・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第十話・夜が明けて・ 投稿者: 智波
  炎は嫌いだと彼女は思った。


・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第十話・
・夜が明けて・

「ちょっと待てよ。隆山ってここからじゃ電車で四時間もかかるぜ」
  右腕、左腕、と固まった筋肉をほぐす。
  拘束からの解放は気持ちの良いものだ。たとえ、望まない形での解放であっ
たにせよ。
  耕一の問いに柳川は無言で部屋の外を顎で指した。
  最後に軽く屈伸しながら、耕一は柳川の事をやはりいけ好かない奴だと思っ
た。
  耕一には今だここが何処であるのか分かっていない。
  柳川の言う事を信じるなら、警察機構の何処かという事になるだろう。
  都庁だろうか?
  そんな疑問を耕一は振り払う。
  多分間違っているだろうし、それにそんな事を知ったところでどうなるもの
でもない。
「……行くぞ」
  耕一の体が十分に解れたと見たか、柳川が先導して部屋を出る。耕一が無言
でその後を追おうとした時、柳川が不意に立ち止まる。
「四時間かかると言ったな。確かにそうだ。その間にいくらかの犠牲者も出る
だろう。だが警官が出たところで鬼を捉える事はできん。無闇に死者を増やす
だけだ」
「…………おまえ、変わったな」
  そんな事が言えるほど、耕一はこの男の事を知っているわけではなかった。
それでも一度は刃を交え、お互いの意志を交わした相手だ。耕一にとってこの
男は非情なる殺人者であり、敵でしかないはずだった。
  柳川はその場に立ったまま、耕一に背を見せたまま、しばらくの間沈黙して
いた。
  やがて、耕一にも聞こえるほどの吐息を吐き、前に向かって歩を進め出した。
「……歩きながら話すぞ」
  廊下を先導して歩く柳川の背に耕一は肯いた。
「俺とおまえが戦ったところまでは分かるな」
「……ああ」
「あの後、俺は遥か下流で目覚めた。木に引っ掛かっていてな。溺れなかった
のは奇跡だと言えた」

  夜が明けていた。いや、正確には夜明けだった。
  ちょうど山と山の間で気に引っ掛かったらしく、太陽はまだ見えてはいなかっ
た。
  腕が岸から伸びた巨木の枝に引っ掛かっていて、もし引っ掛かったのが足で
あったのなら、命はなかっただろう。
  傷は言えていたとは言い難かったが、エルクゥの生命力は、腕を折られたり
裂傷などでの、生半可な外傷では絶やす事はできない。
  腕や足を落とされたらさすがに危険ではあるが……。
  よってこの時の柳川の最大の傷は破裂した内臓だった。それも治療が始まっ
ている。と、柳川は信じた。
  そうだ、もう少しで生き延びられる。
  そうすれば……。
  ……貴之……。
  俺が戻って貴之の世話をしなければいけない。そうでなければ、誰が貴之の
世話をするというのだ。
  柳川を突き動かしたのは、生への欲求であり、一つの希望だった。
  まるで河を流されているうちに、邪悪な欲望やら、欲求は洗い流されてしまっ
たようにも思えた。
  ――俺は生き延びる!
  そんな言葉の無い叫びと共に、柳川は体を枝の上に引きずり上げた。
  無様にも這いつくばり、岸を目指す。
  そうして柔らかな地面に体を横たえ、柳川は気を失った。
  ――夢は見なかった。

「不思議な事にあれ以来、鬼は現れていない。力は制御できるようになったが、
あの声は聞こえなくなった」

  ――貴之が捕まった事はそれから程無くして知った。
  しかしどうしようもなかった。
  警察機構に戻る事もできない。身分を取り戻す事も。
  警察がもし本気になれば、貴之の部屋に居た二人の女性を犯したのが貴之で
ない事は簡単に調べがつくはずだ。
  そう、自首すれば貴之は解放される。
  しかし、いずれにせよ貴之は精神病院に送られる。
  このまま放っておいてところで大差はないはずだ。

「それからは浮浪者同然の生活を送った」

  ――別に人は襲わなかった。
  鬼の力を制御できる事は分かっていたが、別に襲う必要はなかったからだ。
  ただ一つだけ気がかりなのは、貴之の事だった。

「それが今年の2月まで続いた」
「浅水君の事件の頃……」

  寒さと飢えを凌ぎながら、生活していた俺の前に現れたのは一匹の鬼だった。
  下らない奴だった。
  戦いを求める事も無く、弱いものをいたぶって喜んでいるような、レベルの
低い奴だった。
  浮浪者は奴にとって格好の獲物だったのだろう。
  それほどニュースになる事も無く、人を狩る事ができる。
  そういう意味では頭の良い奴だったのかも知れん。
  とにもかくにも、俺は俺や、柏木家の連中以外に鬼を覚醒させつつある連中
が居る事を知った。
  そして俺はそういう時に政府がどのような行動をとるのか、そしてどうすれ
ば付け入る事ができるのかを知っていた。

