EBC(3) 投稿者:助蔵間栖久 投稿日:12月2日(日)03時40分
 郷野 忍(ごうの しのぶ)は以前から目の前の女―――神岸あかりのことが気に食わなかった。
 忍は中学生の時に柔道を始めた。
 それから10年以上柔道をやり続けて、今では柔道3段である。
 郷野は誇りを持っていた。
 柔道をここまで続けて来れた事。
 きつい練習に耐え、ここまで来れた事。
 そして、柔道という素晴らしい競技に誇りを持っていた。
 だからこそ、目の前の女が気に食わなかった。

 神岸あかり。
 半年ほど前に、郷野が通っている柔道の道場に入門してきた女である。
 郷野の感じた第一印象は“鋭い”だった。
 細い体型をしていたということもある。
 だが、細いと感じずに鋭いと感じたのは、その肉体が発する雰囲気に“そういうモノ”があった
からであった。
 同じ格闘技者―――肉体を鍛え上げた者だけが持つ、独特の圧力をその肉体は持っていた。
 事実、あかりはこの道場にまでに何かやっていたらしかった。
 何をやっていたのか、郷野も詳しくは知らない。

 郷野があかりを嫌う理由。
 それは彼女の態度にある。
 礼法、というべきだろうか。
 郷野から言わせてもらえば、それがなっていない。
 あかりは強い、と郷野は思う。
 僅か二ヶ月ほどで、この道場では同じ階級にあたる相手はいなくなってしまったほどだ。
 異常とも言える成長だった。
 そして、それでいて“まだ何かある”ように思えるのだ。
 そこが気に入らなかった。
 郷野は、闘いとは全力で挑む物だと考えている。
 たとえ大きく実力が離れているとしても、それが郷野が学んできた柔道の礼法だからだ。
 学んできた闘いの礼法だからだ。
 郷野は、あかりの乱取りを何度も見たことがある。
 その全てにおいて、あかりが手を抜いているように見えた。
 相手の攻めは適当にスカし、その攻めの隙をついて反撃する。
 それ自体はなんとも思わない。
 一つの戦法だとも思うし、それが出来るということは決して悪い事ではないと思う。
 ただ…それは違うのだ。
 あくまで郷野の“勘”なのだが、神岸あかりはそれ以上の―――そんな闘い方をしなくとも、軽く
それらの相手をねじ伏せる事のできる実力を持っているように思えるのだ。
 それが、あかりが出さないでいる“何か”なのだ。

 そしてこの日、郷野はあかりに問い詰めた。
 どうして“本気”でやらないのか、と。
 あかりはつまらなそうに溜め息を漏らして答えた。
「だって…ここじゃ本気出すまでも無いし…」
 ぼそり、と呟くように言った。
「……何だって?」
 そう言って立ち去ろうとする、あかりを郷野は呼び止めた。
「どういう意味よ!? それはっ!!」
 道場中の門下生が郷野の方を振り返るほどに、その声は大きかった。
 あかりだけがそれを無視して、歩いていった。
「待てっ!!」
 郷野は思わず、背後からあかりの襟を掴む。
 瞬間、あかりは異様な反応速度でその手を振り解き、郷野と正面に向かい合っていた。
 その瞳に…あの鋭さが加わっていた。
 細められた目は、冷たさを感じさせる。
「……何?」
「あんたのさっきの言葉…あれは“この道場じゃもう自分の敵はいない”って意味か?」
「…そう取ってくれてもいいよ?」
 虚勢でも何でもない、本当にそう思っている口調だった。
「へぇ……!」
 ぎゅぅっ、と郷野は固く拳を握った。
 だが、それで殴ったりはしない。
 自分は柔道家だからだ。
「なら、今からやってみるか?」
 そう言って構えを取った。
 ざわっ、と道場の中が騒がしくなる。
 郷野は道場の中では一番強い、と言っていい。
 その彼女が体重、身長ともに大きく差のあるあかりに対して勝負を挑んだのだ。
「…………」
 あかりは無言だ。
 郷野を目を細めて見つめている。
 郷野はその視線に気付き、あかりを睨んだ。
 すると、あかりは目を逸らして畳の上に引いてある白線の上に立った。
 そして顎で、目の前にある赤線を示す。 
 赤線の上に立て、と郷野に言っているのだ。
 さっさと闘ろう、という意思表示だった。 




