・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第十九話・雨月山の鬼達(前編)・ 投稿者: 智波
 ある時胸が痛んだ。

 それは本当に突然の事で、最初は何が起こったのか分からなかった。

 しかし、変化ははっきりと現れた。

 生きると言う事は変わっていく事だと思う。

 生きる事で、周囲と、自分自身の在り方は常に変化していく。

 それが生きる。
       と、言う事だ。

 でも、もしこれが生きると言う事なのなら、


 私は死にたい…。


 それでも今はまだ死ねないのだ。
 どんなに望んだとして、死ぬ事はできないのだ。
 支配される。ということの意味を知った。

 それは息を吸う事さえ、許しが無くてはできないと言う事。

 でも、これが終われば死ねるのだ。

 これが終われば死なせてくれる。


 私は死にたい…。


・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第十九話・
・雨月山の鬼達(前編)・

「…和弥、目、覚まさないね」
 毛布に包まったまま、か細い声で綾香は呟く。
 場所は狭いヘリの中。爆音に囲まれたまま、綾香の声は誰にも届かない。
「目を覚まさないほうが良いかもね…」
 綾香の髪は水に濡れ、べったりと体に張り付き、服も、下着も、なにもかも
ぐちょぐちょで気持ちが悪い。目からは生気が失われ、それも積み重なった疲
労の現われだった。
 自分は弱気になっているのだ、と、綾香は思う。
 ただ、和弥が目を覚ました時、そこに彼女がいないのなら、しばらくは眠っ
ていても良いはずだ。まだもう少し現実を見なくても良いように…。
 綾香は自分の肩に凭れ掛かって眠っている和弥の頭に自分の頭をこつんと当
てた。

 綾香の反対側では芹香が、聖羅に看護されたまま、今だ気を失っている…。
彼女の眠りも深い…。この数時間で彼女がした仕事の事を考えれば当然かもし
れない。
 長い艶やかな髪は埃に塗れ、白い滑らかな肌は擦り傷と、自らが流した血で
汚れている。長い睫が合わさり、すぅすぅと寝息を立ててなければ死んでいる
のではないかと言うほど静かに、彼女は眠っていた。

 耕一と千鶴は座席ではなく、その前の床に座り、ヘリの壁に背を当てて寄り
添っていた。
 二人ともびしょ濡れで、酷い格好をしていた。それでも二人は寄り添って、
瞳は静かだったが、希望を失ってはいなかった…。
 愛する人を多く失い、絶望も知ったが、同時にお互いがまだ生きており、諦
めない限り希望があることも知った。
 だから二人はお互いを失っても諦める事はしないだろう。
 時に希望こそが、絶望への灯火になることも、知っていたとはいえ…。

 立川は副操縦席に座り、ヘリの向かう先をまっすぐに見詰めていた。
 そして日本の行く先も見つめようとした…。
 彼にとって、自衛隊による来栖川邸攻撃は、単に婚約者への攻撃であったわ
けではない。それは来栖川程では無いにしろ、一つの大企業を預かる身として、
将来を政府に任せておけない、その証拠となった。
 彼には彼の情報網がある。
 政府が孤児を集め、非人道的な実験を行っている事も、彼は知っていた。し
かしそれが実際に自分の身に降りかかってくるなどとは予想だにしていなかっ
た。
 人は、企業は降りかかる火の粉を嫌う。できるだけ火元から逃げ出そうとす
るものだ。火元が単なる焚き火なら消せるかもしれないが、山火事だったらど
うしようもないからだ。
 しかし、彼の婚約者とその妹は、それが山火事だと知っていながら、真っ直
ぐにそれを消しに向かった。
 当然利益などあるべくも無い。
 あるのは己の自己満足に過ぎない。
 企業の重鎮としてはあってはならないことだ。もっとも彼女らは来栖川の人
間ではあっても社員ではない。会社の行く末など考える必要も無いのではある
が…。
 だが現在山火事は飛び火に飛び火を重ね、眺めていたはずの対岸にまで及び
始めている。このままでは何処にも安全などなくなるだろう。だとすれば、で
きることは一致団結して消化に当たる事だけだ。
 もっとも一致団結できればの話ではあるが…。
 立川はヘリの副操縦席からヘリの行く先を眺めている。
 その視界にゆっくりと隆山の町並みが見えてきていた。


