈夫だ。俺は、人間だ!」
「ぁぁ…………」
 少年の声が止む。怯えた瞳でこちらを見上げている。
 ――良かった……。
 そう思ったのと同時に、体が固まった。
 空が、軋んでいる……。
 咄嗟に梓にしたように少年を放り投げようとして、この少年の肉
体では耐え切れないことに気がついた。海までは少年を抱えて走っ
てそのまま海に飛び込むのか? 同じことだ。少年の体が高さに耐
えられるかどうかは分からない……。
「お、おじちゃん?」
 よほど険しい顔をしていたのだろう。少年が呟く。
「大丈夫だ。大丈夫だぞ」
 なんとか笑顔を作る。
「大きな爆弾が降ってくるんだ。穴を掘るからそこに隠れよう。絶
対に大丈夫だ」
 意味は分かっているのだろうか? 少年は小さく頷いた。
 ぐ、っと拳を握り締める。
 全力で地面に拳を叩きつける、と、なんとか窪みのようなものが
できた。
 じりじりと空から背中に痛い何かが降り注いでくる感じがする。
これが人間の本能なのか、エルクゥの本能なのかは分からない。
 少年を無理やり窪みの中に押し込むと、なんとかすっぽりと入る
ことができた。その上から覆い被さる。
 そう、ヨークの肉体が核にいくらか耐えられるというのなら、こ
の体だって同じことのはずだ。だから……。
 肉体を鬼に変え、硬く、硬くなるように意識する。
 もしかしたらものすごく無駄なことをしているのかもしれない。
けれど……。
 ふと、視界の端に突き刺すような光が生じた……。
 夜明け、か……?

       ☆★☆

 海中に勢いよく沈み、思わず浮き上がろうとしたときに、海が震
えた。上だと思っていた方向の海が光り輝いたかと思うと、白濁す
る。急に水温が上がって、熱量が海面を舐めていることを理解して、
ぞっとする。
 意識的に鬼の力を解放して、さらに深く沈むことにするが、5メ
ートルも沈めばそこは海底だった。
 ――大丈夫、大丈夫だ。
 白濁して沸騰している海面はずっと上だし、それも表層だけでこ
こはまったく熱くない。
 それよりも耕一がどうなったのかが不安だった。
 なんであそこで急に立ち止まる必要があったのだろうか?
 何のためにあの場所に残ろうとしたのだろうか?
 しばらく考えて、自分のバカらしさに気付く。
 ――決まってるじゃないか。誰かがいたんだ。
 だからその人を助けようとして……。

 こうやって海底に立っていると、あの時のことをどうしても思い
出す。
 幼い日、あたしが無くした靴を取りに川に入った耕一が浮き上が
れなくなったとき……。あの時、耕一はこんな風に海面を見上げて
いたのだろうか?

