・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第十一話・差し出された手を見て 投稿者: 智波
  ――つぅ。
  それは何処から生まれたのか?
  一筋の汗は初音の首筋を伝い、まだ未成熟な乳房の間を通って滑り落ちた。
「……はぁ」
  心なしか息苦しい。
  胸を押さえた手をふと顔の前にかざしてみる。
  ……見えない。
  どんなに目を凝らしてもその手を見ることができない。
  ……この部屋に閉じ込められてどれほどの時間が過ぎているのだろう?
  もう何十時間も過ぎたような気もするが、そんなはずはない。
  もしかしたら一時間も過ぎていないのかもしれない。
  どうであれ、それでも少しも目が慣れないということはつまり、この部屋に
はまったく光源が無いことを指している。
  それに暑い……。
  部屋の空気が淀み始めている。
  息苦しいのはそのせいだ。
  この部屋の酸素がどれくらいの時間で無くなるのか、初音には想像もできな
かった。
  どれくらいの大きさの部屋だっただろうか?
  数時間前か、数分前か、その時に見た部屋の大きさを思い出してみようとす
る。
  確か、それほど大きくなかった。学校の体育館と比べれば、の話ではあるが。
  それくらいのことしか初音には思い出せない。
  しかし、扉は異様に厚かった。
  確か、最初の扉をくぐって二十メートルも歩いたのではあるまいか?
  記憶を掘り起こしてみる。
  いつもの――と言ってもここ一週間ばかりの事だが――ベッドで目を覚まし
た。エレベーターを降りると護衛――とは名ばかりの監視――が待っていた。
促されるままに車に乗り、いつもの建物へ、30分ぐらいドライブする。何処
からどう走ったのかは分からない。乗らされる車の後部からは外が見えない。
降りるといつもの地下の駐車場で、いつものようにエレベーターに乗り、いつ
もの部屋に……は、通されなかった。今日はいつもと違う部屋で――どんな部
屋だっただろう?――そこから廊下をいっぱい歩いて、それから機械が一杯の
部屋に入った。その部屋の奥から狭く長い廊下が伸びていた。いや、最初は長
いとは感じなかった。すぐに扉があったからだ。通路は本当に狭く、初音でさ
え体を傾げなくては通る事はできなかった。最初の扉を潜るともう真っ暗で、
初音は妙な概視感を覚えた。初音のすぐ前の男が手に持った懐中電灯を点け、
また前に進んだ。それからまたたくさんの扉を潜ったが、通路はずっと真っ直
ぐだった。そしてこの部屋についた。
  この部屋も真っ暗だった。懐中電灯の狭い明かりが部屋を舐めるように移動
した。そうだ、とてつもなく広かった。がらんとした空間、初音が彼女自身の
部屋と比べてしまったのは仕方が無いが、それ自体意味が無い事だったかもし
れない。むしろ初音は学校の体育館と比べるべきだったのだ。やがて明かりが
小さなパイプ椅子を発見した。つまり初音はそこに座らなければならないとい
うわけだった。いつもと同じで、理由は誰も教えてくれなかった。何人かの男
が部屋を出て、そして扉が閉まり……、初音は完全に無音の世界に取り残され
た。
  そして今に至る……。
  ――心臓の鼓動が聞こえる。
  ――とくとく、とくとく。
  ――心なしいつもより早い。
  世界は自分独りになってしまったのではないか?
  幼い頃、家に帰りついた時、誰もいない時に感じた恐怖、それに良く似たも
のを初音は感じていた。


・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第十一話・
・差し出された手を見てボクは・

「……分かった。それじゃあ、君たちが準備を整えてくる時を待つことにしよ
う。準備を整えることができるのなら、ね」
  月島元生徒会長――浅水にとって拓也の存在はそういう形で認識されていた
――から緊張が消える。目の前の浅水が彼を一瞬で貫くことのできるアルミの
塊を手にしていることも忘れたかのように。
  砕けたガラス、二つに折れた机、血の飛び散った壁……。そして血まみれで
床に伏せる祐介。
  どれもこれもがまるで双眼鏡でも覗いているかのように浅水の視界に迫って
いた。
  もちろん、目の前の男の宣言でさえも、まるで、自分達ではなく、別の誰か
に言われてるような、そんな気がしていた。
「長瀬君が起きたら伝えてくれ。次は殺す、と」
  殺す。
  そんな言葉が現実で使われるなんて……。
  何故他人を殺す?
  邪魔、だから?
  それを尋ねてみたい。
  水禍は依然、祐介の側に膝をついたまま動かない。その視線は拓也を真正面
から見つめ、そして、なにも見ていないようだ。
「……分かりました」
  その言葉すら浅水は拓也にではなく、水禍が水禍自身に言ったのではないか
という気がした。
  その言葉を背で受けるように拓也は振り返り、そして出ていった。

