・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第十三話・施設、へ・ 投稿者: 智波
  来栖川綾香はその長い髪をポニーテールにまとめ、ぽんぽんと手を叩いた。
  右手をきゅっと握り締める。体内発電の調子は悪くない。十分に暖まってい
た。
  とんとんと地面を足でつつく。足の裏を地面につけ、軽く力を入れる。
  うん、悪くない。
  軽い緊張を作るのはもう慣れていた。必要上から、いつでもコンディション
を最高に持っていける。
「さあ、今日もよろしくね」
  綾香はにっこりと笑ってそう言ったが、浅水には今だに何故彼女が笑えるの
かが分からなかった。
  どちらにしろ、やらなくては殴られるのはこっちだから、始める事にする。
  鬼の力を解放し、その場に佇み、浅水は綾香が動くのを待った。
  考えがあるわけではない。ただ女の子を相手に自分から殴りにいく事に今だ
抵抗があるというだけだ。
  トントン、トントン、トントン。
  綾香の足がステップを刻み始める。左右に細かく揺れるように動きながら、
少しずつ間合いを狭めていく。最初の時、浅水は綾香が蹴りの射程内に入って
くるまで、接近されている事に気付かなかった。もっとも綾香の射程が長い、
という事もあるのだが。
  しかし、その手がもう通じない事は綾香も分かっている事だった。
  鬼の力を持つ浅水に正面からでは綾香には勝ち目はない。いや、不意打ちで
も――綾香は一度、いきなり浅水に蹴りかかった事もある――駄目だった。
  素手で戦車と戦うようなものね。
  などと、綾香は女の子らしくない事を考えてみたりもする。
  いや、鬼ならば戦車相手でも勝てるだろう。戦車砲は鬼を殺すようには設計
されていない。戦車砲にだけ気をつけて、接近してしまえば、後はハッチをこ
じ開けて、中の乗員を倒してしまえば良いのだ。
  とにかく圧倒的なのだ。力も、速さも、総合的な意味でのリーチでも、全て
で負けている。
  まあいいか、練習だもんね。
  勝てないのは悔しいけどさ。
  ゆっくりと浅水の利き手である右手の側に移動しつつ、綾香はあっさりと最
初の一歩を踏み出した。


・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第十三話・
・施設、へ・

「ここは、好きじゃない」
「…………」
  柳川はそんなことは知っているとでも言わんばかりに沈黙を守る。
  それは彼もこの場所を好いてはいなかったからだ。
  白白白白……、何を好き好んで、ここまで白で統一したのか。白は基本的に
清潔を感じる色ではあるが、ここまで白一色ではある種の異常さえ感じる。壁
も白、床も白、天井も白、ベンチも白、灯かりも白色灯を使用している。中を
歩く職員達の服装も白。黒髪である事が異常に感じられるほど。
「なんか、俺の方が異常なんじゃないかって気がしてくるんだよな。ここにい
ると」
「…………」
『施設』
  ここを訪れるのはもう、何度目であっただろうか?  検査検査検査検査。鬼
の弱点を掴むための実験。鬼がなんなのかを知るための実験。鬼は何処から来
たのか?
  もはや俺達は単なるモルモットでしかなく、彼らには鬼の脅威も何も見えて
いないのではないか?
  どこかで鬼が出現してくれたらいいのに。そうすれば、ここから解放される。
  耕一は不謹慎である事を自覚しつつも、そう考えないわけにはいかなかった。