   ☆★☆★☆

「大丈夫ですか?」
 若い、ヘリのパイロットは少し緊張しながら、ずぶ濡れの珍客にそう尋ねた。
「気にするな。とにかく急げ」
 やはり客は少しばかり気が立っているらしい。それもそうかも知れない。折
角の潜入捜査を台無しにされたのだから…。
「ところで来栖川の連中はどんなでした?」
「…危険な連中だよ。奴等のほとんどはすでに人間ですらない。鬼の仲間だか
らな」
 鬼、これほどまでに日常会話にそれが上る事など、ついぞ最近までは想像も
されなかったその単語。しかし今ではそれは畏怖の対象として人々の脳裏に記
憶されている。
 鬼は現実に存在し、人を殺し、その生き血を啜るのだと…。
「よく、そんな連中と一緒にいられましたね」
 パイロットは少し怯みながら、それでもその好奇心を押さえ切れずにいた。
 好奇心猫をも殺す…。
 少なくとも今の日本では忘れ去られている事だ。
 しかし、しばらくすればみな思い出す。
 余計な事には首を突っ込むべきではない。
「他人を信頼させるのは簡単だ。身内を信頼させるよりはな」
 男は憮然としてそう言った。
 パイロットはなるほどと肯く。
 おそらく彼は何を言われたところで肯いた事だろう。
「そちらの方も大丈夫ですか?」
 パイロットは気を良くして、もう一人の珍客にも話し掛けた。
 そちらは少し年は取っているが、言い様のない美人で、服も髪もびしょ濡れ
にして震えている様は、守りたくなるような弱さと、抱きしめたくなるような
艶を醸し出していた。
「…ええ、少し寒いけど、大丈夫。毛布、ありがとう…」
 蒼くなった唇を小さく動かして、そう言われれば、何を要求されていたのだ
としても肯いてしまいたくなる。そんな魅力のある女だった。
「いえ、仕事ですから」
 少し照れて、しかし仕事に忠実なクールな印象を与えようと、彼は前を向い
て、そう答えた。
「行き先は隆山で良いんですね?」
「ああ、必ず連中とは私の手で決着をつけてみせる」
「味方が隆山に着くのには数時間かかりますが、その間大丈夫ですか?」
「もちろん。むしろ数を減らしておいてくれても良いくらいだ。必要なのは連
中を連行するための護送車くらいのものだろうからな」
「あはは、頑張ってくださいね」
 パイロットは来栖川邸襲撃が成功した事に気を良くして、安心している。他
の自衛隊員もそうだろう。
 鬼と言っても大した事はない。
 我々の前に逃げるしかなかったではないか…。
 しかしそれが命取りになる。
 そう思って、柳川はほくそえんだ。


   ☆★☆★☆

 来栖川邸と、柏木邸を比べる事など愚かな事だ。
 来栖川家は戦前より日本の経済に深く根差し、財閥として今の地位を築き上
げた。その勢力圏は日本どころか、世界に及んでいる。もっとも、今現在その
地位は失墜したと言って、ほぼ間違いはないだろうが、それでもつい先ほどま
でその邸宅は健在であった。
 それに対し柏木家は戦後にある人物が一代にして築き上げた温泉宿に過ぎな
い。隆山の経済には深く根差しているが、それだけである。
 それでも一般人からすれば、どちらの邸宅もある一つの表現で表す事ができ
る。
 つまり「金のかかった家」と言うわけだ。
 どちらにしても一般庶民の手に届かないと言う意味では同じであろう。
 もっとも現在、来栖川邸はその主人を失い、砲弾の餌食となり、柏木邸は賊
に入られた痕跡がまざまざと残っていた。
 畳と言う畳は捲られ、戸棚や箪笥は引っ掻き回され、衣服や、貴重品がばら
撒かれている。
「酷い有り様ね」
 芹香に肩を貸した綾香が呆れたように呟いた。
 それと同時に、家の外からヘリの飛び立つ音が聞こえてきた。
「立川さんはこれからどうするの?」
「さあ、困ったな」
 綾香の問いに、立川はまるで、今晩の食事を肉にするか、魚にするか迷って
いるくらいの気軽さでその言葉を口にした。
「ただ、芹香を置いてはいけないだろう?」
「だったら姉さんを連れて、一緒に逃げれば良かったんじゃない」
「それは芹香が嫌がる」
 立川は肩を竦める。
 綾香も苦笑した。
「分かったわよ。だったら姉さんをお願い」
 綾香が自分の肩で支えるようにしていた芹香を、立川の手に委ねる。
「…………」
「無理をしないでって? それは私の科白でしょ。姉さん」
 ちょっと微笑むと、芹香の髪をそっと撫でて、綾香はその場を後にした。

