・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第十七話・最初の衝撃・ 投稿者: 智波
 そこは広大な森林公園に囲まれた来栖川邸の一室である。
 無駄な装飾が存在しないその部屋には窓すらない。まるで付け替えられたば
かりのような蛍光燈に照らされたその部屋には、会議室、以外の呼び名は有り
得ない。
 だから会議室をイメージしてもらえば良い。それ以外にこちらも説明のしよ
うが無い。閉じ込められたかのような錯覚を覚える一つしかない扉も、無駄に
長い長机も、居心地の悪い人が座る事を拒絶しているかのようなパイプ椅子も、
全てはここが会議室であると主張しているようだ。
 長机の端、大佐の座る席の前には灰皿と、灰と吸い殻があったが、当の本人
は煙草を咥える様子はなかった。どうやら子供の前では煙草を吸わない主義ら
しかった。
 しかしそれでもやはり煙草は恋しいらしく、灰皿をちらりと一瞥すると、大
佐はため息ともつかないようなわずかな吐息を吐いて、そこに集まった一堂に
視線を送った。
「さて、我々の置かれている状態を確認しておこう」
 彼の視点から見て右手手前に耕一がいる。憮然とした表情で、一人何かを考
えているようだが、なにを考えているのかは分からない。
 その隣に千鶴。笑おうとして笑えてないような、そんな表情だった。
 さらにその向こうに柳川が座っている。耕一と同じように憮然とした表情を
しているが、彼の表情はむしろ凍り付いているのであって、何かを考えている
ようには見えなかった。考えていたとしてもろくな事ではないのだろう。
 そのさらに向こうには夕月。いつも着ている白衣をやっぱりいつものように
着込んでいる。額に皺を寄せている彼女は、知っている事が多すぎるのだろう。
 左手一番手前には綾香がいた。これから知らされる事をどことなく予感して
いるのだろう? わずかに緊張した表情を見せている。
 その隣には和弥がいる。何も知らない彼は、困惑している。彼は知らない事
が多すぎる。
 その向こうに真奈美がいる。彼女はいつも通りに呑気そうだった。彼女は何
かを知っていたとしてもそれを表に出すタイプではなかっただろう。
 一番最後に芹香。彼女に関してはいつも通りと言う以外に言葉はない。静か
に、黙ったまま、彼女は成り行きを眺めている。
 これからの事を知るべきなのは彼らだけでなく、残りの能力者たちもそうで
あっただろうが、彼らの心理的な状況は安易に大丈夫だと言えるものではなかっ
た。『施設』で投薬を受けていたらしく、今はその禁断症状に苦しんでいるも
のがほとんどだった。
 おそらく、薬物を投与すればなんとかなっただろう。しかしそれをすること
は彼らにとってはマイナスでしかない。あるかどうか分からない未来、それに
賭ける事。それは必要な事であった。戦うものたちのためにも…。
「陸路は完全に塞がれている。自衛隊の戦車一個大隊と、空中支援機だ。正面
から戦えばまるで勝ち目はない。これを見てくれ。この一帯の地図だ。ここと、
ここ、それからここ、ここに戦車が配置されている。全ての道沿いと言うわけ
だ。それに対抗するこちらには90式戦車二台。M−2ブラッドレー装甲車両
四台。人間、三五人だ。90式戦車二台は屋敷の正面に配置した。後方は建物
から、携帯のTWO(対戦車ミサイル)で狙撃できるようにしてある。これは
説明しても分からんだろうが、戦争では十引く五は五じゃない。八か、九だ。
つまり、十の戦力で五の敵を叩けば、被害は一か、二で済む。戦争では兵力差
が非常に重要なんだ。つまり、我々に勝ち目はない。これが第一点」
 と、大佐がもう一枚の地図を机に置いた。
 海と山の多い地図。日本ではありふれた地形だっただろう。しかし、それを
見た耕一と千鶴が思わずうめき声を上げた。
「まさか……」
「そう、隆山だ。鬼に関する研究は主に隆山にある『施設』で行われていた。
そこの研究員から聞いた話だ」
 夕月が小さく礼をする。
 それから軽く咳払いをして、立ち上がった。
「『施設』というのは、超常能力の研究をする機関の総称であって、決してあ
の建物の事を言うわけではありません。それぞれの支部にはあまり交流があり
ませんし、本部では、各支部から集められたデーターを元に、総合的な研究を
行っていましたから、事実上あそこが『施設』ではありましたが…」
「あそこって、この前私たちがぶっつぶしたところよね?」
「ええ、そして鬼の研究は主に隆山で行われていたのです。千鶴さん、覚えて
はいませんか? 貴方は最初、隆山の『施設』に送られ、後であの『施設』に
移動されたんです」
「……そう言えば、一度、目隠しをされて、注射をされました。目が覚めると
違う部屋で、でも似たような事は」
「ええ、『施設』内で貴方を移動させる時も似たような手段を使ったでしょう。
だから分からなかった」
「つまり、隆山で鬼の被害が多いのは、隆山の『施設』が一枚噛んでる。って
ことか」
「そうだ。だがそんなことはとりあえず政府に任せておけば良い。問題はこっ
ちだ」
 と、大佐がさらにもう一枚の書類を机に置いた。
「これは……?」
 それは地図ではなかった。写真、と言えば言いのだろうか? いろんな色の
光の点が見えるのだが、そのほとんどがピンぼけしている。
 唯一見覚えがあったのだろう。
 綾香がはっきりと分かるうめき声を上げた。
「ヨーク…」


