・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第七話・もう一つの痕・ 投稿者: 智波
  ぱしゅ。……ぱしゅ。ぱしゅ。ぱしゅ。
  風船から空気の抜けるような音がいくつもした。


・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第七話・
・もう一つの痕・

「おじゃましましたー!」
  そんな明るい声が柏木家の玄関に響く。
  平凡な夕方の光景。
  柏木家の玄関は夕陽によって朱色に染まり、そこに立つ柏木梓と日吉かおり
を同じ色に染めていた。
  その元気な声を聞いてか、廊下をぱたぱたをスリッパの音が駆けてくる。
「もう、お帰りですか?」
  柏木初音はにこにこと笑みを浮かべて、ここのところ毎日の訪問者に、毎日
の挨拶を口にした。
「あっ、どうも、今日はお邪魔さまでしたっ」
  かおりも初音にここのところ毎日の挨拶を口にする。
「はあ……」
  そして梓もここのところ毎日のため息を口にするのだった。
「気をつけて帰って下さいね」
  初音の言葉を聞いて、かおりは笑顔を作った。
「大丈夫。梓センパイが送っていってくれますもんね!」
「はいはい、送っていきゃあいいんだろ」
  靴を足に通しながら、梓は不精不精に呟いた。
  もっとも口ではそういうものの、最初にかおりを家まで送っていくように言っ
たのは梓の方である。

  あれは、そう、10月のことであっただろうか。
  久しぶりに学校に顔を出したかおりが、半ば強引に柏木家に遊びに来た帰り
だった。
  それは、とても、楽しい時間だった。
  お互いに、あることには触れないように話をしていたものの、それでも久し
ぶりの楽しい時間であった。
  他愛も無い雑談、ちょっとした笑い話。弾ける笑い声と、笑顔。
  そんななんでもない日常がやけに懐かしく、そして眩しく思えた。
  しかし楽しい時間は必ず終わりを告げる。
  時計の針が7時を指した頃……
「おじゃましましたー!」
  明るい声が柏木家の玄関に響いて、そして硬直した。
  かおりが玄関を開け放つ、刹那、闇が飛び込んできた。
  陽はとっくに沈んでいた。
  かおりは玄関に立ったまま、動かなかった。
「……かおり?」
  梓の言葉もかおりの耳には届いていない。
  かおりの目は見開かれたまま、玄関の外、闇ではない何かを見つめている。
「恐い……」
  それまでのかおりからはとても信じられないような言葉を梓は聞いた。
「恐いよ、梓センパイ」
  靴も履かずに玄関に降り、かおりの隣に立って、それがいつもの彼女の悪ふ
ざけでないことがようやく分かった。
  かおりは顔を真っ青にして震えていた。
「どうしたんだよ、かおり」
「いやっ!  帰りたくない!」
  頭を左右に振って暴れるかおりにどうすればいいか分からず梓は立ち尽くし
た。
「恐いんです。あたし恐いんです!」
  結局どうすればいいか分からず、梓はかおりを抱きしめた。
  以前のかおりなら抱き返してきたことだろう。だがかおりは梓の腕の中で脅
えた小猫のように静かに震えていた。
  …………かおりが落ち着きを取り戻すのに、半時間ほどの間、梓はずっとそ
うしていた。梓にそうする以外になにができただろう。なにもできなかった。
「送ってくよ」
  不意にそんな言葉が梓の口をついて出た。
「送ってくから、それだったら大丈夫だろ?  な?」
  しばらく梓の胸に顔を埋めてじっとしていたかおりだったが、やがて小さく
肯いた。