「芹香、私も綾香さんと同じ事を言いたいんだけどな」
「…………」
「……そうか、それが精一杯かもしれないな」
 立川は柏木家の居間の壁に凭れ、腕の中の芹香に軽くくちづけた。
「何があっても生きるんだ。いいね?」
「…………」
 本当に軽いくちづけの後、二人はそっとお互いを抱きしめた。

 和弥は今だ眠っていた。
 とりあえず、一番状態のまともだった客室に寝かせ、今は立川のメイドロボ
である聖羅が様子を見ている。
「あの、和弥の容体は?」
 聖羅にどう接すれば良いか分からない綾香は、その辺で困りつつ、そう尋ね
る、と、聖羅は横に首を振った。
 この辺のアバウトな反応は来栖川の最新型メイドロボに似ていると言えば似
ている。
 従来のメイドロボなら、間違いなく、言葉で答えていただろうから。
「意識は戻るの?」
「……体ノ状態ハ正常デス。傷モ癒エテマス。タダ、脳波ガ…」
「脳波がなに!?」
「……夢ヲ、見テイマス」
「夢…」
 思わず綾香は言葉を失う。
「……夢」
 その言葉を繰り返す。
「…夢…」
 そう、和弥が夢を見ているのであれば、それが幸せな夢でありますように。

「とりあえずは情報を収集しなくちゃ…」
 額に拳をぶつけて、耕一は壁に凭れている。
 場所は柏木家の仏間だ。そう、千鶴達の両親だけではなく、今は耕一の父も
そこに祭られている。
「鶴来屋が無事なら…」
 千鶴は荒らされていた仏壇を、一つ一つ片づけていた。
「足立さんなら何か知ってるかもしれない…」
「…信用できる?」
「私は耕一さんのお父様の次くらいに信頼してるわ」
「そう、か…」
 そう言って耕一は背を向けて、仏間を後にする。電話をかけに行くためだっ
たが、そこにいる父から背を向けるためでもあった。
 …親父、あんたはまだ千鶴さんを傷つけてるんだな…。
 …俺じゃ、代わりになれないのかな?
 耕一はふと足を止める。
 …そうだよな。俺は誰も守れなかった。あんたにはまだ敵わないな。
 電話を上げる。