  そして、扉をくぐった。

「ふぅ……」
  その部屋で初音を迎えたのは、そんな溜め息だった。
  小さな部屋だ。四畳間くらいだろうか?  ちょうど警察の取調室に良く似て
いる。壁の鏡といい……。
  初音がくぐらされた扉から、長い机を隔てて、彼女はパイプ椅子に座ってい
た。
  彼女がまずしたことは、初音をその瞳で見つめ、そして、机の上で両手を組
むことだった。
  30代前半だろうか?  まだそれほど美しさの衰えていない、しかし去り行
くそれを必死に繋ぎ止めているような、そんな感じがする。短く切った髪は机
の上の資料を見る時に邪魔になるから切ったのだろう。眼鏡はこんな暗い部屋
で紙の資料に書かれた小さな文字をじっと見つめるから近視になったに違いな
い。
「座って、初音ちゃん」
「あ、はい……」
  ちょうど向かいになる位置の椅子を勧められ、初音は素直にそこに腰を落ち
着けた――もっとも落ち着けるとは言い難いただのパイプ椅子だったが。
「これから私が話すことをしっかりと聞いて欲しいの。そして貴方の知ってい
ることを教えて欲しいわ」
  温和な表情が初音の気分を少し楽にした。
  ここに来てからずっと険しい顔ばかり見せられていたから。
「私たちには時間が無いのよ。とりあえず、これを見て」

  ――カシャ……。

「……これで12件目……」
  ――カシャ、カシャ……。
  カメラのシャッター音がざわめく喧燥を貫いて、耳障りに響く。
  鬼の死体を検死員がカメラに収めている。鬱陶しいことに二人、一人は正規
の検死員で、もう一人は鬼のことを研究する機関の人間だ。
  耕一は自分が殺した鬼から離れた車の中でその様子を眺めていた。
  本当なら、カメラのシャッター音など聞こえるはずが無い。そのはずがフラッ
シュが焚かれるたびに耕一の耳にその音が響くのだった。
  警察は周囲を立ち入り禁止にしているが、ビルの上から双眼鏡でも使えば鬼
の死体は容易に発見できる。
  なのに、その死体にシートを被せようともせず、現場検証を優先するという
ことは……。
  それほど秘密にする気も無いということだ。
  警察は長い間鬼を秘密にしているつもりはない?
  どちらにしろ、今回の鬼は大した強さではなかった。
  耕一は鬼の力を解放する必要も無かった。
  同時にまたしても説得に失敗したという苦い思いもある。
  そう、またしても彼は鬼を制御できなかった。
  何故鬼が目覚めていくのか、それは分からない。しかし耕一や、柳川や、祖
父のように鬼を制御できるものも必ずいるはずなのだ。
  それから女性。鬼の力が各地で目覚めているのなら、女性の中にも目覚めて
いる者がいるはずなのだ。しかし、それについての情報はまったく無い。
「12いや、13件目か……」
  ポケットの中の携帯電話が震えるのを感じて、耕一はそう思った。
「もしもし……」
■ 終わったか?
「ああ、終わった」
■ そうか。
電話が切れる。
  相も変わらず無愛想な奴だ。
  柳川からの電話。それは彼の方も終わったということだ。
  そろそろ隠し通せないな。と、耕一は思った。
  鬼の被害は隆山を中心に広がっている。そしてその間隔は徐々に狭まりつつ
あった。
  それはどういうことなんだ?
  分からない。
  やがて、いや、今頃というべきだろうか?  遠くから救急車のサイレンが聞
こえてくる。

