優しさの結末第二一話・雨月山の鬼達(後編)・ 投稿者:雪乃智波 投稿日:2月14日(水)15時19分
Side Story of Leaf VN

結末の果てに
第二章
第二一話

									雪乃智波

 皮膚を駆け抜けたのは淡い戦慄だった。
 見上げた空には星の数ほどの絶望がゆっくりと絡み合い蠢いている。
「これが……全部か……」
 夜空を覆い尽くした光点の数が全部でどれくらいになるのか、耕一には想像もできない。
しかしこれが全てヨークだとすれば、日本くらいは簡単に全滅させられるくらいの戦力な
のだろうとは思った。

 ――くく、我は覚えているぞ。忘れるはずが無い、この天空の輝き、禍々しき天かける
箱舟の到来を! 分かるか耕一、この我の歓喜を、奥深く身を震わす喜びをお前も感じて
いるか? ようやくだ、待ちわびた。待ちわびたぞっ!

 ざわりと耕一の肌が粟立った。全身を嘗め尽くした快感にも似た感情は明らかに喜び、
耕一の中の次郎衛門という男が感じている喜びであった。そして同時に耕一の背を氷を押
し当てられたような悪寒が走りぬけた。

 お前は望んでいたというのか? 鬼の到来を。今、この時を。

 ――まだ分からんのか、まだ気がついていなかったのか? お前は本当に愚鈍な男だ。
愛する者を鬼に殺された者の望みも理解できんのか? そうだ、お前は何故あの男が生き
残ったのかも気がついていないのであろう?

 あの、男……?

 ――分からんか、自らの精神を鬼に蝕まれ、我と同じように全ての鬼に復讐を誓った鬼
子だ。

 柳川が、なんだ!?

 ――お前はあの時、殺そうとしたはずだ。そして殺せたはずだという確信が今だあるの
ではないか? お前の力は彼奴を明らかに凌駕していたし、手ごたえもあったはずだ。し
かし、彼奴は死んではおらん。何故だ?

 それは、あいつの気力が……。運が良かったとか……。

 ――我が手加減したのだ。

 お前がッ!?

 ――そうだ、あの男の精神は鬼に蝕まれつつ、しかしまだ生きていた。そして我は彼奴
の望みを知ったのだ。

 柳川の、望み……だって?
 分からなかった。耕一は本当に分からなかった。柳川は単に鬼が憎くて警察に協力して
いるのだと思っていたし、自分の中の次郎衛門がこれほどまでに自分と違う思考をしてい
るとは考えられなかったのだ。
 そしてゆっくりと次郎衛門は答えた。まるで自らの言葉を語るように。

 ――全ての鬼に等しく死を――


・雨月山の鬼達(後編)・


 少し欠けた月が、薄い雲に遮られて、光の輪の中にぽつんといた。星は見えなかった。
隆山の夜は明るい。明るいはずだった。今、星が見えないのは、月に衣を着せた薄い雲の
所為で、町を照らす明かりの所為ではなかった。
 家も、ビルも、街灯さえも消えた隆山は、住み慣れた町を見知らぬ異世界へと変貌させ
ていた。漆黒、隆山を知らぬものにせよ、この闇は平常ではない。人の住む空間は常に何
らかの光を伴うものだからだ。
 そして、闇を小さな光が上下に照らし出している。
 光の輪には二人分の人影、寄り添うでもなく、離れるでもない、中途半端な距離が二人
の間には広がっている。家族でも、他人でも無い二人。
「ちょっと正直な話をしませんか?」
「急に何よ?」
「これからのことです……」
 綾香は立川の顔を見上げたが、立川は綾香の視線に気づいているのか、いないのか、ま
っすぐに正面、道の先を見つめていた。
「そんなの決まってるじゃない」
「では、どうするというんですか?」
「まずはヨークよ。ヨークに行けば鬼を止める方法が分かるかもしれないでしょ。分から
なかったら、どうにかして世界中に鬼のことを知らせるわ。混乱はあるかもしれない、隣
人を信じられなくなるかもしれない。誰が鬼かどうかなんて誰にも分からないんだから。
でも、それを切り抜けていかないと、私たちに、人類に明日は無いわ」
「それがプラン?」
 立川が立ち止まった。そして綾香に向き直る。
「そんなものがプランと呼べるとでも?」
 立川の強い目に、綾香は少したじろいだ。
「だって、そうする以外に、何ができるっていうのよ!」
「はっきり言いましょう。僕たちはすでに足手まといです」
「どう、言う意味?」
「ヨークに近づけば近づくほど僕たちは鬼の危険にさらされます。しかし、僕たちにそれ
に対抗する手段はほとんど残されていません。僕たちは普通の人間なんです」
「私は……」
 私はエクストリームのチャンピオンよ! と、そう、言おうとして綾香は口篭もった。
エクストリームがたかが人間の、たかが素手のお遊びに過ぎないと、綾香はもう分かって
いたからだ。
「HMは戦闘型じゃない。芹香は消耗が激しい。はっきり言って僕らの中で戦力になるの
は柏木家の二人だけです」
「じゃあ、じゃあ、どうしろっていうのよ! 来栖川の資財は凍結で動かせないし、立川
さんだって表立って動けばすぐにそうなるでしょ? なんにもできないじゃない!」
「僕たちには政財界の知り合いがたくさんいます。中には『施設』にかかわっていた人も
いるはずです。とにかく、今は少しでも人々の輪をつなげるべきです。僕たちがすべてを
抱え込んで戦おうとしているから、誰もがばらばらになってしまっているんです。綾香さ
ん、人に頼るのは自分がなにもできないからじゃないんです。人にはそれぞれ役割があっ
て、それは決して表舞台に立つものばかりじゃない。僕の言っている意味分かりますね?」
「私が役以上の舞台にしゃしゃり出てるって言いたいわけね」
「そういうことです」
 綾香は皮肉を言ったつもりだったが、それを立川は正面から受け止めてしまった。綾香
にはもう肩をすくめるしかない。
「はぁ、仕方ないわね。とりあえず長瀬さんにでも連絡を取ろうかしら」
「お忘れのようですけど、僕はあくまで芹香の命が危険にさらされていたから、貴方たち
の脱出に手を貸しに来ただけですよ」
 立川が少し儚げな笑みを見せた。
 二人の歩く先に、柏木の屋敷が見え始めていた。

 柏木家の屋敷といえば、隆山の閑静な住宅街において、異彩を放つ存在である。その土
地の広さや、佇まいのみならず、事実上隆山を支配する柏木家の屋敷とあって、地元の人
間からは恐れられていた。
 もしかすると、それは、柏木家の呪われた血に対する恐怖であったのかもしれないが…
…。
 しかし、その屋敷も今では見る影もなく、まるで取り壊しを待つ老朽艦のような有様で
あった。以前は屋敷を覆い隠していた漆喰の塀は半分以上が瓦礫と化し、残った部分も今
にも崩れ落ちそうだった。常に手入れの施されていた庭木は、そのほとんどが折れ、枯れ
かけていた。木造の屋敷は、なんとか原型を留めていたが、壁や、扉に明らかな損傷の跡
があり、どう見ても応急処置の添え木などがされていた。
 しかし、柏木家の屋敷を取り囲む、普通の住宅街も似たような有様だった。
 違うところはというと、柏木家は応急処置などで原型を留めているのに対し、それ以外
の住宅は、破壊の後で、打ち捨てられていた。
 隆山市は死んでいた、と、立川は後に語ることになる。

