・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第十二話・最後の休日・ 投稿者: 智波
  扉、と言うものの存在をどう捕らえるか?
  普通、扉と言えば、取っ手のついた長方形方の仕切り板の事を想像するだろ
う。
  貴方の部屋と廊下とを分け隔てているあれだ。
  貴方のプライバシーを守り、貴方にささやかなる安心を提供してくれる仕切
り板だ。
  貴方には扉と言うものの存在しない世界は想像できない。
  誰もが容易に貴方の世界に入り込める世界。そんな世界には耐えられないに
違いない。
  扉は容易にその向こうの世界とこちらの世界を繋げ、切り離す。
  だから扉のこちらからは向こう側が見えない。
  それはささやかな幸せを守るための鉄則だ。
  そして至る所にある狂気の扉の向こう側がこちらに見えないための鉄則だ。

  そして初音は目の前の扉を開いた。


・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第十二話・
・最後の休日・

――
「――綾香お嬢様」
  機械の体を持った娘がおずおずと扉を開き、その中にいる主人に伺いを立て
る。
「……夏、終わるわね」
  窓辺の椅子に座り、終わり行く夏の残滓を追っていた主人が、溜め息とも言
えるような声を出した。
「――九月になりましたから」
「……そうね、学校始まっちゃった」
「――学校の事が気になりますか?」
  綾香は振り返らない。この部屋にいる彼女の従僕に一度の視線を与えてすら
いない。
「紅葉はまだ、始まらないのね」
「――来月の初めには始まっているはずです」
「…………そう」
  夏の終わり、秋の始まり。移ろい行く季節にはそれぞれの強さがある。
  夏の太陽はあれほどに輝いて、秋を迎える我々に強き日差しの事を焼き付け
ていくし、日増しに涼しくなる風は、容易にいずれ寒くなる季節を連想させる。
「季節は変わり行くのに、……何も変わらないのね」
「――綾香お嬢様は変わりました」
  機械の言葉に綾香は、ふ、と笑った。
  一体機械に何が分かるというのか?
「……こういうのはね、私らしくないって言うのよ」
――

二月と言う時間はあっという間に過ぎていった。
  何もしないまま、何もできないまま、何も起こらないまま過ぎていった。
  柏木家の一家消滅の話題は一時期、全国のニュースを騒がせ、そして過ぎ去っ
ていった。彼らの存在は日本から、消し去られたかのようだった。
  学校からは長瀬祐介、月島拓也、月島瑠璃子に関する全ての情報が消えてい
た。生徒を含む、全ての学校関係者の記憶と共にいずこかへと消し去られてい
た。この事はニュースどころか、地方紙の片隅に載る事さえなかった。長瀬祐
介の家族は来栖川系の病院に入院している祐介の見舞いに来る事さえなかった。
  何が起こっているのかも分からず、苛々し、全てが下らなく思え、浅水は自
分が一番下らないのかもしれないと結論していた。
  消え去っていった彼らの存在を主張するわけでもなく、日々に甘んじ、怠惰
に過ごしているという感情は、例え、仲間と呼べる人達と共にいても消える事
はなかった。
  一番壊してしまいたいのは自分自身だった。
  しかしそれをさせないのは、偏に真奈美と言う少女の存在でもあった。
  彼女を助け出すまでは、諦めるわけには行かないのだ。
  間延びしたチャイムが鳴り、今日も学校が終わる。
  どうしてここにいるのだろう?
  そんな疑問が消えない。
  さっさと施設とやらに乗り込んで、そしてどうなったとしてもそれをしたかっ
た。
  そうすれば、それまでの自分を消せるような予感があった。
  この場所にいたくなかった。
  ざわめく教室から、逃げ出すように鞄を取って、外に出た。
  廊下まで響いてくる喧燥が、目眩を起こしそうなくらい眩しかった。
  まるで見えないガラスの向こうのようだ。
  触れ合う事のできない世界に彼らはいる。
  その世界に憧れないわけではなかったが、今はこのガラスを打ち砕く時では
ないはずだ。
  片手で――もし望むのであれば――この並んだガラスの列をすべて打ち砕く
事もできる。それを望んだ事もあったはずだ。
  喧騒に揉まれるようにしながら、下駄箱で靴を履き変える。
  日当に出た瞬間に夏がまだ続いている事を浅水は実感する。
  まるで去り行く夏が、必死に自分がいた事を主張しているようだ。
  その眩しさに一度目を閉じて、目を開けた時、それが映った。