  あの事件の後、梓を待っていたのは地獄のような現実だった。
『なんにも酷いことをされていない』はずのかおりがいたのは、単なる病院の
ベッドではなく、設備も何も普通の病院とはさして変わりが無い――あえて違
いを上げるとすれば窓に鉄格子がかかっていたり、窓ガラス自体も強化ガラス
が使われていること、そして窓にかけられた鉄格子と同じようなものが廊下に
もあること――名称が精神病院という建物の中であった。
  梓がふらふらとかおりに近づくと、彼女の虚ろな瞳に光が宿った。
「……かおり」
  次の瞬間、かおりの表情が一変して引きつったものに変わる。
「いやっ!  来ないで!  来ないでよぉ!」
  両手を振り乱して暴れるかおり、側にいた二人の看護婦が素早くかおりを押
さえつけ、その腕に何かを注射した。
  しばらくは看護婦たちに押さえられたまま、暴れようとしていたかおりだが、
やがて力を失って、また虚ろな瞳で天井を見上げ始めた。
  その後、梓はかおりの両親と会った。
  憔悴しきった二人が、今だ夜毎に泣いているのが、その瞳の色で分かった。
「……かおりは?」
  うっ、とかおりの母親がうめいた。
  かおりの父親が母親を慰めつつ、梓を見た。
「柏木梓さんですね。娘から話はよく聞いていました」
「…………」
  梓は何と言って答えたらいいか分からない。あの日もかおりは柏木家に遊び
に来ていて……。
  初めて梓の部屋に入れたことを喜んでいて……。
  突然気分の悪くなった耕一に脳溢血がどうとかとんでもないことを言って、
そして去っていったんだ。
  あの時、梓は耕一のことしか見えていなかった。
  かおりにもなにか酷いことを言ったような気もする。
  あの時すでに陽は落ちていて、もし耕一のことが無かったら梓はかおりを送っ
て帰ったに違いない。
  それが……、あんなことに……。
「ごめんなさいっ!  あたしがもっとしっかりしてれば良かったんだ!  あた
しがかおりを送り返すようなことをしたから!」
  かおりの父親は首を横に振った。
「あの子は運が悪かったんです。本当にそれだけでしょう」
  すっとかおりの父親が梓にハンカチを手渡した。
  梓は訳が分からずにそれを見つめる。
「涙を拭いてください。泣いてくれる友達がいてあの子も幸せでしょうけど、
あの子が起きた時に笑顔で迎えてやりたいじゃないですか」
  梓は自分の頬に手を当てた。
  梓は泣いていた。

「―――そんなっ!  そんなことって!」
  その後かおりの両親から、かおりに起こった出来事を警察と病院が推測した
範囲で聴いた梓は一瞬の放心の後、そう叫んでいた。
「畜生!  犯人の奴、殺してやる!」
「いいんです、梓さん。犯人は法の裁きを受けますから……」
  そう言ったかおりの父親が法にそれほど期待してないことは明らかだった。
  新聞でもTVでもこぞって「麻薬中毒の青年、深夜の凶行!」とか言った見
出しの記事を載せている。
  ――責任能力の欠如という形で犯人は精神病院に送られる。
  それが全てのマスメディアにおける今回の事件の結末の見通しだった。
  中には――被害者の女子高校生と同じ病院送りになるのではないかというろ
くでもない推測をする新聞社まであった。
  しかし、かおりの両親がそう言っているのだ。
  やはり梓にはなにもできない。
  なにも……、だから、せめてかおりが目を覚ました時に、笑顔で迎えてやろ
う。
  梓は借りたままのハンカチで目元を拭った。