「じゃあ、耕一さんは調べ物があると言われたんですね?」
「そうです」
「それが何かは……」
「教えてくれませんでした」
「ねえ、千鶴さん。食事のときくらい、そういう話は止めにしない?」
 居間のちゃぶ台の上には立川が持ち帰ったおにぎりやら、パンやらが並んでいた。食卓
についているのは柏木千鶴と来栖川綾香、立川と日吉かおりの四人だけだ。
「そうなんですけど、気になって……」
「ま、しーんとしてても滅入っちゃうだけだけどね」
 綾香がそう言った途端に、場が静かになる。全員が手に持っていたそれぞれの食料に口
をつけたのだ。
「ん、んぐ、で、でね、さっき立川さんとも話をしてたんだけど、これから先、私たちっ
て足手まといなんじゃないかな?」
「そんなことありませんよ。って、言いたいんですけど」
 千鶴が視線をテーブルに落とした。
「正直、これまでの戦いでも、私は自分のことで精一杯でしたから……、いざというとき
に助けられないかもしれません」
「うん、私は自分の身は自分で守れるつもりだった。ちょっと自己過大評価だけどね。そ
れにいざって時は見捨てていってもらうつもりだったし。……でも、よく考えたらさ、そ
んなことできるわけ無いんだよね。千鶴さんとか、耕一さんは、たとえ世界の危機であっ
ても、目の前の仲間を放って置けないタイプなんだもん」
「私は冷徹な女ですよ。……でも確かに耕一さんはそうかもしれませんね」
「それでね、さっき立川さんに叱られてから、ずっと考えてたんだけど、鬼の出現って、
来栖川の陰謀みたいに言われてるじゃない? ふざけんなっとか思ってたんだけど、もし
かしてこれってチャンスなんじゃないかって思ったのよ」
「チャンスって、綾香さん、まさか」
 驚いたのは立川の方だった。千鶴は何のことか分からずにきょとんとしている。
「父さんや、母さんには悪いんだけどね。おじいちゃんは知ったら卒倒するかな? 来栖
川を捨てるの」
「綾香さん、なにを?」
「私が表に出て、来栖川主催、鬼による日本転覆計画を声高に声明してみるわ。止められ
るものなら止めてみなさい、おーほっほっほっ! ってね」
 千鶴ははっとして、綾香の顔を覗き込んだ。確かに現状では、一般の人々が鬼の脅威は
所詮、動物園を逃げ出した猛獣程度、直接出会うことなどまずあり得ない。まさしく対岸
の火事と捉えてることは間違いなかった。鬼の脅威を現実の危険として人々が認識しない
ことには、鬼の到来に対する心構えさえ出来ないだろう。
「でも、そんなことしたら、綾香さん、あなたは……」
「うん、分かってる。でもさ、こういうのって私が適任じゃないかな? 千鶴さんと耕一
さんには今、私たちが瀕している戦いの決着をつけなくちゃいけない。そこに私の出る幕
は無いわ。でも、将来、鬼と戦える地盤を作る役には立てるかもしれない」
「そのために、自分と、家族を犠牲にすると言うんですか?」
「あら、さっき自分を冷徹だと言ったんじゃなかった? 千鶴さん」
「わ、私は……」
「家族のことは、信じてるわ。馬鹿な娘だって苦笑して、そして認めてくれると信じてる。
だから気にしてない。気になんてしたら、叱られる。そう私は信じてるから」
「舞台には立たないほうがいいと言いませんでしたか?」
「あら、立川さん、さっきお話した舞台とは違う公演内容ですもの。主役は当然変わりま
してよ。この舞台の主役は私以外には務まりませんもの。姉はああいう性格だし、両親は
後の建て直しをしてもらわないとね。明日、朝一で東京にとんぼ返りするわ。幸い、キー
のかかったままの車も放置されてたし」
「おいおい、免許……、なんて言ってる状況でもないか」
 立川が苦笑する。それ以前に窃盗だと言うことについては、誰も言及しなかった。
「あのー、そしたら、やっぱり私も足手まといなんでしょうか?」
 おずおずと日吉かおりが手を挙げた。
「そうね、できればここに残ってもらったほうが」
「私は……」
 かおりは手にもったシーチキンのおにぎりに一度目を落とす。
「私は行きたい、です」
「死ぬわよ?」
「はい」
「本当に足手まといになるようなら、その場で置いていくわ」
「はい」
「いいの、千鶴さん?」
 千鶴は小さく肩をすくめる。
「付いて来るのは勝手だし、止められないわ」
「はいっ!」
 千鶴がサンドイッチを一齧りし、今度は立川を見た。
「どうなさるんですか?」
「僕ですか? 参ったな。僕は自分勝手な人間なので、芹香が無事にいることが最優先事
項なんです。だから……」
「それじゃあ……」
「本音としては、明日綾香さんと共に東京に帰って、質の良い病院に芹香を連れて行くべ
きでしょうが、そうも言っていられそうにありませんね。国家の反逆者にとって、今はゴ
ーストタウンと化したこの町が一番安全なようだ」
「そうですか、それじゃあ、私は今晩出ることにします」
「今晩!?」
 綾香が大きな声をあげる。
「そんな急に、それに山に登るのに」
「鬼に昼夜は関係ありませんよ。それに夜のほうが闇に紛れることが出来ます。いいです
ね?」
 千鶴の最後の言葉はかおりに向けられていた。
 明らかに普通の少女には辛すぎる行程だ。
「分かりました」
 しかし、かおりは物怖じすることなく、はっきりとそう言い切った。
「はぁ〜あ、じゃあ、私もすぐに出るわ。今からだと、今日中には戻れるでしょ。せっか
く避暑地に来たのに一日でとんぼ返りとは参ったわね」

     ☆★☆

 日の落ちた森は、ただ鬱蒼と生い茂るだけの木々もどこか異形のもののように感じられ、
足元の草を揺らす小さな生き物の鼓動に、闇に潜む化け物を想像させられてしまう。耕一
の瞳は、月と星の光だけで十分な視界を得ていたが、それでも不安は尽きない。
 それも当然の話だ。
 耕一は頭の中でそれの数を数えようとして断念した。
 これだけ鬼の気配が多ければ、気分も悪くなる。

 ――こやつらは所詮は鬼の血を引き、エルクゥに支配された弱き魂。本物の敵ではない。

 しかし、それは彼らが耕一と祖先を同じくする血族であることを意味している。いや、
そんなことを言えば、これまで耕一が倒してきた鬼のほとんどがそうだったのだろう。
「なあ、すべての鬼を殺すってことは、やっぱり鬼を呼び寄せたのは柳川なのか?」

 ――正確にはそうではない。最初の鬼たちが祖国に救援を求めたのだ。あの男がしたの
は、単に彼らの到着の時期を早めたに過ぎない。

「そいつらは、強いのか?」

 ――分からん。俺が戦ったのは、一部の鬼に過ぎないし、俺はあっちの出身ではないか
らな。そういうことはリズエルに聞け。

 一歩一歩足を進める。駆け出したいところだが、それはしない。目立って鬼を引き付け
るのは得策じゃない。今はとにかくヨークにたどり着いて、そして……。
「なあ、おまえはあっちの出身じゃないってことは、ヨークとか詳しくないのか? もし
かして」

 ――もしかしてもなにも、俺が知っているのはリネットから寝物語で聞いた程度のこと
だな。内部構造とか、詳しいことは分からん。リズエルならいくらか詳しいことを知って
いるはずだ。

「じゃあ、なんにせよ、千鶴さんと合流しなきゃいけないってわけか」
 耕一は千鶴が雨月山に向かっているものと信じていた。そして、そうであれば、必ず出
会えるとも……。
「なあ……」

 ――なんだ?

「俺が柳川と戦ったとき、おまえはあいつを利用するために、わざと手加減したと言った
な?」

 ――疑っているのか?

「いや、そういうわけじゃないんだけど。むしろあの時が一番力を出せた気がするんだ。
あれ以来、鬼に変じた後も、あの時ほどの力が出なくなってきてる」

 ――はっ、そんなものはキサマの精神的な問題だろう。あの時のキサマは極限状態に追
い込まれ、その上、リズエルの危機に焦燥を感じていた。言わば火事場の馬鹿力というや
つだな。そもそもよく考えてみろ、俺の力は所詮エディフィルから分け与えられたエルク
ゥを元にしている。ほんの少しの鬼の力さ。生来の鬼と比べれば大したものではない。

「おまえは昔のことを当然のように語るけど、俺ははっきりとは覚えていないんだ」

 ――俺という自我がある所為で、上位の自我でありながら、下位の心を覗き見ることも
できないか。まあ、俺にしてみれば好都合だったわけだが……。耕一。

「なんだよ?」

 ――俺の記憶が欲しいか?

「突然なんだよ?」

 ――いや、エディフィルを愛し、リズエルを憎んだ俺の記憶を手に入れたキサマがどう
なるか、少し興味があっただけだ。忘れろ。

「あんまり考えたくない話だな」
 実際、耕一は一度楓の中に愛した女性の姿を見た気になったことがある。その時の混乱
を思い出せば、次郎衛門の記憶をすべて受け取れば、耕一が受ける精神的なショックは図
りえないものがあった。

 ――ところで愚鈍なキサマに忠告しておくが……

「いくら俺が愚鈍でもこれくらいは分かる」
 耕一は藪を掻き分けていた手を止め、その場に足を止める。

 ――霞は持っているんだろうな?

「なんだよ、急に」

 ――持ってきているのか? 俺だって一日中キサマの意識を覗いている訳じゃない。

「持ってきてるさ」
 耕一は服の内ポケットのある辺りを軽く叩いた。
 柄だけの刀。鬼の精神エネルギーとも言うべきエルクゥを一時的に放出して刃とするの
だろうと耕一は予想していた。使えばあっという間に疲労してしまうが、鬼に対する効果
は絶大だ。刃が触れただけで、相手のエルクゥはその部分が崩壊し、再生は困難になる。
超回復とでも言うべき回復力を持つ鬼に対して、非常に有効な武器であるといえた。

 ――では、出来の悪いキサマに変わって、鬼との戦い方というものを見せてやろう。悪
いようにはしない、肉体を貸せ。

「……後で、返してくれるんだろうな?」

 ――心配するな。キサマが望めば、俺の意思など関係なくキサマはこの肉体の制御権を
取り戻すことができるはずだ。俺はキサマの精神に巣食う寄生虫のような弱い存在だから
な。

「まあ、霞の正しい使い方を見せてくれるッてんなら、悪い取引じゃないよな」

 ――この時代の言葉でいうなら、出血大さーびすとかいうやつだ。

 思わず耕一は苦笑する。
「そんな言葉、どこで覚えた?」

 ――なに、キサマと五感を共にしていれば、いろいろ見聞きできるのでな。

 耕一は軽く頭を掻いた。どう言えばニュアンスの違いが伝わるかと思案してみたが、ま
ったく考えつかなかった。
 ざっと、草を掻き分ける音がして、耕一を取り囲んでいた無数の気配がその包囲を一段
と狭くする。
「それじゃ、始めますか、次郎衛門さんよ」

