・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第八話・鍵・ 投稿者:智波
  梓はざらざらしたブロック塀に左手を当て、体を支えている。
  息が荒いが、それはそれほど気にしてはいない。
  夜の空気が気持ち良かった。
  冷気を湛えて、静かに沈んでいる空気は、体に溜まった熱気を追い払ってく
れる。
  しかし、梓の気分が優れているとはお世辞にも言い難かった。
  むしろ苛々している。
  それは誰に言われる必要も無く、梓自身分かっている事であったが……。
「なんなんだよ、あんたは!」
  それでも口調からは苛々を隠す事ができなかった。
  鬼は、黄金色の瞳を持った男は、力を解放した梓に勝てないと知ると、その
姿を異形のものに変えていた。
  姉から聞いた事はあった。
  柏木家の男は鬼の力を解放するとこうなるのだと。
  人とはまったく異なる『鬼』になるのだと。
  いかに自分に超人的な力があろうと、にわかには信じられない事だった。
  そう、こうして目の前でそれを見るまでは。
  梓は拳を固める。
  勝てない事はない。
  彼女の絶対的な自信がそう思わせていた。
  そんな梓を見て、鬼は笑った。
  表情の変化は良く分からないが、それでも梓には鬼が笑った事が分かった。
  苛々がむかむかに変わる。
  鬼はそんな梓の感情の変化を楽しんでさえいるようであった。
「オニ、サ」

  ―――REC―――


・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第八話・
・鍵・

  夜気が世界を包んでいる。
  夜なのだから当然だ。
  電柱の冷たさが彼の体を伝わって、芯を冷やしていく。
  落ち着く事が必要だった。
  無意味に先行した思考を落ち着ける事が……。
  兵士の必須条件は与えられた作戦の遂行能力であって、作戦に疑問を抱く事
ではない。
  そう、疑問を抱く事ではないはずなのだが……。
  正直言って、この作戦はなにかがおかしかった。
  ブリーフィングを受けた時もおかしいと思った。だが誰にそれを指摘できよ
う。
  肩から下ろしたディバッグの中に手を突っ込むと、そこに冷たい鉄の感触が
あって彼は安心する。
  あるべき物がそこにある。
  それはとても大事な事で、そうあらなければならない事でもある。
  それでも――
  ――なにかを置き忘れてきたような……
  夜気も彼を完全に冷やしきる事はできない。
  どんなに冷やしても熱を消し去る事はできない。
  疑問もまた、消えない。
  かちっ。
  それはとてつもなく小さく、夜のしじまにも消え去りそうな音だった。
  ――時間だ……
  重く憂鬱な時間の始まり。
  喉の奥から最後の疑問を吐き出して、彼は覚悟を決めた。
  彼が電柱の影から身を乗り出す。その瞬間だった。
  この作戦における最大の、そして予測されていたイレギュラーが発生した。
  ――とんとん、と肩を叩かれる。
  一般人に発見された場合――味方ではありえない――即座に気絶させる。
  訓練の賜物というよりは、単に驚いたために両手が同時に動いた。左手が肩
口を抜け(叩かれた相手の腕を弾き飛ばすつもりが空振りとなった)、右手は
ディバッグの中から銃を抜いていた。
  しかし目標の姿は見えなかった。
  目標の右手が、彼の顔を覆っていたからだ。
  小さい……
  その手は彼が思っていたよりもずっと小さい。
「オヤスミ」
  男とも女とも知れない、中性的な声を最後に聞いて、それからの事は覚えて
いない。

  事実上、彼らの作戦は失敗していた。
  作戦の概要はこうである。
  柏木家の周囲から十三人の要員が同時に侵入し、退路を塞ぐ。七人が、監視
を続け、残りの六人で作戦の中核を遂行するはずだった。
  第一段階、第二段階まではうまく行ってたのだ。それがこの最終段階になっ
て、大きく瓦解した。
  全包囲からの攻撃は目標を足止めするためのものだ。
  それが半数の六名が作戦時間に突入できなかった。このため彼らは三名を監
視に、三名を目標の捜索に当てた。
  穴は大きすぎる。
  この無駄に広いとしか思えない柏木家の全域をくまなく調べ尽くすには三人
では少なすぎた。それに警察に感づかれる前に作戦を終了させなくてはならな
い。
  当然の事だがイレギュラーの発生は常に予測されている。
  もっとも予測しうるイレギュラーはイレギュラーとは呼べない。従ってイレ
ギュラーとはつまり、予測すらし得ないものを指すのだ。
  しかしまたイレギュラーに遭遇したとしても、目的さえ遂行すれば結果は作
戦成功。
  たとえ、どんな犠牲を払ったとしても、だ。

