・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第十四話・悲しみが終わるよ・ 投稿者: 智波
  暗闇の中に初音はいた。
  とてもとても暗い場所だった。
「……ヨーク…」
  返事はない。
  死んでいるから…。
  この友人の断片は死んでしまっているから。
「…ごめんね、ヨーク。…私が思い出してあげるのが遅かったんだよね」
  そっとガラスに手を当てる。
  暗闇程度では初音、いや、リネットの視力は奪えない。
「お友達がやってくるんだって。ヨーク、お友達がくるんだよ。そうしたら寂
しくないかな?」
  そっと冷たいガラスに初音は頬を当てる。
「寂しくないよね。…ね?  ヨーク」


・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第十四話・
・悲しみが終わるよ・

場所は『施設』地下2階。本来館内地図にも載っていない場所である。
見た目には他の場所と変わりはない。
白い壁、白い床、白い天井。
そして白い部屋。
「千鶴さんっ!」
  鬼気に導かれるままに扉を開いた耕一が何も考えずに最初に叫んだ言葉がこ
れだった。
  鬼気は、もう一人の耕一、次郎衛門の指摘は正しかった。
  部屋の左奥のベッドで、壁を見つめているその背中は、間違えるわけも無い、
忘れるわけも無い、愛しい人の背中だった。
「……千鶴さん……」
  耕一はゆっくりと部屋の中に歩を進めた。
  生活観を感じさせない、入院したばかりの病院の個室のようだ。
  ただお見舞いの花束や、果物はどこにも見当たらない。
「千鶴さんっ!」
  三度に渡る耕一の叫びに、ようやく千鶴はゆっくりと、薄い微笑みを浮かべ
て振り返った。その目が耕一を捕らえ、彼女はまず目を閉じて首を振った。そ
れでも耕一は消えなかった。ぱちぱちと瞬きし、ごしごしと目をこすって、そ
れでも耕一の幻覚が消えないのを見て、千鶴は自分がついに本当におかしくなっ
たのだと思った。
「…千鶴さん。無事だったんだ」
「……こういちさん?」
  夢ならそれでもいいと千鶴は思った。
  どうせ夢なら覚めないほうが良いと思った。
  狂ってしまったのなら、現実には戻りたく無いと思った。
「……ほんとうに、こういちさん?」
「当たり前じゃないかっ!」
  そう言って、当然それが当たり前ではないことに耕一は気がついた。
  この鬼の襲撃が無ければ、千鶴を見つけることはなかっただろう。こんなに
そばにいたというのに。こんなにも千鶴は疲れきっているというのに。
  白い手術着が千鶴を一層病人に見せている。いや、本当に病気なのかもしれ
ない。
  耕一は千鶴の正面まで歩くと、そこでベッドに腰掛けたままの千鶴を抱きし
めた。
「こういち、さん?」
  ゆっくりと千鶴の瞳に色が戻ってくる。
  ああ、私はこの感触を知っている。その力加減で私を抱いてくれる人を知っ
ている。
「耕一さんっ。耕一さんっ!」
  これまで押さえつけていた感情が堰を切ったように溢れ出し、千鶴は耕一に
しがみ付くようにして、わんわんと声を上げて泣いた。
  耕一はそんな千鶴の背を抱きつつ、その耳元に囁いた。
「千鶴さん、本当に無事で良かった。でも、まだしなきゃいけないことがある
んだ」
  千鶴の泣き声が止まり、千鶴は耕一を見上げる。
「千鶴さんは先に外に」
「……駄目なんです。それは駄目なんです」
  千鶴が涙目のまま、しかし柏木家家長としての威厳すら漂わせ、言った。
「どうして?」
「柏木の鬼の秘密を世間にばらすと言われてしまったんです。だから、だから
私は……」
「そんなものっ!」
  耕一は思わず叫んでいた。
「そんなもの気にしなくて良いさ。世間にばれたって、どうにかなるさ。だか
ら今はここから出よう」
「でも、でも、梓や、楓や、初音が……」
「…………」
  耕一は思わず返答に詰まる。
  梓は依然行方不明だし、楓は、楓は死んでしまった。
「こ――」
「と、とにかく!」
  何かを言おうとした千鶴の声を遮るように耕一は言葉を出してしまっていた。
こうなったらなにかを言わなければならない。
「今は脱出しよう。後のことは後で考えよう。いいね?」
「…………分かりました」
  千鶴はベッドのシーツで顔を拭くと、立ち上がった。
「まずは梓を探しましょう。必ずここにいるはずです」