 ――なに、ゆっくり精神の内で観戦しているがいい、正しい力の使い方をな。

 そして耕一の意識は肉体を離れ、その精神に沈み、遥か昔、この雨月山で鬼を追い払っ
た一人の男が現れた。

     ☆★☆

 一方で、千鶴とかおりも柏木の屋敷を後にし、雨月山に挑み始めていた。
 次郎衛門が言ったとおり、千鶴にはヨークの知識があった。そしてそれは時間と共に増
大する傾向にあった。それは耕一と千鶴の最大の違い、千鶴はよりリズエルを受け入れて
いたのだ。それゆえにリズエルの記憶、知識はより深く、千鶴に浸透しつつあった。
 現在の千鶴の知識から考えられる策は二つ。
 一つは通信回線の存在だ。本隊に連絡を取って、救助は必要ないと伝え、レザムに帰還
させる。
 もう一つは綾香と同じ考えだ。ヨークを飛び立たせ、東京上空に運ぶ。人類にヨークを
敵と認識させること。それが第二の案だった。もっとも、誰にも言わなかったが、これだ
け本隊が接近した状態で、どちらの案もうまくいく保証はない。徐々に空には蠢く光点が
その姿を現しつつある。

 リズエル、聞こえてるんでしょ?

 ――なに……?

 リズエルが答えるまで少しの間があった。

 どうすればいいのかしら?

 ――時間稼ぎで良いのなら、案は無いことはないわ。

 なに? 教えて。

 ――ヨークの翼……。

 ヨークの翼?

 ――…………。

 リズエル? ねえ、リズエル!?

 リズエルの返事はない。唐突に電話を切られたような感覚だ。
 その瞬間、千鶴の背中に強い衝撃が走った。
 最初、背中をかおりに突き飛ばされたのだと千鶴は思った。内蔵を揺るがす衝撃、しか
し、かおりは千鶴を突き飛ばしたわけではなかった。そうだ。突き飛ばしたのであれば、
千鶴の胸から生えている四本の金属質の棒に説明がつかない。
「ああああああああああああっ!」
 灼熱が体を焼いた。喉の奥からほとばしった絶叫と共に背中の向こう側に向けて腕を突
き出した。ずんと手に残る手ごたえとともに、ずる、と胸から爪が引き抜かれ、傷口から
血が流れ始めた。幸いにも心臓は外れている。肺は貫かれたが片方だけだ。この程度では
死ねない。
 最初に考えたのは、後方から鬼に奇襲されたということだった。その辺の茂みに隠れて
いた鬼がかおりを突き飛ばして千鶴に襲い掛かったのだろう、と。
 しかし、間髪いれずに次の攻撃を繰り出してきた相手を千鶴は見てしまった。
「どうしてっ!」
 それはかおりだった。黄金色の双眸に、長く伸びた金属質の爪、鬼の眷属。しかしそれ
は間違いなく死んだ妹の後輩であり、今さっきまで一緒にいたはずの日吉かおりだった。
「どうして?」
 かおりの次の一撃を受け流し、距離を取った千鶴の背中にその問いは投げかけられた。
「どうして梓先輩を助けてあげなかったんですかッ!?」
「助けなかったんじゃないわ。助けられなかったのよ」
「そんなのは言い訳ですッ!」
 かおりが姿勢を低くして、地を蹴った。千鶴に状況を考える時間はない、選択肢は二つ。
戦うか、逃げるか。かおりは二度の跳躍で千鶴にその爪を振り下ろした。受け止めること
はしない、その代わりに身をよじって爪を避け、すれ違いざまにかおりの体を突き飛ばし
た。
「ぐっ!」
 したこま地面に顔を打ち付けつつ、反転してかおりが起き上がる。
「なにがあったの?」
「なにがもなにもないです。もう私にはなにもないだけ」
「どうして私を襲うの?」
「復讐ではいけませんか?」
「私を狙う理由がないわ。梓が……、梓が死んだのは私の責任じゃないもの」
「あなたが梓先輩の姉だと言うだけで、私には十分な理由なんです!」
 かおりが腰を低くして戦闘態勢を取る。どうやら説得は通じないようだが、千鶴はどう
してもかおりを攻撃する気になれない。情や甘さではなかった。おかしいのだ。かおりが
鬼の力を現出できることは可能性はあると思っていた。隆山には柏木の血は深く根ざして
いる。しかし、かおりが自分の意思でここにいるとはどうしても思えないのだ。誰かが裏
にいるような気がしてならない。しかし、誰が?
「本当は、誰から梓が死んだことを聞いたんですか?」
「それは言ったとおりです。感じたんです」
 再びかおりが地を蹴った。しかし、今度は二度目の跳躍で木の根元を蹴って、横に飛ぶ。
「私にも感じられなかったそれを、あなたに感じられるとは思えない」
 千鶴は視線だけでかおりを追う。かおりの速さは人間のそれを超えてはいたが千鶴が集
中すれば見失うほどではない。千鶴から見て左手の木の陰から上に跳んで、また別の木を
蹴って、斜め上から跳びかかってくる。千鶴がわずか数歩後ろに下がる。ざんっ、と、枯
葉が舞い上がり、かおりの爪がそれを切り裂いて、地に降りた。
「そして、あなたの力じゃ私には勝てないわ。教えて」
「誰も関係無い! 死んでくださいッ!」
「かおりさんっ!」
 正面から喉元に突き出された爪を体の回転で交わし、そのまま左手を伸ばしてかおりの
腹部に押し当てる。衝撃。かおり自身の勢いが、そのまま彼女の腹部に点として返る。
「げぅっ!」
 くの字に折れたかおりのこめかみに千鶴は掌底を叩きつけた。かおりの体が落ち葉の中
に叩きつけられて、地面を滑り、木の根元で止まった。舞い上がった落ち葉がゆっくりと
落ちていく。
「……殺す気でやったらどうなのよ、この偽善者!!」
 落ち葉の中から響いたその言葉は、なんというか、いわゆる禁句だった。千鶴のこめか
みに青筋が浮かぶ。
「言ったはず。私は冷徹な女だから、と。だから偽善者と呼ばれるのは心外です」
 ざっざっざっと、落ち葉の上を歩き、その中に半分埋まったかおりの体を蹴り上げる。
ちょうど目の高さに上がったそれを両手で木の幹に叩き下ろす。
「ぎゃッ!」
 木の幹でワンバウンドしたかおりの体は千鶴の足元に転がってくる。その右腕を千鶴は
踏みつける。
「話なさい。誰が後ろにいるの?」
「殺しなさいよ!」
 ぼきん、と、乾いた音がして、かおりの右腕が上腕でありえない方向に曲がっていた。
そして千鶴はかおりの左腕に足を乗せ換えた。
「拷問は得意じゃないわ」
 言うなり、質問もせずに、千鶴はかおりの左腕を踏み抜いた。
「ンァッ……」
 いくら鬼の回復力でも、骨折の回復には少々時間がかかる。少なくともこれでかおりに
は千鶴を阻めない。
「どちらでも一緒ね。どちらにしてもヨークに行かないと」
 空を見上げる。そこにはもうすでにはっきりと光の蠕動が見え始めていた。まだ、星の
きらめきだとは言えないことも無い。しかし、それほどの時間を必要とせず、それははっ
きりと異常さを浮き彫りにしていくだろう。
「急がないと……」
「……無理ですよ。もう遅い」
「無理じゃないわ。必ず……」
「違う、もう辿り着けない」
「なに……?」
 聞き返して、千鶴は気づいた。無数の気配に囲まれている。エルクゥの気配、逃げ場は、
無い。
「始めからこれが狙い?」
「そんなはずない、私が殺すつもりだった」
 痛みをこらえている所為だろう。かおりの言葉はどこか途切れ途切れだ。そしてその間
に鬼の低い息遣いが聞こえる。
「でもね、私は死ぬわけにはいかないの」
 千鶴の宣言と同時に、鬼の包囲網が崩れて、一気に千鶴に傾れていった。
 5.7.10……16。結構な数。
 千鶴は真上に跳んで、木の枝に掴まる。くるりと逆上がりの要領で木の枝の上に上がる
と、下を眺めた。集まってきた鬼たちは倒れているかおりには目もくれない。仲間という
わけでもないらしい。
 もっとも鬼に倒れた仲間を介抱するような仲間意識はなかったわよね。
 数匹の鬼が上を見て、千鶴は自分が見つかったことを悟る。もとより、隠れられるとは
思ってない。二匹が跳んで、一匹が千鶴の乗った木を蹴りつけた。めきめきと音を立てて、
木が傾く。千鶴は一匹の爪を受け止め、もう一匹を蹴り飛ばす。
 分かっていた。この鬼たちは弱い。おそらくはエルクゥがまだ肉体に定着していないの
だろう。それでも16匹に囲まれるとまずい。千鶴は倒れていく木から別の木に飛び移る。
 その瞬間、がくん、と視界が下に落ちる。
「しまっ!」
 跳んだ足を別の鬼に掴まれる。その鬼は空中で木を蹴り、体制を整えると、体重を乗せ
て、千鶴を地面に向けて投げ飛ばした。
「うぐっ……」
 背中から地面に落ちる。落ち葉のおかげでいくらかダメージは抑えられた。
「あああっ!」
 喉の奥から叫ぶに任せる。右腕と右足を地面に叩きつけ、半回転跳ぶと滑らせた右足で
バランスを整え、向いて左に跳ぶ。3匹の鬼が今まで千鶴がいたところを爪で薙ぐのが見
えた。大気の裂ける音。前に三つ、後ろに二つッ! 振り返りざまに爪を薙いで、一匹の
爪を受け止める。しかしもう一匹の爪が千鶴の右肩を裂いていく。
「くあっ!」
 左手を懐に突っ込む。引き抜きざまに、それを目前の鬼の胸に突きつけて、二回指を引
いた。無煙火薬が二度爆発し、わずかに小指の先ほどの大きさの鋼が鬼の胸に突き刺さっ
て、バラバラに散った。鬼の上体が後ろに突き飛ばされたように揺らぎ、そしてそのまま
崩れ落ちた。
 千鶴の手には大型の拳銃が握られていた。宙を舞った二つの薬莢が落ち葉の上に落ちる。
「グゥォォ……」
 倒れこんだ鬼が弱々しい声をあげる。
 千鶴はそれを無視して、左に向けて二度発砲した。
 ちょうど千鶴に跳びかかろうとしていた鬼が空中で、まるでビデオの静止ボタンを押し
たかのように一瞬止まり、そしてその場に落ちた。
「二人……」
 流石に同胞を「匹」と数える気にはなれなかった。