 無音…。

「あれ?」
 フックを手で押して、また受話器を耳に当てる。

 無音…。

「…電話が通じない…」
 耕一は呆然と呟いた。

 ざああああああああ…。
 シャワーから吹き出した熱いお湯は、海の水に濡れ、ギスギスになった髪の
毛を洗い流してくれる。
「ふぅ〜」
 一度シャワーを直接顔に浴びて、綾香は息を付いた。
「ほら、姉さん」
 綾香はシャワーを手にとって、浴槽の中で暖まっている芹香の顔にそれをか
けた。熱いシャワーの雨を被って、芹香は呆然と、眼をぱちくりさせた。
「気持ち良いでしょ?」
「…………」
 芹香はこくりと肯いた。
「何? 聞こえないわよ。姉さん」
「…………」
「気持ち良いって?」
 コクリ。
「分かってたわよ。もぉ、姉さんったら」
 コンコン。と、浴室のドアが叩かれる。
「二人とも、服、ここに置いておくから」
「は〜い、千鶴さん、ありがとう!」
「…………」
「姉さんもありがとうって!」
「ちゃんと暖まってね」
 二人分の服を浴室の外に置いて、千鶴はほう、と、息を吐いた。
 こうしていると昔のような気がする。
 そう、梓が家事を仕切るようになるより前の事だ。
 梓は今でこそあんな風に仕切り屋になってしまったが、昔はむしろ単にやん
ちゃな女の子で、外で泥だらけになって帰ってきては母さんに叱られてた。そ
んな時、お風呂で泥を洗い流す梓に、洗濯したての服を運ぶのはいつも千鶴だっ
た。
『千鶴姉、ありがとっ!』
 そんな威勢の良い声が浴室からは返ってきたものだ。
 その梓はもういない…。
 千鶴は自分の部屋に戻ろうと、楓の部屋の前で足を止めた…。
 耕一の事件の時、千鶴が全てを明かせたのは楓だけだった。それは楓が鬼の
力に覚醒し、かつ耕一に惹かれていた事を知っていたからだった。それは小さ
な仲間意識…。千鶴と楓が共有できる想いだったから…。
 だから二人は背負う事ができた。
 柏木家の長い歴史の裏にある、地獄の日々を…。
 しかし、今は楓には頼れない…。
 自分の部屋の扉を開け、ベッドに倒れ込む…。
『千鶴お姉ちゃん!』
 初音は良くそんな風に千鶴を呼びながら、この部屋にやってきた。
 満面に笑みを浮かべて、幸せ一杯と言った風で。
 千鶴はそんな初音にどれほど助けられただろう?
 いつも笑顔を絶やさぬ妹が、たまに部屋に閉じこもって泣く事を千鶴は知っ
ている。両親を失ってから泣き続けた初音が、賢治が来てからは泣く事を止め、
その賢治が逝ってからは人前で泣く事はせず、一人で泣いていた、強い子だ。
 しかし、千鶴はもう初音を慰める機会を永遠に失ってしまった。
「う……」
 溢れそうになった涙を必死に堪える。
 ただ、それにはここはあまりにも思い出がたくさん詰まりすぎていた。
 ……コンコン。
「千鶴さん?」
 耕一の声に、千鶴はどうすればいいか、分からなくなった。涙は引っ込んだ
ようで引っ込んでない。耕一の顔を見れば途端に溢れ出そうな気もする…。
「な、なんですか?」
 でも、涙声は出したくなかった。
「食うものが無いから、ちょっと買ってくるよ。ついでに電話もしてくる」
「……はい。行ってらっしゃい」
 耕一の足音が去っていくのを確認してから、千鶴は思いっきり泣いた。


   ☆★☆★☆

 不思議な感じがした…。
 まるで呼ばれたような…。
 耕一は振り返った体勢のまま、しばらく立ち尽くす。
「…柏木さん、どうかしましたか?」
「いや、なんか変な感じがして。……多分なんでもない。さ、行こう」
 場所は隆山の駅前商店街である。
 それであるにも関わらずこの場所には人っ子一人いない…。
 耕一は見つけた誰もいないコンビニの中を覗き込んで、そのレジの奥まで覗
き込んで戻ってくる。
「それにしてもおかしすぎる…」
「誰もいませんね…」
 コンビニの扉のところから商店街を一度見回して、立川が言った。
「気配すらしないんだ。つまり、本当に人っ子一人いないのさ」
「……隆山は鬼の発生率、こんな言い方は変なんですけどあえて使いますね。
隆山は鬼の発生率が日本一です。それも日本の他の地方に比べ、群を抜いて
その数字は高い…。だから住民が避難したとか…」
「確かに鬼による被害は天災に近いものがあるからな」
 コンビニの食品棚を漁りながら、耕一は少し引きつった笑いを浮かべた。
「だがいくら隆山での鬼の発生率が日本一だからと言って、全住民が避難する
ほどのものでもないさ。それに…」
 と、耕一は食品棚から一つのおにぎりを立川に放り投げた。
「なんです?」
 うまく受け損ねて、地面に落ちたおにぎりを拾い上げながら立川が問うた。
「日付だ。今朝八時の入荷になってる。今が四時。避難するというのに悠長に
おにぎりなんか並べるものだろうか?」
「分かりませんよ? 大地震の時だっていち早くコンビニは営業再開したくら
いですからね」
「確かにそうとも言えるけど…。こう、なにか変な感じなんだ。何かがこう、
噛み合わない」
「考えたって仕方ない事もたくさんあります。それじゃあこっちから質問して
もよろしいですか?」
「うん、まあ、俺に答えられる事なら」
 耕一はレジの裏からビニール袋を失敬して、食品をつめ始める。
「何故隆山では鬼の発生率が異様に高いのか…。貴方は理由を知っているんじゃ
ありませんか?」
「…………!」
 一個の紅鮭のおにぎりが耕一の手を離れ、一メートルと少しの距離を落下し、
床で潰れた…。