・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第十七話・
・最初の衝撃(ファーストインパクト)・

「…………!」
 がたっ!
 と、椅子を転がして立ち上がっていたのは耕一で、その隣では千鶴が恐怖に
顔を引き攣らせて、両手で顔を覆っていた。
 それは二人にとっては忘れられない、忘れることなどできはしない。固有名
詞の一つ…。
「そう、星を渡る鬼の船」
 大佐が写真の一点を指で指した。
「この赤茶けた光の線がヨークだ。距離はおよそ五十光年。原理は不明だが、
この光点はほとんど光速で移動している。数は推定だが、二十前後」
「後、五十年…」
 惚けたように和弥が呟く。
「いや、光が届くのに五十年。もうすぐそこにいる…」
 立ち上がった耕一は席に戻るタイミングを逸したまま和弥の間違いを訂正し
た。長机に両手をつき、和弥の間違いを指摘する声も、ただただ物静かに…、
彼は絶望していた。
「その全てがほとんど直線を描いて地球、つまりここに向かってきている。映
像が線で見えるのは、人工衛星からの撮影だからだ」
 大佐が言葉を止めて、周囲に自分の言葉が染み渡るのを待った。
「さて、妙だとは思わないか?」
「……妙?」
「普通、陸には道路があるように、海にも海路がある。宇宙にも航路が存在す
るはずなんだ。彼らが昔の仲間を追ってきたのは確実だと言える。だが、そう
だとすれば、昔の彼らの航路をなぞろうとするはずだ。こちらの正確な位置な
ど知る由も無いのだからな。それがこちらに一直線に向かっていると言うこと
はありうるべきでないことが起こっていると言うことだ」
「エルクゥの救難信号?」
 その耕一の言葉は大佐ではなく、千鶴に向けられたものだった。
 耕一の記憶に、エルクゥに関する詳しい内容はない。あくまで彼はエルクゥ
と戦った侍であった。エルクゥの、特にヨークに関しては彼の知識は皆無に等
しい。
「救難信号ではないと思います。この星についたとき、仲間に向けて、通信し
たのは間違い無いですから、その時のものでしょう」
「それでも航路を外し、直進してくる理由が分からない」
「確かに救難信号を受け取ったと見て良い反応です。しかし…」
「ヨークも、初音ちゃんも死んだわ。救難信号を発せるはずが無い。だからお
そらく隆山の『施設』が初音ちゃんを調べた際に、何かを発見して、それを実
行しているのだと思うわ。少なくとも『施設』本部にはそれだけの行動力は残
されていないもの」
「つまり、それを阻止すれば、ヨークを止めることができる?」
「無駄ね。119番に電話すれば遅かれ早かれ救急車はやってくる。それと同
じよ。でもわざわざ急いでもらうことはないわ」
「事態はあんまり変わりはしないってことか…」
「でも、準備する時間ができるじゃない」
 あっけらかんとして真奈美が言った。
 そう、重要なのはそれで、それは犠牲を払う価値があるように見えた。
「さて、ならどうやって隆山に向かうかだ。この通り」
 と、大佐が最初の地図を指し示す。
「陸路は完全にアウト。空路は危険過ぎる。地下でも進むか?」
「それよっ!」
 ばん! と机を両手で叩いて、綾香が立ち上がった。
 皆の視線が綾香に集中する。
「ここの地下には昔の防空壕があってそのまま海に繋がってるわ。そこから海
路に乗れるかもしれない」
「船はどうする?」
「小型のクルーザーくらいね。すぐに調達できるのは」
「小型のクルーザーねぇ。不安だな…」
「大丈夫! それなりに武装してあるわ。こういうこともあろうかとね」
 苦笑できたのは大佐だけだった。
「武装はどれくらいのものだ?」
「えーっとね。とりあえずミサイルを積んどいてって、言っておいたんだけど」
「あのな。言いたい事はたくさんあるんだが、とにかく現物を見てから言おう」
「それじゃ、ま、行きましょうか」