     ☆★☆

 少し時間は戻る。千鶴と綾香がそれぞれの目的地に向かって出発した後のことだ。主人
の姉の様子を聖羅から確認したセリオが、居間に戻ると、そこには誰もいなかった。ただ、
縁側のほうから小さな話し声が聞こえるので、覗いて見ると立川が深刻な顔で携帯電話と
話をしていた。邪魔をするわけにもいかないので、セリオはその場を離れた。
 柏木の屋敷を一回りしたセリオだったが、結局誰も見つけることができない。結局、居
間に戻ってきたところで、ちょうど電話の合間になったのだろう、コップに注いだ麦茶を
飲む立川と出くわした。
「お電話のほうはもうよろしいのですか?」
「ああ、ちょっと間をおくだけだけどね。まだまだ電話するところがあるんだ。芹香の様
子はどうだった?」
「ぐっすりとお休みです。十分な睡眠さえ取れば、なんの問題もないと思われます」
「そうか、良かった」
「あの、立川様……、綾香様はどちらへ?」
「ああ、君の主人なら東京に戻ったよ。しかし、彼女、運転できるのかな?」
 綾香の運動神経は折紙付であるが、車の運転となると、教習を受けていない人間は、結
構基礎的な知識が欠けていたりするものだ。
 まさかMT車を選んで、クラッチが分からずにエンストするということは……ありうる
かもな。と、考えて立川は苦笑する。
「えっ?」
 メイドロボが面食らう、面白い光景を見たな。と、立川は思った。もっとも、彼女の姉
であるマルチの顔見知りであれば、そんなの当然だよというのかもしれないが。
「とう、きょうに……?」
 消えた言葉が「私を置いて」であることは容易に推測できた。
「綾香さんが君を残していったのは、芹香が気がかりだったからだろう。だから君は芹香
を診ていてやってくれないか?」
 正直、綾香はセリオのことを忘れていたのだろう。しかし、セリオのことを思えばそう
言ってやるほうがいいだろうし、立川自身の都合としても申し分なかった。もっとも、メ
イドロボを気遣う奴と笑われるかもしれないが、立川はあんまりそういうことは気にして
なかった。道具を大切にして、気遣い、声をかける人もいる。こちらの言葉に反応するメ
イドロボを相手にそうすることは、他人にそうすることと大差ないように立川には思えて
いた。
「承知いたしました。それでは失礼します」
「ああ、よろしく頼む」
 立川はそう言うと再び携帯電話を手にとって、縁側に出て行った。セリオも振り返って
芹香の元に戻ることにする。
 正直なところ、セリオは綾香が自分を置いて東京に帰ってしまったことにショックを受
けていた。しかしそれを表に出しても仕方の無いことだ――セリオは自分の(擬似的な?)
感情が表情に出ていることに気づいていなかった――し、そういうことができるようにプ
ログラミングされているわけでもなかった。
 やっぱり私は必要とされていないのだろうか?
 これまでにも何度か感じた疑問が再び鎌首をもたげてくる。綾香はセリオをパートナー
のように扱ってきて、セリオに頼るということをしたことが無かった。綾香は身の回りの
世話を他人にやらせるなど気持ち悪がったし、なんでも率先して一人でやることを好んだ。
 ではなぜセリオは綾香の傍にいるのか?
 最初はメイドロボの適応性を見る試験のついでだった。試験が終わった後は、綾香がセ
リオに傍にいることを望んだ。
 綾香は、
「意外とね、友達って少ないのよね、私」
 と、セリオに漏らしたこともある。
 とすると、綾香は友人が欲しかったのだろうか? しかし、それはメイドロボの業務の
範疇には入らない。そういう機能も与えられていない。しかし、その友達という響きには、
セリオの処理にエラーを生じさせる何かがあった。
 けれども、綾香は一人で行ってしまった。立川からは新しい命令を受けたものの、本来
セリオに命令できるのは綾香だけで、正規のユーザー以外から与えられた命令に関しては
不快感を与えない範疇で準拠するぐらいにしかプログラムされていない。要は、別段急を
要さない限り、というわけだ。
 以前のHMシリーズはユーザーからの命令が無いときはバッテリーを節約する意味もあ
って、休止状態になるのが普通だった。しかし、HM−12以降の――とは言ってもマル
チとセリオしかまだないのだが――HMシリーズは仕事が無い状態でも休止状態にはなら
ない。これは彼女らのコンセプトに少なくとも人型であることが含まれているからだ。だ
からユーザーからの命令が無い状態のHM−13は基本的に自律して仕事を探す。主に以
前ユーザーから受けた命令を必要であれば繰り返す。しかしこの場合、HMX−13型であ
るセリオの置かれた状況――つまり、他所の家ではそれができない。
 何か変だ、とようやくセリオは認識した。
 セリオには立川から命令が与えられている。それが重要なものであることも。ユーザー
である綾香からの直接の命令ではなかったにせよ、もしも綾香が今のセリオに命令を下す
とすれば同じことだろう、と、セリオの処理装置は答えを弾く。
 では、なぜセリオはそれを実行しようとしないのか? それ以外の命令を探している、
そうセリオは自分を結論付ける。なぜ……?
 答えを探そうと、セリオはサテライトシステムにアクセスを試みた。他のHM−13シ
リーズに答えを聞くのもいいかもしれないし、もしかしたらどこかのデータベースに答え
が載っているかもしれない。
 セリオからの要求は無線を利用した電話回線を通じ、受け入れられ……、セリオは聞く
はずの無い声を聞いた。

