EBC(5) 投稿者:助蔵間栖久 投稿日:1月1日(火)18時49分
 熱気。
 呼気。
 汗の匂い。
 サンドバックを殴る乾いた音。
 ぎしぎしと軋む音を立てる器具。
 シューズが床と擦れ合う音。
 ぶつかり、絡み合う肉体。
 …ある有名なジムの、毎日繰り返されている光景であった。
 “総合系”と呼ばれる、格闘技のトレーニングジムである。
 その日、ジムの中心に設置されているリングの上には二人の女の姿があった。
 一人はショートカットの青髪の女―――松原葵だった。
 もう一人はヘッドギアをつけていた。
「よーし、そこまでだ松原」
 太く、そして低い声。
 その声と供に、葵は振り上げた拳をぴたりと止めた。
 葵が上になり、相手が下になっている。
 ただ、馬乗りになっているわけではなく、相手の足が葵の腰に巻きついていて、葵の身体をある程度
コントロールできるような体勢だった。
 いわゆるガードポジションである。
 相手の胴体に馬乗りになる、マウントポジション。
 上にいる者が圧倒的に有利になるこのポジションを取らせないために、下になる者が取るのがこの体
勢だ。
 足を相手の腰に絡ませる事で、相手が自分の胴体の上へと移動するのを防ぐ。
 マウントポジションより、相手との距離ができるので、上からのパンチにも対応する事ができる。
 腕などを取られて関節を極められる事も少なく出来る。

 葵は立ち上がると、同じく立ち上がったスパーリングの相手にぺこりと頭を下げ、声のした方を向く。
 そこには一人の男が立っていた。
 大きい男だった。
 金色に染めた頭髪。
 190cmはあるであろう身長。
 バレーボールの幅ほどもある太い首。
 Tシャツ越しにはっきりと見える、厚い筋肉。
 そしてその体格に見合う空気を、その男は持ち合わせていた。
「まー、今日のところはここまでだな」
 リングの横で、葵のスパーリングを見ていた男はそう言い、タオルを葵に向かって投げた。
 葵はそれを受け取ると、今度は男に頭を下げた。
 幾つかの汗がリングに滴り落ちる。
 「ありがとうございます」と言って、葵はそのタオルで汗を拭いた。
「あれだな…結構よかったぞ、タックル」
「はい」
「他にも色々あるけどな…それはまた後だ。取りあえず今日はもうあがれよ、松原」
「はい、ありがとうございます!」
「おう」
 葵はもう一度男に頭を下げると、走って更衣室へと向かって行った。
 その姿を男は見つめていた。
 何処か遠くを見ているような顔だった。




 ―――三ヶ月ほど前のことである。

「あ? MMA(Mixed Martial Art 総合格闘技の意)方式の練習を加えたい?」
「はい。ですから、宇治田(うじた)さんに少しの間私の練習を見てもらいたいんです!」
 練習後、掃除も終わった後で葵はジムのトレーナーの一人である、宇治田克之(うじた かつゆき)
にそう切り出した。

 宇治田克之。
 190cm以上の長身という、日本人離れした体格を持つ。
 高校生の時にアマチュアレスリングを始め、高校三年間で国体で二連続全国優勝を果たす。
 大学時代はレスリング学生選手権のフリースタイルの部で三連覇を達成。
 大学卒業後、プロレス道場の看板を叩き、プロレスラーとなるが、その後、時のPRIDEなどの
プロ総合格闘技リングに乗り込み、そのパワーとアマレスの技術に裏打ちされたグラウンドテクニック
で、数々の世界の強豪と闘い、実質、無敗だった男である。
 しかし、世界に通用するヘビー級の若き日本人格闘家、として期待されていた彼に不運は訪れる。
 30歳の時に、ある事件によって右足のアキレス腱を完全に断裂。
 復帰が出来ない訳ではなかったが、第一線で闘うことは絶望的となった。
 …結局、彼は復帰する事を諦め、後進の育成という舞台に、31歳の若さで上がった。
 初めは戸惑ったり、色々考え込んだりもしてみたが、何年かやっているうちに次第とこういうのも
いいかもな、と思うようになっていた。
 その彼に、葵が自分のトレーナーについてくれと頼んだのだ。

