・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第五話・思いやりと我が侭と・ 投稿者: 智波
校門に立ち、彼は懐かしき母校を眺めやる。
懐かしい、と言うのとは少し違う。なんとも表現しづらい妙な安心感にも似たその感情に、帰って来たのだと彼は思った。
暑く、熱気を孕んだ風が、埃を連れて彼の髪を揺らす。
この風は彼の心に良く似ていた。
渇き……、ざらつき……、擦れるような痛み……。
求めても得られることは決して無く、求めれば求めるだけ疵は広がっていく。
分かっていた。知っていた。
だからと言って、それを止められるわけではなく……
瑠璃子……
この場所に立って、校舎を見上げ……
そうしてみると、思ったよりは何の感慨も沸いてこない。
ここでいろいろなことがあったのは間違いが無いのだが……
ふと、彼は額に手を当てる。
ちり…………
幻が彼の脳を芯から焼く、――電波。
今それが彼の身に降りかかっているわけではない。
記憶に残る屈辱の味。
ギリ、と奥歯が噛み締められた。
長瀬祐介……
彼は心の中で憎しみの対象の名を呼んだ。
しかしその前にすることがある。


・結末の果てに―優しさの結末_第二章―第五話・
・思いやりと我が侭と・

「はあ、はあ、はあ……」
祐介は屋上で、コンクリートに手をついて、四つんばいという情けない格好のまま、息を整えている。
状況はさして良くない、というより最悪。
今、息を整えることさえ無駄なのではないかと思うくらいに。
祐介が水禍から聞いた話を元に考えるに、真奈美さんも瑠璃子さんと同じように攫われてしまったのだろう。
だからといってどうすれば良いのか……
浅水君に何と言えば良いのか……
そこまで考えて、自分が見た鬼が浅水であることを祐介は思い出す。
真奈美を助けようとして戦っていたあの鬼が浅水以外の何者でもないことは、祐介の目からすれば一目瞭然というやつ奴で―――
―――そして彼は撃たれた。
「……浅水君!」
祐介は這うように浅水に近づいていく。
彼の体はすでに鬼ではなく、人のそれに戻っている。
「分からない。でも死んだはずだ」
耕一さんは楓さんを覗き見る。
……コクン。
と、楓さんが肯く。
「じゃあ浅水君がもうああなることはないんですね」
「アルガルは死んだ。だったら大丈夫のはずだ」
祐介はその言葉を信じた。しかし信じるには少しばかり、誰も何も知らなかったと言う訳だ。
浅水君は撃たれた……、鬼の力が銃弾を弾くほどのものであったなら……。
祐介がそう願えたのは、銃弾の威力と、エルクゥの限界を知らなかったからであるが、しかし、今回に限りその願いはかなえられた。
うつ伏せにした浅水の腹に見えたのは、小さな痣。銃創ではない。
やはりエルクゥの力は銃弾すらものともしないと言うのか?
という、祐介の推測は外れていた。
彼はすぐ側に転がる潰れてひしゃげた小さなプラスチックに気がつかなかった。
とりあえずは……、そう、とりあえずはどうするべきかを考えるのが、今の祐介の仕事であり、過ぎ去ったことに思いを巡らせるのは、すべてが終わった後でいい。
「そうだ、水禍さん!」
よろよろと祐介が水禍の元に辿り着くと、彼女はスースーと寝息を立てていた。
眠っている……。
原因はさっきの幻影?
爆弾……
それを思い出し、祐介はぶるっと身震いする。
彼に快感を与えていたはずの力が彼に向いて行使された時、それは恐怖でしかなかった。理不尽な力。それが生み出すのは負の感情でしかない。
あんな物を心に抱えていたのか……
祐介は今更ながらに自分に恐怖した。
一番恐ろしいのは自分自身だ。
あんな物を楽しんで使っていた自分自身だ。
しかしそれは切り札でもあった。あの瞬間、瑠璃子さんが爆弾をくれなかったら、どうなっていただろう?
しかし、今はそんなことに思いを馳せる時ではなかった。
祐介の思考は目まぐるしく切り替わる。
今だ興奮が残っているのかもしれない。戦いの昂揚はそうは冷めないものだ。
軍隊……?
そう、自衛隊だったのだろうか?
祐介には自衛隊以外に日本でヘリを乗り回し、火器を持っていそうな組織を思い付かなかった。そしてそれはおおよそ正しい。
でも自衛隊がなんで?
施設……
不意にその言葉が思い出される。
施設……施設……
単純に施設と言うと普通それは孤児院を指して言う。水禍の言葉にもその匂いは含まれていた。
しかし、この場合は……
軍事施設?
日本において、一般人は自衛隊のことをあまりにも知らない。彼らが何処で、どんな活動を行っているかに始まり、政府の何処とどういう繋がりがあり、どういう指令系統によって、動いているのか。
祐介も例外ではない。
また自衛隊には役立たず的なイメージもある。
彼らが表に出て活動することが極めて低く、その一方で出てきたかと思ったら、その活動はたいてい軍隊というイメージからはかけ離れているからだ。(もっとも日本は自衛隊が軍隊であることを否定している)
祐介は一瞬浮かんだ自衛隊による超能力者の開発という可能性を振り払った。
そういう事を自衛隊がしているというイメージはまったく無い。
そういう事をしているとすれば何処かの大学の研究室というところだろう。
超常現象や、超能力を研究しているところもあるはずだ。
祐介はぶんぶんと頭を振った。
違う、考えるな! 考えるんじゃない!
考えれば考えるだけ思考の迷宮に迷い込むだけだ。
すべては仮定の域に過ぎない。
水禍が目覚めれば、全部明らかになるはずだった。
そうすれば瑠璃子さんを助けに行く事だってできる。
……できるのか?
もし軍隊を相手にしたとして、おまえは戦えるのか?
そしてそれ以上に……。
だから考えるんじゃない!
祐介はよろよろと立ち上がった。
差し当っては浅水に着せるものを手に入れなくてはならない。
僕の体操着でも仕方ないだろう。
「くっ!」
金網に手をついて膝を伸ばした祐介に昼休みの終了を告げる電子音が届いた。