  柏木初音はまだ自分が何者なのかを知らない。
  自らが鬼であり、リネットと呼ばれた鬼の生まれ変わりである事を知らない。
  しかし耕一は目覚めた。
  千鶴もまた自らがリズエルである事を思い出し、楓はエディフィルの事を知っ
ている。
  梓はまだ思い出してはいない、が、鬼の力には目覚めている。
  鬼の力は共感する。
  つまりだ、今まで初音が目覚めなかった事こそ、イレギュラー。尤も誰から
見てのイレギュラーなのかは分からないが……。
  しかしそれは少しずつ変わっていたのかもしれない。
  本来なら気付くはずの無い気配、家を囲むように7つ。
「……お姉ちゃん」
  目の前に座る無口な姉を呼んだのは、事の確認ではなく、そんなことに気付
く自分が恐くなってのことだった。
  しかし、姉はやはり何も語らないまま、ゆっくりと首を縦に振った。
  つまり認めたのだ。
  誰かがこの家を取り囲み、初音がそれに気付き、彼女自身もまたそれに気付
いている事を。
  ――どうして?
  そんな疑問が初音の中に湧きあがる。
  ――どうして?  こんなのおかしいよ。
  しかし楓は何も言わず、何をするべきかを考えていた。
  彼女にもまた余裕はなかったのである。
  初音には自分の異様な感覚に溺れて忘れている事がある。
  侵入者たちは何者なのか?
  泥棒というものは基本的に留守宅を狙うものだ。いかに柏木家が大きく、忍
び込む余地があったとしても、そこに誰かいる以上、発見される可能性はある
のだから。
  強盗?  そうかもしれない。
  この家の事を下調べしていれば、そして、ずっと観察していたのであれば、
侵入者たちは今この家にいるのは高校生が二人だけという事も知っているだろ
う。
  警察に電話。
  そんな事を考えてみるが、今すぐ電話口に走って、電話したところで侵入者
が二人を拉致する方が早いだろう。それに警察沙汰にはしたくない……。
  楓は一番上の姉が警察に煩わされていた事を知っていたから、あの日々を思
い出して、姉のあの表情を思い出して、警察には関わりたく無いと思った。
  案――鬼の力を解放し、叩きのめす。
  不可能ではないだろう。しかしそんな事をすれば後が大変だ。
  案――鬼の力を最小限に使い、逃げる。
  どうやらそれが最良らしい。
「どうしよう?」
  初音もようやく現状を理解したらしい。
  そんな呟きを聞いた瞬間、何故か楓は従兄弟の頼もしい顔を思い出していた。
  ――耕一さん。
  耕一さんに頼りたい。ここにいてくれれば良いのに。
  しかし耕一はここにはいない。
  姉さんはまだ仕事かな?  電話しなきゃ。
  耕一から千鶴へと思考が飛ぶ事が泣きたくなるくらい悲しかった。
  梓姉さんにもなにか言わなきゃ。こんな所に帰って来たりしたら……
  そう、強盗の方が可哀相だ。
  千鶴姉さんと、梓姉さんに連絡して……、ううん、その前に警察に電話しな
きゃ。
  そんな風に考えをまとめていて、楓は不意に自分がおかしくなった。
  まずは脱出しなければ。
「――え?」
  不意に初音が戸惑ったような声を上げる。
  初音には分からなかったのだ。初めて感じたのだろう、こんな気配を。
  楓はそれがなんなのか知っていた。
  正確にはエディフィルが良く覚えていた。
  腕が行き場を求めて、服の上からポケットの中の財布を見つけた。
  確かそこそこの額が入っていたはずだ。
「……行くよ」
  立ち上がった楓につられて初音も立ち上がる。

  ……何処に行くつもりなの?

  初音はまだどうすれば良いのか分からず困っている。
  分からない方が良い。知ればもっと恐くなる。

  ……耕一さんの所に行く気?

  まさか侵入者の気配から殺気を感じたなんて言えない。
  無駄に恐怖させる事も無い。

  ……どうして耕一さんの所なの?