  ピーポーピーポーピーポーピーポー…………。

  ずっと遠くから聞こえていたかのようなサイレンは不意に止まった。
  浅水は水禍の隣で、祐介の側に膝を落としている。
  祐介の意識は未だ途切れたまま、それがとてつもなく不気味なことに思える。
  大丈夫なら意識だってあるはずじゃないのか?
  医学の知識などまったく無いが、知らないということがかえって不安だった。
「…………大丈夫です」
  その言葉にすぐ横にある水禍を見る。
  無表情ながら、なんとなくその言葉は確信に満ちていたような気がした。
  ――たたたたっ。
  複数の足音、浅水もなんとなく、大丈夫だと思った。
  最初に見えたのは白い服、壊された扉から担架を持って入ってくる二人の救
急隊員の姿だった。その後ろに続いて長瀬教師が続いている。
  二人の救急隊員が駆けつけてくるので、浅水は水禍を促して祐介の側を離れ
た。
「酷いな」
  救急隊員の一人がそう漏らす。
  二人は祐介の体を持つと、担架に乗せ、持ち上げた。
  走り出した救急隊員につられるように、浅水も水禍も長瀬教師も走り出す。
  運の良いことに生徒会室は一階なので、救急車まではすぐに辿り着いた。
「状況説明できる人が着いてきて下さい」
  一人が祐介を救急車に乗せ、もう一人がそう尋ねた。
  浅水は思わず水禍を見る。
  そうすると同時に水禍も助けを求めるように浅水を見たところだった。
  分かっていた。
  どう説明したところで分かってくれないだろう事は。
  それでも誰かが付いていかねばならないだろう。
「彼女を、僕は残ります」
  それは警察にも誰かが説明しなければいけないから。
  どちらにしても同じだ。
  誰もこんな事は信じちゃくれない。
  それでも説明しなければいけないのだ。
  それを考えて、浅水は少し憂鬱になった。
  もし、もしもだ。鬼の力を警察に見せたら?
  駄目だ。それこそ何かの研究所かなにかに送られるのがおちだし、耕一さん
や、そう、柏木家の人々に迷惑がかかる。
  浅水は彼ら柏木家の人にほとんど面識が無い。
  あの戦いの時だけだ。
  それでも自分のための傷ついた人々を裏切るようなことをしたくはなかった。
  浅水がそんなことを考えているうちに救急隊員の手を借りて、水禍が救急車
に乗り込んでいた。
「君も来て!」
  救急隊員が叫ぶ。
  誰のことか分からず、浅水は辺りを見回した。
  ここには後は長瀬教師しかいない。
「え?  僕?」
  その浅水の言葉はあまりにも滑稽だったが笑う者はいなかった。
「行きなさい」
「え?  先生、あの警察は?」
  その浅水の言葉に長瀬教師は皮肉めいた笑いを浮かべた。
「校長命令でね、残念なことに警察に連絡はしないそうだ。この一件は私の不
肖の甥が一人でやった事故ということになるさ」
「あ、はい、じゃあ、行きます」
  救急隊員の一人が手を伸ばして浅水を救急車の中に引き上げた。
  ――バタン。
  長瀬教師の目の前で救急車の後部ドアが閉じる。
  ――ピーポーピーポーピーポーピーポー…………。
  そんなサイレンを響かせながら走り去っていく救急車を眺めて、長瀬教師は
ポケットから煙草を取り出すと、一本を手にとって、火をつけた。
「ふぅ……」
  紫煙を吐き出し、長瀬教師はふと疑問に感じた。
  ――なんだかな、今回のことは不思議と秘密にしたほうが良いような気がす
るんだよな。
  長瀬教師はまだ残った煙草を捨てると、足で踏み消した。
「……しまった」
  それからようやく教員用のスリッパのままであることを彼は思い出したのだっ
た。