     ☆★☆

 さて、時は室町中期、場所は隆山が雨月山、鬼が住み着き、度々里に降りては悪事を働
いたという。時の領主は二度にわたって討伐隊を編成。しかしそのいずれもが皆殺しにさ
れた。しかし、三度目の討伐隊にいた次郎衛門という男が鬼を追い払い、隆山に平和をも
たらせたという。そし四百年以上もの時を経て、今、この雨月山に再び鬼を退治せんと過
去の英雄が復活していた。
 鍛え上げられた肉体と、伸びるに任せた髪の毛と、腕には刃の無い刀が一本。本来の肉
体である柏木耕一の姿を忘れてしまったかのように、それは次郎衛門の記憶に残る過去の
自分に酷似していた。
「なるほど、精神が入れ替われば、それに合わせて肉体が変化する。鬼の一族の血を引く
とはこういうことか」
 すでに次郎衛門の半径10メートルほどは大地も枯葉も、木々さえも本来ならば赤い色
であるはずの血に染まり、黒く塗りつぶされていた。次郎衛門の戦い方に容赦はまるで見
られなかった。
 一匹の鬼が背後から次郎衛門に飛び掛る。次郎衛門は振り返りもせずに右手に持った霞
を一閃すると、エルクゥを両断されて急激に力を失っていた鬼の首を左手で跳ね飛ばす。
「覇ッ!」
 鬼の首があったところで静止した左腕を振り下ろすと骨と肉を押しつぶして、もはや残
骸と化した鬼の屍骸が落ち葉に半分沈む。そしてその時にはもう右手の霞が新たな一体を
串刺しにしている。
 次郎衛門は斬る瞬間だけ霞を発動させていた。そうすることで自らの疲労を最小限に抑
えるためだ。今も、串刺しにした瞬間にもう霞の刃は消えていて、そのまま柄を握った右
手でその鬼の腹部を貫いた。
「鬼との戦い方とはな、奴らと同じに、力で戦うばかりが能ではない!」
 振りかぶった左手がやはり鬼の頭部を跳ね飛ばした。噴出した鮮血が次郎衛門自身をも
染め上げる。
「とくと見ておくがいい。この我の戦いをっ!」
 次郎衛門が身を動かすたびに鮮血の肉片が宙を舞い、鬼たちは断末魔の声をあげること
もできず絶命していく。
 それはこれまで耕一がしてきた鬼の力による、圧倒的な攻撃とはまた違っていた。基本
的な動作は単一だ。霞で斬りつける。素手で致命傷を与える。それだけだ。ただ、鬼の姿
ではなく、より人に近い姿で、より素早く繰り返し行う。鬼たちは目に見えない霞の刃を
恐れてか、距離を取って、一気に攻め込んでくる。しかし、その時点でスピードの上回る
次郎衛門が有利になっているのだ。
 数分、それはわずか数分で決着がついていた。大地に立つのは次郎衛門のみ。それ以外
はすべて肉片だった。
 ――終わった、のか?
「いや……、懐かしい気配がするな。意外な奴だ」
「そう、やっぱり分かってしまうんだね」
 森の闇から染み出てきたその影に、耕一は見覚えがあった。いや、まさか、そんなはず
はない。しかし、次郎衛門は耕一とは違い、この状況を平然と受け止めているようだった。
「記憶を取り戻しているようだな……」
 次郎衛門がそう問うたのは、耕一の記憶より随分と髪の毛が長かったからだろう。鬼の
血を引くものの肉体は、精神に大きな影響を受ける。
「そうだね、あなたがなにを考えているかもだいたい分かるよ」
「ここにいるのは偶然か? それとも」
「それが偶然なんだよ。次郎衛門。とは言っても、記憶を取り戻したあたしが逃げる先な
んてここしかないけど」
 ――アズサッ!
 いくら髪の毛が伸びているとはいえ、耕一に見間違うはずもなかった。死んでしまった
と思っていた従姉妹。憎まれ口をよく叩くが、柏木家の中では一番しっかり者だった梓。
 ――梓ッ!
 しかし、その叫びは肉体という大きな壁に阻まれ、言葉にはならない。
 ――なんでだっ! どういうことだよっ! 次郎衛門ッ!
「アズエル、我の宿主が、どういうことかと喚いているんだが」
「ああ、耕一君だね。悪いね。梓の記憶もあるんだが、彼女はどうも表に出てくるのを拒
んでいるみたいなんだ。説明なら、あたしが出来る範囲でやってみるけど、どうだい?」
「是非もない、と、言いたいところだが、俺はあまり気に入らんな」
「あなたはあたしの顔を見てるだけで気が悪いんでしょ? ところで姉様の気配は感じる
けど、エディフィルとリネットはどうしたの? 転生してるんでしょ?」
 ぐっと、次郎衛門の体に力が入った。それでアズエルはすべてを理解したようだった。
「そう、今度はリネットまで……」
「さっき、我がなにを考えているか分かると言ったな?」
「あたしは覚悟できてるからね」
「殊勝なことだ」
 ――どういう意味だっ!
 その耕一の問いかけに答えるように、次郎衛門が霞を構えた。
 ――おいっ! 次郎衛門ッ!
 耕一はとっさに肉体の制御を取り戻そうとするが、うまく行かない。手ごたえはあるの
だが、次郎衛門の抵抗が強くて、制御を取り返せないのだ。
 ――嘘をついたんだな。おまえ。肉体が欲しくて、嘘をついたんだろう!
「やれやれ、今時、嘘をついたと非難されることがあるとはな。耕一、これは最初から賭
けだったんだ。まず我がキサマの肉体の制御を得たところで鬼と互角に戦えるかは分から
なかった。キサマが肉体を貸すとも限らなかったし、その後で、こういう抵抗がどこまで
通じるのかも分からなかった。だからキサマは愚鈍だというのだ」
「どうでもいいんだけど、あたし耕一君の聞こえてないのよね」
「気にするな。おまえは黙って我に殺されればいい」
「でもさ、この状況、切り抜けてからのほうがいいんじゃないの? 上、来てるんでしょ?」
「それも気にすることはない。人間はおまえらが思ってるよりずっとやれる。鬼には人間
に勝てない理由がある」
「へぇ、聞いてみたいね」
「はっ、なぜ教える必要がある。いくぞっ!」
 ――止めろッ!
 耕一の叫びも空しく、次郎衛門は霞の刃を具現化すると落ち葉の下の地面に伸ばした足
の爪を食い込ませ、一気に前に跳躍した。アズエルは眼前に迫った刃に身動きもしない。
しかし、次の瞬間、次郎衛門の振り下ろした刃はアズエルのすぐ後ろの大木を切りつける。
「アズエルッ!」
「分かってるよ」
 アズエルが振り向き様に、その木に拳を叩きつける。大人二人でようやく抱えるかとい
うほどの巨木が、ミシミシと音を立てて折れる。しかし、そのまま倒れるかと思われた巨
木は、45度ぐらいの角度で傾きを止めた。
「……ゴアイサツジャナイカ、二人トモ」
 耕一はようやくその巨木の向こうに鬼の気配があった事に気づく。そしてその男が片手
で倒れかかった木を止めていたのだ。
「ズイブン久シブリダトイウノニナ」
 男は鬼の姿ではなかった。だがしかし、耕一には人間とも思えなかった。それはエルク
ゥという種族の雄が戦闘形態でないだけの姿なのだろう。人間とは酷似していたが、骨格
が人間と比べ異常に発達しているのが分かる。
「レキエルッ!」
 ばっと、次郎衛門とアズエルが後ろに跳んだ。刹那、空が裂ける音だけがして、落ち葉
が宙に舞い上がる。
 ――今、なにかあったのか?
「黙っていろ、耕一」
 次郎衛門が身を屈める、と、続けざまに空を裂くが頭の上を走り抜けていく。相変わら
ず耕一にはなにが起こっているのか分からない。
「行け、次郎衛門! こいつはあたしの獲物だっ!」
「何を、我に鬼を前に引けというかッ!」
 次郎衛門が霞を手に前に跳ぶ。仁王立ちに待ち構えるレキエルの首筋を狙って霞を振り
下ろす。が、レキエルの手が一瞬早く霞の柄を掴んで次郎衛門の攻撃を止めていた。
 ――速いっ!?
 間髪いれず次郎衛門の肌に二つの切り傷ができる。次郎衛門はその攻撃を意に介さず、
体を回転させてレキエルの手を振り払うと、そのまま次の斬撃に移る。しかしまたレキエ
ルの手のほうが早く次郎衛門の攻撃を止めてしまう。
「仕方ない」
 次郎衛門は左の手で、攻撃を止めたレキエルの手を掴んだ。同時にその腕に深い傷が生
まれる。
 と、同時に次郎衛門の視界からレキエルが消えた。アズエルの鉄拳をわき腹に食らい、
レキエルの体が横っ飛びに一本の木に叩きつけられる。
 ここまでの攻防、耕一には目で追うのが精一杯だった。正確にはレキエルの攻撃は見え
ていなかった。
 ――倒した、のか?
「そんなわけがあるか」
 次郎衛門が舌打ちする。その左腕からは流れるように赤い血が滴っていた。
「もう一度言うよ。こいつはあたしの獲物だ。次郎衛門」
「おまえで倒せる相手ではないだろう。何故意地を張る?」
「ククク、ソレハナ、コノ俺ガあずえる、オマエヲ殺シタカラダヨナァ」
 ゆっくりと起き上がったレキエルのその動作にダメージは感じられない。
「本気を出せばこんな奴どうってことないさ」
「嘘をつけ、鬼も男と女の力の差は歴然としているだろう」
「あたしはね、あの地下の暗い部屋で散々な目にあったんだよ」
 ――施設だ……。
「でも、そのおかげでこれだけの力を手に入れた。力が欲しかったわけじゃないけどね」
 アズエルが両の手で自らを抱え込む。その背中が大きく隆起した。筋肉の超蠕動だ。ぐ
ぐ、と、アズエルの体が震えたかと思うと、本来鬼の女性にはできないはずの変身が始ま
った。
「デキレバ誰ニモ見ラレタクナカッタヨ。コンナ醜イ姿ニナルアタシハネ」
 言葉の最後の方は、もはや鬼の唸り声になっていた。
「ククク、面白イモノガミラレルモノダ。ダガソノ姿デ俺ノ速サニツイテコラレルノカ?」
 レキエルが腕を振るうと、手の届かない距離にもかかわらず、アズエルの体に無数の傷
が生まれる。
「それでも二人がかりのほうが効率がいいだろう?」
 次郎衛門が霞を構える。その瞬間、異変が起きた。急激な平衡感覚の喪失。まるで夢を
見ていたところを突然布団ごとひっくり返されたようだった。
 めまいがして、耕一は地面に膝をついた。
 ――ここが限界か……。
 ぶるぶると頭を振って顔を上げる。
 がずん、と、低く凄まじい音とともに、レキエルがアズエルの攻撃を受けたところだっ
た。しかしアズエルの体もすでに満身創痍と言える。どうやら、アズエルはレキエルの攻
撃を正面から受けつつ、必殺の一撃を見舞うつもりだったようだ。
 ――耕一、よく聞け。
「なんだよ……」
 ひどく頭がガンガンして嫌な気分だった。
 ――我の意識を保つのがもう限界になった。我は消えるだろう。
「……は?」
 ――我は消える。もともとキサマに流れる鬼の血が生んだ幻像みたいなものだったのだ
ろう。
「ちょ、ちょっと待てよ。どういうことだ?」
 ――説明してる時間はあまり残されていないようだ。もう、意識を保つのに精一杯でう
まく考えられないのだ……。耕一、我が消えれば、おそらく我の知識はキサマが得ること
になるだろう。しかし、記憶は別かもしれない。我がもっていくからな。だから、耕一、
過去のことは気にするな。我はもう一度時を経て、エディフィルと結ばれるときを待つと
する。
 次郎衛門の意識が消えていく感覚が耕一にも分かった。それは儚く、次郎衛門の持って
いたあの強さをこれっぽっちも感じさせないほど弱い。
「次郎衛門、あんた、本当は……」
 ――買いかぶるな。気味が悪い。とにかく、今は逃げろ。レキエルはキサマの敵う相手
ではない。アズエルに任せて、リズエルを探せ。分かったな、耕一。我がリネットにそう
したように、あいつを幸せにしてやるがいい……。さあ、いけ、耕一。
 別に、次郎衛門の意識は耕一の中にあったので、この場所に残るわけではない。しかし、
消えていく次郎衛門の意識はもうもたないだろう。
「梓、アズエル、ここは任せたっ!」
 耕一は手の中の霞を握り締めて、地を蹴った。