 列車から見えていた光景は、当然の事だが、列車から降りると停止した。
 色とりどりに装飾された山の景色が、いつもより近くに見える。季節は秋、
ここでも当然秋が訪れていた。
 隆山である。
「…隆山、か」
 駅を出るとそこは商店街だった。
 アーケードと、立ち並ぶ数々の店。しかし、そこに人通りはなく、全ての店
が冷たくシャッターを閉じていた。唯一開いているのはコンビニのみ…。その
中で動く店員がこの町で唯一生きている人間のようですらあった。
「この一月でもっとも鬼による犯罪の多い町だ」
 そう言えば、この駅で降りたのは媛碌、水禍、祐介の三人だけであった。
 つまりはそういう事なのだろう。
 人っ子一人いないアーケードに立ち尽くして、三人はぼーっとしていた。
「これからどうします?」
 祐介は隆山の観光パンフレットを片手に、困っていた。それも仕方ない。と
言うのも彼らとて確たる確信があってここを訪れたわけではなく、むしろ単な
る勘からであった。もっとも、来栖川邸が自衛隊に囲まれて、そうせざるを得
なかったのも事実ではあるが。
「観光に来たわけじゃないけど、とりあえずは鬼の事を調べよう。この地には
雨月山の鬼伝説があるから」
 媛碌が呟くように言う。
 もしかしたら置いてきた月島兄妹の事でも着にしているのかもしれない。
「浅水君たち、大丈夫かな?」
「今のところは無事だけど、いつまで大丈夫かは分からない。鬼が国会議事堂
さえ襲わなければ、もう少し大丈夫だったろうけどね」
「…鬼を相手に僕たちだけで大丈夫かな?」
「水禍さんがいるから大丈夫だよ。水禍さんの能力は『施設』でもずば抜けて
いたんだから。ね、水禍さん」
「…………」
「水禍さん?」
 不意に黙っていた水禍が、顔を上げ、ある一点を見据えた。方角としては南。
山の見える方向だった。
「声が…聞こえる」

 ぴちょん、と、水滴が、錆びた鉄の天井から、土の溜まった地面に落ちた。
 壁を舐めるように動いた光の輪が、ふと一匹の虫を照らし、その虫は慌てて
どこかに消えた。
 おそらく小さな穴でもあったのだろう。
「古いとは聞いてたけど、ここまでだとは思わなかったわ」
 懐中電灯を持って、一番先を歩く綾香がそう言ってため息を吐いた。
「船は?」
 そんな事は意に介さずに大佐が尋ねる。
「大丈夫、長瀬さんが手回ししてくれてたおかげで、すぐにこの先に用意でき
たわ」
「長瀬、さん、ねえ」
 大佐が顎に手を当てる。
「どうも聞いた事があるような名前だが、思い出せん」
「思い出せないなら気にする事ありませんよ」
 真奈美が肩を竦めた。
「大佐は細かい事を気にするから」
「そうだな。今はもっと重要な事がある…にしても長いな」
「ま、そうね。だから姉さんを置いてきたのよ。最近体調悪いし」
「どれくらい続くんだ?」
「五百メートルくらいかな? 海まで通じてるんだし」
「だったらもうすぐだな」
 和弥がそう言ったその瞬間だった。
 ずぅぅぅん。
 まるで天地が逆さになった気がしたが、終わってみれば、なんてことない。
地面が揺れ、吹っ飛ばされるほどの、しかしただの衝撃だった。
 折り重なるようになぎ倒されていた一同が、それぞれに体を起こし始める。
彼らは一様に困惑した表情でいた。
「い、今のは?」
 頭を振りながら、綾香が呟く。
「なにかが爆発したみたいな…」
 和弥がそれに答えにならない答えを返したが、すぐに立ち上がっていた大佐
がその後を継いだ。
「戦車の砲弾が炸裂する音だ」