  煙草の煙がゆっくりと薄れて消えていく。

「次は捜査打ち切りか……」
  灰皿で押し潰すようにした煙草を名残押しそうに眺めながら長瀬は呟いた。
「絶対におかしいですよ!  柏木家でなにかがあった事は間違いが無いんです!」
「証言者も皆、勘違いだと訂正したしなあ」
  血気にはやる若い刑事にそんな事を言いながら、長瀬はもう一本煙草を吸う
かどうかを考えていた。妻からは禁煙を勧められている。医者と結婚したのは
間違いだったかな?  と、長瀬はぼんやりと考えた。
「四人もいた証言者が皆同時に証言を打ち消したんですよ!  どう考えたって
おかしすぎます!」
  理解のある良い女なんだが――転勤の時も何も言わなかった――健康の事だ
けはうるさいし、口喧嘩したところで勝ち目はない。
「上からも柏木家の連中は単なる蒸発という事にしろと言われてるしなあ」
  まあ、いいか。
  長瀬は妻が手術のあった晩にだけ、黙って彼の煙草を一本だけ吸う事を知っ
ている。
「だから拘留したはずの柏木千鶴までもが消えているんですよ!」
  医者が自分で自分の体を壊すような事をするのには抵抗があるだろう。
  それほどまでに緊張するもんだって事だな、手術ってやつは。
「上は釈放後に消えたといってるんだろう?  容疑は取り下げられた事だし、
気にしないのが一番なのさ」
  医者って奴はいかんなあ。
  いくら位が上がったところで、手術からは逃げられんからなあ。
「気にしないたって、どう考えてもおかしいじゃないですか!」
  まあ、それは俺も同じ事か。
「ところでちょっと散歩に付き合わんか?」
  あいつは例えどんな立場になっても手術を止められんだろう。
「はあ?  散歩ですか?」
  俺が捜査を止められんのと一緒でな。
「そうだ、散歩だ」
  長瀬は立ち上がって、机の上から煙草の灰を被ったスーツを手に取ると、ぽ
んぽんと叩いて、それを肩にかけた。
  ふと、窓の外を見る。
「良い天気じゃないか、今夜は良い星空が見れるかな?」
「はあ?」
  要領を得ない若い刑事は曖昧な相づちを打って、彼に続いた。
  結局長瀬は煙草を机の上に置き去りにする事にした。

  きっと今夜は満点の星空が見れる事だろう。

  壁に映し出されたのは単なる星空、しかし、それでも初音はそれを感じ取っ
た。
「……ヨーク」
  遠い記憶、甦りしリネットの記憶か。本来ならば気が付くはずの無いそれに
初音は気付かないわけにはいかない。
「そう、貴方達はヨークと呼んでいるのね。これを」
  彼女は再び初音に向き直り、手を組んだ。
「鬼の乗る船。宇宙船。違うかしら?」
  果たして初音に何と答えることができただろうか?
  それが二度目の裏切りになることを知っていたとしても。
  やがて、初音はコクンと肯いた。
  白い壁には星団が映し出されている。
  多分光の加減でそう見えるのだろう……。

  それは血の色のようだった。

「なんでランプって赤色なんだろうね?」
  数十分の沈黙の後で浅水はそう尋ねた。
  二人から少し離れた壁で手術中のランプが赤く光っている。
「…………赤は目立つからではないでしょうか?」
  素っ気無い返事、浅水は思わず嫌われてるのかなと思ったが、心当たりはな
い。
「…………血の色が赤色をしているのも、危険を知らせるためのような気がし
ます」
  ああ、そうか。
  と、浅水は思った。
  水禍も、彼女も同じ事を考えていたのだ。
  祐介を心配し、何もできない自分に憤慨し、そして不気味な赤色のランプに
血の色を見たのだろう。
「じゃあ、水禍さんは赤い色はキライ?」
  少し場違いな質問のような気もしたが、それでも浅水は会話を続けるために
そう尋ねた。それは沈黙の不安をもう十分に味わったからかもしれない。
「私は……、キライです」
「そっか」
  それ以上の会話は不要だった。
  それは、長い、長い沈黙だった。
  もしくは二人はそう感じていた。
  ――コツコツコツ。
  昼間だってのに、病院の地下は暗く、その上静かすぎる。
  だからその足音は、その人がまだ随分と遠くにいるのに二人の耳に届いた。
「ぷっ」
  最初に聞いた彼女の声はそんな感じだった。
  彼女はくすくす笑いながら、廊下の向こうからゆっくりと歩いてきた。
  いや、二人だ。
  前を歩く彼女の印象があまりに強く、もう一人の女性はその光に隠れてしまっ
たように、彼女に付き従っているように思える。まるで従者のようだ。そんな
知られたら相手が気を悪くするような印象を浅水は感じていた。
「やっほー!  君たちがあの子と一緒に居た人達でしょ?」
  片手を上げて、この場にそぐわない明るすぎる挨拶をしながら、彼女が視線
で、手術室を指した。
「あ、あなたは?」
  訳が分からず、浅水はそう尋ねることしかできない。
「あ、そうだったわね。ちょっと待ってね。――セリオ」
  と、彼女がずっと彼女の斜め後ろに付き従ったままの女性に声をかけた。
「――230号室が開いています」
「そう、手回しのほうお願いね」
「了解しました」
  そんな会話があって、手前のほうの女性が彼女が歩いてきたほうの廊下を顔
を傾げるようにして示した。
「さあ、行きましょ」
  水禍が言われるままに立ち上がり、浅水も後を追うように立ち上がった。
  その時、浅水は後ろの方の女性の耳に気がついた。
  ――アタッチメント……?
  メイドロボなのか?
  流暢すぎるその言葉づかいと、人間と変わらない物腰に気がつかなかった。
「どう、なされましたか?」
「あ、なんでもない」
  そう言われて、浅水は自分が、このメイドロボを食い入るように見つめてい
た事に気がついた。メイドロボだと分かっていてもなにか気恥ずかしい。
  真っ直ぐに浅水を見つめる彼女の瞳は綺麗な形をしていた。