月島瑠璃子は狭い、窓の無い部屋にいる。
奥行きは五歩も歩けず、その奥に壁に挟まれるようにベッドがある。幅は片方の壁に背をつけて手を伸ばせば指がつくくらいで、言わば部屋の大半をベッドが占めている計算になる。
瑠璃子が一人になることを許されているのは、この部屋の中だけだ。もっともこの部屋に二人入ることに少々無理があるといわねばなるまい。ここの外では常に監視がつけられる。彼女には自由が無い。
しかしそれに対し、不満な表情を見せるでもなく、瑠璃子はここには電波が無いことを悲しく思った。
だって窓が無いから。壁が分厚いから。
電波が届かないのだ。
どうすればいいか分からなかった。
それほどどうしたいとも思わなかったが、この不快な場所を好いてはいなかった。
瑠璃子が一つ不安に感じたことがある。
最後に見た兄の顔。
妙に落ち着いた、あの表情。
すぐに引き離され、何も言葉を交わすことはできなかったにせよ。瑠璃子は不安だった。それはあの狂気の兄が帰ってきた予感。しかし、電波を交わすこともできない。ここには電波が無い。
「長瀬ちゃん。また助けてくれるよね」
人知れず、いや、監視カメラと、盗聴機に囲まれながら、瑠璃子は小さく呟いた。とても大切な、とても優しい、とても、とても好きな人の名を。

