・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第十五話・お煙草はほどほどに・ 投稿者: 智波
  自分の手の平すら見えない。そんな闇の中で女は立ち尽くしていた。
  いや、自分の手の平すら見えない、はずの闇の中で…。
  これで終わったのだ。と、彼女は思った。
  いや、始まりなのかもしれない。
  そう思い直す。
  とにかくするべきことをしなくてはならない。
  最初に彼女がしたことは、手に持った拳銃から指紋をふき取る事だった。白
衣も脱ぎ捨てるべきだろうか?  と、思ったが、後の事を考えると着ておいた
ほうが良いだろう。身分を証明するのが厄介なことになる。
  かちゃ……。
  女がハンカチでグリップを包んだままの銃をさっと部屋の入り口に向けた。
そして銃口を降ろす。
「何故銃を使った?」
  光の中の人影の問いに、彼女は振り返って、自分の足元に横たわる、頭を撃
ち抜かれた少女の亡骸を見つめた。
「簡単だったからよ…」
  女は再び振りかえる。
「俺には理解できないがな」
「…男と女の違いよ」
  そう言って彼女は銃を放り投げた。
  ごと、と音を立てて銃が暗闇に消える。
「これでもう私たちを妨げるものは何も無いわ」
「いや、まだだ…」
「…なに?」
「柏木の血は絶えてはいない。来栖川のねずみどもも厄介だ」


・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第十五話・
・お煙草はほどほどに・

  長瀬源五郎は忙しかった。
  どれくらい忙しいのかといわれれば、HM−13マルチのマスターアップに
かかった苦労よりもずっとだというと、一部の人は分かってくれるらしい。マ
ルチの量産型への移行に伴って、多くの手間がかかったからだ。
  彼の仕事はHMX−13セリオのバックアップである。衛星回線を通じて、
セリオに最高のデーターを送り続けること。それが来栖川HM研究所にできる最
高の綾香へのバックアップでもあった。
  セリオが最初にこの作戦の単独で参加することを言い出した時のことを長瀬
は忘れはしないだろう。

−−−−
「――長瀬主任、ですね?」
  長瀬源五郎は黙って、胸にかかったネームプレートを自分で見直してみた。
  どうやら呼ばれたのは自分らしい。
  そんな長瀬の仕種に疑問を抱くでもなく、セリオは続けた。もちろん自分が
話し掛けた相手が長瀬であることは当然知っていたのだろう。
「――お願いがあります」
「美人の頼みとあれば聞いてあげたいが、どうして私に?  市川主任は?」
  市川主任とはHMX−13セリオの制作主任である。セリオが何かを頼むだ
とすれば彼が妥当な相手であった。
「――市川主任が私のお願いを聞いてくれる事はありません」
「…………」
  セリオの言葉に皮肉の色はない。つまりありのままの感想、いや、事実と言
うわけだ。
「――主任は綾香お嬢様達が何をしようとしておられるか、知っています」
「……ああ、知っている」
  セリオに断定されて、長瀬はわずかにたじろいだが、セリオの能力からすれ
ば、それくらいのことを知るのは造作も無かっただろう。彼女はつい今朝まで
綾香の従者役として来栖川のメインデーターバンクにアクセスする許可を持っ
ていたのだから。
「――主任はこちらから『施設』のデーターを操る役目を負っています」
「……ああ」
「――私を『施設』に連れていって下さい」
  長瀬は黙って、内ポケットから煙草を取り出し、100円ライターで火を付
けた。
「……私は『施設』には行かない、ここからデーターを操るのが仕事だ」
「――『施設』のネットワークが独立システムである事は主任もご存知です」
「……独立ネットワークと言っても言葉だけだ。なにしら道はあるものさ」
「――それでは時間がかかりすぎます」
「……それは分かっている。火災発生の報を受けてから何度もトライしている
が、今だどうしようもないというのが現状だ。しかしこちらがゴーサインを出
さなければ、お嬢様方は突入できない。安心したら良い。このままだと、心配
してるような事にはならないよ」
「――違います。私は綾香お嬢様の望むようにして差し上げたいのです。綾香
お嬢様が『施設』突入するというのであれば、私はできる限りのことをして差
し上げたい。だから、お願いにきました。私が『施設』に侵入してメインバン
クにアクセスすれば、衛星回線を通じて主任はここからデーターを操れます」
「…しかし、君がそこまでする責任は…、君はお嬢様に解雇されたのではなかっ
たのかね?」
「――はい、私は綾香お嬢様によって返却されました。私には何の責任もあり
ませんし、義務も存在しません。正直、私の行動は矛盾に満ちており、私でも
その原因が理解できません。それでもそうしたいのです」
「…自分の意思で、お嬢様を助けたい、と?」
「――私のプログラムに意思というものは存在しません。綾香お嬢様のユーザ
ー登録の抹消時に何か異常が生じたのかもしれません。しかし…」
「分かった。手はずはこちらで整えよう。しかし…」
「――承知しています。私に脱出の機会はないでしょう。捕まる前にデーター
をすべてフォーマットします。御安心下さい
「……あ、ああ」
  長瀬の言いたい事はそんなことではなかったのだが、しかし長瀬は肯いた。
−−−−