 最初の砲撃は、来栖川邸の由緒ある老木を、半ばから真っ二つになぎ倒し、
その側にいた90式戦車を破壊するには至らなかった。
 木が悲鳴を上げながら、ゆっくりと倒れていく。
 倒れた老木の側にいた戦車の砲塔が奇妙なくらいゆっくりと回り、その延長
線が、先ほど砲撃を行った戦車を捕らえた。
 砲手が弾かれたようにボタンを押した。
 電気で発生した火花が砲弾の炸薬を捕らえ、それが爆発を起こした。
 砲塔の中で膨れ上がった爆発エネルギーは、砲塔の中で拡散できずに凝縮し、
一瞬の後に急激に膨張する。これが一定の速さを越えると、一種の爆発となる。
爆発にも似た膨張するエネルギーの固まりは重さ数十キロの砲弾を容易に押し
出した。
 秒速六百メートルほどで撃ち出された砲弾は徐々に減速しながら、わずかな
放物線を描きつつ、空間を切り裂いて、目標と呼ばれる物体に向かっていった。
 やがて最初の衝撃がやってくる。
 目標に接触した砲弾の運動エネルギーが起こす衝撃だ。弾丸はひしゃげ、同
じだけのエネルギーを接触した目標に伝える。本来なら90式戦車は砲弾の直
撃を食らっても簡単には破壊されない装甲を誇る。はずであった。しかし、砲
塔部に直撃した弾丸は、その大きさを半分ほどにしながらも90式戦車の装甲
を突き破り、そこで弾丸そのものの炸薬が爆発した。
 第二の衝撃。
 爆発は90式戦車の装甲内部に圧倒的な圧力を与え、人間も機械も構わずに
押しつぶした。爆発点を中心に広がった衝撃と圧力は一瞬90式戦車の装甲に
より、吸収されたように見えた。しかし、爆発の熱が戦車に搭載されていた弾
薬に引火した。
 第三の衝撃。
 第二の衝撃により、飽満状態になっていた90式戦車内の圧力はついに臨界
点を突破した。
 第四の衝撃。
 90式戦車内に圧縮されていた圧力と熱が、その装甲の破壊により外部に開
放された。

 爆発。

 ぎゅぼぅぅぅぅぅぅぅっ!
 それを言葉で表現するとしたら爆発、というよりは、衝撃だった。
 びりびりと窓ガラスが揺れ、透明なはずのガラスが真っ白になる。
「芹香お嬢様!」
 咄嗟に長瀬が芹香をかばうように窓側に出た。
「−−逃げてください!」
 窓際に立っていたセリオが叫んだ。

