・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第九話・暗き朝焼け・ 投稿者:智波
  その天体観測所は日本において最大の精度を誇っている。
  国内最大級の望遠レンズ、今では旧式だがスーパーコンピューター、従来の
天体観測所では考えられないほどの予算をあてがわれ、珍しい事に職員はそれ
を有効に利用していた。
  この天体観測所はこの規模にしては珍しく民間のものである。
  しかし設立当初『今世紀最大の事業である宇宙開発を支援する目的』であっ
たはずが現在では『今世紀最大の浪費である人工衛星の支援』に成り下がって
いる。と、この観測所の所長は思った。
  所長は今年で四五を上回ったはずだ。
  と、その部屋に入ってきた所長を見て、彼の右腕を勤めるきっての技術者は
思った。
「なにかあったか?」
「大した事じゃありませんが」
  まず彼はそう言った。
  大した事とはつまり人工衛星になにかあった場合を指す。もっとも本社の人
工衛星に関しては東京郊外にあるコントロールセンターが実権を握っているの
で、彼らが知り得た事は大抵において、すでに彼らも知っている。
  それでも大した事になるのだ。
  もしも、それ以外で大した発見があった場合、彼らは『とんでもない事』と
いう表現を使うようにしている。
  もっとも、その言葉が使われた事は一度として無いのだが……。
「彗星群を発見したかも知れません」
「彗星群?」
  聞きなれない言葉に所長は首を捻った。
「あ、いえ、造語です。つまり――」
「彗星が群れを成して飛んでいると言う事か?」
  彼の言葉を所長が繋いだ。
  彼は肯く。彼らの上司はまだ頭が切れる。良い事じゃないか。と、彼は思っ
た。
「複数の彗星が一時的に急接近したんじゃないのか?」
  確率の低い話ではあるが、ありえない事じゃない。少なくとも彗星が複数平
行に飛んでいるというよりは説得力がある。
「発見は二時間前です。新彗星かも知れませんので、すでに登録は済ませまし
た。そしてこれが現在のデーターです」
  正確には現在確認の取れるその彗星のデーターと言う事だ。
「移動ベクトルはほぼ同一です」
「こんなに!?」
  思わず所長は呻き声をもらした。
  彼が示したデーターには雨の湖面のようなデーターが映し出されている。そ
れはつまり複数の天体が捉え切れないほど近距離を、また複数存在している事
を伝えていた。
「職員のほとんどは本来一つの巨大な彗星が分裂し、一定の距離を置いて進行
しているものと推測しています」
  彗星は正確には天体とは言い難い。氷や塵の集合体であり、常にその大きさ
を変えている。良く知られるハレー彗星で、その中心の大きさは拳大から、地
球の100倍の間を変化していると推測されている。
「二十から三十と言うところか……、正確な数は……、この距離じゃ分からな
くて当然だな。国立天文台はなにか言ってきてるか?」
「今のところありません。気付いてないはずは無いと思いますが」
「星空は広すぎるからな」
  所長が尤もな意見を述べた。
「彼女に手伝ってもらいますか?」
  彼は含み笑いを見せた。
「かなた、か」
  かなたとは宇宙工学衛星の名称で、つまりは天体観測のための人工衛星であ
る。どうしても大気に邪魔される地上の観測所に比べ、遥かに解像率の高い映
像を送ってきてくれる。
「で、当の彼女は今、何処にいるんだ?」
「残念ながら地球の反対側ですね。後二時間も立てば観測可能になりますよ」
「今から通達しておくか、天文台の連中は嫌がるだろうがな」
「どうせ我々は嫌われ者ですよ」
  彼は薄く笑った。所長も唇の端を歪めてみせる。
「どうせ大した事じゃないからな」