「政府は俺を買った。俺の情報と引き換えに俺は公安課の鬼対策部に編入させ
られた」

  ――取り引きは同時に貴之を設備の行き届いた精神病院に入れてやる事でも
あった。

「言っておくが、柏木耕一、俺は鬼を憎んでいる。俺自身に流れる鬼の血も同
様だ。だから―――」
  柳川は一つの扉の前に立った。
  そこが屋上である事は途中で乗ったエレベーターや、窓から見える光景で分
かる。
  柳川が扉を開ける。
  柳川が何か言った。
  ―――――バババババババババババッ!
  しかし、その言葉は、そんなけたたましい音にかき消される。
「……ヘリコプター?」
「そうだ。官憲の良いところはな、こういう物をかなりな自由に使えるという
事なのさ」
  扉をくぐった柳川の背の向こうに耕一が見たもの。
  それはすでにローターの回っている一機のヘリコプターだった。
「これなら隆山まで一時間でつく!」
  ヘリの出す爆音にかき消されないように柳川が叫ぶ。
「一時間だって長すぎるぞ!」
  叫び返した耕一を無視して柳川が、ヘリに乗り込んだ。
  ――それでもこれが最善なんだ。

  ――ジ、ジジ。
  始まりの画像は悪かった。
  多分、なにかを撮ったテープを流用したのだろう。
  ――柏木梓だな。
  ――そうだったらどうするの?  今あたしは気分が悪いんだ。
  ――そいつは悪かった。

  殺人そのものよりも、火事の方が信憑性も高く、よって、パトカーよりも消
防車が早く出動した。その時の差は消防車が二分の差だったが、消防署と警察
署、そして現場の位置関係から、到着時間は更に七分の差になっていた。
  現場は酷いものだった。
  幾台もの車が追突し合い、横倒しになり、並木を倒し、そして炎を上げてい
るコンビニにはどうやら一台のトラックが突っ込んでいるようだ。
  ――あっちには生存者はいないな。
  厭になるくらい冷静な思考が、被害者を数で考えて、もっとも大衆も同じよ
うに考える。消防署がこういう時、マスコミの矢面に立つ事は少ないが、それ
でもまったくないわけではない。しかもそういう時に限って数の倫理は忘れら
れる。
  たとえば、生存者の確認を怠った時など……。被害者が生前良い人間であり、
同情する余地があればあるほど、テレビの前の視聴者は涙して、消防職員を詰
ると言うわけだ。
  大衆って奴は自分達が思ってるほど賢くない。
  と、家に帰れば一介の大衆である消防職員は思った。
  たとえば今のシチュエイションだ。
  あの燃え盛るコンビニの中で、一人の少女が生存していたとする。
  その少女は真面目で、賢く、美人で誰からも好かれていた。将来は、教師と
か、婦人警官とか、看護婦とか、人のためになる職業に就こうと理想に燃えて
いた。
  ――燃えちまったら一緒だな。
  と、その消防署員は思った。
  さて、消防署員はそこには生存者が居ないと思った。
  ――多分そうだろう。
  それで消防活動に専念した結果、少女は遺体で発見される。
  マスコミは狂喜乱舞して、この消防署の失態を報道する。
  心有る一般市民から、テレビ局と消防署に抗議の電話が殺到する。
  大喜びでテレビ局はこの報道に力を入れるだろう。
  そうすれば普段から、怒りの対象を求めている『善良な一般市民』がその報
道を見てくれるものだと分かっているからだ。
  ところが現状では道路に転がる無数の車の中にも生存者が居る。
  大抵は普通の会社員や、若い無謀な連中だろう。
  つまりは分かってる事を最初にやると言うわけだ。
  彼らの中には既に死んでいるものも居るだろうし、救急車の中で絶命するも
のも居るだろう。しかし、助かるものがほとんどのはずだ。
  ――シートベルトさえ、しっかり絞めていてくれればの話だが……。
  彼らは一刻も早い救出を望んでいる。
  そして一刻も早く救出しなければならない。
  しかしそれでも、もし、もしもあの中に生存者が居るのならば、そんな事は
忘れ去られてしまうのだろう。
  ――まずは火を消さなくてはならない。