  だからその信頼に答えなければいけないのだ。
  そう長瀬は信じていた。
  特にセキュリティーコードの突破はCPUに負担をかけるために来栖川のほ
うのスーパーコンピューターで処理されることになっていた。
  今も一つのセキュリティーを解いて、誤認プログラムを流し込んだところだ。
  その時長瀬の白衣の胸ポケットでなにかが震えた。
  こういうモノに縛られるというのは悲しいもんだな。などといいながら手に
した携帯電話である。
  しかし場合が場合である。無視しようとした長瀬だったが、胸で電話が震え
ているというのはあまり気持ちの良いものではない。
  電源を切ろうとして、携帯を取り出した長瀬だったが、その顔色が変わった。
  彼の携帯電話にはかけてきた相手の電話番号が出るようになっている。
  見覚えの無い番号だったが、知っている番号だった。
  長瀬は慌ててボタンを押し、耳に押し当てる。
■長瀬さんっ!  いるのっ!?
「ええ、そんな大声を出さなくても、受話器を耳に押し当ててるんですから」
  携帯を肩で挟みながら、長瀬は応じる。セリオへのバックアップを滞らせる
わけにはいかない。何分『施設』のセキュリティーレベルは国家のものなのだ
から。
■セリオは!?  セリオはどうしたのよっ!?
「綾香お嬢様、貴方にそのようなことを言う資格は無いはずですが?」
  長瀬は目で別の所員にバックアップを要請する。流石というか、マルチを作っ
たチームだけあって、この作戦に批判的なものはいなかった。セリオを解雇し
た綾香に対して憤慨するメンバーは少なくなかったが。
■資格も何も無いわよっ!  さっさとセリオに回線を繋げてっ!
「……お断りします」
■命令よっ!  早くしなさいっ!
「残念ですが、その命令には従えません」
■早くしなさいってばっ!
「綾香お嬢様、セリオが今、何をしているか分かっておられますか?  貴方方
を救おうと自分の身を張っているのです。すでにご主人様ではなくなったはず
の貴方のために、ね」

「分かってるわっ!  だから早くしてよっ!」
  走りながら、携帯に向かって、綾香が泣き叫んでいるように、浅水には見え
た。
「それも分かってるっ!  お願い!  セリオに替わって!」
  綾香がぴたっと足を止める。
  振り返る。
  綾香が何を考えているのか、浅水には手に取るように分かった。綾香とセリ
オの間にあった確執を知らない浅水ではあったが、その推測は間違っていなかっ
た。
  ここにいるのだ。セリオはここにいる。この『施設』のいずこかにいる。
「綾香さんっ!」
「みんなは先に行って!」
  瑠璃子を含めた五人の民間人(に見える能力者)を連れた四人の消防服を着た
男達が肯いて、階段を駆け降りていく。彼らよりも綾香の方が強いのだから、
彼らの気持ちも分からないではない。
■………………!!
受話器の向こうからなにやら聞こえる。
それほどの大声でなにかを叫んだのだろう。
「だったら早くセリオに替わりなさいっ!  ……分かってるわよっ!」
  目で綾香が浅水に待ってたの?  馬鹿ね。と言った。
  二人が並んで走り出す。
「セリオ、セリオなの?」

