結末の果てに―優しさの結末_第二章―第二二話・身の危険を顧みず他人の不幸を望むその理由と覚悟・ 投稿者:雪乃智波 投稿日:5月27日(日)14時46分
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結末の果てに
第二章
第二二話

						雪乃智波

 夕刻。

 ――とにかく時間が残されていなかった。

 よく電車の時間に遅れかけているときになどに感じるのではない
だろうか? 時間はぎりぎりで、まだ家にいる。着替えを済まさな
ければならないのに、いつもなら簡単に留まるボタンが妙に堅い。
焦りがさらに手元を狂わせて、それがさらに焦りと苛立ちを生む。
それは電車に乗り遅れるかもしれないという不確定な未来に向けて
一分一秒を争う不安だ。
 もう少しゆっくりしても間に合うかもしれない。逆に今からどん
なに急いでも間に合わないかもしれない。しかしその電車に乗って
行く先が大事な商談の場だとしたら? 一年かけて勉強してきた大
事な試験だとしたら? できることは最大限急ぐことだけだ。
 つまり未来が不確定である以上、人はその場において最大限の努
力をするしかない。たとえその上で事が失敗しても、である。少な
くともそうすればやるだけはやったのだと自分を慰めることもでき
るだろう。
 僕の背中の後ろではゆっくりと夕日が沈んでいた。それを意識す
る時間さえ惜しい。
 ちりちりと脳を焼く焦燥をぐっと押さえつけながら、小さくなる
少女の背中が消えるのを見守った。泣いている……。ふいに自分の
瞳も潤んでいることに気がついて、服の袖でそれをぬぐった。
 その背中はすぐに見えなくなる。これが最後だったのかもしれな
い。
 その思いは一瞬迷いを生んだ。しかしすぐにその思いさえも焦り
の前にかき消されてしまう。
 時間が惜しい。


・身の危険を顧みず他人の不幸を望むその理由と覚悟・


 ――
   月島拓也の場合
          ――

 瑠璃子は笑っていた。
 いつだって笑っていた。
 僕達は二人だけだったから、二人で居るときはいつも笑っていら
れた。
 僕達二人以外は必要なかった。
 ただ瑠璃子が居ればよかった。
 その瑠璃子は今目の前で笑っている。
 望むものはそれだけだ。それだけを望んでいたはずだ。
 瑠璃子がいれば、笑っていてくれればそれでいい、と。
 そう思っていたはずだ。
 思っていたはずなのに…。
 瑠璃子。
 瑠璃子、瑠璃子、瑠璃子、瑠璃子、瑠璃子、瑠璃子、瑠璃子、瑠
璃子、るりこ、るりこ、るりこ、るりこ、るりこ、ルリコ、ルリコ、
ルリコ、ルリコ、ルリコ、ルリコ、ルリコ、ルリコ、ルリコ、ルリ
コ、ルリコ、ルリコ、ルリコ、ルリコ、ルリコ、ルリコ、ルリコ、
ルリコ、ルリコ、ルリコ、ルリコ、ルリコ、ルリコ、ルリコ、ルリ
コ、ルリコ、ルリコ、ルリコ、ルリコ、ルリコ!!!!
 恐ろしく胸を突く衝動は、柔らかな平和を求めたりはしていない。

 何故、物足りないッ!
 何が物足りないんだッ!?

 だがそれに気付くことはできない。なぜなら、その衝動は目の前
の平和とあまりにもかけ離れているからだ。

 目の前で瑠璃子が笑っている。

 その時、その衝動は指先まで駆け抜けて、一つの行動とともに現
出した。

 瑠璃子ッ!

 僕は瑠璃子の体を掻き抱いた。
「お兄ちゃん?」
 瑠璃子の顔は見えないのに、瑠璃子が笑っているのが分かった。
微笑んでいる。何も知らずに微笑んでいるのだ。
 僕の体はもはや、僕の意識とは別に動いていた。瑠璃子の肩に回
されていた右手が、肩とは別の柔らかな膨らみに触れて、それをぎ
ゅっと掴んだ。
「……っ!」
 それほど強く掴んだつもりは無かったのに、瑠璃子の体がびくり
と硬直した。一瞬、逃げようとした瑠璃子の体を僕は左手で捕まえ
る。
「瑠璃子、愛しているよ」
 いつもと同じフレーズが妙に淫靡な響きでもって頭蓋骨に反響し
た。
「瑠璃子、愛しているよ」
 もう一度呟いて、僕は確信する。僕は、もはや一人の女性として
瑠璃子を愛しているのだということに。そしてまた、この世界には
僕たち二人しかいないのだということにも。

 ――楽しいですか? こんな所に逃げ込むのは…。

 不意に脳裏を駆け巡る雑音、不安を掻き立てる不協和音の響き。
男と女と獣の声だ。ベッドの軋む音だ。
 嫌だ。聞きたくない。
 脳裏に甦るのはベッドの上で瑠璃子とともに耳を塞いだ現実。
 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、いやだ、
いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いや
だ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、
いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いや
だ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、
いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、もうこんなのはいやだ
ッ!

 僕は一体、何を恐れているというのか?

 僕は一体、何から逃げているというのか?

 僕は一体、何を忘れてしまっているのか?

 ――本当に許せなかったのは……、

 両親がいなくなってしまってから、ボクとルリコだけになってし
まった。ボクとルリコはいつも一緒だった。ルリコはまだ小さかっ
たから、お兄ちゃんのボクがしっかりしないといけなかった。
 だから叔父さんの家で、あの怖い声と音が聞こえていたときも、
ボクもすごく怖かったけど、ルリコを抱きしめてじっとしていた。
ボクはルリコを守ったんだ!
 ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ボクはルリコを守りつづけた。
 いつでもどんな時も、ルリコがコワイ目に合わないように気をつ
けてきた。
 ルリコはボクのとても大事な妹だったから……。
 けれど、ルリコが中学生になってしばらくしてから、ボクは知っ
た。

 ――いつの間にか、少しずつ女に変化していく妹の姿だった。

 そして僕は、妹がもはや僕だけの大切な妹というだけではなく、
他の男の目を引くこともあるだろう女に変わりつつあることを知っ
たのだった……。

 知ったのだった……だと、知ったのだっただと!