  めらめらと、燃え盛る炎が夜の町を紅に染め上げている。
  慌ただしく人々が駆け巡り、ある者は騒ぎ、ある者は歓声を上げ、ある者は
人を救う事に専念する。火を消す事に専念する。
  そんな慌ただしくも力強い。そんな力から取り残されたように、魂の抜け殻
のように柏木初音は立ち尽くしていた。
  なにも考えられなかった。
  弾け跳ぶ閃光が世界を満たしていた。
  なにも考えられないくせに、いろんな事が目の前を通り過ぎていった。
  炎と、彼女の姉を移す彼女の瞳から、ぱりぱりに乾いた頬を一筋の雫が流れ
落ちた。
  その涙は炎に当てられ乾きつつあった姉の血の上を流れた。頬を伝い、顎を
伝い、落ちた涙は彼女の胸に落ち、そこで服に吸い取られた。
  炎に照らされ、血の色に染め上げられた少女は、異様に見えたが、周りの混
乱は人々の関心から不思議と彼女を遠ざけていた。それは片腕を失っている少
女にしても同じ事だった。
  それは二人の側に横たわる鬼の死体と共にこの世にあってはならないものだっ
たから。だから人々は意識せず三つの塊を忘れる事にした。

  力尽きるまでは一瞬だった。
  鬼の心臓を貫き、その死を確認した瞬間、ぞっとするような喪失感が楓を襲っ
た。
  膝が折れ、這いずるように宝石店の壁を背にした。彼女自身の地に染まる壁
を。
  右腕からは今だに血が流れ落ちている。それは吹き出すほどに大量の出血で
は無くなっていたが、それの意味するところを楓が、否、エディフィルが知ら
ぬはずはなかった。
  ――今すぐ血を止めないと。
  不思議と痛みが無い事が、楓の作業を鈍らせる。
  それはあまりの傷の深さと、戦いによる脳内麻薬の分泌が原因であった。
  しかし、そんなことまでは分からない。
  ただ朦朧とする頭で何とかしなければいけないと考える。
  それほどせっぱ詰まっている気はしなかった。
  それほど悪い気分じゃなかったからだ。
  のろのろと手がポケットに伸び、そこからハンカチを取り出した。
  端を口で咥える。左手でもう片方を持って、傷口の手前で引き絞る。
  その瞬間、目の前で弱い閃光が走った。
  それがなんなのか分からないまま、口が緩み、ハンカチが落ちる。拾う。
  もう一度始めから。
  ハンカチの端を噛み、左手で、右の肩を越えさせる。右の脇の下から左手で
ハンカチのもう一方の端を掴み、引き上げる。口と肩の間にハンカチの端を通
し、そして思いっきり引き締める。
  ぎちぎちとハンカチが音を立てる。
  ――血は?
  止まったとは言い難かった。もっとも先ほどまでと比べるなら止まったといっ
ても良い気がした。どちらにしろ、決める事など今では無理な気がする。
  ――どんっ!
  爆発音が響き、爆風が彼女の体を叩いた。
  炎が一層強くなり、彼女の肌をバチバチと叩く。
  ――熱い。
  そう思った時、すっと影が射した。
  反射的に――ただし彼女自身が思ったよりはずっと遅く――顔が上がり、そ
こに見慣れた顔を見つける。
「……初音?」
  彼女の妹が見下ろしていた。
  金色の瞳で……。
  ――そうなの、リネット。おはよう。

  ……次郎衛門!
  悲痛な声が聞こえる。
  ……次郎衛門!
  泣いてる声だ。
  ……次郎衛門!
  彼女の傍らで一つの塊がのそりと動く。
  はっきりとしない目がだんだん光を帯びて、
「……どうした、リネット」
  優しい瞳が彼女を見つめていた。
  ううん、それは私の言うべき言葉。
  なににうなされていたの?
  ううん、分かってる。
  また姉さんの夢を見たのね。
  姉さんはずるいね。
  死んでからも次郎衛門を捕らえて離さない。
  ねえ、私だって次郎衛門を愛しているの。
  もう良いでしょう?  もう十分でしょう?
  お願い、私に次郎衛門を頂戴。
「どうしたんだ?  リネット」
  私は微笑む。
  この人を安心させるために、私自身が安心するために、今の心を振り払うた
めに。
「ちょっと恐い夢を見たの」
  そんな事を言ってみる。
  悪夢を見るのは貴方だけじゃないと思わせてあげたい。
  同じ苦しみを共有してると思って欲しい。
  そうすると力強い腕が伸びてきて、私の頭を撫でる。不安が消えていく。
  大丈夫、私は大丈夫、次郎衛門と私、二人だけだから。私たちにはお互い以
外にはいないから、だから大丈夫。
  ――そのはずだったのに……姉さん。