「早退するからさ、先生に言っといてくれない?」
荷物をまとめて、級友の一人に祐介は言った。
級友? それほどの関係じゃない。単にお互い顔を知っているに過ぎない。
単に学生生活を味気ないものにする気はないから、友達と言うレッテルを貼っている。そちらの方が詰まらないかもしれないけど。
「サボりか?」
彼はそう言ってにやりと笑った。
まあ確かにサボりには違いない。
祐介は意味ありげに笑う。
「分かった。うまく言っといてやるよ」
物分かりの良い振り……、彼は決して祐介のためと思って協力するわけではない。悪事に荷担するようなその非日常を楽しんでいるのだろう。
祐介は軽く礼を言って教室を出た。実のところこれ以外に体操着を持ち出す口実が見つからなかったからなのだが、何も言わず、体操着だけ持って屋上に向かっても良かったかもしれない。
多分誰も何も聞かない。
そういうふうになっているのだ。
無意味な決まりごと……。
誰もがそれを利用しているのだろう。
祐介はそれについて何とも思わなかった。
別に良いじゃないか。
祐介自身もそれに依存しているのだから。
屋上の扉を開けると、浅水が目を覚ましていた。
屋上の金網に背を預け、立てた両膝に頭を埋めるようにしている。
「浅水君……」
それ以外にかけるべき言葉が見つからなくて、祐介は仕方なくそう呼びかけた。
「………祐介さん、僕は……」
浅水は顔を上げることもせずにそのまま言葉を紡ぎ、そして言葉に詰った。
「……分かってる」
「分かってる……って! 真奈美が攫われたんだ! 僕は何もできなかった!」
「でも浅水君は自分の鬼の制御に成功したんじゃないか」
かける言葉が間違っている、そんな予感に恐怖しながら祐介は尋ねた。
「違う! 制御なんて物じゃないんだ! だって、あれは僕自身なんだから」
「…………とりあえず服を着た方が良いよ。僕の体操服しかないけど、いいよね」
浅水は毒気を抜かれたように祐介を見上げて、そして肯いた。

「エルクゥか……」
硬い兵員輸送用の椅子に身を預けて、一佐は呟いた。
ホルダーから先程使った拳銃を抜き(ホルダーほど実戦で役に立たないものはないと一佐は思った)、弾倉を抜いた後で、スライドを引き、チェンバーから弾丸を弾き飛ばす。その弾丸を空中で掴み、一佐はその弾丸の先、つまり真の意味で弾丸を言える場所を軽く押した。
――柔らかい。
もちろん火薬を爆発させて発射するそれがゲル状であるわけも無く、一般的なプラスティック並の硬さはあるのだが、やっぱりそれはプラスティックでしかない。人の体を貫くには柔らかすぎる。
沈静用の弾丸であるから、殺傷能力は著しく低い。手で触れられる距離まで近づいて、目を狙って撃たなければ相手を殺せないので、殺人者の武器としては失格だ。
――しかし、我々は殺人者ではない。
一方でエルクゥと呼ばれる生物が人間であるかも疑わしいと言える。
やはり実弾も持っておくべきだっただろうか?
一佐はプラスティックの弾頭を弄りながら、深く息をついた。
もっともこのような事態になる可能性など、考慮されていなかったし、考慮することも不可能と言うものだろう。
もっともこれからは違う。
しかし我々は何を仮想敵としているのだろう?
一佐はその弾丸を弾倉に挿入し、それから弾倉を拳銃に込め直し、スライドを引いて、チェンバーに弾丸を挿入した。
一昔前までは仮想敵と言えばロシアや、中国であった。今は彼らのような超能力者や、エルクゥなどを敵と考えなくてはいけないのかもしれない。
施設の連中はそんなことは露程も考えちゃいないようだったが……
もし彼らが徒党を組めば……
その可能性は常に否定しきれない。
故に魔女は駆逐されたのだから。
我々は常に彼らに勝る力を手に入れていなくてはならない。
「……一佐」
何時の間にか部下の一人がすぐ側に立っていた。いや、近づいてきていることには気づいていたが、注意を払っていなかったのだ。
「女は?」
「薬を使いました。しばらくは目を覚まさないでしょう。一佐、このことを施設に」
「連絡する必要はない」
「……一佐」
「我々には切り札が必要なのだ」
――施設だけではなく、彼らに対抗するための切り札が。