  二十分が過ぎていた。
  綾香が最初の攻撃を放とうとしてから、である。
  綾香と浅水の距離はたった1.5メートル。綾香にとっては格好の間合い、
のはずであった。
  ――それなのに一発も攻撃できないっ!
  右手で攻撃しようとすると、右、左手で攻撃しようとすると右。足でも同じ
ことであった。攻撃を出す側に接近されては攻撃が繰り出せない。後ろに引き
つつ攻撃するという技もあるらしいが、綾香はその域には達していなかった。
  ――攻撃前の動作が全部読まれてるからっ!
  悔しい事に、確かに綾香には攻撃前のモーションがはっきりとしすぎていた。
スピードでそれを補っていたが、いや、所詮人間レベルの戦いではそれくらい
の隙は何でもなかったのだ。
  ――もっとシャープにならなきゃいけない。攻撃されるまで、相手が攻撃さ
れた事に気付かないくらいにっ!
  それにしても、と、綾香は思う。
  浅水のなんと強くなった事か。
  最初から実力差は大きかったが、それがどんどんと広がっていくのを綾香は
見ているしかなかったような気がする。
  初めは綾香の攻撃をただただ大きく交わしていた。
  だんだんとその距離が短くなり、気がつくと、ほとんど見切りで交わされる
ようになった。それから綾香の手数が減っていった。正確には減らされていた。
  そして今日はついに、今だ一度も拳を繰り出せていない。
  がむしゃらに体を動かす。浅水の隙を探す。早いステップの音が頭に刻み込
まれていく。
  ――この人は私を置いていくだろう。
  二人の足が床を叩き、情熱的な音楽を紡ぎ上げていく。
  ――後ろから追いかけてる私の事など気がついていないに違いない。
  一瞬距離が開く。
  本当に一瞬のことだったが、綾香にはそれが見えた!
  ――でも、今はこの人は私だけのものだ。
  シャープに、シンプルに、当たるだけで良いからっ。
  ほとんど祈りを捧げながら、一番基本に近い形で綾香は拳を突き出した。

  つまり相手の攻撃を先に知る事ができれば、それなりの対処の方法があると
いう事だ。
  目の前の鬼がぐっと床に沈み込むように最初の一歩を踏み出したのを見て、
耕一は前に足を踏み出した。態勢を低くして、飛び上がった瞬間の鬼の足を掴
む。重い抵抗があったが、地に足をつけているせいで、耕一が勝った。
  そのまま、その鬼を振り回して、耕一に飛び掛かろうとしていたもう一体の
鬼に、投げつける。刹那、背後に鋭い殺気を感じて、真上に跳ぶ。態勢をくる
りと空中で回しながら、自分が今の今まで立っていたところを振りぬかれる鬼
の爪を眺める。片手と両足で、天井につき、その一瞬で体制を整え、また半回
転しながら、下に降りる。ただし、三匹目の鬼の上に、だ。両膝がその鬼の肩
を捕らえた。もう何度も聞いたが、今だ慣れない音がして、鬼の両肩が深く陥
没する。
  鬼が両手で耕一を振り払おうとしたのだろう。肩の筋肉が痙攣する。しかし
折れた腕は上には上がらなかった。
「柳川っ!」
  耕一が叫ぶのと、柳川の爪が、鬼の心臓を貫くのは同時だった。
  拭き迸る鮮血が柳川と、壁と床と天井を濡らし、力を失ってぐらりと揺れて
倒れる鬼の体から耕一は飛び降りる。
「こいつは少々異常だな」
  戦闘の緊張も昂揚も無いのか、淡々と柳川が指摘する。
「少々もなにも全部おかしいじゃないか」
「ああ、まったくだな」
「どうするんだ?」
「全部、殺すのさ」
  二人はお互いの背を守るために、背を合わせるようにして立つ。
  廊下の向こうが朱に染まっている。
  ああ、炎だ。
  のたりと、覆い被さるようにして倒れていた鬼達が起き上がってきた。

「――綾香お嬢様」
  シャワーから溢れ出す冷たい水が、熱しきった綾香の肌を冷やしきっていく。
  壁に手をついて、綾香は頭から水を被っていた。
  ――情けない格好ね。綾香。
  渾身の一撃も浅水を捕らえる事はなかった。
  紙一重で右腕の外側に交わされ、次の瞬間には浅水の手が綾香の喉を捉えて
いた。
  綾香の手がそっと、自分の喉に触れる。
  あれは彼女の首を難なくへし折る事のできる手だったのだ。
  ――悔しい。
「――綾香お嬢様」
  気がつくと、シャワーは止められていた。
「――お風邪を引いてしまいます」
「お願い、独りにして」
「――すみません。そういう訳にはいかなくなりました」
「嫌よ!  いい加減にして!  アンタを捨てるわ。研究所に送り返す!」
「――承知しました。綾香様のユーザー登録を抹消させていただきます。しか
し、最後にこれはお伝えさせてください。『施設』で火災が発生しました」
「なんですって!」