 爆発する90式戦車をわき目に別の戦車がセリオの視界に入ってきた。
 その戦車の砲塔が回転した、と、セリオの視線からそれが消える。
 否、真っ直ぐに彼女らを捕らえたのだ。
 その瞬間、セリオは自分らが砲撃の標的になった事を理解した。そして自分
が破壊される事も。
 セリオは自分の目が超高感度CCDでできている事を後悔した。彼女の瞳は
自分に真っ直ぐ向いたその砲塔と、その奥の弾丸、そしてそれが発射される様
までを確実に捕らえていたのである。
 三百メートル、二百五十、二百、百五十、百、五十…
 そして五メートルの位置で世界が制止した。否、砲弾に集中していたため、
その砲弾が止まった瞬間、世界そのものが止まったかと思ったのだ。
 …止まった?
 しかし考えられたのはそこまでだった。
 まるで見えない壁にぶつかったように、空中でひしゃげ、潰れた砲弾が爆発
したのだ。衝撃や、熱波を感じる事はできなかったが、閃光はセリオの目を貫
いた。
 急激な光量の変化に光量の補正機能が動作した。色が白く塗りつぶされた世
界で、セリオは改めて自分の置かれている異常な状態を理解する事ができた。
 砲弾は確実に彼女らを捕らえていた。
 証拠に部屋の窓はすべて割れ、壁ごとえぐられている。内装はぐちゃぐちゃ
になり、テーブルも、ソファも潰されていた。のに、彼女は無事だった。
 自分が無事だと確認できたことで余裕が生まれ、セリオは自分の主人の姉と、
その執事の存在を思い出した。つい今まで一緒にいたのである。
 まだ光の消えぬ世界の中でセリオは振り返った。
 まず執事が見えた。光を遮るように、腕で目を隠している。光を防ぎきれな
かったのだろう。体のバランスを崩し、床に膝をついている。
 次に芹香が見えた。
 彼女は目を閉じていた。
 ただ、目を閉じていた。
 バランスを崩しもせず、いつもと変わらないように突っ立っていた。
 そして唇がわずかに動いていた。
 …魔術?
 信じられない思い、そしてセリオはすぐに演算処理を止めた。
 信じられない事ならいくらでも見てきた。
 今更一つ増えたところで特に違いはない。
 永遠に思えた一瞬は、すぐにその流れる早さを思い出したように時を取り戻
し始めた。芹香がまずセリオを見た。
 爆発の余波は完全に消え去っていた。
 完全に破壊された部屋の中で、彼らの立った辺りの床だけが無事だった。
 芹香がセリオを見て、笑みを浮かべた。
 セリオもつられたように笑みを浮かべた。
 芹香が振り返る。
 彼女の執事は床に手をついてはいたが無事だった。
 芹香はそれも確認して、もう一度笑みを浮かべる。
 セリオは自分が見られていない事を知っていたが、芹香に合わせ微笑んだ。
そうするべきに思えた。
 そして、芹香を釣り下げていた糸が切れた。
 まるで操り人形の糸を切ったように、芹香の体が崩れ落ちた。
「−−芹香様!?」
 慌てて駆け寄ったセリオが芹香の体を揺さ振った。直後にそれが良くないと
気付き、ゆっくりと彼女の体を仰向けにした。
「−−!!」
 セリオは悲鳴を上げるべきがどうかで混乱した。しかし、一度出損ねた悲鳴
を上げる事はできなかった。
 応急処置の方法を衛星回線からダウンロードしようとして、セリオは来栖川
の衛星網が機能しなくなっている事に始めて気が付いた。
 まるで世界で独りぼっちになってしまったかのような不安感。セリオは寂し
さと言うものを初めて感じた。
「ごぼっ……」
 普段は声を出さない芹香の口から、嫌な音がした。
 セリオは咄嗟に芹香の唇に自分の唇を合わせて、芹香の口に溜まった血を吸
い出した。
 嫌な味が口一杯に広がった……、という文章をセリオは知っていたが、彼女
には味覚が存在しないのでそれを感じる事はできなかった。
 吸い出して、吐き捨てる。吸い出して、吐き捨てる。吸い出して…、
 その単調な作業を何度か繰り返すと、ようやく芹香の口に溜まっていた血が
ほとんど無くなった。
 しかし、芹香が何度か咳き込むと、その息に血が混じった。
 セリオは混乱した。
 どうすれば良いのか分からずに、また芹香の口に溜まった血を吸い出した。
 顔中血まみれになりながら、その作業を繰り返すセリオの背中に、90式戦
車の砲塔が狙いをつけていた。