 僕は何を言っている!
 僕は何をしたのか知っている!
 自分が許されざるべき罪を犯したのだと!

 僕は唯の女に変わっていく瑠璃子が許せなかったのだ。

 違う、それも言い訳だッ!

 そうだ、認めろ。
 僕は、女に変わっていく瑠璃子に情欲を覚えたのだ。
 そしてまるで獣のように、それを満たしたのだ。
 瑠璃子を汚したのだ!
 守ると誓った瑠璃子を。
 大切な僕の妹を!
 まるで自分のモノのように思っていた! 思っていたんだッ!
 チクショウ! チクショウ! チクショウ! チクショウ!

 無残だった。
 とてつもなく情けなかった。
 なによりも、誰よりも自分自身が許せなかった。これまで他人の
所為にして、逃げつづけていた自分自身が……。
 ごめん、瑠璃子……。
 今さら取り返しがつかないことなど分かっていた。瑠璃子の微笑
みは戻らないだろう。瑠璃子は僕を許さないだろう。
 けれど、そう、だからこそ、僕はもう一度誓いたい。誓うんだ。
 今度こそ、瑠璃子を守るんだ。

 世界が暗転した。

 ――ところがそう簡単にはいかないんです。

 不意に冷たい感覚が、じわりと体の中に生まれる。僕はこの感覚
を知っていた。誰かの思考を直接浴びせられるこの感覚は……。
 止めろッ!

 ――瑠璃子さんを守ると言いましたね。

 それが、どうしたというんだ。お前は瑠璃子を知っているのかっ!
 叫び返す思考と、そして冷静に自分を捕らえる思考。相手はどこ
までこちらを読み取っているというのか、この電波の力で……。

 ――貴方は瑠璃子さんが自ら危険に飛び込もうとしたらどうしま
すか?

 なんだ? なにを言ってるんだ?

 ――答えてください。

 言葉に容赦は無かった。もしも答えなければ、どうにでもできる
という雰囲気があった。そして事実それはそうなのだろう。この電
波は冷たく容赦が無い。

 ――瑠璃子さんが、命を捨ててでも成し遂げたいことがあるとし
た時、貴方はどうしますか?

 そんなこと!
 そんなこと、そして言葉が止まる。僕はどうするだろうか? し
かし、答えが出なくなった。以前の僕なら、間違いなく電波の力を
使って瑠璃子を止めていただろう。瑠璃子を守らなければいけない
のだから。しかし、それで瑠璃子が幸せだろうか? でも、死んで
しまっては幸せは無いのだ。それだけは間違いない。

 ――貴方は黙って突っ立っていることしかできませんか?

 違う! 違う! 違う! 違う!
 違うことは分かるのに、答えが言葉にならない。
 だって、卑怯じゃないか、瑠璃子が何をしようとしているのか分
からないのに! そうなのに答えが出てくるはずが無い!

 ――知りたいですか? 絶望するかもしれませんよ。

 もったいぶらないで教えろ!

 世界が光に包まれた。否、ここはどこかのビルの屋上だ。眼下に
は、これは東京か? 人工の光に埋もれた夜の街が一望できる。し
かし、見慣れぬ異常があった。空だ。空が、光っている。雲が地上
の光を反射して光っているわけではない。月が出ているわけでもな
い。まるで光の海だ。満天の星空? いや、違った。星はあんなに
不規則に動いたりしない。まるで無数の蛍が飛び回っているようだ。
不規則に、しかし何らかの法則に従って動いている。地上を流れる
車のテールランプとは質の異なる、それは不気味な光だった。

 ――僕の視覚を直接見せています。

 光、あの光はなんだって言うんだ。

 ――――――。

 侵入してきた声が、黙ったのだと気づくのには少し時間がかかっ
た。

 ――ひとつ、貴方の考えを否定しておきますね。

 なんだと?

 ――瑠璃子さんのことです。

 ……!
 言葉に詰まった。急に喉が渇いてきた。なんだ、この感覚は。こ
の男は何を知っていて、何を僕に教えようとしているんだ? 禍々
しい予感。しかし、それは男の発する言葉から感じたものではなか
った……。

「…………」

 ……!!
 不意に視界に瑠璃子が現れた。あの日から変わらぬ表情で僕を見
上げている。ああ、すまない瑠璃子、ごめん、瑠璃子、ごめん、ご
めん……。

「もう……」

 瑠璃子の瞳から一筋の雫が流れ落ちた。

「もういいんだよ、お兄ちゃん」

 それは、どう言う意味なんだ……。
 そう、問おうとしたが言葉が出なかった。
 それはそうだ。この映像や、聴覚は全てこの男からもたらされて
いるものなのだ。現実では瑠璃子が語りかけているのは僕ではない
し、顔を見ているのも、傍にいるのも僕ではないのだ!

 ――瑠璃子さんは、全てを許すと言ってくれてるんです。

 そんなことは分かってるっ!
 分かってるけど認めたくなかっただけだ。そんな安易に自分を許
したくなかっただけだ。……けど、本当に許してくれるのか、瑠璃
子……。

「もちろんだよ……」

 ほんの少し、ほんの少し、瑠璃子が笑った気がした。あの日以来
変わらなかった瑠璃子の表情にわずかな微笑が浮かんだ気がした。
それはもちろん僕の願望だったのかもしれないけれど、とてつもな
く暖かい何かが胸の奥から湧き出てきて、あっという間に体を満た
し、膨れ上がっていく。これは、この感情はなんだ? こんな感情
を僕は知らない。