「――綾香お嬢様」
■セリオ、セリオなの?  命令よっ、早くそこから脱出しなさいっ!
「――綾香お嬢様、綾香お嬢様は私のたった一人のご主人様です。今でもそれ
は変わらないと思っています」
■そうよっ、だから貴方は私の言う事を聞かなきゃ駄目なの!
「――その命令には従えません。綾香お嬢様。私は命令を拒否します」
■そう、分かったわ!
  綾香が携帯を思いっきり地面に叩き付けた。

「……それだけではありません。この二ヶ月間、色々とあったんです」
  水禍は無表情に自分が壁に縫い付けている拓也を眺めている。その目には攻
撃や憎しみの対象を見ているという風はない。むしろ単に壁に書かれた落書き
を見ているような目だ。
「…施設関連の密偵役をしていた媛碌さんなら大体のことは知っているのでしょ
うね。拓也さん、貴方にも知らされていない事実があるんです」
「……月島さん。貴方は可哀想な人だと思った。あの事件の時、貴方は犠牲者
だったから」
  祐介が水禍の話に割り込んだ。彼らしくない行動だったが、それは水禍の力
がそれほど長く持たないことに起因していた。事実水禍は疲れを覚え始めてい
る。
「そして今回のことも、僕は貴方を責める気はない…、貴方は知らなかっただ
けなんだ」
「知らなかった、で、すまされる問題じゃ無いと思うけど」
  真剣な目つきで媛碌が応じた。
  少年のものとは思えないほど、冷酷な口調だった。
「まあ、後は説明してあげても良いけどね。…『施設』には三つの派閥がある
んだよ」
  少年が三本の指を立てた。
「一つ、政府の意向に従って能力者、及び鬼の軍事利用を目指すもの」
  一本の指を折る。
「一つ、純粋に能力者や鬼を調べることに熱中するもの」
  また一本。
「一つ、鬼を増やし、人を殺させることを目的とするもの」
  そして少年の手が握られる。
「最近の鬼の群発発生はすべてでは無いにしろ、一部は『施設』による実験だっ
たんだ」
「どちらにしろ『施設』は貴方と瑠璃子さんに楽園を与える気はないんです」

  ――そろそろ限界だな。
「……そうですね」
  青い光に包まれていたコンソールがたちまちの内に赤色に、血の色に染まっ
ていく。
  セリオはそんなコンソールに両手を突いて、長い吐息を吐いた。
  ――予定通りなら全員脱出した頃だな。
  焼けたフライパンに肉を置いたような音がして、コンソールから伸びた一本
のコードが弾け跳んだ。
「……そろそろ回線を遮断します」
  ――セリオ、本当にこれで……。
  モニターに次々と表示されていく警告の文字。
  ああ、これも血の色をしている。
「これでよかったんです……」
  しばらく回線が沈黙する。
  ――そうか、お疲れ様。セリオ。
「…………は、い」
  隔壁が開いていく。もう閉じている必要も無くなったものだ。
  だからセリオは抵抗しない。なすがままにしている。
  そしてすぐに絶たれるはずだった回線は、なかなか絶たれないままだった。
  ――セリオ?
  長瀬の問いに機械合成の無機質な声が聞こえた。
  ――映像回線開きます。
「駄目っ!」
  セリオは思わずそれを阻止しようとするが間に合わない。
  すでに回線は開かれていた。
  ――泣いているのか?  セリオ。
「違います。周囲の気温が上がっているため、レンズを保護するために洗浄液
が使われているんです」
  ――セリオ。
「……本当は私、もう少し皆さんと一緒にいたかった」
  映像でしか見る事のできないセリオの姿に長瀬はどうする事もできない自分
を責めた。
「もっと皆さんとお話していたかった。笑っておられるのを眺めていたかった!」
  セリオが首を落とす。
「……最後に後味の悪い事を言ってしまいました。さようなら、主任。私の妹
たちをよろしくお願いします」
  ――セリオ!
「それから主任、お煙草はほどほどに」
  セリオが初めての笑みを長瀬に向けた。
  ――回線が切断されました。
  ――すまない、セリオ。
  何時の間にか浮き上がっていた腰を椅子に落ち着け、長瀬は……。
「これが落ち着いていられるかっ!」
  コンソールの上に乗っかっていた、灰皿が灰を撒き散らしながら、壁に激突
して、床をころころと転がった。
  ……苛立たしい、灰皿が割れなかった事が、――セリオに何もできなかった
自分が。
  あの子は心を手に入れたんだ!
  長瀬は有らん限りの力で両腕をコンソールに叩き付けた。プラスティックが
割れ、彼の腕を傷つけたが、そんなものはどうでも良かった。残りの時間に彼
女が味わう苦しみに比べれば。
  ツー、ツー、ツー、ツー。
  何時の間にか床に落ちた携帯電話が、発信音を鳴らしていた。
  多分床に落ちた時にボタンが押されたのだろう。
  わずかの間呆然とその携帯を眺めていた長瀬だが、いきなりその電話に飛び
ついて、ある番号を押した。
  ――出てくれっ!  頼むっ!