  もう一つの声に楓は隠し立てができない。それでも心の中でも黙る。

  何時の頃からだっただろうか?  この声が耕一の事を次郎衛門と呼ばなくなっ
たのは……。
  そう望んだのは楓だったが、今ではそう呼んで欲しいような気がする。
  ふぅ、と楓は息をついた。
  初音がいる以上、侵入者に対し、気配を消す事はできない。
  仕掛けてくるのなら迎え撃たなければいけないだろう。

  ……リネットが目覚めるかも。

  分かってる、そしてそれに恐怖してる自分の事も知っている。
  リネットは次郎衛門と添い遂げたのだ。雨月山の伝説が正しければそういう
事になる。そんな記憶を取り戻した時、初音はどうするのだろうか?  そして
楓は……。
  そして今、耕一さんは千鶴と、愛し合っている。
  私たちはどうなるのだろう?
  初音は耐えられるだろうか?
  この純真な妹が知るにはあまりに残酷な現実。
  けれど誰も責められない。
  被害者がいるとすれば、それは全員なのだから。
  家の中を覆う不穏な気配の中、静まり返っている玄関はかえって不気味だっ
た。
「どうするの?」
  初音の問いに何と答えれば良いのか、楓には分からない。
「……とりあえず、姉さんのところに」
  二人は玄関で靴を履く。
  黙ったままで静かに。
  侵入者たちはこの二人の動きに気づいているのだろうか?
  しかし楓の考えている事はもっと別の……
  ……今、玄関の向こうで待ち伏せている人はいつ仕掛けてくる気だろう?
  と、言う事だった。

「はあ……はあ……はあ……」
  熱はもはや夜気では冷やしきれない。
  熱い汗が体を伝っている。
  梓は両の拳を握り締めたまま、目の前の鬼を睨み付けていた。
  ぼたぼたとアスファルトを濡らす血は梓のものではない。
  全身を血塗れにしているのは鬼の方だった。
「何故ダ。力モ俺ノ方ガ上ダトイウノニ……」
  梓に説明してやる気はなかった。
  あまりにも単純な事だったからだ。
  要は、この鬼は自らの力を制御しきれていない。
  10の力を完全に制御している梓と20の力を7しか引き出せていない鬼と、
どちらが勝つのかは明白な事だった。
  そしてその通り、すでに勝負はついていた。
  梓には鬼に致命傷を与える事はできないが、ダメージを蓄積させる事はでき
る。
  いずれ鬼は動く事もできなくなるだろう。
「さあ、話してもらおうか!  一体何が目的なんだ!」
  その言葉を聞いて、鬼はまた笑った。
  戦いの間もそうだった。梓の攻撃を受けつつ、それでもこの鬼は笑いつづけ
ていたのだ。
  やがてゆっくりを鬼が口を開いた。
「目的ダト、簡単ナ事ダ」
  次の瞬間、梓を囲むように無数の殺気が現れる。
「足止メ。ホンノ三十分デで良ヨカッタノサ。」
  次の瞬間、無数の銃弾が夜を切り裂いた。