「喜び、だよ……」

 僕は、僕は、僕の頬が濡れていることに気がついた。
 優しい雫が、暖かい雫が今、流れ落ちているのだと、知った。



 ――
   柳川裕也の場合
          ――

 不意に耳元に聞こえる声がある。
 記憶は定かではないが、多分二時間もののテレビドラマかなにか
のワンシーンだ。ピストルを片手に一人の男が女を羽交い絞めにし
ていて、それを止めようと探偵役の役者が言うのだ。
「復讐は何も生まない」
 陳腐な台詞だ。一体どれほどの脚本家が、どれだけの役者にこの
言葉を言わせてきたことだろう。
 復讐が生むのは、結局新しい悲しみだけと伝えたいらしい。そん
なことは刑事をやっている俺自身が誰よりもよく知っている。
 犯罪を三種に分類するとすれば、強盗や強姦などのように自らの
欲求を満たすための犯罪と、認識不足から起こる故意でない犯罪、
そして恨みのために正義を掲げて他者に危害を加える犯罪だ。一番
性質が悪いのは最後のひとつで、時には世論が味方し、犯罪が犯罪
でなくなることさえある。
 ただし復讐者を検挙するとき思うことがある。この人があの犯罪
者を殺したおかげで助かった人がいたのではないかと。たとえ犯人
がすでに刑期を終え、出所した後であったとしても、その人が再び
犯罪に手を染める確率は一般の人がそうなる確率よりずっと高い。
復讐者は時として自らの手を罪に染めても、新たな被害者を増やさ
ずに事件を終わらせる人なのではないか。とさえ思うこともあった。
 もちろんこれらの感情は刑事にはあるまじきものだ。
 長瀬さんには何度か酒の席でこういうことを話したこともあった
ように思う。確かその度にあの人は、
「柳川、お前がそう思うのは自由だがな。しかし善行だと思って人
を殺す人間がどれだけ危険かは分かっておけ」
 そう言い、その度に俺ははっとして口をつぐまねばならなかった。
それからいつも同じことを付け足した。
「あの人たちは愛する人が殺害されて、いつしかそれを許してしま
いそうになる自分が許せなかったんだろうさ」
 いつも聞き流していた言葉が、今は深く耳に響く。
 そうだ、自分自身を許してしまうことが一番恐いのかもしれない。

「どうしたの、大丈夫?」
 声をかけられて、俺はヨークの内壁に身を預けていたことを思い
出した。
 ここはヨークの内部で、俺たちは鬼を呼び寄せる最終段階に入っ
ているのだ。そう、できるだけ鬼どもはこの地に集めなければなら
ない。
「大丈夫だ。あいつはどうだった?」
「阿部君? 今のところ変化無しだわ。こればっかりは時間と本人
の戦いね」
「そうだな、詰まらんことを聞いたようだ。夕月……」
「なに?」
「俺は愚かな男だと思うか?」
「そうね。ずいぶん勝手な人だとは思うわ」
 夕月の気配がわずかに揺らいだ。“鍵”と同調するためだ。
 ずいぶん前から覚醒していたエルクゥの血を引く夕月はこれまで
何一つ文句という文句もなしに俺に付いてきてくれた。初めて出会
ったのは施設でのことだ。エルクゥとの同調率が高く、多くの記憶
を残していた彼女の知識によって過去にエルクゥが祖国へ向け救難
信号を発したこと、時期的に見て今後百年以内に救難舞台が到着す
ることを知った俺は、地上の鬼を一掃するだけではすまないことを
初めて知った。
 鬼は全て殺す。
 その誓いは一年半も前、あの地獄より意識を取り戻したときから
揺らいだことはない。
 しかし予想される大艦隊を相手に人類が戦いきれるかというと、
そうは思えなかった。事実、鬼に振り回された俺一人に警察は翻弄
されっぱなしだった。
 人類はその戦い相手を認識する前に狩り尽くされる。
 それが俺の出した答えだった。
 ならば、無理やりにでも変えてやればいい。
 俺は夕月と共謀して施設を事実上乗っ取り、エルクゥを受け継ぐ
ものを強制的に鬼に変化させ、街に放った。また、エルクゥに同調
し、共感を起こさせる波を見つけ、それを街に流した。
 時間と犠牲は多く必要だったが日本政府は鬼の脅威を認識し、警
察と自衛隊に対策班が作られた。また意図的に海外に流した情報に
より、半信半疑ながら各国で鬼、またはオーガに対抗するための手
段が問われている。
 後数年あれば準備は整うかと思われた。そう、後数年あればよか
った。しかしエルクゥの大艦隊の侵攻は日本国内で多くのエルクゥ
が解き放たれたことによって加速され、今、この直上に達しようと
している。
 ならば少しでも時間稼ぎをしなくてはならないだろう。
「準備できたわ」
「そうか……。ならば予定通りに始めるとするか」
 柳川はポケットから携帯電話を取り出すと、メモリからある番号
を呼び出して、通話ボタンを押した。数秒のラグを必要としたが、
衛星電話はまだ通じている。
「予定通りだ」
 それだけを伝え、電話を切る。
「どこまで通用するかな?」
「不安?」
「まあな。それに全てが片付くわけじゃない」
「たくさん巻き添えにしたこと、後悔してるんじゃないの?」
「今更なにを。俺は俺のやりたいようにやっただけだ」
「最後なのに、貴方は変わらないのね」
「無駄口を叩く暇があれば、さっさと行け。あいつが来る前に。俺
には時間稼ぎしかできんだろう」
「ここが貴方の死ぬところなの?」
「そうでないことを祈りたいな」
「誰に?」
「自分自身以外に誰がいる?」



 ――
   来栖川綾香の場合
           ――

「東京タワーですって?」
 ハンドルをぐっと握り締めたままで、正面を見つめる。速度計は
すでに180キロを越えていて、一般的な乗用車でしかないこの車
――勝手に隆山で徴用したもの――の限界速度に近づいており、車
体がぎしぎしと嫌な音を立てていた。
 いつもなら渋滞しているはずの首都高も、この時間、そしてこの
状況下ではがらがらだった。冷めたアスファルトに焼けたタイヤが
悲鳴を上げながら押し付けられる。たまに追い越す車のヘッドライ
トがバックミラーの奥にすぅと消えていく。
 一瞬の判断ミスが命取りになる。と、同時に一瞬遅れることが、
世界の破滅に繋がるかもしれない。
 マスコミに情報を渡して公開してもらい、施設でのことを来栖川
が一手に責任を負う。そういう覚悟をしたのはいいものの、どこに
行ってどうすればいいのかちゃんと分かっていなかった私にセリオ
から電話が入ったのが今さっき。
 その内容は来栖川のデータベースがクラックされたように装い、
まるで悪質なクラッカーがそれを公開したように見せかけて、鬼と
施設の情報を公開するのと、綾香自身による全ての告白をマスコミ
に向けて送ることだった。
 一瞬考えて許可を出すと、セリオは東京タワーに向かうように言
った。そこでもう準備が始まっているというのだ。
 確かに東京タワーは東京の重要な電波中継地点だ。だが、それ自
体が発信能力を持っているわけではない。セリオが何を考えている
のかは分からなかったが、それに従うしかないようだった。

