・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第六話・選択の天秤・ 投稿者: 智波
「死んでくれないか?  長瀬君」


・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第六話・
・選択の天秤・

「う…………」
  今日も良い天気だ。
  スカイブルーの空は何処までも晴れ渡り、一片の雲も見えやしない。
  ばたばたと校旗が風に揺れている。
  熱気を孕んだ風も、空気に淀んだ熱気に比べれば歓迎できる。
「水禍さん?」
  そんな普通の高校の屋上で、金網にもたれ、一人の女性が眠っている。
  端正な顔立ちに、冷たくも見える無表情。しかし、そんな彼女も眠っている
時は普通の女の子とさして変わりはない。
  寝息を立てるその顔は実に平和そのものだ。
  気のせいか?
  と、浅水和弥は思った。
  彼女に目覚めの兆候はない。まるで永遠に眠りつづけるのではないか?  そ
う思わせるほど、静かな眠り。
  ばたばたばたばた………
  風が吹きぬけ、水禍の髪を揺らす。
  同じ風が浅水の髪も揺らす。
「水禍さん!  水禍さん!」
  突然恐くなって、浅水は水禍の肩を持って揺さぶった。
「起きて教えてくれ!  真奈美が……」
  はっとして、浅水は水禍の肩から手を離した。
  そして自分の両手を見つめる。
  細い……
  屋上の金網にもたれ、目を閉じる女性の肩は、浅水が思っていたよりもずっ
と細く、そして柔らかだった。
「……水禍さん?」
  浅水の呼び掛けにも答えず、彼女は眠りつづけている。
  ざあぁぁ……
  風が校庭の木々を揺らし、葉擦れを奏で、二人の間を駆け抜けていく。
『あいつらの敵だよ』
  風に乗って祐介の言葉が耳鳴りのように浅水の鼓膜を叩いた。
  あいつらとは真奈美を攫った『あいつら』に違いない。
  この女性はこんな小さな体であいつらと戦っているのか………
  浅水は再び自らの手を見た。
  平凡な、16年間で見飽きた手の平だ。
  そして目の前にいる女性の肩をすっぽりと包み込む、そんな手だ。
  この手で何ができるだろう?
  浅水はその手をぐっと握り締める。
  守るのだ。大事なものを、大事な人を守るのだ。
  そのためにこの両手はあるのだから。
  じりじりじりじり……、と、夏の陽光が浅水を焼いている。
  水禍はちょうど影にいる。
  僕が守るんだ。
  その時―――
  つぅ、と水禍の長くしなやかな睫の間からきらきらと輝く雫が一筋流れ落ち
た。