「別レノ挨拶ハ要ラナイノカイ?」
 ――要らないよ、そんなの。
 体の数箇所が引き裂かれる感覚、その感覚を追いかけてレキエルの腕を捕まえる。躊躇
は必要ない、両手でレキエルの右腕をあり得ない方向に折り曲げる。ごきん、という音が
した。
「捕マエタヨ、れきえる」
 アズエルが裂けた口を開いて笑った。


     ☆★☆

「はぁ……、はぁ……」
 千鶴は肩で息をしながら、残り三匹の鬼の隠れているだろう方向に銃を向けていた。実
のところ、これまでで予備の弾丸も含め、すべて使い切っていた。最後の弾丸を放った後、
すぐにスライドを元に戻したので気づかれてはいないはずだ。鬼は明らかに銃を恐れ始め
ていた。それはエルクゥが闘争本能を極化した種族で、素手での狩りに誇りを持ち、これ
まで武器を手に取るということをほとんどしてこなかったからなのだろう。飛び道具、と
いう概念自体がエルクゥには存在していないのだ。そして例え、飛び道具を手にしたとし
ても、エルクゥがそれを使うことは無いだろうと千鶴は予測していた。おそらく、獲物を
銃で撃ち殺しても鬼の求める高揚感は得られないだろうからである。
 それゆえに千鶴はここまで善戦できたのである。しかし、弾丸の無い銃がどこまで脅し
になるだろうか? ここにいる鬼たちがどこまで銃のことを理解しているかも分からない
のだ。

 耕一さん……。

 ここで終わりかもしれない、そんな思いが不意に耕一の顔を思い出させる。そして同時
に柏木賢治の顔も……。

 叔父様……、本当はあの時、叔父様が耕一さんへの遺言を私に託されたとき、私にも何
かを遺していって欲しかった……。でも、叔父様の想いは耕一さんを通して、私にも届い
た、そんな気がします。
 私に後悔があるとすれば、去年のあの時、耕一さんを最後まで信じることができなかっ
たこと……。私はまだ耕一さんへの償いを終えてない、そんな気がします。
 でも、どうすれば償いになるのでしょうか?
 叔父様、教えてください。叔父様……。

 心の一瞬の空白、それさえ鬼は許してはくれなかった。千鶴の緊張が解けるその一瞬を
彼らは待ちつづけていたのだ。枯葉を蹴る無数の足が乾いた音を響かせ、風は正面から千
鶴に襲い掛かる。2メートルほど跳んだ体重を乗せた爪を交わしざま、千鶴の影が素早く
奔る。銃を捨てた千鶴の右手が鬼の腹部を深くえぐり、彼女の黒い髪が数本、空を舞った。
一匹目の鬼を交わした千鶴の目の前に、もう次の鬼は踊りかかっていた。先の鬼が跳んで
千鶴の意識を上に逸らしたからだろう。足元に身を縮めて、低い姿勢で襲い掛かってくる。
攻撃後の姿勢で、カウンターを決められないことを悟った千鶴は左手を前に差し出した。
足元から勢い良く跳び上がった鬼の拳が容赦なく千鶴の左手を捕らえる。当然勢いをつけ
た攻撃は左手一本で止めきれるものではなく、鬼の拳は千鶴の左腕ごと彼女の体を強打し、
千鶴の体はまるで木の葉のように吹き飛ばされる。
 殴られた瞬間ははっきりしていた意識が、後頭部に走る衝撃とともに揺らぐ。平衡感覚
が消え、全身を強打したのは理解できたが、どのような姿勢で、どこで、どこに打ち付け
たのかが理解できない。
「かはっ……」
 ぼやけた視界に黒い影が映る。あっという間に大きくなったそれは千鶴を目掛け、鋭く
伸びた爪を……。
 どくんっ!
「こぉのぉっ!」
 怒声が大気を震わせ、それだけで落ち葉が舞い上がる。
「リズエルの名をなめるなぁぁぁぁっ!」
 大気が、黒い影が疾走した。一つは大きく、空から地に向けて、もう一つは細く、長く、
地から空に向けて。一瞬で交錯したそれらは、赤い色に変わり、一つが地に落ちる。飛び
上がったほうの影が地面に降り立つ。
「ぜーーー、ぜーーーー」
 気配が再び無数に増えていた。
 痛みと傷の所為か、はっきりとは感じられないが、今度は20を超えている。
 ざざっと、左右それぞれから落ち葉を踏む音が聞こえた。千鶴の深手を理解しているの
だろう、今度は同時に攻撃を仕掛けてくる気らしかった。