   ☆★☆★☆

「う……」
 急激に意識が明白になっていく。
 夢を見なかった眠りとは違う感覚。
 それは起きると同時に夢を忘れてしまった時の感覚だった。
 ただ夢は見たような、見なかったような、分からない…。
 一つだけ分かっていた事が重いという事だった。

 瞼を開ける。

 ただそれだけのことにえらく苦労する。
 薄く開かれた瞼から、夕陽の光が見えて、それすらも眩しい…。
 目を閉じようとした時、赤い夕日を遮って、見覚えのある顔が見えた。
「…セリオ、さん…」
 そしてもう一体、見覚えの無いメイドロボだ。
「−−浅水様、大丈夫ですか?」
「…なんとか…」
 答えては見たものの、体を起こす事すらできなかった。
「ふ〜」
 とりあえず起き上がるのは諦め、体を落ち着かせる事にする。
 するとまず当然の疑問が浮かんだ…。
「ここは?」
 ついと腰を上げて、セリオが障子を閉める。すると眩しかった夕日は遮られ、
真っ赤に染まった障子はむしろ美しくあった。
「−−隆山の柏木様のお屋敷です」
「隆山……、着いたのか…」
 その言葉を口にした時、ようやく不鮮明だった記憶が甦ってくる。
 爆発の衝撃と、水の冷たさ、そして消えていく意識。
 自分は死ぬのだと覚悟を決めたはずだった。
「そう、か。生きてるのか」
「−−はい」
 独り言だったのに、セリオは律義に返事をする。
 和弥はセリオに向けて、顔を倒す。
「真奈美は?」
「−−−−」
「え? セリオさん。真奈美は?」
「−−−−」
 セリオは俯いて答えない。
 胸の辺りから喉の辺りまで、不安が水を注ぐように上がってきた。
「セリオさん!」
 和弥は痺れている体を必死に動かして、セリオに縋りついた。
「なんかの冗談だろ? ね! 真奈美は!?」
「−−−−」
 セリオの肩が震えている。
 だが涙は出なかった。
 彼女には涙を流す機能はない…。
「セリオさんっ!」
 もはや絶叫になった和弥の声に、
「−−真奈美さんは海で行方不明です」
 セリオは応えた…。

「……ウソだ!」
 セリオの体にしがみつくように和弥は体を起こしている。それは和弥がセリ
オを抱擁しているようにも見えた。
「ウソだっ!」
 耳が痛い…。
 初めてセリオはそんな事を思った…。
「−−いいえ、本当です」
 ぐっとセリオを抱く和弥の腕に力がこもった。
 ココロも痛い…。
「−−私たちは真奈美さんを発見する事ができませんでした。おそらく−−」
「言うなっ!」
 和弥がセリオを掻き抱いた。
 それは愛を求める抱擁と言うよりは、自分を支えるための足がかりを求めた
ような、そんな抱擁だった…。
「言わないでくれ…」
「−−−−」
 セリオは何も言わなかった。
 ただ、和弥の背に手を回し、ふらふらの和弥の体をしっかりと抱きしめた。
 夕陽が少し傾いたかもしれない。
 少し暗くなってきた。
 そんなことをセリオが思っていると、耳元から悲しい声が聞こえてきた…。
 押し殺した、言葉ではない音…。でも、声。
「うっ……、う、うう………」
 それは鳴咽。
「−−−−」
 咽び泣く和弥を抱きしめながら、セリオはやっぱりココロが痛いと思った…。

 ココロ?