「がふっ!」
  強烈な勢いを持った拓也の拳が祐介の鳩尾に叩き込まれる。
  くの字に折れた祐介の体。その頭部に向けて拓也の矢のような蹴りが襲う!
  世界が弾け跳んだような衝撃と共に、祐介は生徒会室の壁に叩き付けられ、
そのままずるずると崩れ落ちた。
「悪いね、長瀬君。ボクにもっと力があれば良いんだけど」
「なにが!?」
  そう叫ぼうとして声が出ない。
  それでも意は通じたらしく、拓也はその攻撃の手を止めた。
  ―――戦いは一方的なものになっていた。
  祐介の体は傷だらけで、拓也は祐介の攻撃を一撃足りとも食らってはいない。
  そもそも最初の拓也の電波を祐介が受け流し、その次の瞬間からすべては祐
介の予想を離れて進行していた。
  拓也の鈍く輝く黄金色の瞳が、無様に壁に背をつくように倒れている祐介を
見下ろしている。
「電波で壊そうとしても君にはあの爆弾があるじゃないか。だからボクが君に
勝つにはそれ以外の方法しかないんだよ」
  黄金色の瞳……
「エルクゥ……」
  そんな言葉がようやく紡ぎ出された。
「そう、そのエルクゥの力」
「…なんで月島さんが……」
「君のためだよ。長瀬君。君のために、君を殺すためにボクはこうなったんだ」
  違う、僕はそんなことを聞いてるんじゃない。どうやってエルクゥになった
んだ!?  誰の力を借りて!
「だけどまだ力が足りなくてね。君を一瞬で殺すことがどうしてもできないん
だよ」
  哀れまれている!?
  淡々と告げる拓也の口調に他意は無い。純粋に祐介のことをすまなく思って
いるのだ。
  今は死ねない。けれど突破口はない。
「月島さん、そんなにまでして瑠璃子さんが喜ぶと思ってるのか?」
  だから時間を稼ぐ。
  少しでも長く、突破口を見つけなければいけない。
「……瑠璃子のことは関係ない」
「え?」
  祐介は拓也の言ったことが一瞬理解できない。
  彼は何と言ったのか?
  関係ない……
  瑠璃子のことは関係ない……
  それは彼の口から紡ぎ出されるべき言葉ではなかった。
  彼の存在は彼の妹と共にあるべきであり、祐介はそう思っていた。
  それは間違いが無い思い込みのはずであった。
  彼自身そう語ったではないか。
  瑠璃子と幸せになるために祐介を殺す、と。
「瑠璃子がそこにいてくれればいいんだ。それだけでいいんだ」
「瑠璃子さんの気持ちは関係ないのかっ!?」
  理解した瞬間、祐介は叫んでいた。
  壁に手をついて、ゆっくりと膝を伸ばす。
「……長瀬君、じゃあ、こういう喩はどうかな?」
  理解してもらえないのが心外だというように、拓也は一歩下がって、両手を
広げた。
「ここに二つの主張がある。そう、まるでボクと君のように。この二つは絶対
に相容れない。一つは君と同じ意見で、もう一つは理解はできるが、君の意見
とは違う。君は君と同じ意見を選ぶ。違うかい?」
「いい加減にしてください」
「君は君と同じ意見を選ぶ。結果もう一方は駆逐される。そちら側の意見も理
解できたのに、それでも選択せなばなら無い時、人は自分の主張を優先する。
大抵においてそうであるし、そうであるべきだ」
「月島さん、貴方は―――」
「そうでないと人の歴史はここまで続かなかっただろう。自己保存本能とでも
言うのかな?  人は結局自らを優先する。そうすることのなにが悪い!」
「貴方は瑠璃子さんを愛してなんかいない!」

  ギン、と自分に向けられた眼光に一佐は苦笑した。
「そこまで硬くなることはない。落ち着いたら良い」
「………………」
  長い髪の少女は沈黙を守っている。
  柔らかいソファに両膝を揃えて座り、その上に握り締めた拳を置いて、気の
強い瞳は一佐の視線を受け止めて、彼の元に返してくる。
「君に危害を加えるつもりはない。少し協力してもらいたいだけだ」
  手慣れた仕種で紅茶を入れ、少女の前に差し出す。
「君の恋人のためにもなると思うんだがね」
「―――!」
  その瞬間少女の瞳の強さが揺らいだことを、一佐は見逃さなかった。
「話だけでも聞いてもらえないだろうか?」
「………………」
  少女の沈黙を肯定と受け止め、一佐は語り出した。
  彼自身の不安の話を。

「ボクは瑠璃子を愛している!  誰よりも愛している!」
  そんなことを叫びながら、拓也は祐介の体に拳を振り下ろしていた。
  拓也の拳が、祐介の血に塗れている。
「違う、そんなのは愛じゃない……」
  殺されてもこれだけは言わなきゃならない。
  祐介は体を捻って、拓也の連打から抜け出すと、一息ついて、その言葉を口
にした。
「本当に瑠璃子さんを愛しているなら二人で幸せになろうとするはずだ」
  次の瞬間、これまでで一番の衝撃が祐介を襲い、彼は意識を失った。