 耕一さん……、もう一度、会いたかった……。

「使えっ!」
 突然の声に千鶴は振り返る。藪の中から飛んでくるのは2丁の大型拳銃、映画とかで見
かけるものよりずっと大きい。空をほとんど直線で飛んできたそれらを千鶴は迷わず受け
取った。同時に左右から黒い影が躍りかかる。轟音、瞬いた閃光が一瞬夜の森を照らした。
「ぜーーー、ぜーーーー」
 一瞬で二匹の鬼を引き裂いた拳銃を、千鶴は下ろすことなく前方の藪に向けた。さっき
感じた気配は鬼ではなく人間のものだったのだ。
「……手を、上げて……、ゆっくり、出て、来なさい……」
 千鶴の指示に従って、藪の中から出てきた連中の服装に千鶴は見覚えがあった。忘れる
はずが無い、今朝方、さんざん攻撃してくれた相手だ。
「名乗って……」
「陸上自衛隊、第1師団第1偵察隊菅原正人3等陸尉です。柏木千鶴さんですね?」
「そうよ、銃を貸してくれてありがとう。……助かったわ」
 しかし、千鶴はその銃を下ろそうとはしない。男も手を上げたまま、直立不動だった。
「状況を説明します。現在、第一特科連隊が155mm榴弾砲の準備を終え、我々の連絡
を待って照準をいつでも合わせられる状態にあります。また第一普通科連隊による旅団が
いつでも雨月山に突入できます」
「……投降を勧告してくれているわけ?」
 陸尉は千鶴の問いには答えずに、隣の兵士に何かを言うと、その兵士が取り出したもの
を受け取って、千鶴に向かって放り投げた。千鶴が受け取るとそれは迷彩色の麻袋で、中
には硬いものがいくらか入っているようだった。
「その銃の弾薬です。上の命令でその銃と弾薬を持っていくように命令されましたが、正
直なところ、その銃は始めてみる種類です。大きさからして普通の人間が使用しても反動
が大きすぎてまともに扱えません」
「どう、いうこと?」
「分かりません。こうなることを分かっていた誰かがいたのかもしれません。それとも鬼
に対抗するための新装備として実験的に我々に使わせてみる気だったのかもしれません。
我々の受けた命令は貴方の速やかな発見、及び、途中遭遇した鬼の排除でしたから」
「貴方たち普通の人間が鬼に対抗できるの……?」
「こいつを使います」
 陸尉が取り出したのは、銃身が短く切り詰められた散弾銃だった。
「12ゲージ口径のOOバック改を使用します。射程は20m弱ですが、1メートル範囲
に12発の鋼弾をばらまき、熊でも一撃で仕留めます」
「鬼と熊は違うわ……。でも、まだマシかも知れない」
「こいつはすでに実戦でテスト済みです。一体の鬼を相手にするだけなら、訓練された兵
士なら一人でも十分です」
「そうなの……」
 千鶴が何かを言わなくては、と、考えていると、藪の中から一人の兵士が現れて陸尉の
元に駆け寄った。
「周辺域の偵察終了しました。異常無しです」
「そうか、分かった」
 その兵士は敬礼して、後ろに下がる。
「あ、ちょっと待って」
 千鶴は思わずその兵士を呼び止めていた。
「どうかしましたか?」
「いえ、あの…高校生の、女の子はいなかった? 両腕が折れて動けないはずなんだけど」
「いえ、見つけたら保護しますか?」
 そう尋ねたのは菅原正人3等陸尉だった。
「いえ、もし見かけたら気をつけて、襲ってくるようなら躊躇せず撃って」
「女の子を、ですか?」
「そうよ。これまで鬼になったのは男性ばかりだから、知らないかもしれないけど、女性
にも鬼になるのはいるわ。私みたいにね。でも、姿かたちは変わらないし、意識が乗っ取
られることも無いから、気づかないだけ。でもその娘は私たちの敵に回ったの」
「分かりました……」
 少し語尾が濁っていた。理解はしたが、納得ができないのだろう。どちらにしても、一
見非武装の婦女子を銃で撃つというのは気分の良いものではありえない。
「それで、あなた方の受けた命令では私たちに接触した後どうしろということだったの?」
「保護し、雨月山から早急に退去させよ、ということでした」
「朝方とは随分違う対応なのね」
「あれ、の、所為でしょう」
 3等陸尉が空を見上げた。空は木々に阻まれほとんど見ることはできなかったが、そこ
にあの蠢く光点が広がっていることは用意に想像できた。
「私たちが退去した後は?」
「雨月山に無差別に砲撃を仕掛けよ、と」
「そう、やっぱり偉い人たちは知っていたわけね」
 あまり良い気分ではない。それならばもっと早い対処のしようもあったはずだ。結局は、
天空からの敵性体が現れるまでは単なる狂言として捉えられていたのだろう。
「あれについてはどれくらいの情報を?」
 千鶴も空を見上げる仕草をした。
「鬼に関係している、ということくらいしか。我々の間ではあれの所為で人々が鬼に変わ
りだしたのだろうと、噂が広がっていますが……」
「半分だけ正解ね……」
「もし、あなたが正解を知っているというのなら、教えていただけませんか? 柏木千鶴
さん」
「そうね……」
 どうせ今更隠す必要などどこにもないのだ。
「人々が鬼に変わっていったのは、単にその人達にそういう遺伝子が組み込まれていたと
いうだけのことよ。ただ、やっぱりあれが近づいていたというのがその現象に拍車をかけ
たんでしょうけど……」
「では、あれは一体なんなのですか?」
「天駆ける鬼の箱舟……ちょっと修辞的に過ぎたかしら……、そうね、鬼の強襲揚陸艦と
言えば分かりやすいわね」
「つまりあの中には鬼の兵士が一杯に詰まっていて、この地球を侵略するためにやってき
た、と?」
 流石に3等陸尉の目に疑惑が浮かぶ。そんなことは誰も信じない。SF的状況、すでに
そんなものが流行る時代でもない。
「そんな軍事的なものじゃないわ。単なる狩りよ……」
「狩り?」
「銃を持って鹿やイノシシを撃つでしょう? 同じよ」
「我々人類は単なる獲物、そういうわけですか?」
「極上の、ね……。鬼は意思を持って抵抗する相手を嬲り、惨殺することに無上の喜びを
感じるのよ」
「…………」
 場が静まり返る。
 侵略などという馬鹿げた理由であれば、誰にでも理解できたであろう。しかし、地球に
おいて最強の狩人である人類が逆に狩られることになるなどという状況は簡単に理解でき
ない。
「地球規模の人類の危機、ということですか?」
 どうも3等陸尉は事態を冗談に昇華させるという特技を持っているようだった。
「冗談なら良かったんだけどね……。ところで事態をここまで把握しているのは日本だ
け?」
「……それが分からないのです」
「まあ、そうでしょうね」
 こと、国防に関することとなれば、他国も簡単に余所の国に政略を教えるとは思えない。
どこの国も自分の国に閉じこもって作戦を練っているのだろう。それがどんな作戦かは想
像のしようも無かったが……。
「ふぅ……、萩原さん」
「はい」
「残念だけれど、私は先に進まないといけないわ」
「そうですか」
「そうなるとあなた方はどうするのかしら?」
「柏木耕一さんと接触します。その後で雨月山に砲撃を仕掛けます。あなたがたがいよう
と、いまいと……」
「この雨月山になにがあるかは?」
「知りません」
「あれ、よ……」
 それが何かは言うまでも無かった。
「昔この星に狩りにやってきた鬼たちの船が今私たちの足元に埋まっているわ」
 3等陸尉は思わず一歩足を引いたが、それだけでヨークの範囲から外に出るわけでもな
かった。
「これを使って上の鬼たちと交渉する気なの。だから……」
「分かりました。我々はあなたを見つけられなかったし、見つけられるまでは砲撃を開始
しない……。それでいいですね?」
「ごめんなさい……」

「いえ、我々は手段こそ違えましたが、目的は同じだった。そうですよね?」
「そう、信じています」


     ☆★☆

 一度足を前に進めるために、両腕に激痛が走る。
 一歩、また一歩。
 本当は止めてしまいたい。
 どこかにもたれて、目を閉じてしまいたかった。
 それでも、そんなわけには行かなかった。

 ――梓先輩ッ!

 突如現れたその気配を日吉かおりが感じ損ねるはずが無かった。少し違和感を感じはす
るが、それは間違いなく柏木梓の発する気配だった。そうであれば、足を止めるわけには
行かない。
 鈍痛が少しずつ頭の奥から現れる。
それが徐々に大きくなって、やがて彼女自身を狂わせるほどに強くなることを、日吉かお
りは知っていた。明らかに彼女は彼女を支配するものからの命令違反を犯している。だけ
ど、だからこそ、意識を失う前に梓に会いたかった。その結果、自分がどうなるとしても
……。
 藪を掻き分け、落ち葉を踏みしめる。一歩、一歩、それはとてつもなく長い時間に感じ
られたが、実際には一時間も過ぎてはいない。痛みが酷くなるに随い、感じる時間の流れ
と、実際の時間の流れの誤差が大きくなっていく。
 辛い、もう止めたい。
 しかし、止めたとき、かおりは自身がどうなるのか分からなかった。このまま進めばい
ずれ終わるのは分かっていた。
 もう少し、もう少しと自分を騙し、もう一歩だけ、もう一歩だけと奮い立たせる。
 それでも永遠に思えた時間に終焉は訪れる。
 最後の藪を掻き分けたかおりの前に、彼女はいた。
 長く伸びた栗色の髪、異常に発達し、もはや人間とは呼べないその肉体、黄金に光る双
眸、鬼……。そしてもう一人、地面に横たわる男の死体。かおりに見覚えは無い。
「梓先輩……」
 目の前に向かってかおりはそう呼びかけた。
「梓先輩!」
 ゆっくりと鬼が振り返り、藪から半身を突き出したかおりを見た。

 目が合った。

 ――彼女も私の邪魔をするのね……。

 強烈な思考が突然脳内で爆発する。意識は急激に現実から引き離され、現実にはないと
知っている痛みの渦に飲み込まれる。それがあまりにも強すぎて、かおりは自らの体が緑
色の渦に飲み込まれていく様を見た。

 ――彼女を止めて……。

 痛みが晴れた。かおりは何時の間にか、地面にうつ伏せに倒れていた。体が鋭く跳ねる
感覚、かおりは折れた右腕を大きく振りかぶっている。
 どうして?
 三半規管が悲鳴をあげて、ピントを捉えきれない視界に浅黒い鬼の頭部が映る。かおり
の腕にぐっと力が篭った――彼女の意思とは別に――それを目の前の角の生えた丸い物体
に叩きつける。否、叩きつけようとした。
「梓先輩ッ!」
 喉から正常な声が飛び出したことに、かおりは自分で驚いた。
 彼女の腕は目の前の鬼に受け止められている。折れた部分から激痛が走り、思考が一瞬
だけ止まる。しかし、体は止まらない。
「梓先輩!」
 なんと言えばいいのか分からなかった。鬼もかおりの腕を受け止めたまま固まっている。
 その一瞬の隙をかおりの意識が見逃すはずも無く、つかまれた腕を支点に体を回転させ、
鬼の手を振り払うと同時に、その下あごに強烈な蹴りを見舞う。
「先輩、助けて……」
 意識の外から飛び出した言葉が結局それだった。決して言うまいと心に決めていた言葉
……。視界がまたしてもぐるりと回り、体全体に響いた鈍い衝撃から、かおりは自分が空
中で一回りして地面に降り立ったことを感じ取った。
 目の前の鬼は小揺らぎもしていなかった。
「ウォォォォォッ!」
 その叫びはかおりの口から発せられたが、彼女の意思によるものではなかった。そして
その声に反応したかのように、鬼の体が見る見るうちにしぼんでいき、かおりにとってど
こか見覚えのある姿に変わった。
 長く伸びた髪と、以前よりも筋肉質な体に、少し険しい表情、しかしそれらを除けばそ
こにいるのは彼女にとって誰より愛しい柏木梓であった。しかし――
「君は日吉かおりさんだね」
 その唇から発せられた言葉は、かおりに少なからぬ衝撃を与えた。その声は梓のもので
あったが、口調がまるで別人であったのだ。
「どうやら意識はあるみたいだし、声も出せるようだ。肉体があたしを攻撃するのは別の
誰かの意識によるものだね?」
 返事を躊躇った瞬間、足が枯葉を蹴り上げて、体が地面を蹴ったかと思うと、かおりは
宙にいた。
「わ、私じゃない! 私じゃないんです!」
「ならば、どうすれば助けられる?」
 真上からのかおりの攻撃を梓はそちらを見ないままに交わした。
 かおりの視界が地面から引き剥がされて、目の前の梓に注がれる。折れている両腕の攻
撃は無視した上での判断だろう。事実、かおりの体は地面の落ちた衝撃を利用して、梓に
足払いを仕掛けている。
 もうどうしようもないんだ。
 分かりきっていた絶望が再びかおりを捕らえる。だから…
「殺して、殺してくださいっ!」
 ずっと用意していたその言葉が喉をついた。