  とるるるるる、とるるるるる、とるるるるる、とるるるるる……。
『施設』の階段にうち捨てられた携帯電話が、すでに去っていった主を呼び続
けている…。

「……千鶴さん、行こう」
  耕一にはそう言うことしかできなかった。
「千鶴さんっ!」
「……こういちさん、あずさは……」
「梓は死んだ!」
  何故そんなことが言えたのか、耕一自身にも理解できなかった。
「梓は死んだんだっ!」
  楓の死で慣れてしまったのだろうか?
  それとも過去の、次郎衛門の記憶がそうさせるのか?
「……こういちさん。わたしは、わたしは……」
  千鶴の感情が溢れ出そうとした、その時、部屋の扉が開いた。
  鬼かっ!?  そう思い、振り返った耕一が見たのははぐれたはずの柳川の姿
だった。その後ろには一人の白衣の女がいる。
「柳川!  鬼は!?」
「……安心しろ。あらかた片はついた。しかし……」
「しかし?」
「間に合わなかった」
「なにが?」
「柏木初音が、死んだ……」

  がらっと扉が開く音をセリオは黙って聞いていた。
  ゆっくりと振り返る。
  消防服を着た三人の男性。しかし消防士ではないことは明らかだ。消防士は
手に火器を持っていたりはしない。
  偽装プログラムへの書き換え……。
  セリオはその判断を咄嗟に下した。
  ここに来栖川の命でセリオがいたことが知れれば、意味がなくなる。
  だからセリオの内部プログラムを来栖川に罪をなすりつけるために別の企業、
もしくは団体が行った妨害工作であるように見せかけるための書き換えなけれ
ばならない。
  そしてそれはこのセリオがこの世界から消えてしまうことを意味していた。
  ――綾香様……。
  一瞬自己判断プログラムが書き換えプログラムを堰き止める。正確には自己
判断のためにCPUに負荷がかかり、プログラムの行使速度が極端に落ちただ
けのことだったのだが、イメージ的にはそう取れた。
  セリオのレンズの中に男達が火器の引き金に指をかけるのが映った。
  メイドロボ相手に容赦はないということらしい。
  ――どうせならHDDを撃ち抜いて下さいね。
  そんな事を思ったりもする。
  そして男達が引き金を引いた瞬間、それは起こった。
「やぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
  地面を叩きつける靴の音…、セリオの頬を掠めてコンソールに叩き込まれる
銃弾…、正拳で打ち抜かれ、残りの二人ともんどりうつようにして倒れる男達…。
  素早く男達の銃を蹴り飛ばして、セリオのご主人様は颯爽とその姿を現した。
「――綾香お嬢様!」
  僕もいるんだけどな。
  と、浅水は思ったりもしたが、そこら辺はどうでもいいことだ。
  綾香はつかつかとセリオに歩み寄ると、鼻先がくっつきそうなほどセリオに
顔を近づけた。
「アンタみたいにぶつくさうるさいのがいないと反抗のし甲斐が無いのよね」
  まるで確認を済ましたかのように独語すると、胸をふんぞりかえすようにし
て、セリオを見据えた。
「命令よ。私と一緒に脱出しなさい」
  それはセリオのご主人様の顔だった。
「――はい、綾香お嬢様」
  儀式が終わった…。
  少し照れくさそうに綾香は自分の鼻を掻くと、間延びした声を出す。思わず
溢れそうになる笑いを堪えているのだという事が、何故かセリオには理解でき
た。何故微笑みが溢れそうになるのかも…。
「あ〜、それと前から思ってたんだけど。そのお嬢様ってのは止めてくれる?」
「――それでは…、綾香様」
「…ま、とりあえずはそれで妥協しとくわ」
  綾香がもう一度鼻を掻く。
  と、しかし思い直したようにきっと厳しい目に戻った。
「脱出するわよ!」
「いや、どうやら、そう言うわけにもいかなくなったみたいだ…」
  一人開け放たれたドアの側に立っていた浅水がうめく。
「…え?」
  と、振り返った綾香の顔に目掛けて何かが飛んでくる。思わず片手でそれを
掴んで、綾香はらしくもなく悲鳴を上げた。
「……う、う、腕」
  それは引き千切られた人間の腕だった。まだ血が滴り落ちている。服の残り
から考えると犠牲者は少なくとも消防服を着た誰か、ということになる。
  そして扉の影から、血まみれの鬼がのそりとその姿を現した。ただし、二体。