  意識を失った祐介の傍らに立ち、拓也は自問していた。
『本当に瑠璃子さんを愛しているなら二人で幸せになろうとするはずだ』
  その通りかもしれない。いや、まったくその通りだろう。
  でも駄目なんだ。もう遅いんだ。
  一度すべてを壊さない限り、幸せは作れない。
  後一度拳を振り下ろせば終わるのだ。
  拓也はぐっと拳を固め、そして―――
  がしゃぁぁぁぁぁん!
「―――!」
  ガラスの割れる音に彼は拳を止めた。
  ゆっくりと窓を見る。
  窓からガラスが無くなっている。今、窓枠に残ったガラスの欠片が一つ、生
徒会室の中に落ちて砕けた。
  拓也は拳を握り締めたままで、生徒会室の入り口に向き直った。
  そこには拓也の知らない少年――浅水――が立っていた。
  彼は黄金色に輝く瞳で、何かを投げた後の姿勢のままで、拓也を睨んでいる。
  浅水がゆっくりと拓也に向き直る。
「……月島拓也さん」
  その少年の影から一人の女性――水禍――が現れる。
「……どうしてこんな事をするのですか?」
  拓也の顔は驚きに歪んでいた。
  電波使いはこの学校に祐介しかいないはずだったから。
  ここにこうしている彼らは電波使いではありえない。しかし、あの電波を電
波使い以外が防げたとも思えない。
「誰だ。どうして邪魔をするんだ?」
「祐介さんは友達だ!  友達が殺されるのを黙ってみてる奴なんていない!」
  浅水は今にも拓也に飛び掛かりたい自分を必死に押さえていた。
  傍目にも祐介の状態は良くない。このまま放っておいて死ぬことはないにし
ても、危険な状態ではあるに違いない。
  浅水と拓也の距離は大きな机を隔てて、およそ5メートルというところか。
  もちろん拓也も二人に対抗するために電波を集めている。
  浅水はあえて電波を集めない。代わりにもう一つの力を解放している。
  何故、この力が使えるのかは分からなかった。あの鬼に取り付かれているせ
いで、鬼になったのだと、浅水は信じていた。
  どうでもいい!  使えるなら使う。それだけだ!
「……友達だと、…………キサマ等も電波を使うのかっ!」
  拓也の周囲に集まっていた電波がぐらりと揺れた。
  浅水は咄嗟に防御のための電波を集めようとする。
  だが彼の技量では間に合わない。
  その次の瞬間起こったことを拓也は理解できなかった。
  目の前にいる少年が足を上げたかと思うと、二人の間を隔てる会議用の机が
拓也に向かって飛んできたのだ。
「なっ!」
  拓也は咄嗟に電波を止め、飛んでくる机に向けて右手を振り下ろした。
  べきっ!
  机が飛んでくる勢いとあいまって、机が真っ二つにへし折れる。
  続いて浅水が突っ込んでくることを予想して、拓也は防御の姿勢のまま、前
を見た。
  少年が黄金の双眸に光を宿らせ、変わらぬ位置から拓也を睨んでいる。
  その彼の手がすでに外された生徒会室の扉を片手で掴んでいる。
  それはつまり―――
「…………二人とも止めてください」
  水禍が一歩前に出る。
  ちょうど、浅水と拓也を隔てる位置に……
「水禍さん!」
  思わず浅水が叫ぶ。
  その位置に水禍がいては浅水は扉を投げられない。
  その機を拓也が見逃すはずも無かった。
  わずかとはいえ、電波を集め飛ばす!
  威力はそれほど関係ない。意表を突ければそれで良かった。
  しかし、水禍の悲しげな視線が拓也の顔を一撫でした瞬間……
  脳みそを素手で撫でられるような感覚が拓也を襲い、彼が集めていたはずの
電波がすべて、ほつれが解けた糸のように、バラバラになって消えた。
「……月島さん、どうしてそんなに痛がっているんですか?」
「痛い…?」
  水禍の問いに、おぞましい感覚を振り払いながら拓也は尋ね返した。
「……はい、月島さんの手、とても痛そうです」
  そう言われて、拓也は自分の拳を眺めた。
  血塗れの拳、血はすべて祐介のものだ。
「ふ、はははっ、これはボクの血じゃない。全部、そこの長瀬君のものだ」
「痛い、と、言ってます」
  そう呟いた女性の瞳を拓也は真正面から見つめてしまった。
  彼女の瞳は純粋に拓也を見つめていた。何の思惑も無く、拓也を見つめてい
た。
  瑠璃子に似ている。
  拓也も祐介と同じ感想を抱いた。