 こんな寂しいところに一人で……。

 急に意識が遠くなった。そしてそれと同時に体が浮力を取り戻す。
 とっさに鬼の力を解放しなおして、海底に戻ろうとするがうまく
行かない。
 唐突に理解する。

 ――ああ、そうか、ヨークが死んだんだ。

 いつのまにか海面はいつもの平穏さを取り戻しているようだった。

       ☆★☆

 海岸まで泳いで、砂地に立った。
 その光景をなんと表現すればいいのか……。

 焼け野原……。

 実際のところはそんなに酷くは無かったのだろう。森の木々は焼
けていたが、吹き飛ばされたわけではなかったし、立っている建物
も残っている。

 ふらふらと耕一があたしを投げ飛ばした辺りを目指して歩き始め
た。

       ☆★☆

 すっかり森はその光景を変え、そこら中から煙を上げていた。
 目印になるようなものなどなにもない。ただ、感覚だけに頼って
耕一を探す。
 鬼の超感覚を失った今、なにもかもが心もとない。
 そんな時、耳になにか小さな声が聞こえた。
「耕一!?」
 そう叫んでから、それが子供の泣き声であることに気付く。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁーーん」
 その小さな鳴き声を頼りに行くと、森の中に小さな塚のようなも
のがあって、その下から鳴き声は聞こえていた。
「だれ……?」
 塚を掘り返すと下から小さく縮こまった少年が顔を出す。少年は
あたしに気付くと、穴を飛び出してきて、あたしに抱きつき、そし
ていっそう大きな声を上げて泣き始めた。
「うわぁぁぁぁぁぁん、おじちゃんが、おじちゃんが」
 少年は足元の塚を指差して泣き叫ぶ。
「おじちゃん……?」
 少年を抱いたまま、その塚に手を伸ばす。そして唐突に気がつい
た。
 ――これ、塚なんかじゃない。
 救いを求めるように辺りを見回す。
 いるのはあたしに救いを求める少年が一人。
 そして雨月山の跡には、まるで空を指差すような、もうまるで動
かないヨークが突き立っていた。

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 あとがき

 お、終わりまひた。
 長かった。ただ、長かったとしか言いようがありません。
 語りたいことは文面中になんとか出し尽くせたと思います。うま
く伝わってくれればいいのですが……。

 さて、作者があんまり口を出してもなんですね。

 それでは――
 長い間お付き合いしていただいた読者の方に心からの感謝を。


 ここから下は本編とはそんなに関係がないおまけだと思ってくだ
さい。エピローグの無い作品だったので、ちょっと補完までに。
//////////

 綾香が待ち合わせの場所に指定してきたのは、街の中心街から少
し離れたところにある居酒屋だった。
 急作りの建物のまま、建て替えの機会も無かったような店で、プ
レハブで天井には青いビニールシートがかぶせてある。それでもま
あ、平均から見たら少しいいくらいなんだろう。普段は街の一番安
全な辺りで暮らしているからか、感覚が麻痺しているのかもしれな
い。
 忘れているつもりは無かったが、これが現実なのだ。

 布をのれん代わりにしただけの、扉も無い入り口をくぐると、内
装は割合しっかいしているようだった。清潔とは言いがたいが、ち
ゃんと居酒屋に見える。
 そして奥の厨房にはいかにも店の主人といった30代後半の男が
店で出す料理の下ごしらえをしているようだった。
「おう、姉ちゃん、わりぃな、まだ開店前だ」
「来栖川綾香さんと待ち合わせなの。待たせてもらっていいかな?」
「ああ、なんだ、もう奥の座敷で待ってるよ」