  突入は意外なほどすんなりといった。
  消防車が止まり、慌ただしく綾香達が飛び出し、そして建物の中に入ってい
くのを咎めるものはいなかった。
  綾香と、浅水と、後は来栖川の警備員だという四人の男達。
  建物に入った瞬間にむっとした煙が辺りを覆っているのが分かる。水浸しの
床を踏みしめながら、浅水はこれが『施設』なのか、と、意味も無い感慨を抱
いていた。
「で、どうするんだ!?」
  ヘルメットと、防煙マスクのせいで大声を張り上げないと会話が成立しない。
もっともこの装備のお陰で易々と侵入できたのではあるのだが。
「上よっ!  十二階まで上がるわよ!」
  綾香の頭には『施設』内の地図が出来上がっているのだろう。ばちゃばちゃ
と水音を立てながら廊下を走り始める。その先に階段が見えた。
「エレベーターは?」
「火災時にエレベーターなんて使ってどうするの!」
  至極当然の答えを綾香は言う。
「やっぱり無茶だったんじゃ?」
「とにかく、連中は能力者を表に出す気はないわ!  下手をすると見殺しよ!」
  その言葉にマスクの下で浅水の顔が変わった。
「……分かってる」

  ――始めるぞ。セリオ。
「――はい」
  割と小さな部屋だった。
  所狭しと並ぶモニターには『施設』内部の状況が示されている。
  そんな中、消防服を身にまとったセリオがコンソールに手をついて立ってい
た。
  その腕からは無数のコードが延び、コンソールの各所に繋がれている。
  そう、ここは施設のコントロールルームであった。
「――十二階に人間のものと思われる熱源反応があります。火災は地下三階か
ら、地上2階まで、今の様子では十二階に炎が達するよりは早く食い止められ
るものと推測されます」
  衛星回線を通じて、常にセリオは来栖川のラボと繋がっている。その向こう
にはマルチの産みの親がいる。
  ――その前にやることをやってしまわねばな。
「――はい。綾香様達の進行方向の火災防壁を解除します」
  ――ところで…。
「――はい」
  セリオは突然の質問にも無表情に答える。
  ――いや、なんでもない。
「――はい」

「邪魔をするなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
  拓也の腕はゆっくりと振りぬかれたにも関わらず、手にしたベッドを投げ飛
ばし、少年はそれをぎりぎりでしゃがんで交わす。
  壁に当たったベッドはとてつもない騒音を上げながら、床に落ちる。
  二人の間には光の壁がある。
  力と力のぶつかり合い、それは能力の点においてもそうだった。
  不利なのは拓也のはずだった。
  少年の力は電波の上位能力といって差し支えなく、無条件に電波の力を押さ
えることができるはずだったからだ。
  その上、念動力で体の自由を奪っているはずなのに、それを貫いて、攻撃を
繰り出してくる拓也の力には凄まじいものがあった。
  腕を交差させれば、その瞬間に縊り殺されるだろう。
  エルクゥの力が増してきているということだ。
  少年がちらりと時計を見る。
  もう十分に時間稼ぎできただろうか?
  水禍は無事だろうか?
  そんな一瞬の思考が少年に隙を作った。
「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
  眼前に迫る爪に、少年は切り札の力を解放させる。
  光が、弾けた。

「瑠璃子さんっ!」
  果たして瑠璃子はそこにいた。
  電源が落され、窓の無い、薄い暗闇の中で、小さなベッドに腰掛けて、虚ろ
な瞳で壁を見つめていた。
「…………誰?」
  笑っていない。
  浅水は始めて笑わない瑠璃子を見たのだと気がついた。
「誰って、僕だよ。浅水。祐介君の友達だよっ!」
「ゆうすけ……?」
「瑠璃子さん!?」
  瑠璃子の肩に手をかけようとした浅水の手を、綾香が制した。ゆっくりと横
に首を振る。
「時間が無いわ。とにかく脱出しましょう」
  そして振り返る。
「他の能力者は!?」
「…残っている能力者四名はこちらで確保しました。しかし…」
「……真奈美。瑠璃子さん、真奈美はどこに連れて行かれたの?」
  瑠璃子は何も映さない瞳で、浅水をじっと見詰めた。
  ――一体何を考えているのだろう?
  そんなことが浅水に分かるはずも無い。
「…………」
  瑠璃子はゆっくりと首を横に振る。
「能力者じゃないから、ここじゃなかったのね。確かに考えるべきだったわ」
  悔しそうに爪を噛む綾香を横目に捕らえながら、浅水は瑠璃子に手を差し出
した。
「…そうだね。…ここから出よう。瑠璃子さん。祐介君のところに連れていっ
てあげるよ」
「…………」
  瑠璃子はなにも答えないまま、小さく肯くと、浅水の手を取った。