「ボクは、ボクは、ボクは、信じない、信じない、信じない、信じない」
「…信じて下さい。どんなに辛くても…、それが事実、なのですから」
  拓也は自分が縫い付けられている壁に手をついて力を込めた。
  超能力だろうが、なんだろうが、結局は力の強いものが勝つのだ。
  腕に力を込めると、忌々しい女の顔が苦悶に歪むのが見えて…、ぐらりと視
界が揺れたかと思うと、拓也は得も知れぬ場所に立っていた。
  一歩足を踏み出すと、ざっと砂の音がした。
  下を見た。
  そこは一面の砂だった。
  かっと首筋に照り付ける光がある。
  見上げると夏の太陽が拓也を見下ろしていた。
  あまりの眩しさに目を閉じる。
  ゆっくりと目を開けると一面の海原だった。
「これは…、一体…?」
「案外、典型的な楽園の在り方ですね。貴方の楽園のイメージとは…」
  そこに女が、水禍が立っていた。
「楽しいですか?  こんな所に逃げ込むのは…」
「逃げる、だって?」
  水禍が肯いた。
「貴方は現実が自分を受け入れてくれないと思った…」
  急に世界が遠くなった気がした。
「だから貴方は貴方の世界を作った…」
  ベッドの上で瑠璃子とともに耳を塞ぐ現実…。
  いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いや
だ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、い
やだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、
いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ。
「けれど違う…」
  世界に色が戻る。
  楽園…。
  そうだ。ここがボクの世界だ。
「受け入れてもらえなかったのは、現実のほう…」
  拓也の背後に暗い空間が生まれる…。
  独りきりになったベッド、その上に座るのは瑠璃子…。
  拓也は気付かない。
「貴方は現実を捨てて逃げ出した…」
  拓也の前に瑠璃子が現れる。笑っている瑠璃子だ。壊れた者の目をしていな
い瑠璃子…。
  そしてそれを向かえる拓也もまた優しい目をしていた。
「現実から逃げた先…、それは現実じゃない」
  でもボクはここにいたい…。
  何時の間にか拓也は水禍と向き合っていた。
「現実じゃなくても?」
  空想でも…。
  幸せならそこにいてもいいじゃないか…。
「そうやって、一番大事な人を傷付けてる…」
  瑠璃子はここにいる。
「違うわ…、瑠璃子さんは現実にいる…。貴方が壊した瑠璃子さんよ」
  知らないっ!  そんなことはボクは知らないっ!
「現実を見つめなさい」
  その現実に耐えられなかったんだ。
「逃げるのは自由。けれど瑠璃子さんの苦しみは終わらない…」
  その現実もボクを苦しめてるんだ。
「立ち向かわないというのなら逃げなさい。私は逃げないから…」
  ずん、と何かが拓也の胸にのしかかる。
「私は逃げないから。貴方は逃げれば良いわ。…さようなら」