  真ん丸な――

  地球が、壁に映っている。
  その地球からずっと離れたところに別の丸。
「今の距離が大体このくらいね。計算ではあと一年もかからずに彼らは地球に
辿り着くわ」
  航路、とでも言えば良いのだろうか?  壁に映った丸と地球の間に線が引か
れる。
「彼らをこの地球に降ろすわけにはいかないわ。分かるわよね」
  彼女が、初音を見て尋ねた。
  そして、その言葉に初音は頷くしかない。
  まったくの正論だからだ。
「だから私たちは考えたわ。どうして彼らがこの地球の位置を知ることができ
たのか」
  彼女は自分の持つブリーフケースに入っているはずの書類に書かれた事を思
い出そうとした。
  可能性は複数ある。
  最悪なものは過去に地球を訪れたエルクゥたちの記録を辿っている可能性。
この場合、回避の方法はない。第二の可能性、エルクゥの救援信号のような物
を受信している可能性。過去において、エルクゥは絶滅の危機に瀕しているわ
けだから、この可能性は高い。第三の可能性、現存するエルクゥの何者かが発
する何らかの波長を辿ってきている可能性。少なくとも、柳川、耕一からはそ
のような信号は発見できなかった。第四の可能性、過去に地球を襲ったような、
エルクゥの船が偶然、またこの地に近づいてきている。この場合、この船が地
球を発見する可能性はまったくの不明だ。
「エルクゥの呼びかけに答えているんです……」
  しかし、リネットははっきりと知っていた。
  滅ぼされたエルクゥが復讐のために真なるレザムに助けを求めるであろうこ
とは。
「エルクゥ、そう、貴方達は自分達、いいえ、その心をエルクゥと呼ぶんだっ
たわね」
「……はい」
  彼女が初音の俯き加減の瞳を覗き込んだ。
「誰が呼んでいるのかしら?」
「………………え?」
「一体誰が彼らを、真なるレザムから呼び寄せたのかしらね」
「…………あ!」
  その言葉で初音は、いや、リネットは雨月山のヨーク、かつての友のことを
思い出した。
  ――そうだ。エルクゥはヨークの元に返る。真なるレザムに返ることを望ん
で。
「雨月山の山中に――」
「眠る鬼の船有り。それはもう調べたわ。ヨークは死んでいた。エルクゥ達も
また滅びていたわ」
  彼女は足元のブリーフケースを開け、数枚の写真を机の上に並べた。
  雨月山の写真、洞窟の写真だ。
「どうしてそれを?」
「柳川さんって知ってるかしら?」
  初音にはその名に心当たりが無い。でも多分あの人だ。あの、恐い目をした
人。
「あの、耕一お兄ちゃんと一緒に居た人ですか?」
  その言葉に彼女は苦笑いを浮かべた。
「多分そうね。彼の情報よ。まず彼が調べに行って、後から私たちが、調べた
の」
「…………ヨークは?」
「死んでいたわ。まったくの驚きだったけどね。あのサイズの生命体、それが
実際に存在し、宇宙を渡る力を持っているなんて」
  彼女は科学者らしく感嘆してみせた。
  実際にその目で見るまでは信じられなかった。生きた宇宙船の存在など……。
「そ、そうじゃなくて、ヨークは」
  初音の言葉に彼女はようやく初音がそこにいる事を思い出したかのような表
情を見せた。その後で、机の上を指で、こつこつ、と鳴らした。
「…………会いたい?」
  ――恐い。
  初音は始めてそう思った。
  訳も分からず、この女性を恐いと感じた。
  それでもヨークは友達だから。
「…………」