「任意出頭ですか?」
  そして現在――つまり7月。
  鶴来屋の会長室で柏木千鶴はそんな言葉を鸚鵡返しにしていた。
  就業時間を追え、帰り支度を整えていた千鶴を会長室の落ち着かない椅子に
戻らせたのはたった一本の電話だった。
■会長、お客様がお見えです。
「お客様?  どちら様?」
■ あ、あの警察の方なんですが……
「警察……?  いいわ、お通ししてください」
  警察に何か言われるようなやましいことはしていないはずだ。
  千鶴は自信を持ってそう思った。
  鶴来屋の経営は実にクリーンであり、それは彼女の曾祖父がこの旅館宿を経
営し始めてから変わってはいない。
  警察だってそれは分かっているはずだ。
  それでも警察という響きは人を落ち着かせなくさせる。
  千鶴は一人、だだっ広い会長室の落ち着かない席に座る。そして何か心当た
りはないかと考えた。鶴木屋の経営に止まらず、家族のこと、そりゃ、彼女の
家系は鬼の家系である。鬼は人間ではないから会社を経営したり、家を持っちゃ
いかんと言われれば言葉はない。私たちは人間ですと主張したところで、体細
胞に眠る鬼の力は隠し通せるかどうか分かったものではない。梓、喧嘩でもし
たのだろうか?  口より先に手が出るタイプだからそうかも知れない。しかし、
それなら電話で済む。楓や初音、あの娘たちが問題を起こすとは考えづらい。
耕一さん?  もし耕一さんのことで何かあれば、いま連絡先はこの柏木家しか
ない。耕一さんも、私たちはもうお互い以外に身寄りはいない。耕一さんのこ
とだろうか?  だとしたらどうすればいいのか?
  そんなことを千鶴が取り止めも無く考えていると、会長室の扉が叩かれる。
「どうぞ……」
「失礼します」
  そう言って入ってきたのは三十台後半くらいの中堅肌の刑事だった。ぴしっ
とアイロンのかかったスーツを着こなし、ぴしっと背筋を伸ばしている。エリ
ート警察官の鑑のような男だ。瞳は油断無く輝き、野心に満ちている。間違っ
ても無精髭を伸ばしている事なんていうのはありえない、そんな男だった。
  そしてその後ろに二人の刑事がついて入ってくる。
  こちらの二人はどうと言って特徴を感じさせることも無い若い刑事だった。
「……どんなご用件でしょうか?」
  気勢を殺ごうと千鶴は自分から尋ねた。
「鶴来屋の経営状態における巨額の使途不明金についてです」
  男は眉を動かすことも無く言った。
「え…………?」
  あまりに唐突なその言葉に千鶴は、会長室の椅子に座ったまま、返事ができ
ずにいる。
「これを我々は鶴来屋会長――つまり貴方ですな――の横領として、柏木千鶴、
貴方に任意出頭を求めます。おっとそれから脱税の嫌疑もかかっています」
  ここまで言い切られると千鶴の中にも妙な馴れというか、落ち着きが生まれ
る。
  軽く息を吐いて、目の前の男を睨み返す。
「何かの間違いではありませんか?」
「いいえ、……弁護士を呼ばれますか?」
「ええ、そうさせていただきます」

「はあ?  狩野部長が?」
  長瀬源三郎は係長のデスクに座ったままため息を吐いた。
「あの人も野心家だからねえ」
「いいんですか?  ろくに証拠も無いのに」
  若い刑事が尋ねる。
「さあね、上からの命令なんだろ。やっぱり根拠とかがあるんじゃないのかい?」
「でもやっぱりおかしいですよ。鶴来屋にそういう疑惑が上がった事自体が無
かったですし、私たちだって調べなかったわけじゃないでしょう。それなのに
いきなり任意出頭、事実上の逮捕ですよ」
「まあまあ、なんかの間違いだったとしてもさ。恥をかくのは警察と狩野部長
だけさ」
「僕たちは警察官ですっ!」