 綾香の決断力には一瞬の迷いも無かった。もちろんあまりの事に一瞬惚けは
したものの…。
「今すぐ戻るわ!」
 言うなり綾香は走り出している。
 しかし、その前に両手を広げた大佐が立ちふさがった。
 …耕一と千鶴が顔を背けた。
「今から戻ってももう遅い。このままクルーザーに乗って隆山に向かえ」
 予想だにしなかった言葉に綾香はつい、かっとなって言い返す。
「…ふざけてんじゃないわよ! 私が死んでも姉さんは助けてみせる!」
 一瞬後に後悔したが、すぐにどうでも良いと思った。ここで怒らないほうが
どうかしてる。
 しかし、綾香のそんな思いを余所に大佐はただただ冷淡だった。
「その意気込みが、無駄に人を殺す。いずれ来栖川のトップになる身だ。今の
うちから経験できて、大変結構じゃないか」
「なに言ってんのよ! 来栖川を継ぐとしたら姉さんの方よ!」
「あのお嬢様に来栖川が統率できるとは思えんがね。さあ、クルーザーに乗れ」
 綾香は首を横に振った後、きっと大佐の目を睨み返した。
「嫌よ! 力ずくでも姉さんを助けに行くわ!」
「僕も行く」
 思わず、そう事実和弥は自分がその言葉を口にした事を、後から知った。
 しかし、必死に姉を救おうとしている綾香を放っておけるだろうか? それ
に彼にはやはり大佐の言葉は冷たく思えた。
「和弥!」
 綾香が一瞬、状況も忘れ歓喜の声を上げる。
「当然私も行くわよ」
「真奈美さんも…。ありがと」
 綾香は二人の顔を見た後、再び、き、っと、大佐を睨んだ。
 言葉にはしなかったが、力ずくで負けない事の自信がそこには滲み出ていた。
「さあ、そこをどいて!」
「残念だけど」
 と、耕一と千鶴が前に出た。
「戻りたいんなら俺達が相手する。だから大人しくクルーザーに乗ってくれな
いか?」
 耕一の言葉に柳川が肩を竦めた。
 もちろん、闇で鬼の視力が妨げられるはずも無い。つまり、状況はエルクゥ
に有利であった。
「それでも通ると言ったら?」
「代わりと言っちゃ何だが、俺が戻る」
 大佐が何気ないように言った一言は決して綾香の問いかけの答えではなかっ
たが、その代役は務めたようだった。
 しん、と静まり返った防空壕で、大佐はため息を一つ吐いた。
「こんなに早く戦闘が始まるとは予想外だった。表の部下には戦闘準備をして
おくように言ってあるからそれは気にしないでいいにしろ、味方より多い数の
敵と戦う時に司令官を欠くのは問題ありだ。というわけで俺には戻る義務があ
るし、戦闘になればそれの指揮を取るのは最初から決まってた事だ。ま、出来
る範囲で助けようとはしてみせるさ」
「…助けるって約束して」
「分かった。俺の名誉にかけて、芹香お嬢さんは助けてみせる」
「……クルーザーに乗る。和弥も真奈美さんもそれで良いわよね?」
 二人は同時に肯いた。

 状況は良く分からなかった。
 命中したはずの砲弾が炸裂したところまでは確かだった。しかし、そこにい
た人影は依然動いている。
 小型の携帯用の小型対戦車ミサイルには気をつけるべきだった。片手で持て
るサイズのミサイルが戦車一台を容易に吹き飛ばすだけの威力を持っているも
のなのだ。
 物陰にいる敵に襲われないためには、まず自分が物陰に身を潜める事である。
それが不可能なときは最善の注意を払い。危険があれば排除する。撃たれる前
に。
 狙いをしっかりつけて、引き金を引く。引こうとしたときに、彼の視界を何
かが横切った。そして狭い視界があっという間に白に埋められていく。
 ……煙幕弾!?
「攻撃止め!」
 上から声が聞こえた。
「国連軍の介入だ」

 −−今すぐ戦闘を終了せよ!−−

 そのヘリは唐突に彼らの上空に現れた。
 ステルスヘリ。自衛隊にはまだ配備されてない機種だ。
 ローターを完全にシェルで覆い、音を最小限にした上、B−2と同じ材質で
作られたその機体はレーダーを拡散し、返さない。
 そのヘリが機体内部からミサイルの発射口を開き、煙幕弾を撃ち込んできた
のだ。そしてその発射口が開かれた事でステルス性が失われ、レーダーに発見
された。
 その白い機体の脇には大きく黒文字でUN。国連軍の証であった。
 ヘリは戦闘を止めた両部隊の上空をゆっくりと横切って、来栖川邸の真上で
止まった。そしてゆっくりと降下すると、セリオの後ろで止まった。
 すぅ、と、ヘリが斜めに傾いた。
 恐ろしいほどに精度の高い操縦で、壊れた壁からセリオたちのいる部屋へと
進入する。部屋の屋根が高い事が幸いした。普通の家の屋根の高さではロータ
ーが入りきるわけはなかっただろう。
 ほとんど機体を傾斜する事も無く、部屋へと入ってきたヘリは、床まで五セ
ンチメートルの距離と音も無く着陸してみせた。
 一瞬の時間の停滞、そしてヘリの扉が開かれて、そこから一人の青年が飛び
降りた。
「やあ芹香、ファウスト博士がメフィストフェレスを連れて助けに来たよ」