  ――彼女は校門の側に堂々と立っていた。

  陽光の降り注ぐ中、それから避けようともせず、堂々と。
  浅水は一度そこで立ち止まり、そして覚悟を決めて、前に足を踏み出した。
「やっほー☆  和弥君でない?」
  綾香が片手をあげて浅水の所に駆け寄ってくる。それが何とも言えず、気恥
ずかしかった。
「あ、綾香さん。あれ?  今日は?」
  だから今気付いた振りをしてやり過ごす。
  しかし、そんな浅水に気付いてか、気付かずか、綾香はいつも通り明朗に語
り掛けてくる。その生み出される言葉は彼女の踏むステップのようにテンポ良
く気持ちがいい。
「今日はOFFよ、まあ向こう側の動きも無いしね。正面から行けないのは水
禍さんから得た情報でさらに明らかになったし」
「そういえば水禍さんは?」
「今は『施設』の地図を作成してもらってるわ。それを元に作戦を練ってると
ころ」
「施設は何をしようとしてるのかな?」
「うーん、話してあげてもいいんだけどね。推測だし」
  綾香が腕組みをして、頭を捻る。妙に似合わないその仕種に思わず浅水の顔
に笑みが浮かんだ。
「なに?」
  何時の間にか綾香が顔を上げ、浅水の顔を覗き込んでいた。
「い、いや、なんでもないよ」
  弾ける喧燥がやけにうるさく周りを通り過ぎていく。不思議と冷やかしの声
は聞こえなかった。
「そ、じゃ、遊びに行きましょ」
「え?」
「デートのお誘いよ。断るの?」
  綾香はくすくすと笑う。
「あ、いや、お供させていただきます」

  自室待機、か。
  自宅ではないんだな。
  今更分かりきった事を耕一は考えた。
  すでに耕一の住んでいたアパートには別人が入居しているはずだ。
  大学からは除籍、自主退学という事になっている。代わりにすでに耕一の手
元にはある国立大学の卒業証書がある。
  ただの紙切れだ。
  それでも、人生変えるんだよな。
  耕一は心地よいベッドに横たわったまま、自嘲した。
  在籍していた大学よりは断然有利な就職活動を送れると言うわけだ。
  まあ、ラッキーといやあ、ラッキーだよな。
  落としそうになっていた単位の事を考えて、耕一はまた笑った。
  何にもする事ねぇなあ。
  鬼が出ない限り、耕一に出番はない。ここのところ鬼の出現は減少していた
し、地方的にも隆山に集中していた。警察機構も鬼の対処に手慣れ始めていた
し、実際につい一週間前、耕一が駆けつけた時には警官隊の手によって、鬼が
射殺されていた事もあった。もっとも警官隊も七名の死者と、四名の重傷者を
出したが……。
  ま、こういう時はぐーたら昼寝といたしますか。
  やっぱこれは幸せだよなあ。
  そのまま目を閉じようとした時。
  ――ピンポーン。
  と、チャイムが鳴った。
  誰だ、誰だ。俺の至福の時間を邪魔する奴は。
  なんて思いつつも、足早に扉に向かう。
  鬼が出たのかもしれない。ここのところ静かだったから、その可能性は高い
ように思えた。
  扉を開けた瞬間、耕一の目の前に鬼がいた。