・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第九話・
・暗き朝焼け・

「協力だって……」
  耕一は凄惨な笑みを浮かべた。
「こんな状態で協力も何も無いだろう?」
  と、彼の腕を椅子に固定する金具を、そこに通された腕を揺り動かす事で示
してみせる。
  しかし彼の目の前にいる男が意見を変える事はなさそうだった。
「その金具が無ければ、おまえは話を聞かないだろう?  おまえには易々と俺
を殺し、ここを脱出するだけの力がある」
  冷淡に、そう告げる。
  果たしてそうだろうか?
  エルクゥの力には明らかに限度がある。
  あの時代ならともかく、現代でエルクゥがそれほど力を振るえるだろうか?
  事実、奴――今目の前にいる男だ――ができた事は地方的な猟奇殺人に過ぎ
ない。動物園の猛獣が逃げ出したようなもので、いずれ殺される。
  いくらエルクゥが鬼だからと言って、限度はあるのだ。
  無敵の化け物では決してない。
「たとえ、そうだとしてもこれじゃあ、協力とは言わない。強制だ」
  男はそれを聞いて、笑った。
  絶対的優位にいるものの笑いだった。
「では言い直そう。柏木耕一、おまえに協力を要請する。」
  男がスーツの胸ポケットから警察手帳を取り出した。
  その瞬間、耕一は男の事を思い出した。
  一年前、柏木家の前で、千鶴のところに来た警官の一人だ。
  こいつが、鬼、だったのか!?
「事実上の命令だ。国家の安全がかかっているのでな」
「国家の安全だって?」
  連続猟奇殺人の犯人が口にする言葉では無かった。
  もっともテロリストもそういう喋り方をする。
「柏木家の血の因縁と言う奴だよ。今年の初め、おまえが遭遇した事件だ」
  思わず耕一の手が動いた。
  今年の初め、雪の隆山、良く知った鬼の起こした事件。いや、思い出したの
だから、正確には知っていたわけではない。
  どうでもいい、終わった事だ。
  しかし当時、警察に感づかれていた様子はなかった。それ以前に事件そのも
のは、去年の夏の時を同じで、ほんの数日で決着がついた。
「知っていたのか?」
  そうか、警察には情報を得るだけの能力がある。
  事件当時にそれを知る事はなくとも、いろいろと大変だったから。
  柏木家は建て直され、山の神社でも同じ事だった。
「我々は詳しい情報は得ていない。ただ――」
「ただ?」
  男はゆっくりと息を吸った。
  男の目が空をさ迷い、それが不安を示す兆候である事を耕一は先月の講義で
知ったばかりだった。
「鬼の血が各地で目覚める兆候がある」
「鬼の血が――どうして?」
  男の言葉は耕一に大きな衝撃を与えた。これがどうして衝撃を受けないです
むだろう。
  そうか、そうだ、気がつくべきだったんだ。
  耕一は自分を呪った。
  あの時もそう思ったはずじゃないか。
  一人、二人と柏木家以外から鬼が目覚めた以上、次に同じ事が起こる可能性
は非常に高い。
「問われても困るな。柏木耕一。我々とて調査中なんだ。それでどうしてもお
まえらの協力が必要になってきたわけだ」
  男は肩を竦めた。
「すでに三件、鬼の事件が発生した。その全てを俺が処理したが、このままで
はいずれ被害が大きくなるのは目に見えている。現在は原因を究明中、その間、
おまえには俺と協力して、目覚めた鬼の鎮圧をしてもらう」
「それは……」
  男の瞳が冷淡に耕一を見下ろしていた。
「おまえは断れない。おまえは鬼の起こす事件を放ってはおけない。そうだろ
う?  俺も同じだ。わかるな。奴等の横行を放っておくわけにはいかないんだ」
  誰のためにそうするのか、それを男は言わなかった。