 心…。


   ☆★☆★☆

「鬼の血は純粋に遺伝するんだ。伝説より何百年かの時が経っている。幸い失
伝はせずにすんだものの、血の流出は避けられない。特に男子は成人するまで
知らされない事になってたんだしね。一度血が流出してしまえば、後は広まる
ばかりだ。交通手段が確立されたせいで鬼の血は広く広がっている。まあそれ
でも隆山で一番多いというのは、あまり外にでないという地方柄もあったんだ
と思う。もっとも昨今は観光客のせいで、さらに広まったみたいだけど」
「ということは、浅水君も?」
「そう、遠くか近くかは知らないが、柏木家の血脈だと言う事になる」
「血、血、って言ってたから、なんか血の匂いがするような気がしますね…」
 立川が重苦しくなった雰囲気を誤魔化そうとしてか、冗談交じりにそう言っ
た。
 ふと、耕一の手が止まった。
 そう、何故気が付かなかったのだろう?
 親しみ慣れた臭いではないか。
 それは血の臭いというよりは、死臭…。
 耕一はレジに食料の詰まった袋を置いて、その奥の飛び込んだ。
 特に変わったところはない。しかし、死臭は確かにこの近くから…。
 辺りを窺うように眺め回していると、その後ろから立川が覗き込んでくる。
「どうしたんですか?」
 耕一は答えない。
 ゆっくりとその場にしゃがみ、床についた赤黒いシミを指でなぞる。
 かさかさに乾いたそれは、耕一の指の動きに合わせて床から剥がれた。
「それは?」
「……血だ」
「血?」
「ここで誰かが血を流したんだ。それだけは間違いない…」
 それは、二人にとってとてつもなく不気味な響きを持っていた……。
 誰もいない商店街。
 一体住民は何処に消えたというのだろうか?
 いや、もし消えたのではなく……?
「調べる必要があるな…」
「あまり気が進みませんね。とりあえず食料を運んでからではどうです?」
「そう、だな。じゃあ頼む」
 立川は肩をすくめる。この人はどうしようもない。
「……はい、分かりました。無事で」
「君のほうが普通の人間なんだからな。それは俺の台詞だろう?」
「そうですね」
 立川が苦笑する。
「それじゃ戻ります。彼女らにはどう伝えます?」
「そのままでいいよ。調べる事ができたから、と」
「はい」


   ☆★☆★☆

「あ〜、良いお湯だった」
 千鶴の用意してくれた服に袖を通した綾香と芹香はバスタオルを頭に載せた
まま廊下を歩いていた。
 とりあえずは居間に行こうと思ったのだ。
「ほーら、姉さん、バスタオルがずれてるわよ」
 そんな事を言いながら綾香が芹香のバスタオルを乗せ直す。
「えーっと、居間ってどっちだったっけ?」
 廊下でふとそんなことを呟いてみる。来栖川邸ほどではないが、見慣れない
家で迷うと言うのも悪くはないものだ。もっとも普通では家で迷う事など夢の
ようだが。
「…………」
 芹香が廊下の一方を指差した。
「こっち? そうなの、姉さん」
 こくこく。
 芹香が指差したほうに歩き出す。
 その時、
 とぅるるるるる、とぅるるるるる、とぅるるるるる…。
 と、進行方向からベルが聞こえてきた。
 綾香は当然のように、前に進み、玄関先の電話を取り上げる。
「はい、柏木です」
■あ、かおりと言いますけど、梓さんいらっしゃいますか?
「かおりさん? あの、ちょっと待っててね」
■はいっ!
 綾香は受話器を電話機の横に置いた。
 どうすればいいのだろう? 梓は死んだのだ。とりあえずは千鶴に言わなく
てはなるまい。

「あの、千鶴さん?」
 扉の前で問い掛けてみる。
「お風呂上がったのね?」
 中から千鶴が返事をする。
「はい、で、あの、梓さんに電話が、かおりさんって人から」
 扉を通じても千鶴の声のトーンが変わった…。
「かおりさんから? ……分かりました。私が出ます」