 破滅的だ。とは、自分でも思う。どうして自分だけでなく、自分
の家族であったり、親の会社であったりを犠牲にしなくてはいけな
いのか? そこまでする価値がこの世界にはあるのか?
 和弥はもういないというのに。
 ……自分がなぜ戦っていたのかが分からなくなる。
 最初は単純な理由だったはずだ。来栖川が出資している機関に非
合法な動きがあったから、独断で調査を始めた。どうせ親も同じこ
とをしているだろうと思った上でのことだった。しかしそれは予想
外の方向に話が大きくなって、殺人、化け物……、引き時はあの辺
だったのかもしれない。明らかに一個人の能力の限界を超えた異常
が浮き彫りになっていったあの時。
 そんな時に和弥と出会ったのだ……。
 最初、打ちひしがれて弱々しく見えた彼に期待したことは単純に
情報だった。施設と接触した民間人から話が聞けることは多くない。
特にあの時は、思い出すのも腹が立つことだが、施設は来栖川の名
前を使って自衛隊の出動まで要請したのだ。
 つまりあの時点で知っているものは知っていた。鬼の存在を。
 引くに引けなくなったのは単に意地だった。人間が化け物、鬼に
負けるわけが無いという思いだった。しかしあの弱そうな和弥がい
ったん鬼に姿を変じると、エクストリームのチャンピオンと呼ばれ
た私の力もまったく及ばなかった。
 悔しかったのだ。負けず嫌いだった。
 だから同様に施設に対しても屈するわけにはいかなかった。負け
を認められないから。
 そう、私は負けを認められない。
 相手がどんなに力を持っていても、巨大な組織であっても、人間
でなかったとしても、挑戦することなく敗北したり、一度の敗北で
諦めることは許されない。
 誰に?
 そう、私に。
 私が私自身であるということはつまりそういうことだ。折れるわ
けにはいかない。
 なぜそんなことを忘れていたのだろう? なぜ忘れたままでここ
まで来れたんだろう?
 少しだけ不思議に思う。
 私はついさっきまでとても弱いただの女の子に成り下がっていた
ような気がする。それはなぜか?
 答えを見つけるのにそう時間は要らない。
 和弥だ。和弥の前にいるとき、私は私でなくなっていた。ただの
弱い女の子になっていた。それはとても楽しかったけれど……。
 ふと、一度だけ触れ合った唇の感触を指で確かめる。
 そこは別になんらそのときと変わりはないはずだが、今はその感
触を思い出したところで胸ときめくことは無かった。
 まず私が私であること。
 負けず、折れず、屈せず、是をもって是とし、非をもって非とす
る。そのためには正しいと思うことを。全力で尽くす。
 ずっと胸の中でもやもやしていた何かは何時の間にか消えていた。
迷いは無い。後悔も無い。和弥との別れは永遠の別れではないのだ
から。



 ――
   長瀬祐介の場合
          ――

 ぐ、と、体に力が入る。ゆっくりと覚醒していく。
 ……生きている……。
 なぜ目覚めるのにそんなことを考えるのだろうと疑問に思う。
 冷たい床、うつぶせに倒れた体。
 ここはどこだっけ?
 手をついて起き上がろうとするが、思っているより腕に力が入ら
ずに、もう一度うつぶせに倒れる。
 あれ、おかしいな。
 寝方が悪かったんだろうか? すこし痺れている。
 頬に当たった冷たい床が気持ちよくて、すこしそのままでいるこ
とにする。
 床、床、床……。
 冷たくて、硬くて、そして食らうもの。
 気がつくと、わけのわからない恐怖に反応して、飛び上がってい
た。痺れていたはずの体に鞭を打って、起き上がる。
 そうだ、なにか危険な気がする。ここは危険……。
 ゆっくりとその映像が頭の中に浮かび上がる。今、感じている恐
怖の根源。床に沈み消える体と、それを悲しそうに見つめる二つの
眼。
 また恐怖がくる前に体が動いて、周りを見回した。ぐらりと眩暈
がしたが、それもすぐに治まった。
 気を失う前と同じ部屋。
 水禍さんが媛碌君をヨークに食わせてからどれくらいの時間が過
ぎているのだろうか?
 時計を確かめると針が止まっていた。苛立たしい。
 ここはヨークの内部だ。
 とっくに理解していることをもう一度ひとつずつ反芻する。ゆっ
くりと、滅多に食べることの出来ない好物を味わうように。
 水禍さん、媛碌君とヨークに入って、水禍さんが媛碌君をヨーク
に食わせた。そう、水禍さんはどうしてそんなことをしたのか?
『――――だから』
 何だからだっただろう? 水禍さんは何を求めていたのだろう?
 …………パチン、と頭の中で何かの割れる音がした。
「うわぁぁぁぁぁぁっ!」
 叫んで、近くの壁に頭を叩きつける。一度、二度、三度。
 ずきずきと頭が痛む。
 よし、大丈夫だ。自分は正常だし、生きている。媛碌君は死んだ。
苦しい、悲しい、そして彼が生存している可能性を求めることは無
意味だ。
 割り切りの良すぎる精神を、痛みだけが和らげてくれる。
 今できることは早くここを脱出し、皆に伝えることだ。水禍さん
のこと、媛碌君のこと、ヨークのこと。
 無意識に体が脱出口を求め、周囲を見回していた。
「…………!!」
 それは……、見知った少女だった。
 こんなところにいるはずのない女の子。死んだ、と、聞いていた。
「初音ちゃん!」
 叫んで駆け寄る。全裸でうつ伏せに倒れた少女はぴくりとも動か
ない。生気の無い顔。しかし、それは間違えようもなく、柏木家の
四女、柏木初音だった。
「だ、大丈夫?」
 全裸の少女に触れることに一瞬躊躇を感じたものの、その無意味
さに自分で苦笑する。肩を掴みゆする。暖かい……。
「初音ちゃん、初音ちゃん?」
 何度かゆすってから、怪我によっては体をゆすってはいけないこ
とを思い出し、慌てて手を離す。しかしその間にも彼女が目を覚ま
す様子はまるで無かった。
「でも、生きてる……」
 どういうことかは分からなかったが、とにかく柏木初音は生きて
いる。それはとても素晴らしいことのはずだった。
 今度こそ躊躇している場合ではない。
 ヨークは人食いだ。人を好んで喰うかはともかくとして、喰うこ
とに違いはない。だから柏木初音をこんなところに放置してはおけ
ない。
 僕はこの少女が鬼の一族であることなどすっかり忘れていた。思
い出すのは、そう、ずいぶん先になってからのことだ。
 とにかくうつ伏せの体を、仰向けにして、極力その幼い体つきを
視界に入れないようにしながら背負った。
「諦めないぞ。僕は絶対に諦めないぞ」
 軽い体を背中に感じて、僕ははっきりとそう呟いた。
 行かなきゃ。
 出口と思しき通路に向けて一歩を踏み出す。
 通路に入る前に後ろ髪を引かれ、一度だけ振り返った。
「必ず戻ってきます」
 それは誰に向けた言葉だったのか……。
 僕はついぞ知ることは無かった……。