祐介が水禍の体を抱き上げて、フェンスにもたれるようにする。
「彼女は?」
浅水の問いに祐介はどう答えるべきか迷った。
本当のことを言えば浅水が連中の居場所を聞き出し、一人であろうとそこに向かうことが分かっていたから。
「あいつらの敵だよ」
しかし、それでも祐介には浅水に嘘をつけなった。
それは祐介も同じ気持ちだったから。
僕だって、水禍さんから連中の居場所を聞き出して、そして瑠璃子さんのところに行くつもりだったじゃないか。
「敵って、真奈美を攫った奴等の?」
「ああ、あいつらはこの人を追ってきたんだ」
「奴等は何者なんですか!?」
「分からない」
「分からないって」
「僕もまだ何も聞いてないんだよ。今は彼女が目を覚ますのを待とう」
そう言われて、浅水はしぶしぶと黙った。
祐介には彼が本当は水禍を無理矢理起こしてでも真奈美の行き先を問いただしたがっているのは分かっていた。祐介自身も同じ気持ちだった。しかし、
「――――――!!」
「――――――!!」
二人は同時に顔を見合わせた。
校舎内の何処かで急速に電波が収束したのだ。

ここだ……
彼は静かにそう思った。
あの頃の狂気に裏付けられたジキルとしての自分ではなく、確実にここに存在する自分。真実の自分であるとか、本当の自分。心や、神を信じるわけではないが、まとまった意識として、少なくとも今狂気に裏付けられているわけではない。
『ここにいる自分』
それを知覚しつづけることは難しいだろう、と彼は思う。しかし、自覚しつづけなくてはいけない。そうでなければ、何かが壊れるのだから。
壊れるのも、壊すのもたくさんだ。
彼は思う。
創り出さねばならないのだと。
しかし、創造の前には破壊も必要だ。

ぴりぴりと周囲を駆け巡り消えていく電気の粒。
それらは一様にあることを命じていた。
祐介と浅水は水禍の側で彼女を含めた電波の防御幕を張る。
この期に及んで、浅水は電波が使えないという嘘を繰り返す必要も無かった。
―――忘れろ。
電波はそう命じている。繰り返し、繰り返し。
しかし、この程度の電波なら、二人で防御する必要も無い。むしろ問題は電波の対象が―――校舎全体に広がっているということ。そして祐介がこの電波に覚えがあるということだった。
「……月島さん、何故」
祐介は小さく呟くと、水禍を含めた大きな電波の防御壁を縮小した。
「祐介さん?」
「浅水君。君はここで水禍さんを守ってていてくれ。僕はこの電波を止めに行く」
浅水は深く肯いた。どちらにしてもどちらかが残らねばならない。電波使いとしての腕は明らかに祐介の方が上だ。だからそうすることは自然だった。
「浅水君、防御を強めにしておくんだ。いいね。絶対に気を抜かないこと」
それは戦いの予告。
浅水には肯くことしかできなかった。
校舎を包むのは記憶を失わせようとする電波。どんな記憶を奪う気なのか、全ての記憶なのか。祐介には分からない。
祐介はただ走った。
電波が何処から来ているのか、それは電波を逆探知するまでも無く分かる。
あそこだ。僕が決着をつけたはずのあそこだ。
学校内は一種異様な雰囲気に包まれている。
誰もが惚けたように立ち尽くし、その様はまるで蝋人形のようだ。ここは蝋人形の学校だ。
祐介はぶんぶんと頭を振った。
人は計り知れない深さをその内に持っている。他人の中に同じ物があることを人は忘れがちなだけなのだ。
もちろん祐介はそこまで考えていない。
祐介は今目の前の戦いに集中しようとしている。
どうしてこんな事をするんだ、月島さん!
そして瑠璃子さんはどうしたんだ!