  すたすた、すたすた。
  夜の町を二人分の足音が進んでいく。
  足音は駅に向かっていた。
  二人は大きな通りを選び、それでもこの時間になると人通りは少なかったが、
それでも多少は安全だと思えた。それに彼らだって、人目につくところで二人
を攻撃しようとはすまい。
  楓には殺気を感じた事の説明がどうしてもつけられなかった。
  当然初音は問題外であり、自分達に向けられた殺気には気付いたものの、そ
れが殺気である事までは理解していない。
  今も不安そうにしているだけで、結局彼女には何もできない。
  何故狙われるのだろうか?
  楓には――正確にはエディフィルには――いくらでも心当たりはある。
  彼女は鬼である。
  忌み嫌われ、敬遠される生き物だ。
  数々の星を渡り、命を狩り、その快楽を求めてきた。
  幾度かの抵抗もあった。
  その度に鬼は歓喜した。
  強い命の炎こそ彼らの求めるものであり、それは戦いの中に強く見出す事が
できたからだ。
  殺す、奪う、汚す、壊す。
  総ては単純な快楽に帰結する。
  それが鬼達の出した結論であり、この星でこれまでに無く強力な反抗を受け
た主義であり、主張である。
  何故にこの星の人間はこれまでにも矛盾しているのか?
  エディフィルは疑問を感じた。
  心に鬼の資質を秘め、それでありながらそれを否定し、むしろ正反対の下ら
ない法や、決まり事に遵守している。
  その彼らは彼女らと同じでありながら、彼女らに強く抵抗した。
  こういう言い方もできる。
  エディフィルはなんとなく感じていたのだ。
  狩られているのは人間と言う弱い種ではなく、ずっと強いはずの自分達の方
ではないか、と。
  あの男の目を見た瞬間、あの男と肌を重ねた時、愛を感じた時、それは疑問
から確信に変わった。
  彼らは一個の生命体ではない。
  ある種の感情や、決まり事によって、互いを統制する群生生物なのだ。
  そしてその集団性は鬼達の快楽に基づくものとはかけ離れており、お互いを
思う気持ちや、愛――つまり愚かな自己犠牲――によって成り立っており、そ
の集団性は鬼を明らかに凌駕する力を持っていた。
  エディフィルには分かっていた。
  たとえ、何がどうなろうと、エルクゥは人間の前に敗退するだろう、と。
  たとえ真なるレザムから、彼らの元に援軍が届こうが、変わりはしない。
  人が、人間が変わらない限りはエルクゥに勝利はない。
  彼らは小さな巨人なのだ。
  そして、その一部に組み込まれた自分をエディフィルは愛する事ができた。
  同時にそれは悲劇の始まりでもあった。
  人間の最大の力である集団性は、よそ者を排除する事で保たれていた。
  エディフィルはよそ者だった。次郎衛門もよそ者になった。
  彼らは鬼だから、いつか自分達を襲うに違いない。
  そんなありえない確信に満ちた瞳をエディフィルはしっかりと覚えている。
  覚えてなんて痛くなかったのに、覚えている。
  ……リネットもその瞳を見たのだろうか?
  だとしたら私の恐怖も分かるはずなのに。
  楓はわずかに恨みがましい目で初音を見た。
  その初音の顔が驚愕に歪んでいる。
  楓を見ているわけじゃない。もっと別の!?
  考え事に気を取られていたせいで楓の行動は本来のものよりずっと遅かった。
  一瞬の後に、両手を血で濡らした鬼の両手が、目の前に迫っていた。

「考えはまとまったか?」
  再び扉を開けて現れた男――柳川、その名を耕一は思い出した――は、変わ
らずスーツをぴしっと着込んでいて、耕一はわずかに腹が立った。
「嫌だ、とは言えないんだろう?」
「良い答えだ」
  柳川は笑った。
「ところでな、柏木耕一」
  柳川の口調が変わった事に耕一は気がついた。
「通報だ。柏木耕一、鬼と思われる猛獣が隆山で暴れてるらしいぞ」