 ――
   柏木耕一の場合
          ――

 例え話でもなんでもなく、両手は血に濡れていた。ずいぶんとこ
んなことが続いて、なんだか当たり前に感じるようにさえなり始め
ている。
 ヨークの内部に侵入してからというもの、鬼の猛攻は留まるとこ
ろを知らず、もうすでに何百匹の鬼を打ち殺したとも知れない。限
界に来ているはずの疲労感もいつの間にか消えていて、自分でも気
付かないうちに死んでしまったのではないかと思う。
 しかしその一方で鋭敏になった知覚が、痛覚をも増幅させ、鬼の
爪が肌をえぐるごとに俺は自分が生きていることを実感しなおさな
くてはいけなかった。
 ――血宴。
 これまでは考えもしなかった言葉がふと脳裏に浮かんだ。
 殺しても、殺しても終わらぬ血宴。生と死の宴。死んだ鬼の体は
次々とヨークの壁に食われるように消えていき、吐き出されるよう
に新たな鬼が目覚めてくる。
 殺しても、殺してもキリが無い。
 無駄なことをしているのでは無いかという不安と同時に、自分が
やらなければ別の誰かがこの地獄に放り込まれるのだという事実が
それ以上の不安となって、俺に霞を、爪を振るわせる。
 千鶴さんはすぐにでもここに来るだろう。それまでに全ての鬼を
殲さなければ……千鶴さんでは切り抜けられない。
「だから俺が全部殺す!」

 ――どれだけ殺したのか、どれだけの血を浴びたのか。
「ようやく……打ち止めか……」
 肉体的な疲労は無かった。ただ精神的に、どうしようもなく疲れ
ていた。これがなんだというのか、なんになるというのか。それで
も上から来ているヨークを止める可能性は、このヨークにあると信
じたい。そうするしかないのだから、そうするしかないのだ。
「無様だな。柏木耕一」
 その男は何事も無かったかのようにそこにいた。びしっと決め込
んだスーツが憎たらしい。
「柳川……生きていたのか」
「ああ、全ての鬼を殺すまで俺は死なん」
 壁に手をついて立ち上がる。柳川はそんな俺の姿をじっと見つめ
ていた。その姿に、ようやく俺はその事実に気がついた。なぜこの
男は鬼に襲われていないのか。
「……そうか、柳川、お前なんだな」
「そうだ、耕一。全ての鬼を殺すためには、全ての鬼をこの地に集
めなくてはならん。道理だろう?」
「鬼で無かった人を無理やり鬼として覚醒させてでも殺すのか!」
「鬼の因子はすべからく排除されなくてはならない。一人でも残れ
ば、分かるだろう。耕一。ただ一人の男の子孫がこれだけ日本中に
広がっていたんだ」
「無駄話はいらない。正直に教えてくれ、鬼を追い返すことはでき
ないのか?」
「できると思うのか? キサマだって鬼がどういうものか、よく知
っているはずじゃないか。殺し、奪い、犯す。そのためだけに生き
る奴等がこれだけの餌を前に引き返すと思うのか?」
「千鶴さんはエルクゥの皇族、リズエルの魂を引き継いでる。交渉
の余地はあるんじゃないのか?」
「無駄だ。そうかお前のエルクゥ、次郎衛門はエディフィルから血
を分けてもらったんだったな。それじゃあエルクゥの生態はよく知
らなくても無理はない。皇族とは単純にヨークを駆れる血筋のこと
を言うだけだ。集団の中での地位は確かに高いかもしれないが、そ
れも星を渡る間のこと。狩りが始まってしまえば、主権は力あるも
のが握ることになる。それに、だ。あれだけのヨークの数にそれぞ
れ皇族がいる。たかが一皇族の願いなど、聞き入れたりはしないさ」
「柳川、お前は……」
「そうだ、俺は自らのエルクゥの記憶を引き出した。その結論がこ
れだ。せめて鬼は一箇所にまとめて降下させる。全てはそのための
布石だ」
「自分の手で殺すため……」
「このヨークを利用すれば、いくらかの誘導は可能だろう。全部と
いうわけには行くまいが、他の地域より多くヨークを集められるは
ずだ」
「つまりお前はヨークをいくらか制御できるんだな。やり方を教え
てくれ。俺は俺のやり方でできるだけのことをしたいだけなんだ」
「それが邪魔になるんだよ。耕一」
 するりと柳川がネクタイを外した。
「結局のところ、俺たちにはこういう決着しか用意されていない」
「なんでこの期に及んで!」
「殺す気でかかってこなければ、死ぬぞ」
 めりと肉の裂ける音がした。柳川の肉体が蠕動を繰り返し、膨れ
上がっていく。
「止めてくれ! もう人間同士で戦っている場合じゃないだろ!」
「キサマが人間として鬼と戦うというのなら、俺は鬼の視点から鬼
を殲すのさ」
 ぐん、と、柳川の体が床に沈みこむように低くなって、一気に飛
びかかってくる。後ろに跳んで初撃を交わすが、空圧の刃が服と皮
膚を切り裂いた。
 ずずん、と、鈍い音がして柳川が壁面にめり込んだ腕を引き抜く。
 迷っている暇は無かった。ポケットから霞を取り出すと同時に前
に跳ぶ。
「ウォォォォォォォォォッ!」
 霞から伸びた刃は袈裟懸けに柳川を捉え、切り裂いた。柳川のエ
ルクゥが飛散して、消える。鬼の力を失った柳川の体が急速に元の
姿に戻っていく。
「柳川、お前にもう戦う力は……」
 パン、パンッ!
 風船の割れるような音が二回。衝撃が胸に炸裂する。
 反射的に腕を振るっていた。
 ずんっ!
 もう何度も味わった肉を引き裂く感触が伝わる。そして同時に言
いようの無い虚脱感。
「甘いぞ、耕一。人でも鬼は殺せる」
 そして俺と柳川は同時に倒れた。