ばんっ!
弾かれたように扉が開くのを拓也はパイプ椅子に座ったまま、眺めていた。
祐介の肩が上下している。
「遅かったじゃないか……」
「月島さん! どうしてこんなことをするんだ!」
どうして電波が使えるんだ?
瑠璃子さんは何処にいるんだ。
さっきの連中のことは知ってるのか?
聞きたいことは山ほどあった。けれど実際に紡がれたのは、その一言だった。
拓也は椅子に座ったまま、自分の手をじっと見詰めて動かない。
「君がやったことをもっと完璧にするのさ。長瀬祐介君」
「どうして僕の名前を!」
言ってから、祐介はそれが当然であることに気がついた。拓也に電波が使えるということは、祐介が削除したはずの記憶もまた削除されていなかったのだ。
「とにかく、今すぐこんな事は止めてください。そうでないと!」
「――今度はボクを壊すのかい?」
祐介は答えられなかった。
拓也は今だ緩やかに電波を放ちつづけている。
ざらついた、乾いた砂のような電波。
「――それとももう一回、ボクの記憶を奪うかい?」
「月島さん、あなたはどうしたいんだ!」
「この学校にいる全ての人間からボクと瑠璃子に関する記憶を奪うんだよ。この学校だけじゃない。ボクたちのことを知っている全員からその記憶を奪う」
「…………記憶を奪って、それでどうするんですか!?」
「ボクと瑠璃子だけで幸せになるんだよ。誰にも邪魔されずに、二人だけで、静かに暮すんだよ」
「………そんなのは間違ってる!」
「間違ってる? それはどうかな? ボク等を否定したのは、現代の日本のそれも限られた人間達だ。つまり道徳というものに正否をつけようとすること自体が間違いだとは思わないかい?」
「へ理屈だ!」
「理屈なんてみんなそうさ。自分でもなんとなく分かっているんじゃないのかい?」
拓也は一息ついて手を広げた。
「例えばこう考えてみなよ」
そして、その両手を軽く握る。
「ボクが一人で消えたとする。瑠璃子は君と幸せになる。こういうシナリオなら簡単に受け入れられるんじゃないのかい?」
そしてその手をゆっくりと開く。
「また君がボクのことも瑠璃子のことも全部忘れてしまえば、君は別に不幸じゃない。これも分かるだろ?」
分かりたくなかったが、祐介は拓也の言うことを理解しないわけにはいかなかった。
つまりは―――
「つまり、ボクと君は瑠璃子のことに関してはお互いに主張を違えるしかない。どちらかが引かない限りはね」
違う!
祐介は心の中で叫んだ。
僕は瑠璃子さんが幸せならそれでいいんだ。だからあの時瑠璃子さんから僕の記憶を奪った。僕に関する全ての記憶を……
「君は瑠璃子から記憶を奪おうとした。長瀬君、君自身に関する記憶のすべてを奪う――つもりだった。だが結論から言えば君はより瑠璃子に自分を印象づけようとしたに過ぎない。事実、瑠璃子は君に―――、君に惹かれている」
拓也の声は低く、落ち着いているように聞こえた。だがそれは違う。祐介は気付いただろうか? 彼の広げた手が小刻みに震えていることに。
拓也は耐えようとしていた。目の前にある現実に、愛する妹が目の前にいるこの男に惹かれているという現実を見つめようとした。そしてそれは最初から無理なことでもあった。それこそ彼が祐介に宣言したように、彼自身から、彼の妹に関する記憶をすべて奪わない限りは……
「だから、ボクは……、ボクは、君を殺さなければいけない」
その厳かなる宣言の次の瞬間に、学校中に分散していた電波がすべて拓也の元に収束した。
ごうっ!
強風が耳元を駆け抜けるような、本当なら聞こえるはずの無い、電波の音を祐介は聞いた。
「壊すだけじゃ駄目なんだ。君を完全にこの世から消し去って、そうしてようやくボクは瑠璃子と幸せになれるんだ」
狂気に取り付かれてるとしか思えないことを、拓也は淡々と語る。
そしてゆっくりとその顔を祐介に向かって上げた。
その瞬間祐介を襲った衝撃をなんと表現すればいいのか?
とにかく、祐介は何も言葉を発することができなかった。
自分を一瞬で壊すことのできるだろう電波の渦を前に防御のための電波を集めることさえ忘れていた。
それはつまり――
――――――月島拓也は壊れた目をしていなかった。
「安心していい。君の記憶もみんなから奪っておいたから。もう誰も君のことは知らないんだよ。だから―――」
拓也がゆっくりとパイプ椅子から立ちあがった。
瞬間弾かれたように、祐介の周りに電波が集まる。
しかし、それを知覚しながらも拓也は穏やかに最後の宣告を口にした。
「死んでくれないか? 長瀬君」