「…………はい」

「そっか、やっぱ連中も気付いてるわけだ」
  彼女――来栖川綾香と名乗った――は、水禍の返答に、はあ〜、と息をつく
と、すぐ脇のベッドに突っ伏した。
「分かってたといえば分かってたんだけどね。いざ本当となると大変だわ。こ
れは」
  彼女の長い黒髪が清潔なシーツの上に広がっている。
  その髪の毛を指先でしばらくいじっていたかと思うと、突然水禍を見る。
「で、どうするの?  乗り込むんでしょ?  施設に」
  パイプ椅子に座った水禍の瞳がゆっくりとベッドの上の綾香に移動する。
「…………はい」
「勝ち目はあるの?」
「…………分かりません」
  綾香はクスッと笑った。
「正直なのね。ねえ、その確率上げてみたくない?」
「え?」
「………………?」
  答えられない二人にどうやら綾香は業を煮やしたようだ。それでも自分を
押さえようとしたのだろう。思わずベッドのシーツに埋めた顔を起こして、
二人に向き直った。
「あー、もうまどろっこしい。早い話が私たちに協力してってことよ」
「え?」
「………………?」
  やっぱり訳の分からない二人についに綾香は諦めたらしい。
  すぐ側に立っているメイドロボを見た。
「もお、めんどくさい。セリオ、説明してあげて」
「はい、私たちは『施設』の方針に疑問を感じ、この組織に対し、方針変更の
要請をしましたが、これは受け入れられませんでした。彼らの思想が暴走し、
生け贄を伴う国家プロジェクトに発展している恐れから、私たちはこれを調査
することに決定しました。最初に派遣した調査隊は消息不明。これにより、私
たちは『施設』を危険と断定いたしました」
  予め用意された書類でも読むかのようにセリオが彼女らの状況を説明する。
しかし、この言葉が用意されていなかった事は綾香が思わず後を続けた事で明
らかだった。
「断定したのはいいんだけどね、攻め手に欠けるわけよ。私たちも不法侵入に
よる調査を理由に向こうを締め上げることはできないし」
「つまり不法調査があった事実を裁判官に無視させられるほどの法的証拠が必
要ということです」
  綾香の言葉をセリオがフォローする。
「それを僕たちに取って来いって?」
  思わず憮然として浅水は言った。その声が不機嫌なものである事は自覚して
いたが。
  そんな浅水を見て、綾香は再びクスッと笑った。
「もっと簡単に言ってあげましょうか?  誘拐された月島瑠璃子さん、桐島真
奈美さん。この二人を無事救出して、彼女らの証言があれば良いわけよ」
  と、綾香は浅水はウインクしてみせる。
「あ……」
  思わず声が出ない。
  確かにいきなり二人を助ける手助けをするなんて言われても信用できなかっ
ただろう。彼女たちは巧みに話しを遠回しにすることで、浅水に騙されても良
いという気にさせたのである。少なくとも瑠璃子さんと、真奈美を助け出せる
のであれば条件は悪くない。
「よいしょっと、どうやら、考えはまとまったみたいね」
  綾香がベッドから身を起こして、浅水に手を差し出した。
  ――綺麗な手だな。
  一瞬そんな事を考えてしまい、意味も無く照れる。
「よろしく」
  おずおずと差し出された浅水の手を自分から握って綾香は微笑んだ。
「……よろしく」


  ―――続く。