「あ、梓……」
「…………」
  時間が止まっていた。少なくとも二人の間では…。
  ほとんど鬼のいなくなった『施設』内部を駆け回っていた。梓が囚われてい
るとしたら同じ地下のはずだ。同じような場所。しかし千鶴さんの近くでは有
り得ない。
  そんな事を考えながら、走り回って、そして入った部屋がここだった。
  果たして梓はそこにいた。
  変わり果てたその姿で。容器に収められた物体と、識別番号。名前。その塊
がどこの機関か、そしてコンピューターのデーターとして、梓はそこにいた。
「…あずさ?」
  千鶴がプラスティックの透明な容器に手をかける。
  一方でそんな千鶴を見つつ、耕一は恐ろしいほど冷静な自分が恐かった。
  それ、が、あまりにも自分の知っている従姉妹の姿とは違ったからかもしれ
ない。あまりにもかけ離れて実感が涌かなかっただけなのかもしれない。
  それともすでに楓を失っていたからなのかもしれない……。
「約束したのに。…約束したのにぃっ!」
  容器に手を当てたまま、その場に千鶴は崩れ落ちる。
  そんな千鶴の背を耕一はどうすることもできずに見つめていた。

「水禍さん!  どうしてっ」
  どうしてここに!?  その叫びを少年は飲み込む。
「……虫の知らせ、です」
  ゆらりと、存在感の無い女性。
「お久しぶりですね。媛碌(ひめろく)さん」
  そうして、ゆらりと自分が壁に縫い付けた男に、拓也に向き直る。
「…こちらが出向くのをお待ちいただけるのかと思いましたが」
「敵同士の約束は常に罠の意味合いを持っているということだ…」
「……それでも二ヶ月、待っていただけましたね」
「建て直しには不十分だったか?」
「……いえ、そうとも限りません。だって」
  水禍がさっとドアの側から、移動する。
「長瀬さんはすでに退院なさってますもの」
  そして静かな怒りを湛えた祐介が現れた。

  さて、一方脱出する十一人は途中で足止めを余儀なくされていた。
  階段を降りて、ちょうど場所は六階である。
  その廊下に一人の人間が立っていた。
「お前は……」
  その男に浅水は見覚えがあった。
  真奈美が攫われた時にいた能力者だ。
  そうだと認識した瞬間、浅水は飛び出していた。
「お前はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
  鬼の力を解放し、長く伸びた爪で男に切りかかる。
  ヴンッ!
  という耳鳴りが浅水の耳を覆った。
「和弥っ!」
  綾香の叫びと同時に、宙に浮いた浅水は壁に叩き付けられる。
「アンタ達は能力者全員連れて今すぐ脱出しなさい」
  拳を固めて綾香は叫んだ。脱出していなかった能力者は全員、何らかの薬品
を投与されているのか、能力が使える状態ではなかったからだ。
  二人が先導し、二人が後ろを構える。
  しかし、男は冷たい目でそれを見送った。
「……邪魔、しないのね」
「来栖川財閥の御令嬢、たかだか能力者四人を失うのと比べれば、むしろ大し
た獲物、ということらしい」
「貴方が私に勝てるかしら?」
  正直綾香に勝ち目があるとは思えなかったが、そう言うしかなかった。
「さぁ?  やってみなくちゃ分からない」
  空間が軋んだ。
  やられる!?
  綾香が身構えた瞬間、階段から男を遮断するようにシャッターが下りた。
  綾香を吹き飛ばすはずだった力が霧散する。
  そしてスピーカーから聞きなれた声が響いた。
「――綾香お嬢様、今のうちです。早く脱出してください」
「セリオ!?  セリオなの!」

「もうすぐだよ。ヨーク。悲しみが終わるよ」
  暗闇の中、ガラスケースにもたれたままの初音…。
  ――コツコツコツ…。
  そんな足音が近づいてくることにも興味を払っていない。
「…そう、ようやくその気になったのね」
  その声は彼女、あの女科学者のものだ。
「…でも、もう遅いわ。ごめんなさいね」

  ――だぁぁぁぁぁん!

  ―――続く

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