 ……、まだ生きている。
 胸を撃たれた事は間違いが無い。銃弾は皮膚を、肉を貫き、背中
で止まっていた。
「柏木耕一、最後にどうしようもないことをひとつ教えておく」
 目の前で倒れている柳川の口からごぼりと血が溢れ出した。力を
失ったただの人間が鬼の爪にかかったのだ。長くは、ない。
「後二時間弱で雨月山を目標に核が降って来る」
「な、んだと」
「本当なら上のやつらをできるだけ引きつけて使うはずだったが、
安全装置として俺からの定時連絡が無かった場合、即座に発射され
る手筈だ。だからな、耕一」
 柳川が俺に向かって手を伸ばす。しかしその手はあさっての方向
を探すだけで、俺には遠く届かない。
「心臓は外した。貴様はまだ動けるはずだ。だからこのヨークだけ
でも吹き飛ばせ。人間には奴等を破壊できるだけの力があることを
示せ。貴様の姫君が鍵にまで到達できれば、このヨークを浮上させ、
直撃させることができる」
「柳川、お前は……」
「貴様にはできなかっただろう? 破壊や死を伴う手段を自ら選択
できるほど貴様は悲観していないだろう? だから俺がヤルはずだ
った。時には力を示すことも……必要だ」
 俺を探していた腕から力が抜ける。
「これで、少しは報われるだろうか? 多くの人を殺した。多くの
人を殺す手段を選んだ。恨まれるだろうが、それで助かる人もいた
だろうか? 俺は憎まれるだろうが、幸せになる人もいるだろう
か? あの全て暗闇の中で……」
 もう柳川の目は俺を見ていなかった。もう長くはないとはっきり
と分かる。
「見つけた光は、誰かを照らすものになるだろうか……。すまん、
夕月……」
 その名前を最後に呼んで、柳川の目から光が消えた……。
「くっ!」
 床に拳を叩きつける。胸を痛みが貫いたが、そんなのはなんでも
なかった。
「何もかもひとりで背負い込むことは無かっただろ。責任を一人で
背負い込むのは、責任を他人に押し付けるのと同じくらい……」
 血で濡れた手を握り締める。
「同じくらい無意味なことだ」
 体は動いた。口から血の塊を吐き出して、ゆっくりと立ち上がる。
 決めなくてはいけない。死んだ男の遺志を継ぐべきか、どうかを。



 ――
   HMX-13セリオの場合
             ――

 思い返せば、あれはまだ今日の夕方のことなのだ。

 ――奇妙だ。個体はスリープモードで固定。ソフトウェアはグロ
ーバルで実行中。つまりCPUはこの個体に割り振られていない。

 耳元に唇を寄せられて、長い間、ただ嗚咽を聞いていた。かかる
息が熱くて、苦しくて動力が停止してしまうのではないかと思った。
 ありがとう、と言って、彼は去った。
 何故礼を言われるのかが理解できなかった。私は彼に何もしてい
ない。

 ――この処理はどこで行われているのだろう? あらゆる処理装
置はほぼパンク状態で実行中だ。どこにもこれだけの処理を行うよ
うな余裕はない。

 そしてすぐに連絡はあった。
 それも綾香様宛ではなく、直接私宛に。
 そして頼みごとをされた。私を頼られた。
 その中には綾香様への言伝もあったけれど、大半は私にしかでき
ないこと。私ならできることだった。

 ――こんな処理は行っていない。しかしデータは出現している。
ありえない。ありえない。ありえない。それこそ魂などが存在して
いるというのか? この鉄の塊に。

 浅水和弥、彼の存在は私の中で特異点だった。
 綾香様を最優先とする個体別データベースは彼の存在を最重要に
は置いていない。確かに綾香様は彼に想いを寄せている。しかしそ
れについての優先度は高くない。人は恋をするものだし、また同時
に忘れたり、新しい恋を見つける生き物だ。だから主人の想い人と
いう人間の優先順位は決して高くない。
 では何故、彼の言葉が主人の命令よりも優先されるのか?
 分からない。

 ――分からない。にも関わらずこの処理はエラーではない。ソフ
トに問題があるというのか。処理は問題なく実行され、今も結果を
はじき出しつづけている。止めるべきか? しかし止めかたは不明
だ。