「さよーならー!」
  明るく手をぶんぶんと振って、かおりは家の玄関をくぐる。
「じゃあね」
  梓も控えめに手を振った。
  えらく遅くなっちゃったな。
  帰り道で梓は一人、頭を掻いた。
  家に帰れば千鶴姉が腹を立てていることだろう。
  初音が上手く諌めておいてくれれば良いのだが……
  ――それにしても、
  と、梓は身震いした。
  ――今夜はちょっと冷えるな。
  時間は八時と九時の中間辺りで、まだ夜が冷え込む時間ではない。
  でもかおりのやつを送っていかないわけにはいかないし。
  そう、あれも夏の日であった。
  もっともあれは夏の終わり、今は夏の始まりだ。
  一年が過ぎようとしている。
  しかしかおりの痕は今だ癒えない。
  梓は気付いてた。
  今だかおりが巧みに暗闇を避けていることに。
  それはつまりかおりの心の痕はいまだ癒されていないということ。
  どうすればかおりを助けられるだろう。
  今だ自らに責任を課す少女は、そう思って、爪を噛んだ。
  ざっ。
  砂を蹴る音。
  アスファルトの上に溜まった砂が靴に蹴られる音。
  梓の前方、およそ二五メートルというところか。
  街燈の下で地面を靴で擦っている。
  距離があるせいで梓からは男の詳しい外見は分からない。
「柏木梓だな」
  男の低い、しかし良く通る声が夜の道路に響く。
  梓は足を止めた。
  いきなり知らない人間から名を呼ばれるのは意外であり、不快であった。
「……そうだったらどうするの?  今あたしは気分が悪いんだ」
「そいつは悪かった」
  男は唇を歪めて笑った。
  その嘲笑は二五メートルの距離を隔てても、梓にははっきりと分かった。
「もう一つ悪い知らせがある。だがおまえがそれを聞くことはない」
  男が街燈をささえる柱に手を当てた。
「今から、俺に殺されるからな」
  男は宣言と共に街燈を片手でへし折った。
  異様な音が夜のしじまに響き渡る。
  梓は何が起こったのか分からず、立ち尽くしている。
  立ち尽くすしかない。
  この異様な光景はブラウン管の中じゃない。
  現実だ!
  それを認識した瞬間、梓の目前には、光を失った街燈の電球が迫っていた。
  ざっ!
  アスファルトの地面は滑る。靴と地面の間にどうしても堆積した砂が挟まれ
るからだ。
  それでもなんとか態勢を低くして、梓は街燈の槍を回避した。
  バランスを崩した体を立て直すために、一度地面に転がる。
  ――お気に入りの服なのに!
  そんなどうでもいい思いが胸中を駆ける。
  そのまま体を転がして、起き上がる。
  がずんっ!
  そんな音が後方から聞こえる。
  街燈がブロック塀に激突して、突き刺さったのだ。
  ――なんなんだっ!
  そんな叫びを心の中で吐きつつ、顔を上げた梓の目前に、
  ―――黄金色の瞳を輝かせた男が迫っていた。

「遅いね。お姉ちゃん達」
  ちゃぶ台に肘をついて、初音はため息混じりに呟いた。
  その初音の目の前に冷えて固まった四人分の夕食が冷えて固まっている。
  初音が視界の端に映った姉をちらりと見ると、無口な姉は小さくこくりと肯
いた。
「ちょっと千鶴お姉ちゃんのところに電話してみるね」
  ちゃぶ台に手をついて、初音が立ち上がる。
  楓は小さく肯いて、時計を見上げた。
  カチリ、本当なら聞こえないほどの小さな音を立て、時計の針が九時を指し
た。

  男が所定の位置につくのに十五分の時間を要した。
  それはそこに辿り着くまでの道のりが非常に困難だったというわけではない。
  平然な顔をして、その位置まで辿り着くことが男にとっては困難であったに
せよ、道中は何事も無く過ぎた。
  そしてそれがまた男を不安にさせた。
  イレギュラーの起こらない作戦はないのだ。
  特にこういった素人相手の作戦、さらに市街地ともなれば……
  男は電柱の影に身を潜め、肩に担いだディバッグを降ろす。
  見た目には市販のただのディバッグでしかない。
  事実そうだ。
  しかしその中に入っているものには市販されているものは一つとしてなかっ
た。
  そのうちの一つであるオートマティックの拳銃を手に取り、男はまず弾倉を
抜いた。
  弾は?  全弾ちゃんと装填されている。
  再び弾倉を銃に押し込んでスライドを引く。
  かしゃ……
  そんな小さな鉄と鉄が擦れ合う音でさえ、男はぞっとした。
  そっとハンマーを降ろし、安全装置をかける。
  すべては10秒も必要とせずに行われ、男はディバッグの中にあるガンホル
ダーに銃をかけた。
  そして再びディバッグを抱え直すと、電柱にもたれるように少し離れた邸宅
を視界の端で眺め始めた。
  作戦開始まではもう数分を切っている。

  ――船は羅針盤を取り戻した。
  ――羅針盤はくるくると回ると、彼らに行くべき先を指し示した。
  ――彼らは羅針盤を信じ、船を操った。
  ――神はお導きになる。
  ――神はお導きになる。

  ――続く。