  炎を背景に初音が、否、リネットが右手を振り上げた。
  姉のものほどに爪は伸びない。しかしそれでも楓の心臓を貫くには十分だし、
首を飛ばす事もできるだろう。
「……リネット」
  楓は目を閉じた。
  疲れていた。
  そして、なんとなく、こうなるのではないかと思っていた。

  ――はあ……はあ……はあ……
  ビデオテープの中で、梓が息を荒げている。
  もはや誰も目にも梓の勝利は明らかだった。
  地に伏せた鬼は全身から出血している。
  ……そこでテープは終わった。
  ――パチッ。
  スイッチの音がして、部屋に明かりが点いた。
  それほど広くない部屋、白い壁、砂嵐を映し出しているテレビ。
  そして青ざめた千鶴がそこにいた。
「……これは?」
  その部屋には彼女しかいなかった。
  しかし、彼女を見るいくつもの目がある事に彼女は気付いていた。
  もちろんマイクロフォンだってあるに違いない。
「簡単に言えば、我々にはそのテープをマスコミに流す準備があるという事だ」
  推測は正しく、どこかからかスピーカーを通した声が伝わってくる。
「……誰もが映画の撮影としか思わないでしょう。それより梓は――」
  しかし壁の向こうの誰かは千鶴と議論をしたがっているようだった。
「ところが鬼の脅威が日常化してきているとしたらどうかね?」
「……え?」
  千鶴は言葉を失った。
  なに?  今この人は何を言ったの?
「知らないのだろうね。それはそうだ。徹底的な報道管制が敷かれているのだ
よ。この事が報道された事は一度も無い」
  この事ってなに?
「一部の者の間で――おもに若い世代だが――彼らの間ではもはや鬼の話は新
たな都市伝説として根付き始めている」
「……どうして?」
「どうして?  その答えは君が一番良く分かっているのではないのかね?」
  その声は一拍の時を置いた。
「つまり、鬼は実在するのだから……」

  喪失が大きくなっていく。
  失ったはずの右腕がまだそこにあるような気がする。
  皮膚が焼けるように熱い。
  のに、寒い。
  冷え切った体を焚き火に当てているような。そんな感覚。
「…………初音……」
  初音には楓を殺す事など到底できなかった。
  一瞬の殺意も、春の霜のようにあっという間に溶け、そうしたら後に残った
のは悲しみだけだった。
「…………初音?」
  初音は泣いていた。
  懐かしい姉の胸の中で泣いていた。
  どれくらいこうしていなかっただろう?
  何年も、もしかすると何百年もかもしれない。
「……初音、ごめんね」
  楓の指が、初音の髪を撫でる。
「……初音、ごめんね」
  初音がぶんぶんと首を横に振った。
「……そう、……良かった」
  壁にもたれるようにして、歩道に座り込んだ楓の胸に初音がいる。髪の長い
ほうの少女は彼女の姉に泣き付いている。髪の短い姉は、妹の長い髪をゆっく
りと、ゆっくりと撫でている。
「……お姉ちゃん……」
  どれほどの時間がそうしたまま流れただろう。
  ようやく涙の止まった初音が、絞り出すような声を上げた。
「今度は大丈夫だよね。みんなで幸せになれるよね」
  千鶴がいる、梓がいる、楓がいる、耕一がいる。
  みんな揃っている。みんないる。
「あの時は悲しすぎたから……。今度はみんなで幸せになれるよね」
  今度こそきっと。
  姉からの返事はない。
「……お姉ちゃん?」
  さっきまで初音の髪を優しく撫でていたはずの手が動いてない。
「楓お姉ちゃん?」
  恐る恐る姉の胸から顔を上げる。
「楓お姉ちゃん?」
  その時上空から一機のヘリが舞い下りてきて、ローターの回る爆音が全ての
音を掻き消した。炎を爆ぜる音も、初音の絶叫も。

「とんでもない事になりましたね」
  彼は言った。
  当然自分でも気がついていた。
  ――とんでもないこと。
  この言葉を初めて使う事になったのだ。
「確率は百万分の一以下だろう」
「ええそうです。ですが、この彗星群のうち、一つでも地球に落ちる確率に計
算し直すと、一万分の一にまで確率は上がるんですよ!」
  一万分の一と言えば、いわゆる天文学的数字というやつではない。言い換え
れば、十分にありうる数字という事になる。
「もし、こいつらが落ちてきた時の被害は?」
「まったく分かりません。全て大気圏で燃え尽きる可能性もありますし、人類
が滅亡するかも知れませんよ」

「つまりは脅迫ですか?」
  冷たく千鶴は尋ねた。
「脅迫とは言って欲しくないね。君の協力が必要なんだ分かるだろう?」

  ―――続く。