「どうしてまた急に? 松原はエクストリーマーじゃなかったか? MMAとエクストリームは結構
 ルールが違うことくらい知ってるだろ? その練習して意味は無いってことは無いだろうけどよ…
 エクストリーム専門の練習した方がいいんじゃないか?」
「はい。だけど…その…」
「?」
「今度…大切な大会があるんです。それには、エクストリームのルールに適った戦法だけでは勝てな
 いんです。もっと多くの…技術が必要なんです」
「大会?」
「はい。…その、とても失礼だと思いますし、申し訳ないことだとも思いますけど、大会の詳細は今
 は明かせません」
「言えない?」
「……というより、よく知らされてません」
「何だぁ? ルールもわかんねーのか? そんなんじゃメニューの組み立てなんか出来ねぇよ」
「…すみません。だけど、お願いしますっ!」
 がばっ、と額が膝につきそうな勢いで頭を下げる。
 克之は溜め息をついた。
 克之は、葵のことはあまり知らない。MMAの技術指南をしていて、エクストリーム専門の練習を
していた葵とはあまり接点と言う接点は無かったのだ。
 ただ、葵のことはジムでの練習の様子を見ていて、何となく素直なんだなとか思っていた。
 言われたことは言う通りにする。
 言われたことをその通りに実践する。
 それ自体は好感を持てる。
 ただ…何というのだろうか。
 あまりにも“素直すぎる”ような気もしていた。
 例えそのやり方に疑問を感じたとしても、それを口に出すことは出来ないのではないだろうか?
 …そんな押しに弱いような雰囲気を感じさせる。
 ジムの先輩に掃除などの雑用を頼み込まれて、それをいつも引き受けているところとか…。
 ―――何つーか…キレイ過ぎるんだよな…。
「…………」
 そんな葵が強引に頼み込んでいる。
 克之にとって、初めて見る葵の強引さだった。
「…そんなに出たい大会なのか?」
「はい」
「どうして?」
「強くなりたいからです」
 葵はそうはっきりと言い切った。
「……強くなりたい、か」
「?」
「ふふ、いやぁな。…なつかしいなぁとか思っちまってよ」
「え?」
「いや、何でもねぇ。んで、どうする?」
「どうするって…」
「俺と一緒に、練習してみるかって言ってるんだよ」
 ポカンとした葵に、克之はそのごつい顔でにやりと笑って見せた。




 練習後、葵と克之は、ある居酒屋にいた。
 克之が現役時代からよく行っている店で、何だか古ぼけた…それでいて温かみのある店である。
 各種の日本酒の匂いと焼き物の香ばしい匂いが溢れ、食欲をそそる。
 二人はカウンターに腰掛けて、克之は日本酒を、葵は焼き鳥を頬張っていた。
「どうだよ松原…最近」
「ぇ?」
 突然話し掛けられ、葵は慌てて口の中に入れている物を飲み込んだ。
 ふぅ…と一息入れる。
「何がですか?」
「いや…何つーかな…最近、頑張ってるだろ」
「はい…?」
 克之は葵の方を見てはいない。
 カウンターに片肘をつき、その手にあるコップを眺めている。
「お前見てるとなぁ…なつかしくなってな」
「なつかしい…ですか?」
「おう」
「…………」
「……松原。お前“プロレスラーは本当は強いんです”って言葉を知ってるか?」
「プロレスラーは本当は強い…ですか?」
「おう。俺はな、それ信じてプロレスラーになったんだよ」
「…………」
 唐突にそんな話を始めた克之に、葵は何故かおろおろしてしまう。
 克之は続ける。
「松原、お前はプロレスラーは強いと思うか?」
「え…? その…弱くは無いと思います」
「…それじゃ何だか、大した事無いって言ってるようにも聞こえるなぁ」
「そ、そんなつもりじゃ…!」
 慌てる葵を見て、克之は少し笑う。