  浅水に選択肢はなかった。
  二対一、綾香にはどやされそうだが、鬼を相手に綾香を戦力として数える事
には問題があった。だとすれば人間の姿のままでは太刀打ちのしようが無い。
「隙を見て逃げるんだ。いいね」
  その言葉を最後に、浅水は鬼と化した。

「これから、どうする?」
  うめくような耕一の問いに、柳川が連れてきた女が答える。
  彼女の自己紹介によると『施設』穏便派の研究員らしい。
  すでに耕一達は彼女から『施設』の三つの派閥の事、そして鬼の実用実験の
事を聞いていた。
「『施設』は事実上壊滅だわ。少なくともこれ以上手を出す事はできない」
「だとしたら?」
「あまり気は進まんが、来栖川の世話になる」
  耕一の二度の問いに今度は柳川が答えた。
「来栖川って、あのHMの?」
  耕一の三度目の問いは、普通のものであったが、それでも柳川は呆れたよう
な顔を見せた。
「確かに最近ではそれが一番注目を集めているな」
  柳川の顔が"なんにも知らんのだな"と言っているようで(実際に柳川はそう
思っていたが)耕一は恥ずかしくなって顔を背けた。
  そんな耕一に女が救い船を出す。
「今後の動向を追うには来栖川の力を借りるのが一番よ」
  これ幸いと耕一は話題を逸らす事にする。
「…分かった。千鶴さん、行くよ」
  まるで魂の抜け殻のようになった千鶴の手を引っ張って、耕一は彼女を起き
上がらせた。

「くぅ……」
  綾香は動けなかった。浅水は隙を見て逃げろといったが、どこにもそんな隙
は見当たらない。セリオを背中に庇いながら、浅水はなんとか二匹の鬼と渡り
合っているのを眺めているしかできない。
  その時均衡が崩れた。
  浅水の爪が、一匹の鬼を捕らえたのである。そしてその瞬間はもう一匹の鬼
に対し浅水が隙を作る事にもなった。鬼の体を刺し貫いた浅水の爪が引きぬか
れ、その背中からもう一匹の鬼が迫る。
  ――間に合わないっ!
  そう思った時、体が動いていた。
  信じられないくらいに体はスムーズに動き、5メートルほどはあったはずの
距離が、まるで手の届く間合いに感じた。鬼に気付かれた事は綾香にも分かっ
ていた。
  でも遅いっ!
  などと知覚している間に、綾香の拳が鬼の腹部に叩き込まれていた。
  そして次の瞬間には浅水の爪がその鬼を刺し貫いていた。
  返り血を浴びながら、しかし綾香は呆然と自分の手を見つめていた。
  何が起こったというのか?  鬼にはまったく歯が立たないはずであった。し
かし綾香の拳は鬼の爪よりも早く、それに気を取られた事で和弥は助かった。
  和弥を助けたんだ。
  よく分からなかったが、それはなによりも嬉しく思えた。
  そしてみんなで脱出できる。
  しかし希望は長く続かなかった。
  浅水が手で綾香に下がっているように言う。
  廊下の向こうから気配…。
  しかも今度は三匹だった。
「……和弥…」
  浅水が廊下に顔を出す。鬼は一方から来ているだけで、もう片方からは何の
気配も感じない。
  和弥が自分を指で指して、鬼のほうを選び、綾香達を指して、廊下の逆を指
した。
  和弥が何を言おうとしているか、綾香に分からないわけはなかった。そして
それが意味している事も。
「駄目よ!  二匹を相手にようやく戦えたってとこじゃない。それに私がいな
きゃ…。駄目よ。私も行くわ。セリオは逃げなさい」
「――綾香様が行くのであれば、私もお供します」
  和弥の手の動きが、変わった。後ろに下がっていろと言う事だ。
  どうやら間に合わなくなったらしい。
  そんなことを冷静に綾香は考えていた。
  のそり、と、最初の鬼が廊下の向こうからこの部屋に入って来る。
  かと、思った瞬間に、全ての均衡が轟音とともに吹き飛んだ!  最初の鬼の
上半身と共に。
  一瞬何が起こったのか分からず、綾香は咄嗟に身を伏せる。
  続いて轟音、そして轟音。なにが起こったのか分からずに、綾香は身を上げ
た。どちらにしろ行動しなくてはならない。
  その時、廊下の向こうから、人影が現れる。
  長い髪の少女。綾香と年はそれほど変わらないだろう。綾香と同じように髪
の毛をポニーテールにまとめ、そして肩に大きな火器を担いでいる。そしてそ
の目が和弥を捕らえたと思った瞬間、綾香は飛び出していた。
「止めてっ!」
  その叫びに少女の動きが止まった。というより火線に綾香が立ちふさがり、
撃てなかったというのが正しかった。
「あなた、もしかして来栖川綾香さん?」
  肩に火器を担いだまま、少女が尋ねた。
  とてつもなく重そうに見えるのだが、少女も綾香並みに鍛えられているのか
もしれない。
「そ、そうだけど?  貴方は?」
「ってことは浅水君?」
  実質綾香の質問を無視する形で、少女は浅水に問い掛けた。
  和弥が肯く。鬼の姿のままで。
「へへ、じゃあもう少しで浅水君撃っちゃうところだったね」
  全然悪びれずに、そしていきなり現れて浅水に親しく話し掛ける少女が、綾
香には苛々して見えた。
「貴方は誰!?」
「あ、ごめんなさい。来栖川さんは初めてお会いしましたよね。桐島真奈美で
す」
  礼儀正しくぺこりと頭を下げる少女、真奈美に、綾香は呆然と答えを返す事
もできなかった。