「……ねえ」
  半ば連れ去られたようにゲームセンターに引っ張っていかされ、初めてやる
と言うシューティングゲームで最高点を叩き出した後、熱心に格闘ゲームの画
面を見つめていた綾香が不意にそんな事を言った。
「和弥はどうして『施設』と戦うの?」
「え?  良く聞こえないよ」
  嘘ではなかった。ゲームセンターの喧燥は大声でないと貫けない。
  そんな浅水の耳に綾香が顔を近づける。
「だーかーらー!  和弥はどうして『施設』と戦うのかを聞いてるんじゃない!」
  ――わん、と、声が耳に響いて……、そしてあらゆる音が遠くなった。音だ
けじゃない。世界が、自分の手の届くところから消えていくような感じだった。
「多分、真奈美のためだと思う」  ――――多分じゃなくて間違い無い。
「真奈美さんって、例の捕まってる人?」
「うん、多分その事が無かったら、こんなに関わる事も無かったと思う……」
「……もしかして後悔してる?」
「……ちょっと、ね。僕がもし、あの時真奈美がついてくるのを拒否してれば」
  二人はゲームセンターを出て商店街をぶらぶらと歩く。あの喧燥は中で話を
する事を拒絶しているとしか思えない。
「でもそうなったものは仕方ないわよね。結局やれるだけの事をするしかない
んだわ」
「でも、たまに思う事がある」
「なにを?」
  二人は公園のベンチに腰掛ける。
「僕のしてる事は正しいのかなって」
「なんで?  あいつらは無理矢理真奈美さんを奪っていったんでしょ?  それ
の何処が正しい事なのよ!?」
「違うんだ。あいつらは確かに悪い奴らだと思う。少なくとも間違ってる。で
もそれの敵だからって僕は正義なのかな?」
「あったりまえじゃない!  正義じゃなきゃ、私が頑張る意味ないじゃない!」
  ――綾香さんは単純でいいな。
  そんなことを浅水はふと思ったりもしたが、賢明な事に口にはしなかった。
  ――違うんだよ。綾香さんは正義だと思っていても、他の誰かから見れば違
うかもしれない。正義は、万人のものじゃない。そういう事なんだよ。

「……う」
  最初から耕一に勝ち目はなかった。戦いは最初から向こうにあったのだ。
  それに場所も不利に働いた。誰も来ない事を良い事に、散らかるところまで
散らかりきっている。
  そしてその鬼は笑うと、耕一に勝利宣言をした。
「駄目だよ。お兄ちゃん。お部屋はちゃんと片付けないと」
「はい、ごめんなさい」
  初音ちゃんはあっという間に部屋の中を片付けている。勝手知ったるはずは
ないのだが、そこらへんは手際というものだろう。
  てきぱきと片付いていく部屋を見ているしかできない耕一を尻目に、初音ちゃ
んは早くも台所でなにかを作り始めていた。
  はぁ、やればできるもんなんだなあ、と、妙に感心する耕一に、日々部屋を
  片付けるという思考はあまり存在してはいなかった。

「さっきの話、まだ悩んでる」
「…………え?」
「ほぉら、また考えてる。正義がどうこうとかいうの」
「あ、ああ、うん。そうかもしれない」
「もぉ、和弥の事だから、これだけは話したくなかったんだけど、どーせ、聞
いたらまたうじうじ悩みそうだし」
「…………何?」
「『施設』のこと」
「水禍さんから聞いた話じゃなくて?」
「ぶぶー。来栖川の情報網をなめないでね。彼女以外にもちゃんと情報源はあ
るわ」
「…………あ、そうだよね」
「正直、ちょっと信じがたい話よ」
「今更信じるも何も無いよ。僕自信の事さえ、普通の人には信じがたい事なん
だし」
「そういえば、そうよね」
  綾香は苦笑する。言われてみれば浅水は鬼であり、電波使いである。そのど
ちらもが一般人からすれば、畏怖の対象であり、また迷う事無く敵だと判断す
るだろう。人間は見た目に恐ろしい存在と、自分よりも強い存在と、理解でき
ない存在は敵だと判断するのだ。
  そして浅水自身はそのいずれにも当てはまるのだった。
  それが浅水を迷わせている理由の一つだった。そして真奈美がその事を知っ
た時に、彼女がどんな瞳をするのかを見たくなかった。
  恐れていた。
「また考えてる」
「…………あ、そう、みたいだね。それで『施設』の事って?」
「あ、そうそう、それよね」
  そういうと、綾香は大袈裟に腕組みしてみせる。
「うーん、何処から話せば良いのかしら?」
  その時、浅水はふとした違和感を感じた。いや、これまで気付かなかったほ
うがどうかしてた。
「セリオさんは?」
「セリオ?  ああ、今日はメンテの日だから」  ――だから来たのだ。ここに。

――
「黙って!  放っておいてよ!  アンタは機械で私はご主人様なんでしょ!  
だったらさっさと出てってよ!」
  もし、もしもだ、その時のセリオの瞳を綾香が見ていたら何かが変わっただ
ろうか?  いや、何も変わり得ないのかもしれない。どちらにしても仮定の話
だ。
「――承知しました。ご主人様」
「そうよ!  アンタは機械なのよ!」
  セリオが単なる機械だとしたら、それは洗浄液と呼ぶべきだった。
――