 彼の言うメフィストフェレス、とは、つまるところメイドロボであった。そ
れも来栖川製ではない。メイドロボ産業では先発しておきながら、来栖川にシェ
アの80%を奪われた立川のメイドロボだった。
 すらっとした長身の、短い髪のメイドロボで、やさしげな顔をしている。無
表情ではなかったが、決められたパターンの笑顔しかない事もすぐに分かった。
「た、立川様」
 頭を押さえながら、長瀬執事が立ち上がった。
 ようやく目が治ってきたらしい。
「申し訳ありません。私めが付いておりながら、芹香様を危険に…」
「分かってる。言わなくても良い」
 立川青年は、そう言って長瀬執事を手で制した。
「彼女の邪魔になる」
 彼の言う彼女が彼のメイドロボである事は確実だった。何故なら彼のメイド
ロボはすぐさま芹香の側に跪き、芹香の様子を見ているのだから。
「彼女に任せておけば良い。彼女は医療、介護用のメイドロボの最新型だから。
君が気に病む事はない」
「−−あの、それよりもあのヘリコプターは?」
「ん? ああ、うちで作ってる奴だよ。UNに徴収されるはずのものを一つかっ
ぱらってきたのさ」
 まるで家から新聞でも持ってきたくらいの気楽さで、立川青年は言った。
「−−綾香様は?」
「綾香君? 見てないが、海のほうでクルーザーが出航準備をしていたよ。そ
れに芹香も乗っているものだと思っていたから時間稼ぎをしに来てみたら、芹
香が倒れているのが見えたんだ。で、UNマークをこれ幸いと利用してみたの
さ」
「−−じゃあ、綾香様は」
「多分、そのクルーザーだろうね。ならやっぱりできるだけここで時間稼ぎを
するべき何だろうけど……。聖羅?」
「セリカ様ノ状態ハ非常ニ危険デス」
「というわけだ。今すぐ病院に向かう」
「…………」
 その時、芹香の唇が何かの言葉を紡いだ。
「芹香、目覚めてたのか?」
「…………」
「駄目だよ。君は病院に行かなければならない」
 芹香が首を横に振った。本人はそのつもりだったが、実際には顎がわずかに
動いただけだった。
「…………」
「分かった。二度強いはしない。君と婚約するときに自分で決めた事だから、
仕方ない」
 苦笑いを浮かべ、立川青年は芹香に手を差し出した。

 クルーザーは思ったよりも大きく、頑丈に出来ていた。というより、元の豪
華クルーザーを無骨に改造したのが見て取れた。
「このまま隆山、か」
 柳川が夕月にだけ聞こえるように呟いた。
「思ったより早いな」
「そうね」
 普段見せる笑顔を捨て、冷徹な科学者の顔で彼女は答えた。
「鍵は?」
「まだ抜かれてないわ」
 即答。
「しかし、隆山に急いだ方が良いな」
「そうね。何人かはすでに隆山にいるみたいだし」

 防空壕から飛び出すと、すぐそばで砲弾が炸裂し、幸い破片に当たる事はな
かったものの耳がろくに聞こえなくなった。
 キンキンする耳のままで、一番近い味方を探す。
 どうやら、徐々に押されているらしい。
 それにしても、一気に押し崩されなかっただけでも儲けものであった。
 ようやく、味方の小隊を発見して、駆け寄る。
「状況説明!」
 耳のせいでつい大声になる。
「まだ持ちこたえてます。90式戦車が一台やられました!」
「元味方、今の敵は?」
「第十二戦車隊です!」
「にしては数が少ないな。それに第一大隊も動いているはずだ」
「ここら一帯、まるで砂糖に群がるアリのように軍が配備されているようです」
「えらく厳重なエスコートだな。戦車借りるぞ!」
「大佐、まさか一人で!?」
「いんや、C4をお供にするさ。おまえらは撤退しろ。上司命令だったと言う
事にしておけ」
「分かりました」
 敬礼する部下を見て、大佐はわずかに肩を竦めた。
「やれやれ、薄情な部下たちだ」