「月島さんは…?」
  ばたりと床に倒れ込んだ月島を前に祐介はどうすれば良いのか分からず、水
禍に尋ねた。
「逃げたんだよ」
  媛碌が冷たく言い放つ。
  水禍が眠たそうな目をこすりながら、拓也の側にひざまずいた。
「…現実を見る事の恐怖から、自分の内なる世界に逃げ込んでしまわれました。
恐らくは一生目覚める事は…」
  そう言って、水禍もゆっくりとその場に倒れ込んだ。
  祐介と媛碌が駆けつけた時、水禍と拓也は二人して安らかな寝息を立ててい
た。
  ……安らかな…。

  とりあえず浅水は人間の姿に戻る事にした。
  三人の女性には脇を向いていてもらう事にして、血まみれの死体から消防服
を剥ぎ取り、身につけた。まだ濡れた血が気持ち悪かったが贅沢は言っていら
れない。
「裏口から脱出します」
  状況確認を済ませると、階下に向けて走りながら真奈美はそう言った。
「――しかし裏口のシャッターは」
  セリオが言っているうちにそのシャッターが目に入る。と、真奈美が肩に担
いだ火器を軽く持ち直す。
「こうするのよ」
  真奈美が引き金を引く、と、同時にさっきから数度聞いた轟音が響き渡り、
シャッターに大穴が開いていた。
「道は自分で切り開くものよね」
  にこにこ笑ってそう宣言する真奈美に、なにかしら不気味なものを感じつつ、
綾香は浅水に耳打ちする。
「なんか助けに来なくても全然平気そうじゃない」
「あ〜、いや、こんなはずじゃ」
「なに話してるの?  置いてっちゃうわよ?」
  シャッターの穴をくぐりながら真奈美が言った。
  三人が慌てて、真奈美の後を追う。そしてシャッターをくぐった向こう側に
は…。
  三台の装甲車両とそれに見合う数の兵士がいた。
  その中から浅水が見覚えのある男が前に出る。
  彼は綾香の前に立つとこう、ちょっとした笑みを浮かべてこう言った。
「陸上自衛隊第12師団第12対戦車隊、あなた方の救出に参上仕りました」
  と……。

  ―――続く。

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