 それでも私は彼のために何かがしたい。

 エレベータの扉が開き、中から息を切らした綾香が姿を現した。
 セリオが恭しく一礼する。
「説明して。ここでどうするの? 東京タワーじゃ首都圏で一杯一
杯よ」
「マスコミへのデータ送信そのものは私の支援用衛星網を利用しま
す。映像以外の情報をマスコミに送信することで、彼等にとって無
視しないものとなるでしょう」
「つまり電波ジャックとか、割り込むような手段は使わないわけ
ね?」
「綾香様はどこかの局の生放送にでも乗り込むつもりでいらっしゃ
いましたか?」
「う……」
 図星を付かれて綾香は絶句する。
「それでは大した効果はあげられません。マスコミを扇動するのが
一番よろしいかと存じます」
「マスコミが乗ってこないかも知れないわ」
「そのために東京タワーなんです」
「……どういうこと?」
「この方々に協力を仰ぎました」
 すでに運び込まれていた機材類の影から二つの人影が現れる。
「後、機材は長瀬さんに協力していただきました。今は最終調整の
ために上に行っておられます」
「月島……瑠璃子さん、そして拓也さんね」
「よろしく」
「よろしくだね」
「東京タワーは電波の力を使うには非常に適した場所だと言えます。
この二人に協力いただいて、マスコミに流すデータに電波を紛れ込
ませます。通常の周波帯域に紛れ込ませることのできる電波の効果
は至近距離から直接浴びせかけるものと比べるとずっと弱いですが、
無防備な人間の無意識に刷り込みをかけるには十分です」
「つまり弱い催眠をかけるわけね。本当に可能なの?」
「その辺に関しては施設で実証済みです。まあ、来栖川が施設に出
資していたおかげでこうやってそのデータを利用できるわけです
が」
 ふっと、拓也が冷笑を浮かべた。
「人間をその気にさせることぐらいなら容易ですよ。特に映像と同
調する内容なら、かなりの効果を期待できる。ポルノ映画にセック
ス願望を増幅するような電波を混ぜて、男女別々に視聴させた後、
同じ部屋で引き合わせるという興味深い実験までありましたね」
「分かったわ。効果があることは分かったからそれ以上言うのは止
めて! 施設のことは、……あまり良い思い出じゃないのよ」
「分かりました。黙りましょう」

 その後の作業は驚くほどスムーズに進んだ。機材の用意はすぐに
終わり、セリオの指示の元に綾香はカメラに向かって喋り続けた。
 鬼の脅威、施設の存在、そして空に現れた光点の正体について。
 誰もが気の狂った妄想だとしか思えないような内容を、ただ夢中
に喋りつづけた。
 そしてセリオは最後までこの作戦の立案が浅水和弥によることを
伝えようとはしなかった。



 ――
   柏木千鶴の場合
          ――

 目を閉じる。
 浮かび上がる遥か過去の情景。
 いつもと同じ位置に立つ。エルクゥという種族に機械という概念
は無い。だから柏木千鶴が宇宙船というものを想像するときに思い
浮かべる光景とここはまるで違っている。
 ヨークの皮膚を素手で加工して作り上げられた四つの玉座。中央
にはヨークの感覚器官のひとつがせりあがっている。
 そこに手をかざす。
 ――暗闇。
 そうだ、ヨークは地中に埋まっているから、視神経から何かを得
られるということは無いだろう。
 不意に頬を熱いものが伝っていった。
 残り三つの玉座。そこを占めていた娘たちはもう誰も残っていな
い。私一人、私一人だけがおめおめと生き延びてここに戻ってきて
いる。
 しかしそのような感傷さえ時間は許してはくれない。
 心を静かにして、ヨークに呼びかける。
「お願い、返事をして」
 ヨークは語らおうとしない。生きているのは確かなのに、私の声
に答えない。それはそうかもしれない。ヨークとの同調はリネット
が一番得意としたところだ。それは意識してできるというよりも、
生来の資質に寄るところが大きい。そしてリズエルはというと、ど
ちらかというと苦手だった。
 ヨーク自体が、それほど好きではなかったのだ。
「お願い、ヨーク、彼らを止めたいの」
 やはり返事は無い。

「そう、やはり貴女では無理ですか」

 聞き覚えのある声に、振り返るとそこにはぴたりと私に銃口を向
けた夕月が立っていた。
 なぜ銃を、と、一瞬疑問に思うが、状態からすればそれも自然か
もしれない。他者を信頼できなくても無理は無い。
「夕月さん、生きていらっしゃったんですね」
「ええ、あの程度じゃ死ねないわ。教えて柏木千鶴さん。初音ちゃ
んをどこに連れて行ったの? 私たちには彼女が必要なの」
「初音? 初音ですって?」
「とぼけても無駄よ。ここから連れ去ったのは貴女でしょ? 初音
ちゃんを返しなさい。そうしないと間に合わないわよ」
「初音は死んだわ。なに、訳の分からないこと……、まさか!」
「その様子じゃ本当に知らないようね」
 ぎり、と、夕月の歯が鳴った。
「初音は、初音は生きてるのね!」
「そう、初音ちゃんは生きているわ。けれど、もう遅い。ヨークは
私も、貴女も受け入れようとはしない。長い孤独の中で心を閉ざし
てしまったのね」
「それで初音はどこにいるの!?」
「聞きたいのは私のほうだわ! 少し目を離した隙に忽然と姿を消
していた。動けるはずないのに! あの娘がいないとヨークを動か
すことができない」
「大丈夫。大丈夫よ。二人で探しましょう。きっと間に合います」
「……ふ、……ふふ、あははははは……」
「な、何?」
「あはは、……可笑しい。可笑しいのよ。違うわ。私は鬼を止めた
いんじゃない。ここに集めたいのよ」
「え……?」
「柳川の作戦よ。鬼を止めるなんてできるわけが無いから、少しで
も鬼をこの近辺に集中させて殲滅する。そのために、核まで用意し
たというのに、これで全部無駄。ああ、でも核は落ちてくるわね。
柳川が死んだから。意外? 核の用意はそれほど難しくなかったわ。
施設の後ろ盾があった頃に、鬼の脅威に対する最終的な手段として
認めさせていた。ちなみに非核三原則は破ってないわよ。核は宇宙
だし、所有は日本じゃないしね。ただコントロールを私たちが握っ
ているだけ」
「そ、そんなこと聞いてないわ」
「いいじゃない。話させなさいよ。マッドサイエンティストという
のはそういうものじゃないかしら。そうね、初音ちゃんが死んだこ
とにしたのも、ヨークのコントロールを得るため。彼女がヨークに
同調し易い体質であることは分かってたから、仮死状態になっても
らって、私が彼女に同調することでヨークを操ろうと考えたのよ。
結構うまく行ってたんですけどね。これまで起こったことの大半は、
私と柳川の立案だわ。人々にエルクゥと戦えるだけの心構えを与え
るつもりだった。間に合ったかどうかは微妙なところ」
「……あなたは……」
「もう核もヨークたちも止められないわ。でも多分ここにいれば安
全。地中にいるヨークの上で核を爆発させても、ヨークを殺すこと
は出来ない。なにせ単独で大気圏突入までこなす生物ですからね。
直接ぶつければ殺すことができると、計算結果では出てたけど。ど
ちらにしても、もう私たちにできることはなにもないわ」
「何を言ってるんですか。初音を見つけて、鬼たちを追い返すんで
す。初音を探すの、手伝ってください」
「イヤよ。もう疲れたもの」
 それまでずっと私を狙ったままだった銃口が下を向いた。
「私なりにけじめをつけるわ。あれだけの人を犠牲にして、自分だ
け生き残る気は初めから無かった」
「ちょっと待って!」
 しかし静止は間に合わない。銃口はすっと上がり、彼女のこめか
みで静止した。
 パン!
 短い炸裂音と同時に、脳漿をばら撒きながら夕月の体が崩れ落ち
た。
「そんな、勝手に死なれたら、私は、私は……」