  ここ、は?
  柏木耕一は肌に不快さを感じて目を覚ました。
  言わば梅雨の湿気た朝に自分の寝汗で目を覚ましたような……。
  一瞬の後に耕一は自分の置かれた状況を把握し(ただし理解はできなかった)、
思わず声を上げた。
  耕一は拘束されていた。
  今の彼の状況を彼自身が感じた事で表現すれば、電気椅子の上の囚人……。
  そして、その感想は彼自身が思ったよりもずっと正しかった。
  思い出せ。
  耕一は自分に語り掛ける。
  思い出すんだ。
  なにがあった?
  しかし思い出せない。
  なんでこんな事になってるんだ?
  ――がちゃ。
  そんな音がして、耕一は顔を上げる。
  それはちょうど目の前の扉が開いた音だった。
  そしてそこから現れた顔を見て、耕一は一瞬迷った。
  この男とは会った事がある。以前何処かで……。
「久しぶりだな、柏木耕一」
  まだ思い出せない。
  すらりとした長身の、きつい目をした男。
  スーツを着込み、耕一とは数メートルの距離を保っているというのに、油断
した風はない。むしろ、いつ耕一が飛び掛かってきても対処できるくらいには
緊張している。
「忘れたか?  それも仕方が無いか、この姿で見えたのは一度きりだからな」
  この姿で?
  その言葉の意味が耕一には分からない。
  頭がくらくらしている、二日酔いのようだ。
「こうすれば思い出すか?」
  男がそう言うとその瞬間、空気がぴんと張り詰めた。
  これは――。
  問うまでもなかった。
  ――鬼。
  それは柏木家のみに伝わるはずの鬼の力。
「おまえは!」
  男の瞳が黄金色に輝いている。
  見覚えのある色、千鶴さんと同じ。
「――あの鬼、生きていたのか!」
  死を覚悟する。
  この状態で攻撃されてはどうしようもない。
  だが同時に野生の本能が、耕一の鬼を目覚めさせる。
  体細胞が急激に変化して、人のそれから鬼に変わる。
  鬼となった耕一は間違い無く世界最強の生物だ。
  しかし、その変身は途中で強制的に中断させられる。
  ――バヂィッ!
  熱した油の上に水を垂らしたような音がして、肉の焼け焦げる匂いが生まれ
る。
「ぐあぁっ!」
  そんな耕一の苦悶の声を男は哀れんだ瞳で聞いていた。
「そうそう、言い忘れていたがな、おまえの四肢を縛るその拘束具だが、圧力
がかかると電流が流れる仕掛けになっているらしい。破壊するほどの力がかか
れば致死量の電流が流れるぞ。無茶は止めろ」
「――そう言う事は先に言って欲しかったな」
  荒い息を吐きながら、耕一は毒舌を吐いた。
  体は人のそれに保ちながら、その状態で鬼を解放する。
  焼け焦げたはずの両腕の傷が見る間に回復していく。
  まったく無意味な行動だろうか?  せめて牽制になれば良いが、場合によっ
ては相手を刺激するだけではないだろうか?
  しかし、男は薄く笑ったに過ぎなかった。
「――何が目的だ?」
  違う……この男はあの鬼とは違う。
  破壊と殺戮、陵辱と快楽だけを求めていたあの鬼とは明らかに違う。
「簡単な事だ。柏木耕一。俺達に協力しろ」

「はあ、はあ、はあ、はあ……」
  夜の闇の中、楓と初音は走っていた。
「はあ、……楓お姉ちゃん?」
  初音が限界が来たのか、足を止める。
「さっきのは?」
  楓も少し先で立ち止まる。そして振り返り、何も言わない。
「……お姉ちゃん………?」
  真っ赤な満月の夜だった。
  夜の街道を、真っ赤な月を背にしょって、黄金色の瞳で初音を見下ろす楓の
息は少しも切れていなかった。
  彼女らを追う気配は、無い。
  逃げ切ったのだろうか?
  多分、きっと、大きな犠牲を払って。
「お姉ちゃん」
  そう言って、初音は首を振った。
  ――話したく無かったら話さなくて良いよ。
  それはそう言う意味の沈黙だった。
  楓は小さく肯く。
「……ごめんね、初音」
  そんな小さな囁きが夜の町に染み渡った。

「話していただけませんかね」
  少年はそう語った。
  異様な光景といえよう。
  どちらかというと線の細い少年が、巨体とも言えるような男を見下ろし尋ね
ている。
「どうして柏木初音を狙うのか……」
  男は自分の体を動かせない事に恐怖していた。
  動かないのだ、まったく。
「い、一体……」
  ようやく喉の奥から絞り出した言葉がこれだった。
「僕たちの情報網をなめないでくださいね。貴方がたが柏木初音を何らかの目
的で拉致しようとしていた事は分かっているんですよ」
「……知らんな」
「抵抗する事も無駄なんですよ。用件は済みましたし、彼女たちが逃げる足止
めもできたようだし、僕は帰る事にしますね」
  言わなくて良い事まで言って、少年は背を向けた。
「ああ、そうだ」
  そこで少年は立ち止まった。
「最後に一つだけ教えて下さい」
  少年は振り返らない。
  男からはその表情が分からない。
「鍵って何ですか?」
  男の顔が驚愕に歪む。
  少年にそれは見えないはずであったが、少年はわずかに微笑んでその場を後
にした。

  ――道を告げる羅針盤はゆらゆらと揺れている。
  ――神は答えをくださる事はない。
  ――人が人であるために、答えを探せとおっしゃっている。
  ――何処に向かえば良いのかを彼らは知らないが、彼らはそれを求め、進み
つづけている。

  ―――続く。