  休日の終わり。
  憂鬱な月曜日の始まり。
  もう昔には戻れないと誰もが知りつつ、その本当の意味を知るものはほとん
どいない。

  病室は静まり返っていた。
  患者の眠る病室の個室はそういうものだ。
  ――パタン――
  病室の扉を静かに閉め、拓也はゆっくりと振り返った。
「この二ヶ月間、どうだった?」
  ベッドの上に問い掛ける。
「君を殺すのは止めることにした。代わりに君を消すことにした。もう瑠璃子
は君のことは覚えていない。知っているだろう?  もともと電波の力は僕のほ
うが強いんだ。瑠璃子よりはね」
  つかつかとサイドテーブルに歩み寄る。
  そこには枯れた花束と、そこに水の残骸のこびりついたコップ。
  拓也はゆっくりと枯れた花の花びらに触れる。
  かさかさと崩れる花。
「そしてこの病院の人々も君のことは忘れた。君は消えた。この世界から」
「…わざわざ勝利宣言をするためにここに来たの?」
  突如として現れた気配に、拓也が振り返ると、ドアの陰に隠れるようにして
一人の少年が立っていた。
「来ることは分かってたけど、てっきり祐介さんを殺しに来るものだと思って
た」
「貴様は誰だっ!  何故覚えているっ!」
  中学生か、小学生、どちらにしてもとしばも行かぬ少年であることに違いは
ない。
「何故、何故、何故……、尋ねれば答えてくれると思ってる?  答えは自分で
探すものだよ」
「生憎とそんな時間と余裕はない。すぐに行かなければならないところがある」
「行かせるわけにはいかない、と言ったら?」
「殺すまでだ」

  何故、何故、何故だっ!
  どうしてこんなことになるんだっ!
「お前達は一体なんなんだっ!」
  咆哮、耕一の爪が、腕が深く鬼の体に突き刺さり、
「いい加減にしろぉぉぉぉぉぉ!」
  絶叫と共に耕一の腕がそのまま、鬼の体を引き裂いた。
  鮮血に染まった耕一が狭い廊下を駆ける。
  すでにどれくらいの鬼を殺しただろう?
  どれだけの命が奪われたのだろう?
  何処まで行っても限りなく現れる鬼は何を意味しているのか?

  ……こいつは少々おかしいな。

  んなことは分かってるよ!
  耕一の記憶、次郎衛門の記憶。どちらでも良い、鬼の血を色濃く受け継ぐも
のがこれだけもいるはずが無いのである。
  これまでも十分に異常ではあったが、これほどではなかった。
  異常の原因は何だ?

  ……それより何処か、だな。

  そうだっ、それだ、原因はきっとここにある。
  なにかが理由で鬼がここに集まってきた。

  ……またはなにかが理由で鬼がここで生まれた。

『施設』、いや、俺達は鬼に十分な恨みを買っている。

  ……いい加減気づいたらどうだ?

  何に!?

  ……ほんの少し鬼の気配に満ちているからといって気づかんのか?
  ……予想以上の鈍感らしいな。

  俺も、お前もな。
  耕一は自分自身に憮然とした答えを返して、立ち止まった。
  周囲の鬼気に身を投じる。
  まだ、まだたくさんの鬼がいる。気配は地下に集中していて、そんななかに
一つ変わった色彩の鬼気が……。
  …………!!
  どういうことだっ!

  ……どういうこともなにもそういうことなんだろうな。

  何故教えてくれなかった!

  ……俺が教えるとでも思ったか?

  エディフィルの恨みとでも言うつもりかっ!

  ……さぁな。どちらでも良いことだ。エディフィルはまたしても命を奪われ
たのだから。

  この野郎!
  この野郎、この野郎、この野郎!!
  おりしも視界に一匹の鬼が映った。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
  絶叫を上げながら、耕一はその鬼に自らの怒りをぶつけるために駆け出した。

  ……教えてやったというのに、恩知らずな奴だ…。

「……で、これが作戦?」
「良い考えだと思うでしょ?」
「ま、まあね」
  ヘルメットを深く被り直して、浅水は綾香に感づかれないように溜め息を吐
いた。
  よりにもよって、火災を起こしてる『施設』に消防隊員の変装で侵入しよう
というのだから、溜め息も出るというものだ。もっともこの準備の良さは誉め
るべきなのだろうが……。
  一方で、消防服に身を包んだ綾香もそっと溜め息を吐いていた。
  もっとも、和弥に作戦案の一つを教えてたら、こうは納得してくれなかった
でしょうね。
『施設』に放火、混乱に便乗するという作戦も無いわけではなかったのだ。
  お陰で準備は簡単だったけど、ね。
  ――ファンファンファンファンファンファンファンファン……。
  警笛をかき鳴らし消防車が疾走する。
『施設』に向けて……。

  ―――続く。

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