「あ、あ、あ……」
  姉の血を顔に浴び、初音は立ち尽くしていた。
  初音には何が起こったのかを理解する事は難しかった。
  最後に見たものは何だっただろう?
  異様な雰囲気を感じて、道路の向こう側に目を投げかけた。
  それが間違いだった。
  四車線の道路を隔てて、惨劇が幕を開けていた。
  街燈の明かりは不十分だったが、逃げようとする男の頭に、人間よりもずっ
と大きいなにかがその手を振り下ろした事は分かった。
  赤い飛沫が舞った。
  足が止まった。
  震えが来るまでにはまだしばらくの時間が必要だった。
  逃げようとしていた男の体が崩れ落ちた。
  光が見えた。
  カメラのストロボを焚いたような、一瞬の美しい光だった。
  それがなんだったのかを初音が認識するよりも早く、鬼が初音を見た。
  そして、にぃ、と、笑ったのだ。
  そして鬼が消えた。
  ――ひゅ――ごぉん!
  次の瞬間に初音が聞いたのは風を切り裂くような音、そしてそんな鈍い衝撃
音だった。
  風が初音の体を押して、自然に音を追いかけるように体が動いた。
  生暖かい飛沫が顔の左半分にかかり、それが頬を、顎を伝い、落ちていく事
に初音は気付かなかった。
  それから、姉がいるべき場所におらず、宝石店の壁に括り付けられるように
立っているのが分かった。
  指輪をつけた手が楓を壁に捉えている。
  壁に張られた巨大なポスターのせいで、初音はそう感じた。
  そのポスターに縦に三本、傷が入っている。
  傷なんて物じゃない、それはポスターを破り、その向こう側のコンクリート
の壁までも傷つけていた。
  そしてその途中に楓の腕があった。
「…………」
  楓が無言でコンクリートから己の右腕を引き抜いた。
  黄金色の双眸が自らの腕を眺めている。
  肉を切り裂き、腱を切断された。当然血管も切断されたのだろう。大量の血
飛沫が舞っている。血に塗れ、だらりと落ちた右腕が、それがもう使い物にな
らないだろう事を告げている。
  鬼は、道路の真ん中に立っていた。
  右から走ってきたトラックがその鬼に仰天して、ハンドル操作を誤った。
  バランスを崩した車体が、片輪走行しながら、楓からは向こう側のコンビニ
に突っ込んだ。10トンを越えるだろう車体は、まずコンビニのガラスを砕い
て、そのすぐ向こう側にあった雑誌類のコーナーを、雑誌を手に持ったまま、
店の外の異様な光景に目を奪われていた一人の大学生を巻き込んで倒し、その
まま日常雑貨のコーナーまで押し進めた。その時雑誌を支える棚がトラックの
燃料タンクに穴を空けた。棚が将棋倒しに倒れ、その上をトラックが通過して
いった。続いてトラックはレジにのしかかり、そこに立っていたアルバイトの
女子高校生を押し潰した。トラックはまだ止まらなかった。勢いを守ったまま、
レジの向こうの壁に激突し、運転席をその向こうに出してから、ようやく止まっ
た。
  別の乗用車のドライバーが鬼を見て、急ブレーキを踏んだ。後続の車が止ま
りきれず、その後部に衝突して、ブレーキを踏んだ車が前方に吹っ飛んだ。
  その車が意図せずに鬼にぶつかろうとした時、鬼が再び舞った。

  楓は抵抗しないはずだった。
  少なくとも初音はそう思った。
  何故そう思ったのか?
  ――分からない。
  初音は訝った。

  楓は素早く左に跳んだが、やはり反応は一瞬遅かった。
  力の入らない、否、動かせない右手の上腕が鬼の爪に捕まり、そこで引き千
切られた。
  今更出血の量は変わらない。

  初音は二人の姉を捜したが見つからなかった。
  ――おかしいな、ここにいるはずなのに。

  出血が楓の判断能力を著しく減退させていた。
  それでも左手の爪を伸ばし、鬼に立ち向かった。

  ――姉さん、抵抗しないで。
  初音には姉が勝利する事は思いつかなかった。
  何故だろう?

  車道に横たわった車を見て、その車のドライバーは慌ててハンドルを切った。
  そこまではこれまでの不幸なドライバーを変わらない。

  それでも鬼と楓の戦闘能力には大きな差があった。
  つまり制御しきれてるものと、しきれてないものの差。
  襲いかかる鬼の爪をかいくぐって、楓の爪が正確に鬼の心臓を貫いた。
「やぁぁぁぁぁ!」
  楓の爪がそのまま左に引かれた。鬼の体を引き裂く事はできなかったが、爪
は鬼の傷口を大きくして、心臓に穴を空けた。

  ホイルスピンの派手な音を立てながら車はコンビニに突っ込んだトラックの
後部にぶち当たった。
  追突の衝撃は火花を散らした。
  それがコンビニの床に広がっていたトラックのガソリンに引火した。
  炎は素早く辺りを包み込み、もちろん、トラックや、後からきた車や、押し
潰されたままの被害者達を包み込んだ。熱は徐々に車を侵食し、炎は当然トラッ
クの燃料タンクに飛び掛かった。

  ――火球が生じた。

  ―――続く。