「もしもし、かおりさん。梓の姉の千鶴です」
■あ、お姉さん、いっつもお世話になってます〜! も〜、最近お電話しても
■いらっしゃらないし、直接お家のほうにも行ったんですけど、やっぱり誰も
■いないし、梓先輩学校にも来てないし、どうしたのかなって。ホントに毎日
■電話してたんですよ〜。
「あ、あの、本当にごめんなさいね。みんなで旅行に行ってたの」
■旅行ですか〜。いいナ〜。私も行きたかったかも。
「それでね、私だけ用事があって一足先に帰ってきたのよ。だから梓はまだ帰っ
てきてないの」
■あ、そうなんですか。寂しいな〜。わっかりました。それじゃあ、また電話
■します!
「はい。お願いね…」

「いいの? ウソなんかついて」
 受話器を置いて、部屋に戻ろうとした千鶴の目に、廊下の壁にもたれるよう
にして立っている綾香が待っていた。
「良いんです。誤魔化しでも知らないほうが良い事もあります」
 千鶴が斜め下に顔を背ける。
「そうかもしれないけど…。でも和弥はどうして知る事になるのに…」
 綾香も顔を俯けた。
「なんか不公平だよ」
「そうかもしれません。でも…」
「でも?」
 綾香が顔を上げると、千鶴がまっすぐにこちらを見据えていた。
「浅水君は事件に巻き込まれたとは言えその当事者です。来栖川さん、貴女と
同じで。ここまで関わったからには、責任があります。違いますか?」
「……その通りだと思う…。でも、辛いよね」
 千鶴は肯く。
「だから貴女が浅水君に何をしてあげられるかが問題なんですよ。少なくとも
貴女にとっては」
「和弥にとっては?」
「それが一緒である事はとても素晴らしい事だとは思いませんか?」
 千鶴の返答は綾香の問いに対する答えをはぐらかしていたが、綾香はあえて
追求を避けた。それは追求したところでどうしようもない事であったからでも
あるが、千鶴の言った事を望む自分がいたからでもあった。

   ☆★☆★☆

「…どうして? と、貴方は聞きましたよね」
 水禍はそのだだっ広い部屋の端で、その中央にいる初音を見るとも無しに眺
めながら呟いた。
 その足元には今だ気を失っている祐介がいる。
「…理由を聞いて、どうしようというのですか?」
 初音もただ上を向いて目を閉じている。
 生きているのか、死んでいるのか、いや、生きてはいるのだろうが、果たし
てそれは本当の意味で生きているという事なのか?
「…そして私が理由を言ったとして、それが貴方に理解できますか?」
 水禍はただ、初音を見つめている。
 彼女を通して、彼女の呼ぶ終局を見つめているのかもしれない。
「…人間はお互いを理解していると思い込んでいるだけです」
 水禍には聞こえている。
「…TVなどの情報によって、同一性を植え付けられ、個性があるというのも
思い込みに過ぎず、内の部分ではみな一緒だと…」
 初音の悲しい声が…。
「…思い込まされているに過ぎません」
 星渡る獣呼ぶ声は、とても悲しい音色の唄なのだと水禍は思った。
「…だから他人の悩み、苦しみを理解する事ができないのです」
 それは自分が孤独である事を知ったが故の悲しい唄…。
「…自分と同じように考え、さも自分の事であるかのように助言する」
 仲間を呼び、泣き叫び…、
「…だから気付かない。自分にとっては些細な苦しみでも、他人にとっては耐
え難い痛みであったりする事に」
 助けようとした人間からさえも虐待された鬼の娘の、悲しい唄…。
「だからみんな同じくらい痛くなれば良い…」
 水禍は壁から背を離す。
「そうすれば、そのことでは他人を理解し、お互いに優しくなれると思うから」
 そして初音に背を向けて、歩き出す。
 彼女にはまだする事がある…。