  ―――それはガラスの割れる音に似ていた。
  手の中で砕けるガラスの音に似ていた。
  この音は嫌いなのに。
  それでも聞こえるものは仕方が無い。
  だってそれは頭の中から聞こえてきたから……
  耳を塞いでも聞こえるのだ。どんなに大声を上げても聞こえるのだ。
  目の前で操り人形が踊っている。
  とても大きな操り人形だ。
  その周りでもパリン、パリンと音がしてる。
  嫌!
  私は両手を振った。
  その手に操り人形の糸が絡みつく。
  絡み取られる。
  糸の巻き付いた手から血が吹き出した。
  痛みは、無い。
  嫌!
  手を振りまわせば振り回すほど血が吹き出していく。
  それでも思いっきり手を引くと、ぷつんと糸が切れた。
  どさっ……
  同時に目の前で踊っていた人形が糸を失って、地に落ちた。
  糸を失った操り人形は死んでいた。
  だらりと手を広げ、目から血を流して、操り人形は死んでいた。
  糸の切れた操り人形は踊らない。踊らない操り人形は要らない。
  だからブロックを持ってきて、その人形に落とす。
  何度も、何度も、床が血で染まり、操り人形が潰れてしまうまで何度も、何
度も。
  ずき……
  痛み、胸の奥に針があるみたいだ。
  きっと人形のせいだ。
  またブロックを人形に落とす。
  ずき……
  またブロックを人形に落とす。
  ずき……
  またブロックを人形に落とす。
  ずき……
  またブロックを人形に落とす。
  ずき……
  またブロックを人形に落とす。
  ずき……
  またブロックを人形に落とす。
  ずき……
  人形がぺっちゃんこになり、もう人形じゃ無くなってがらくたになっても、
出っ張り目掛けてブロックを落とす。
  ブロックを落とす。
  ずき……
  ブロックを落とす。
  ずき……
  ブロックを落とす。
  ずき……
  ブロックを落とす。
  ずき……
  ブロックを落とす。
  ずき……
  ブロックを落とす。
  ずき……
  ブロックを落とす。
  ずき……
  ブロックを落とす………………
  でもどうしても痛みは消えなかった。

  拓也がはっとした時、浅水と水禍は既に祐介の側に移動していた。
  何秒間ほど惚けていたのか?
  まったく分からない。それに今のイメージは?
  ご丁寧に浅水は握り潰したドアの欠片を手に持っている。
  水禍はその後ろで拓也を真正面から見つめている。
「……帰って頂けませんか?  いずれこちらから伺うことになると思います」
  拓也はじっと目の前の女性を見た。
  容姿的に瑠璃子に似ているわけではない。むしろ、その表情。惚けたような、
何も考えていないような、その表情がよく似ているのだ。
  しかし、壊れた目をしているわけではない……
  その彼女の提案について拓也は考えた。
  状況は拓也に不利であった。それを逃がしてくれようというのだ。
  拓也はすぐに正しい結論を得た。
「……分かった。それじゃあ、君たちが準備を整えてくる時を待つことにしよ
う。準備を整えることができるのなら、ね」
  拓也はそう言うと、ふ、と、体から力を抜いた。
「長瀬君が起きたら伝えてくれ。次は殺す、と」
「……分かりました」
  その言葉を背に拓也は生徒会室を出た。
  ―――ボクはどうして安心したんだ?

  ―――続く。