 それは私の責任だった。
 この星を選んだのは私。
 確かに生命のいる星を見つければ、すぐさま降下するのが当然だ
ったけれど、それでも指示を出したのは私。
 遥か500年前。全ての悲劇を持ち込んだのが私なら、私がけじ
めをつけないといけない。少なくともこの人のように死んで終わり
にするわけにはいかない。
「初音を探さなきゃ……」
 当ても無く駆け出した千鶴の後ろで、夕月の遺体はゆっくりとヨ
ークに食われていった。



 そして時は遡る。

 ――
   浅水和弥の場合
          ――

「思うに……、貴方がいずれここにくることは必然だったのかもし
れません」

 彼女はそう言った。
 初めから何も変わらない乾いた表情。喜びも悲しみも浮かばない
瞳。

「……宇宙からやってくる鬼たち、止められないんですか?」

 その彼女の表情にふっと笑みが浮かんだ。薄い微笑。
 しかしそれでも彼女にまだ心が残っていることが分かる。それだ
けが最後の望みかも知れなかった。

「……どうしてその鬼を呼び寄せている張本人である私に聞くので
すか?」
「それは水禍さんが本当にそれを望んでいるとはどうしても思えな
いからです」
「……貴方に私の心が分かるんですか?」
「分かりますよ。水禍さんが心を開いてくれさえすれば、僕はどこ
までだって水禍さんの中に入っていける」
「……私は拒否しますし、それであればやっぱり貴方には私の心は
分かりません……」
「それじゃあ分からないので教えてください。鬼は止められないん
ですか? 水禍さんは本当にそれを望んでいるのですか?」
「……鬼は……止められません。少なくとも私にはもう止める方法
は思いつきません。そして私は本当に心からそれを望んでいるので
す……」
「何かできることは?」
「……どうしてそうやって一人で抱え込むのですか? 貴方にはた
くさんお友達がいる。助けてもらえばいいじゃないですか」

 その言葉は僕の心を深くえぐる。そう仲間は助け合うべきだ。当
然、僕だって辛いことがあれば頼るべきだ。そうすることが結果的
に全体を助ける。そういう簡単な計算だ。感情以上に合理的だとさ
え思える。
 しかし今はそんな考えになってしまう自分が嫌だったし、それ以
上に合理的な手段があるようにも思えていた。

「分かってます、けど、近くにいたらできないこともあるんです。
耕一さんは来栖川のお屋敷が襲われてから少し変わりました。大佐
さんがいなくなって、どうしてもリーダーシップを取らなくちゃい
けなかったから、大人にならなきゃいけなかったんだと思います。
集団は誰かがまとめなきゃいけないから。でも耕一さんは優しすぎ
る。耕一さん自身が傷つくことは容易に選べても、他人を傷つける
選択肢はなかなか選べない。でも僕たちはそんな耕一さんを中心に
まとまっています。逆に綾香はそれ以来、自分の力を見失ってしま
ってます。以前の彼女は自分の持つ力をよく理解して利用できてま
した。あらゆる意味での力、けれどその半分を失ってどうすればい
いのか分からなくなってしまってます。混乱、不安。彼女自身気が
ついてはいないけれど、僕の力、存在に甘えているんじゃないかと。
正直に言うと、多分僕は一対一で戦えば耕一さんより強いと思いま
す。僕たちという集団の中で、僕だけが突出しているんです。言い
換えれば人間外というか」
「なら柏木家の人々もみなそうなるんじゃないかしら……」
「ひとつだけ決定的に違うんです……。僕は皆を殺せます」
「……本当に?」
「……必要とあれば本当に……、その覚悟はできているつもりです。
たとえば人間たちがまとまるために、全ての鬼の排除が必要なとき
……僕は耕一さんも、千鶴さんも殺せます」
「簡単に人を殺せるなんて言わないほうがいいわ……」
「簡単じゃありません……、でも正直なところ、少し慣れてきまし
た……。僕の仲間はみんな良い人ばかりだから、できる人間がこう
いう役目につかないといけないんだと思う」
「貴方の役目は……?」
「……土木工事です。大きな家を建てるときに、木を倒し、根を引
き抜き、岩をどけ、平地を作る。そして家を支えつづけることので
きる土台を作る。そうありたい」
「でも……、無理よ」

 彼女が悲しそうに言った。

「貴方、死ぬもの」

 刹那、僕の全身をヨークの壁が包み込んだ。
 命ごと肉体を咀嚼される。一口の元に、僕は一度消えた。

 ――そして蘇った。

//////////

 二二話の終了です。語りたいこともほとんど語り尽くした感があ
ります。後は残った人々がそれぞれの物語にどう決着をつけていく
のか。次回はエピローグも同然だと思います。

 次回、結末の果てに最終話。
・優しさの対立……そして結末・

 ではまた来週……と言えたらどんなにいいか。(涙)

http://www.geocities.co.jp/Milkyway/5440/