   ☆★☆★☆

 その建物には死臭というよりは腐臭が漂っていた。
 体を両断された若い女性の死体の頬をそっと撫で、その目を閉じさせてから
耕一は立ち上がった。
 周囲は死体の山、地獄絵図というに相応しい光景だった。折り重なった老若
男女を問わない、原形を留めない肉の山…。
「…………り施設……」
 耕一が足元まで引っ張ってきた、一つの新鮮な死体を持ち上げる。
「生ゴミ処理施設だと!」
 そしてそれを思いっきり、その山の上めがけて放り投げる。
 ぐちゃ、だとか、ぐちょ、だとか、とにかく嫌な音がして、その死体が一番
上に落ちる。それはこの施設を守っていた鬼の死体だ。変身も解け、人間の姿
に戻っていたとは言え、耕一には許す事などできる訳が無かった。
「ふざけやがって!」
 耕一の足元で床がミシミシと音を立てる。
 耕一から凄まじいプレッシャーが放たれる。
 死体の山の向こうから、死体を担いだ一匹の鬼が姿を見せた。
 耕一の姿を見て、ニィと笑いを見せる。
 そう、楽しんでいるのだ。と、耕一は理解する。
 鬼が、人間の作った食い残し処理場で、人間それ自身を処理するという皮肉
を…。
「うおおおおおおおおおおっ!」
 耕一は腹の底から絶叫を上げながら、その鬼に向かって跳んだ!


   ☆★☆★☆

「あーあ、酷いなあ」
 苦笑しながら、綾香は足元のゴミを手に取った。
「ごみ箱、どこ?」
「…………」
 芹香が手に持っていた小さなごみ箱を綾香に差し出した。
「ありがと、姉さん。ところで他の連中はどうしたのよ?」
 芹香は良く分からない、という表情で綾香を見る。
「ん〜、まーいいわ。とりあえず片づけましょ」
 そう言って、綾香がゴミをごみ箱に放り込み始める。芹香もゆっくりと綾香
の動作に倣った。
「まったく、私ってば働き者よね」
「綾香様」
「はい?」
 冗談で言った愚痴を聞かれたのかと思い、何処となく焦りつつ綾香が振り返
ると、そこには姉の婚約者のメイドロボが立っていた。
「浅水様ガ目ヲ御覚マシニナリマシタ」
「ホントっ!?」
 声は疑問系だったが、綾香はすでに走り出していた。
「……」
 聖羅は答えを言う相手を失い、しばし戸惑う。
「…………」
 ふと、彼女は、芹香が自分を見ている事に気が付いた。
「何カ御用デショウカ?」
「…………」
「ワカリマシタ」
 命令を与えられて安心したのか、聖羅は、芹香と一緒に居間の片づけを黙々
と、本当に黙々と始めたのだった。

「和弥、目、覚めたんだって?」
 綾香は精一杯の笑顔を見せながら、障子を開けた。
 次の瞬間、目の前に飛び込んできたものに言葉を失う。
「あれ?」
 それはセリオに頬を重ねるようにして、その耳朶か、耳の付け根くらいに唇
をつけた和弥だった。
「あ、綾香様!」
 顔を真っ赤にしたセリオが、同様を露にして声を上げる。
 しかし、和弥はそんなことにはお構い無しに、ゆっくりと立ち上がった。
「セリオ、ありがとう。それから綾香もありがとう」
 和弥は二人ともに目が合わないように、綾香の横を通りすぎて、廊下に出る。
「ちょっと! 和弥!?」
 言葉の意味が分からずに、綾香は慌てて和弥の背を追いかける。
「どうしたのよ!?」
 和弥が立ち止まる。しかし振り返りはしない。
「僕は手を引く」
「……え?」
「僕が戦う必要は無くなった」
 そう言うと、もう話は終わりだと言わんばかりに和弥は歩き出す。
「でも、ここから出ていってどうするのよ!?」
「……分からない。でも、僕は人間がどうするのをか見てみようと思う」
「なに?」
「同じ同胞を殺すような人間が、鬼の来襲でどうなるのか。ただ見ていようと
思う」
「なによ、それ! 逃げるの!?」
 和弥は玄関で自分の靴を見つけ、足を通す。
「違うよ。自分の居場所を変えてみただけだ」
 立ち上がり、扉に手をかける。
「弱虫! 好きな人が死んだくらいでなによ! 世界が滅びるとか、そう言う
間際なのよ! 戦いなさいよ!」
「…僕は関わりたくない」
 そう言って和弥は扉を開ける。
 いや、開けようとした瞬間、扉が先に開いていた。
「あの〜? こんばんわ」
 そこには先輩の家族向けの笑顔のまま、ちょっと固まった日吉かおりが立っ
ていた。

 −−−続く。

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