浅水はぶるっと震えた。
校舎全体を覆う電波が消えて、数秒が過ぎた。
消えたというのが間違いであることを浅水は知っていた。
集まったのだ。
校舎内の文化系クラブの部室のある辺りに。
今なら祐介さんの加勢に向かえる。そうも思ったが、電波の力の恐ろしさは彼自身がよく分かっている。一瞬の後には学校どころか、この町全体の人間を強烈な電波の渦で破壊し尽くすことも可能だろう。
そうなった時にせめて水禍だけでも助けるために浅水はここにいるのだ。
そして浅水は水禍を助けることが、今唯一の真奈美を助け出すための鍵だと知っていた。
そしてその鍵は夢を見ている。

『―――は私たちを不幸にするために生まれてきたのよ!』
ヒステリックな声。
キンキンと耳に響いて嫌い。
だから聞こえないことにする。だって聞こえないなら恐くない。嫌でもない。
『――――――』
あ、誰かが返事した。
でも聞こえない。男の人の声。
私はこの声も大嫌い。だって、優しい言葉をかけてくれても、なにもしてくれない。
そんな声。
――がちゃん!
何かが割れる音、きっとお皿が割れたのだろう。
私はこの音も嫌い。
壊れてしまうと、元には戻せないから、大事なものが壊れるのは嫌だから。
だから何かが壊れる音を聞くのも嫌い。

ああ、誰かが私を見下ろしている。
どうしてだろう? とても脅えた瞳を私に向ける。
『―――て知ってるの?』
あ、言葉が聞き取れない。
だって私の嫌いなキンキン声だから。あんな声を聞いてたらきっと鼓膜が壊れてしまう。
『―――なさいよ!』
痛い。頭が痛い。
あんな声を大声で叫ぶから、音波が鼓膜を突き抜けて、直接私の脳を叩く。
『―――!』
彼女が右手を振り上げる。
あ、叩かれる。
叩かれるのは嫌だ。だって痛いもの。痛いのは嫌。体が痛いのも、心が痛いのも嫌い。
それにしても大きな人だな。
私の二倍くらいは大きそうだ。もっと大きいかもしれないけど。
だからきっと手の平も二倍ぐらい大きいに違いない。
叩かれたらきっと痛いだろうな。
『―――!!』
あ、また叫んだ。でも今度は頭が痛くない。
キンキン声じゃなかったから?
ううん、違う。叫んだのに、声が出なかったんだ。
だから私が聞いたのは、彼女の心の声に違いない。
『―――!』
あ、どうやら叩かれなくてもいいみたいだ。
――だって、彼女は手を降ろしたから。

――箱船は空間に揺らいでいた。
――揺らぎの理由はそもそも、向かうべき所が分からないためであり、
――その不安こそが箱船の揺らぎであった。
――しかし船はやがて港を見つけるだろう。
――港とまではいかなくても、かならず陸を見出すだろう。
――その船の乗務員達は一刻も早く、陸の影が見えることを望んでいた。
――そしてそれはまもなく現実のものとなる。

―――続く。