「最初に言っておくけど、これはトップシークレットだからね」
「ああ……うん」
「じゃ、おさらいから『施設』は表向きは超能力の開発機関ね。事実上その活
動もしているし、その為に非合法な行動も辞さない。月島家族や、真奈美さん
もそういった犠牲者よね」
「うん」
「ところが、ここで一つの違いが生じたの。最初に得られたのは『鍵』という
単語だけだったわ。そして防衛庁のお偉い方の行動に不審なものが混じり始め
たのもね」
「防衛庁?」
「うん、そうよ。防衛庁。最初は予算の増額。もちろん表沙汰にはなってない
わ。農林水産省の予算として提出されてる予算の一部が回されているみたいね。
まあそこらへんの小難しい話は実のところ私も良くわかんないんだけど、そっ
ちからも『鍵』という単語が得られたわ。それから予算の流出不明先の一部が
『施設』に回されている事もね」
「『施設』に?  ってことは」
「そう『施設』は政府の機関なの」
「とすると、あれはやっぱり自衛隊だったんだ」
「陸上自衛隊の空挺小隊だったみたいね。作戦活動云々はともかく、普通の空
を飛ぶ時まで、完全に秘密を守る事は不可能ってこと。まあここまでは娯楽映
画やらで良くある事よね」
「ここ、までは?」
「信じがたいパートの始まりってこと」
  今更、という気もしたが浅水は黙って聞いている。
「オカルト、黒魔術、生け贄」
「――へ?」
「ほら、信じられなかった」
  綾香はちょっと笑う。
  しかしすぐに真面目な顔に戻ると、
「生け贄、ううん、人柱と言ったほうが良いわ。自分達が恐怖から逃れるため
のおまじないよ」
  心底軽蔑したように綾香が言い捨てる。
「何をそんなに」
「もしも、もしもよ。和弥が悪意を持って日本に敵対したら、どうなるかしら?」
「そんなこと、あるわけ――」
  あるわけないよ、と言いかけて、実際にそうなりつつあるのだと理解した。
今綾香が言っている事は仮定ではない、現実なのだ。
「たとえば、国会に乱入して、殺せるところまで殺して、脱出。自衛隊の到着
までには逃げ切れるわね。実際」
「そんなこと僕はしない!」
「そうよね。和弥はそういうこと出来るタイプじゃないものね。ちゃんと分かっ
てる。でもそういう事が出来る人もいるのよ。世の中にはね」
「でも、鬼は」
「今のところ『施設』はよくやってるわ。日本各地で出現した鬼の退治は警察
と『施設』のメンバーが主に行ってるらしいの。でもそれすらも予兆に過ぎな
かった」
「予兆?」
  その時一台の真っ黒いセドリックが綾香の背後で止まった。
「案内するわ。乗って」

「じゃあ、今日はバイバイだね」
  にっこりと初音は笑顔を見せる。
「いやあ、本当に助かったよ。また来てくれよな。初音ちゃん」
「う、うん。……きっとまた来るね」
  その時、耕一が覚えた違和感を何と言えば良いか。
  会話のズレとでも言おうか。初音ちゃんならば
「うん、また来るね」
  と、笑顔で、いや、言葉の内容は変わらないではないか。
  では、何に違和感を覚えたってんだ?
「……どうしたの?  耕一お兄ちゃん」
  ふと気がつくと、心配そうな初音が耕一の顔を覗き込んでいた。
「い、いや、なんでもない」
「そう?  本当に大丈夫?」
  耕一は玄関先で、自分を見上げる初音の後ろにぱたぱたをシッポが見えるよ
うな気がして、苦笑した。
「本当に大丈夫」
「そう、ならいいんだけど」
  ちょっと俯いて、初音は息を整えた。
「それじゃあ、お邪魔しましたっ!  耕一お兄ちゃん、またねっ!」
  らしくないほどの大声を張り上げると、初音は振り返り、ドアを閉めずに飛
び出した。
  耕一は訳が分からずに、ただ開け放たれた扉を見つめる事しかできなかった。
  これが耕一が初音を見る、最後の機会になるなど、まだ誰も預かり知らぬ事
であった。

  ―――続く。

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