「あ〜〜! なんて様なの。綾香、あなたはエクストリームのチャンピョンな
のよ! 一番強いと言う称号を得たはずなの! なのに、この様はなによ!」
 髪を振り乱して、綾香が小さな部屋で暴れまわっていた。
「情けない! 情けないったらありゃしない! あんなに練習して、頑張って、
強くなったのに! 強くなったと思ったのに! 結局何もできない! 銃と戦
車の前には何の訳にも立てないのよ!」
 がん!
 綾香の拳が鉄の壁に叩き付けられる。
「くぅ」
 痺れるような痛みが腕を駆け上がって頭に届く。脳の奥を叩かれるような痛
みに綾香は額を壁に当てた。
「くそぅ、なんなのよ。なんなのよ。私って。うっ…」
 下を向いたまま綾香が歯を食いしばった。
「私らしくないわよ。私らしくない…」
 頭をぐりぐりと壁にこすりつける。
「泣いてたまるもんですか! 泣いちゃ駄目なんだからね」

「後悔、してるか?」
「うん、してる」
「…ごめん」
「ううん、でもいいの。多分ね、何も知らないまま鬼たちがやってきて、殺さ
れるよりずっと良い。それに家族の事もね、大佐がうまくしてくれたって。浅
水君の家族もだよ。嘘の説明して、安全なところにいるって」
「そう、か。そうだったのか」
 正直、家族の事が気にならなかったと言えば嘘になる。いくら冷め切った家
族でもだ。もしも、もしも無事にこれが終わったなら、やり直すチャンスはあ
るに違いない。
「だからさ、頑張ろうよ。私は大丈夫だし。ね、今一番辛いのは綾香さんだと
思う。だから浅水君、行ってあげなくっちゃ」
「真奈美は、良いのか?」
「うん。私なら大丈夫だよ。だからさ、早く行ってあげなよ」
 和弥は迷いながらも立ち上がる。
「大丈夫。無事に隆山につけるさ」
「うん。きっとそうだよね」
 和弥は後ろ手に扉を閉じた。
 背中で真奈美が泣いているだろうと思いながら。

「綾香さん、いる?」
 二度扉を叩いてから、和弥はそう尋ねた。
「なに?」
 扉の向こうから綾香が平然と答える。
「いや、大丈夫かな? と、思って」
「…………」
「綾香さん?」
 きぃ、と、扉が開いて、綾香が顔を出した。
「心配したの?」
「…ん、まあね」
「心配なんてしなくていいのに。さ、入って」
「いいの?」
「遠慮いらないって。さ、エンジンに火を入れるのに時間がかかるって言うし、
どっちにしても私たちにできることはな〜んにもないんだしさ。だから、なん
か、誰かと話したかった」
「…そっか」
「あの、さ。真奈美さんとなに話してたの?」
「ん? いや、なんでも。大変な事になったなって。冗談で。そういや、綾香
さんは真奈美のことだけ、さん付けなんだね」
「う、うん。和弥が真奈美さんのことだけ呼び捨てにするのと一緒じゃない」
「僕の時は最初から呼び捨てだったけどね」
「だって和弥はなんかないがしろにしやすかったんだもん」
「それは貶し言葉だよ」
「あ、ごめん」
 そう言って、綾香が下を向いた。
「…ごめん」
「何も言ってないよ」
「和弥が…、和弥が悪いんだからね!」
 そう言って綾香が顔を上げた。
「……!」
 その目に涙がいっぱいに溜まってるのを見たのを最後に、綾香の顔が見えな
くなった。いや、違う、綾香の顔が、目の前一杯に広がって…。
 和弥の唇を柔らかく暖かいものが包んでいた…。

 真奈美は部屋で壁を眺めていた。
 和弥が思ったように、泣いてはいなかった。
 そうすることしかできなかった。
 不思議な気持ちだった。
 そしてこれで良いのだと思った。
 自分よりも綾香のほうが綺麗だと彼女は思っていたし、彼女の目から見ても、
綾香は魅力的で、少なくとも憎む事になんてできそうになかった。
 そして綾香は今、誰の目から見ても助けが必要だった。そして助けになれる
のは和弥だけだった。
 妥当な判断だった。
 だから胸が苦しかった。
 こんな時どうしたらいいのだろう?
 恋をしているとき、苦しい恋をしている時、どうやって胸の痛みを取り除い
たら良いのだろう?
 ひゅぅ、と、聞きなれない音がした。
 何の音だろう?
 そして最初の衝撃が訪れた。

 −−−続く。