「――久しぶり」
「ホント、久しぶりね」
 綾香は何年経っても変わらない笑みを見せる。
 ただ昔と違うのは、その背中の向こうで壁に立てかけられた銃く
らいのものだ。
「アキラ君はどう? もうずいぶん大きくなったでしょ?」
「うん、もう15。本当に世話が焼けるったらありゃしない」
「静音ちゃんは?」
「元気にしてるよ。しかしなにからなにまで世話になって……」
「あはは、気にすること無いって。旦那さんは、相変わらず?」
「そう、全然変わらない。子供ができたらちょっとは変わるかなと、
思ってたんだけどね。あたしが甘かったわ。――綾香は結婚しない
のかい?」
「なに? アンタ、見合いの話でも持ってきてくれたわけ?」
 悪戯っぽい笑みに、あたしは少し苦笑で返す。
「違うよ。そんなんじゃなくてさ。いつまでも銃持って走り回って
るわけにもいかないでしょ? 一応、女なんだし」
「無理無理、ずいぶん前に捨てちゃったからね。女ってのは……」
「――まだ、待ってるわけ?」
 綾香が目を逸らした。
「――悪い、かな?」
「まあ、あたしだってあんまりアレな事は言えないけどさ。あんま
り待たれても、困るんじゃない? 和弥君」
「あはは、怒るかもね。でも、きっと嬉しいはずだし。帰ってきた
ときに誰かが待ってないと辛いでしょ?」
「別に独身で待ってる必要はないと思うけどね。迎えてやるって心
を忘れてなきゃいいんじゃないのかい?」
「まあま、私の好きにさせてよ。まだいつだって男の一人や二人引
っ掛けられるし、焦ることないって」
「綾香なら後十年は大丈夫だね」
「そ? ありがと」
 笑いながら、綾香はあんまり嬉しそうじゃなかった。
「祐介君はどうしてるの?」
 話題を逸らすために、昔の名前を出してみる。
「あー、彼ね。たいしたものよ」
「へぇ、電波の力の話は最近聞かないけど」
「違うの、それが。彼ね、もともと才能あったんだわ」
「なんの?」
「――爆弾作り」
「ばくだんんーっ!?」
「そ、芸術的なまでの出来栄えよ。核に頼らずヨークを倒せるよう
になったのは彼の功績が大きいの。ヨークに命中すると内部に侵入
してどかーん。あの硬い肉をえぐり進ませるようにするのが大変だ
ったのよ」
「はぁぁ、意外なもんだね」
「そんなことないわよ。彼、必死だったもの」
「そっか、瑠璃子ちゃんか」
「車椅子生活で彼女支えて生きていくには、どんなことでもやらな
きゃいけなかった。それが思わぬ方向で実を結んだ。とても罪作り
なことをさせてるとは思うけど、仕方ないわ。私たちも彼が必要な
のよ」
「セリオは? 相変わらずべったり?」
「んー、それがね、アレ以来、なんだか変なのよね。確かにあの作
戦の時に来栖川の人工衛星は全滅したから、個別のソフトウェアに
頼らなくてはならない以上、前と同じ、というわけにはいかないで
しょうけど……」
「……? 具体的にはなにがあったんだい?」
「すごく人間っぽかったのよ。それで辞めちゃった」
「辞めたーっ!? HMが自分の意思で!?」
「そう、だから変なのよねー。あ、そうそう、ところでうちの姉さ
んは元気かしら?」
「芹香さん? 相変わらずだよ。燈華ちゃんも元気だし」
「……燈華ちゃん……?」
「へ? 芹香さんの娘さんじゃないか。もう2歳になるけど」
「ちょっと、それ、あたし聞いてないわよ。なに、なんなの?」
「……連絡取ってない綾香が悪いよ。今度、顔を出しに行ったら?」
「うーん、そうするわ。でも、ちょっと苦手なのよね。あそこの雰
囲気」
「それは分かる気がするわ……。それで、今日呼び出したのはこん
な話をするためかい?」
 びくっと綾香の体が震えた。飲みかけたカクテルのグラスをテー
ブルに下ろす。
「はぁ、そうよね。あんまり言い出したくなかったのよ」
「あたしのことなら気にすることないよ」
「そう、じゃ、この話はとりあえず内密にお願いするわ」
「もちろん」
「……八年前、人類の対空核爆の網の目を抜けて地球に落下したヨ
ークは千弱と言われているわ。そしてそのうち六割が地上に落下し、
残り四割が海中に沈んだ。人類はこれまでに百強のヨークを倒した。
正確な数は分からないけどね」
「ええ、その辺は新聞も読んでるし」
「先月のことなんだけど、韓国からの輸送船が忽然と姿を消した。
半年くらい前からアメリカから輸送船の消滅は多数報告されてるわ。
言っておくけど、ちゃんと武装した船よ。そしてこれが先週届いた