     ☆★☆

「ここか……」
 耕一は一人呟く。返事は無い。次郎衛門はすでに消えてしまっていた。その証拠に、耕
一にはここがヨーク内部に入るための通路だと分かる。それは単なる岩に見えた。しかし
リネットの語った言葉が正しければ、それは幻だ。それを見るものに強烈にそれが単なる
岩であるという情報を焼き付けているため、手を伸ばせば触れることさえできる。が、あ
くまでそれは情報であり、現実にはそこには何も無い……。
 耕一は手を伸ばす。心の中で、これは岩ではないと念じながら……。指先が触れ、硬い
感触が伝わってくる。しかし、そのまま指を押し込めると、まるでそれは豆腐のように指
を吸い込んだ。
「……!」
 そう、少なくとも豆腐ぐらいの柔らかさがあった。あったはずだ。しかし、その感触は
指先に伝わったと思った途端に消え、そこにはもう地下に向かう大穴しか残されていなか
った。
「なるほど、こういうことか……」
 耕一は一人呟く。
彼は自らの口先に笑みが浮かんでいることに気づいていない。
 この先になにが待っているのかは分からない。
 ただ、リネットから聞いた言葉の一つ一つを反芻して、それを確認できることが不思議
と嬉しかった。もう一度、あの頃に帰れるようで……。


    ☆★☆

「殺して、殺してくださいっ!」
 かおりが発した言葉が鼓膜を叩き、脳裏に届いて、その意味を理解するより先にアズエ
ルは行動した。そしてかおりも……。
 殺して…という言葉とは裏腹に鋭く振り切られたかおりの蹴りを、容易に左手で受け止
めるとその足を掴み、右手の木に叩きつける。
「がハッ!」
 かおりの口から鮮血が待った。と同時に右手がかおりに首を捉え、その木に貼り付けに
した。そして一瞬の躊躇も無くその手に力が込められる。かおりの表情に苦痛が浮かぶ。
 かおりが、死ぬ?
「止めてッ!」

 ――どうしてさ? そう望んだのは彼女だよ。まあ、いいけどね。

 そんな言葉を耳に残して、意識は急激に肉体の感覚を取り戻した。指にかかっていた少
女の重みに驚き、身を引くと、どさりとその体が地面に落ちる。
 かおりの肉体はもう限界だった。両腕だけではなく、右足も折れていた。動きたくても
動けないし、彼女を操るものだってこの状態になった人間を動かすことなどできはしない
だろう。
「かおりっ、かおりっ!?」
 梓の呼びかけにかおりの首が弱々しく応じた。
「梓先輩……、良かった、会えた……」
 しかしそれが最後だった。かおりの体から力が抜ける。
「かおり、返事してかおりっ!」
 しかし梓の感覚は非常にも弱くなるかおりの生命活動を感じていた。ゆっくり、ゆっく
りと鼓動を打つ心臓の力が弱まるのが分かる。
「生きてっ! 目を覚ましてっ!」
 強く肩をつかんでも、弱い肉の弾力だけが返ってくる。力無いそれが伝えるぐにゃりと
した感触に梓はわずかな嫌悪感を感じ、そんな風に感じた自分が汚らしく思えて、胃の奥
が熱くなった。
「うう……」
 以前、変な研究所に囚われていろんな実験をされたとき、自分が世界で一番不幸なのだ
と思った。自分の辛さは誰にも理解されないと思った。誰もこんな辛さは知らないと思い
込んでいた。
 まだなにも知らない子供だったのだ。
 梓はそっとかおりの肉体を横たえた。
 壮絶な戦いを繰り広げ、最後まで彼女の肉体を操っている何者かと戦い続けたにも関わ
らずかおりの寝顔は安らかにさえ見えた。死が安らかであると思いたくは無かったが、こ
のときだけは梓も彼女が安らかであるように祈らずにはいられなかった。
 開いたままの目を指で閉じる。
 本当ならどこかに埋めてやりたかったが、そんな時間はおそらく無い。
 ぎり、と、歯が鳴った。
 そうだ、今くらいは憎しみで戦ってもいいだろう。たとえ憎しみによる戦いが新たな憎
しみしか生まないとしても、敵を跡形残らず潰してしまえばいい。
 めき、と音を立てて、梓の体が一回り大きくなった。
 弔いは派手なほうがいい。
 そう、かおりは賑やかなほうが好きだった。


    ☆★☆

 溶けた金属が絡み合った、そんな印象を受ける室内、明かりは壁がほのかに灯す光のみ
で、字を見るには少々心許無い。空間、そうと呼ぶことしかできない。部屋というにはそ
こには出入り口が見当たらない。まるで生物の胎内にいるようだ。
 そこに一人の女性がいる。肩口で切りそろえられた艶の無い黒い髪、少し据わった目付
きで、静かに壁を見つめている。そう、壁際にじっと立ち、何も無い壁を凝視している。
 そして少年はその空間の中央にふわりと舞い降りた。なにもなかった空間から、あたか
も大掛かりなトリックでもあったかのように平然と出現する。
「すべて、望みどおりですか?」
 少年は空間の中央で、床を見つめ尋ねた。女性は振り返らなかった。
「…望みどおり? まだ、まだ…です…」
「まだ足りないんですか……。僕は貴方に初めて会ったとき酷い寒気を感じたことを覚え
てる。あの時は月島さんの力に怖れを感じたのだと思った、けれど、本当に僕が恐れたの
は貴方の力だったんじゃないかって今は思うんです」
「…私の力はそんなに凄いものじゃない…です…」
「だとしても、僕は貴方のしたことは絶対に許さないでしょう」
「…そうでしょうね…貴方は優しい人だから…みんな、貴方みたいだったら良かったのに
…本当に強くて優しい人…」
「僕は…僕は僕のできることは全て済ませてきました」
「…そう…みたいですね…」
「貴方は僕と同じだ。これから…どうするんですか?」
「…私はみんなに優しさを取り戻して欲しかっただけ…もう、終わったわ」
「終わった?」
「…そう、終わったの…、だから眠るわ…」
 女性が振り返った。恐ろしいほど澄んだ瞳だった。そして彼女の背後で壁が割れた。
「…後一つだけ、貴方がやらなければいけないことがある…」
 そこには一人のエルクゥが眠っていた。
「…この人は柏木耕一さんを待っています。でも、耕一さんはこの人には敵わない、だか
ら…私はこの人を今起こします…」
 彼女の力が展開した。少年に止められる隙間など無い。それは一瞬の出来事だった。そ
れでも少年は走った。彼女との距離はそれほど離れてはいなかったが、それを止められる
ほどの距離ではなかった。
 エルクゥが目を開いた。
「グォォォォォォォォォォォォォォッ!」
 大気を引き裂かんばかりの咆哮に、少年の体がせき止められる。
 そして彼女は微笑んだ。
 少年が始めて見た彼女の笑顔だった。
「…止めてみせて…」
 それが彼女の最後の言葉になった。振り上げられたエルクゥの拳に少年は力の限り飛び
つこうとしたが間に合わなかった。音よりも速く振り下ろされた拳が彼女の体を押しつぶ
し、金属質の床に叩きつけた。ぐちゃりと潰れた肉塊はそれが一瞬前まで一人の人間で、
声を交わしていたことを忘れさせた。
「…んなのってあるかよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!」
 ざわりと少年の背が脈打って、そこから翼が肉を突き破って出現した。勢いのままに目
の前のエルクゥを殴りつける。エルクゥは逆側の壁まで吹き飛ばされて、叩きつけられる。
少年は足元の血と肉を掻き抱いた。しかし空間を捻じ曲げるその力を持ってしても時間を
操ることはできなかった。
 感傷も、後悔すら与えずに、彼女はこの世界から消えたのだ。何もかもが間に合わなか
った。
「ジローエモンッ!」
 エルクゥの叫びが空間内に反響して、わんと少年の耳に響いた。
「ダリエリッ!」
 少年の中のアルガルの記憶がそう叫ばせた。
「僕がお前を止めるぞ、ダリエリッ!」


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