「ま…弱いわきゃねーんだけどよ。毎日毎日何千回も腕立て、腹筋、スクワットやってりゃ、基
 礎体力は恐ろしいもんになる。プロレス道場の練習にはそこらの大学のアメフト部の連中なん
 ざ、誰もついてこれやしねぇ。それだけの練習をこなしてんだよ」
「でもな、今で言う総合のリングで勝てるかっていうと…そうじゃねぇんだ。大抵のプロレスラー
 は負けちまう。成績を残したレスラーってのは僅かだ」
「それはどうしてかっつーと…変わっちまったんだろうなぁ、とか思う」
「変わってしまった?」
「おう」
 克之はそう答えると、日本酒をぐいと呷った。
 ふ〜、と大きく息をつくと、店の主人に焼き物の追加を注文する。
 そしてまた、葵の方を見ずに話し始めた。
「求める物が変わっちまったんだろう。俺がいた団体では毎日相手の手足を取り合って、くんず
 ほぐれつするなんていう、サブミッションレスリングなんて練習はなかったし、試合でもいわ
 ゆる“真剣勝負”なんてものは一試合も無かったように思える。ま、真剣勝負については昔か
 らあるもんじゃなかったんだろうが…」
「さっき言った基礎体力作りの練習だって“説得力”のある身体を作るためのもんでしかねぇ。
 だから、説得力さえあればいいってんでステロイドなんてもんが使われてたりする。そんなの
 を見てる内にわかったんだよなぁ…ああ、違うなって」
「違う…?」
「何て言うかなぁ…そういう“真剣勝負”の強さを求めちゃいないんだよ。いや、求めちゃいな
 いわけじゃないんだろうが…いかんせん、プロレスはショー的な部分を重視するようになっち
 まった。真剣勝負で勝てないプロレスラーはプロレスラー失格なんて言葉は…遠い昔のモンさ。
 当たり前のようにプロレスラーは、真剣勝負じゃ勝てない」
「…それが現実だったんだよなぁ。そりゃ、中には真剣勝負でも強いプロレスラーだっている。
 だけど、それは特別に総合の練習をやっているからであって、実際にプロレスだけやってる訳
 じゃねぇ。…出て行くプロレスラーがことごとく負けてくのを見て、俺はわかったのかもな、
 俺がやりたいのは…違うなって。今のプロレスラーじゃないなって」
「俺は強くなりたかった。誰にも負けないレスラーになりたかった。だけどな、プロレスってのは
 必ずしも強い奴が勝てる場所じゃねぇ。レスリングスタイルの、堅い俺の試合じゃファンの共感
 を呼ぶことは出来ねぇし、ファンの共感ナシにはプロレスで最強になることは出来ない。…つら
 かったな。わかってたけど、我慢ならなかった」

 プロレスは勝ち負けが決まっている…と、そういう人もいる。
 少なくとも、デビュー直後の選手がプロレス界での大物に勝つことなどほぼ皆無である。
 強さを追い求めてプロレスラーになった克之を待っていたのは、前座生活、噛ませ犬の生活…。
 自分が弱くて負けるのは構わない。
 だが、克之が負けていた相手は、そうではない選手ばかりだった。
 本当は自分の方が強い。
 真剣勝負では自分の方が強い。
 そんなことが嫌われる世界であると、通じない世界であると知っていたが、それでも克之は耐え
ることはできなかった。
 強さを追い求めていたから、耐えられなかった。
 