捜索隊の撮影した写真」
 綾香がテーブルの上に数枚の写真を広げた。
「飛行機からだね。黒い影がたくさん映ってる。なるほど、そうい
うことかい」
「あなたの言葉を聞きたいのよ。この影はなに?」
「間違いないよ。エルクゥだね。海中に落ちたヨークは環境に適応
したエルクゥを生み出したんだ」
「と、なると、各地で漁港の水揚量が減少してるのもそういうこと
になるのかしら?」
「そうだね、ヨークは生存するために命を吸い上げなくてはいけな
い。海性のエルクゥが獲物を狩るとしたら魚なんだろうね。馬鹿げ
た話だよ、まったく」
「魚の数が減ったから輸送船を襲ったのかしら? それともより大
きな命の炎に引かれたのかしら?」
「それはどちらとも言えないね。間違いないのは、あたしらの敵は
地上のヨークだけじゃなくなっちまったってことだよ」
「海底のヨークをやっつける方法なんて考えたこともないわけよ。
はぁ、憂鬱だわ。ありがと、梓。確信が欲しかっただけなの。出向
いてもらってごめんね」
「いや、実を言うとさ。あたしも綾香に頼みたいことがあるんだ」
「……なに?」
「アキラをさ。預かってくれないか?」
「――は?」
「いや、ね。あたしも旦那もちょいと過保護じゃない。それで綾香
のところで鍛えてもらおうと思って」
「ちょっと待った。私のところって意味分かって言ってる?」
「分かってるよ。だから言ってるんだ」
「アンタって、もしかしてアキラ君のこと恨んでるわけ?」
「……そんなんじゃないよ。ただね、ここに住んでる人間として、
あんまり来栖川姉妹に頼ってばっかりじゃ申し訳ない。ってアキラ
が言うんだよ。それでどうせ戦場に出すことになるなら、その前に
綾香んところで鍛えてもらおうと思ったの」
「アンタって、ホントーに過保護なのね」
「そうよ、悪い?」
「いや、別にね。そっか、分かった、いいよ。今度連れといで。た
だし私は厳しいわよ」
 綾香はやっぱりいつも通りの笑みでそう言った。
「さ、それじゃ行くわ。私の住所知ってるわよね? アキラ君には
そこに来るように言っといて。事前連絡は要らないわ。――ただし、
アンタがついてきちゃダメだからね」
「あ、やっぱり?」
「もしも、やっぱり手放したくなくなったらいつでも連絡ちょうだ
い。ここの勘定、融通利くから好きに食べていって。私のオゴリ」
「そう? お持ち帰りしていい?」
「晩御飯、手抜きにする気ね。好きにしなさいよ。まったく」
「ありがと、綾香」
「うん、こちらこそありがと。じゃあね」
「ああ、じゃあね」
 綾香は銃を手にとって、まるで学校の友達にするかのように別れ
の言葉を口にした。それが闘いの場に身を置く彼女にとって、最後
の挨拶になるかもしれないことを、これっぽっちも感じさせない笑
みで。
 とりあえず四人家族分の品を包んでもらうことにしよう。
 あんまり考えてても仕方がない。
 なるときには、なるようにしかならないんだから。
「ねー、おじさん、これとこれをねー」




 プレハブの店を出ると、陽が傾き始め、世界を朱に染めていた。
 今日は終わる。
 今日は終わるけど、明日はまたやってくる。
 きっとアキラは喜ぶだろう。
 あの子は喜んで闘いの場に出向いていくに違いない。

 それはきっと誰かを守れるという確信があるから。
 耕一から受け継いだ想いを持っているから。

 でもあたしと、旦那は、どうしようもなく悲しくなるに違いない。
 本当の子でなくとも、ずっとそのつもりで育ててきた。
 家族を失うのは本当にイヤだ。あたしはもう誰も失いたくない。

 でもアキラは必ず望む。
 誰かのために戦うことを。
 それは何がどうとか、理屈はそんなにない。
 ただ自分より先に、誰かの命が奪われることに耐えられないだけ
だ。けどね、アキラ、誰かの命より先にあなたの命がなくなってし
まわないか、あたしは心配でならないんだよ。

 陽は沈む。
 きっと静音は淋しがっているだろう。
 早く帰ってこの戦利品を見せてあげないと。

 あたしは夕日に向かって走り出した。




 ――やがてこの綾香の元に預けられる少年が人類とヨークとの闘
いに決着をつけることになるのだが、それはまた別のお話――。

			Fin

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