「それで、宇治田さんはプロレスを止めたんですか?」
「ああ。辞表届け出して終いだ」
「それからどうしたんですか?」
 葵はアルバイトをしてはいるのだが、それでも月々の生活費の半分ほどは両親に頼っていた。
 しかし、克之にはそれもなかったことであろう。
「やっぱり…強くなりたかったんだな。俺は総合系のジムで無茶苦茶に練習し続けた。その甲斐
 あってか、総合のアマチュア大会で良い成績を残せてな…そのままプロのリングさ」
 その後の克之の活躍は、葵もよく知っている。
 世界に通用するヘビー級の日本人最強の格闘家。
 その称号を、克之は手にしたのだ。
「それって凄いことですよね…!」
「…そう…だったんだろうがなぁ。何でだろうなぁ」
「?」
 何故か少し苦い顔をした克之を、葵は不思議に思った。
 強さを求めていた克之が輝けた場所。
 それが総合の場所だったはずだ。 
 なのに…。
「…俺はよ、松原。長くやりたいとは思わなかったんだよ」
「え?」
 突然、そう言われ、葵は何のことだかわからなかった。
「…勝って、名前が知られるようになってくるとよ、面倒くせぇことがゴロゴロと出てきやがる。
 名声に伴って、金、そのための保身…そんなもんが絡んで来るんだ。プロってのはな。俺は…
 とにかく強い奴とやりたかった。未来(さき)のことなんて…保身なんてどうだって良かった
 んだよ。闘えればよかった」
「プロになって何年か経った時、俺は一回負けた試合がある。レフェリーストップだった。俺は
 まだ闘えた。闘えると思った。ちゃんと自分の両の足で立ってた。だけど、止められた。控え
 室でセコンドの奴らに訊いたよ。納得いかない、俺はまだやれたよな、って。そしたら何て答
 えたと思う?」
「…………」
「今後の格闘生命を考えろ、これが最後じゃない…ってな」
「それは…」
「当然のことなんだろう。“商品”としても、一人の格闘家としても俺にとって賢明な判断を奴
 らは下してくれたんだと思う。だけど…それは違うんだよ。俺は先のことを考えて闘ってるん
 じゃないんだ。先のことを考えて負けるなんて真っ平ゴメンだったんだよ」
 ぐぐ、と克之のコップを持つ手に力が篭められた。
 しかし、それもすぐに無くなった。
 克之は、初めて葵の方を見る。
「俺はよ、長くやりたいとは思ってなかった。光れる時間が短くたっていいんだ。短くても、太
 く、詰まった時間を生きられればそれでよかった」
「…………」
「俺は馬鹿で、ワガママだったんだよ。ま…結局、そのせいでアキレス腱切っちまったようなも
 んだがな」
 そう言って、にぃと笑った。

「だからよ、松原。お前のいつもの練習を見てると、そういう昔の気持ちを思い出すんだ」
「私の練習ですか?」
「おうよ。ただ強くなりたいっていうその一心で、動き続けてるお前の姿にな」
「…………」
「他に何の利益も求めていない。欲しいのは強さ。そんな…お前にだ」
「…そうなんですか」
「おう」
 その時、克之はもう葵の方を見てはいなかった。
 ただ、空になったコップを見つめていた。

 


 店を出た後、二人は並んで夜の街を歩いていた。
 少し離れた街からジムに来ている葵を、克之が駅までおくると言ったからだった。

「今日はありがとうございました。それに、ご馳走までしていただいて…」 
「いいって。明後日への景気付けだ」
「明後日…」
「試合の日だろ?」
「あ…そうでした」
「おいおい…」
 そんな葵に、克之は苦笑するしかない。
「そっか…。もう、二日後なんだ…」
「だな…」
「この三ヶ月間の練習…あっという間でした」
「それだけ充実してたんだろ」
「はい」
「…………」
「…私、頑張ります! 宇治田さんと練習してきたことを精一杯出せるように頑張ります!」
「頑張れよ。俺は当日セコンドにつくことは出来ないだろうが…だけど、お前は強いからな」
「私は…強い」
「おう。お前は強い。一人でだってやれる」
「…はい!」
「よし、いい返事だ」


 二日後…。
 EBCはすぐそこまで来ていた。


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 …狂ったように格闘技のビデオ観てた助蔵間栖久です。
 前からひどく間が開いたのはそのためだということにしておいてください(涙)
 話はこれから、EBCの本編へと向かっていきます。