 …郷野とあかりが今こうして向き合っているのは、こういうことがあったからだった。

「はじめぃっ!!」

 その声と同時に、郷野は一気に前に出た。
 あかりの袖を、襟を取ろうとする。
 あかりは下がって、それを避ける。
 郷野が更に前へと出る。
 あかりは円を描くように移動してそれを避けていく。
 場外に追い詰められるギリギリのところで、うまく
 あかりを追う。
 組み付こうとする。
 あかりはそれをことごとくスカしていく。
 ―――どういうつもりだ!?
 郷野はあかりの動きにじれったさを覚えていた。
 あかりの動きは、消極的と見なされ、注意されてしまうような動きだった。
 勝ちに来ている動きではなかった。
 ―――あれだけのことを言って…!? 何だこれは!?
 怒りが沸々と湧き上がってきていた。
 あかりは、郷野にとっては柔道を侮辱したことを言ったのだ。
 “柔道はその程度”とでもいうようなことを言ったのだ。
 ―――それなのに…何だこれは!?
 ―――まるで私にビビっているような動きじゃないか!?
「がああっ!!」
「!?」
 あかりが下がろうとする前に、一瞬早く郷野の手があかりの袖と襟を掴んだ。
 あかりが計算していたよりも、僅かに郷野の詰めるスピードが速かったのだ。
 右袖を取った左腕をやや上気味に引き、あかりの身体を崩し、同時に右脚を踏み込む。
 続けて、腕を上げさせて開いた右脇に、襟を掴んでいる右腕の肘を入れるようにしながら身体を180°
回転させ、背に乗せるようにして投げる。
 背負い投げ。
 相手の身体の崩しから、技へ入るまでの間隔が非常に短い。
 長い間、繰り返し練習した者だけが出来る業だった。
「おおう!」
 そのまま畳の上に投げつければ、間違いなく一本勝ちが取れるものだった。
 しかし、あかりの身体は宙に放り出されることは無かった。
 投げられる寸前に、自分の足を背後から郷野の右足に絡ませていた。
 自らのとあかりの体重が掛かった郷野の足に、嫌な方向へと力が加わった。
 ―――河津掛け!?
 柔道の四つの禁止技の一つだ。
 相手が投げを放つ際に、背後から足を絡めて投げを妨げるという、簡単なようにも思える技だが、膝関節
を破壊するようなこともある、危険な技である。
 現在の柔道では警告以上の罰則が与えられる技だ。
「ぐあっ!」
 堪らず、郷野は前へ倒れこんだ。
 背にあかりが馬乗りになっているような状態になっていた。
 郷野は腕、足、頭を引っ込め、身体を丸めるいわゆる“亀”の状態になる。
 この状態ならば固め技などを凌ぐ事が出来る。
 だが、あかりは馬乗りの状態から強引に首に腕を回していく。
 右腕を相手の肩と首の隙間からねじ込み、その手を左手と結手(クラッチ)させる。
 同時に足を相手の脇腹に滑り込ませ、絡ませる。
 ―――速い!
「ごあっ!」
 声にならない声が漏れた。
 裸絞め。
 チョークスリーパーとも呼ばれるこの技は、気管を直接腕で圧迫する技である。
 脳への酸素供給を断つこの技は、その状態を続ければ相手は気絶―――いわゆる落ちる事になる。
「待てっ! 神岸っ!!?」
 主審の、あかりを静止する声が飛ぶ。
 先程の河津掛けのことだ。
「…………」
 だが、あかりはそれを黙殺した。
「神岸っ!!」
 そのまま絞め続けようとするあかりと必死に耐える郷野の間に主審が割って入る。
 これ以上主審を無視すれば、失格となりかねないので、あかりは渋々郷野の首から腕を放した。
 両者を立たせ、そしてあかりに警告が言い渡される。
 柔道は技有り二つで一本勝ちとなるが、警告は相手に一つの技有りを与える事と同じである。
「神岸…!」
 主審が困惑と、少々の怒りの混じった顔であかりを見る。
 あかりはそんな主審に一瞥もくれずに、白線へと戻った。

 郷野は右膝に嫌な痛みを感じていたが、棄権はしなかった。
 ここであかりの前で退いたら…自分の信じてきた柔道(もの)が崩れてしまいそうだったのだ。
 それに、あかりへの怒りも頂点に達していた。
 今更退く気も無かった。
「はじめぃっ!!」
 今度は、郷野は慎重に攻めるつもりだった。
 膝に痛みがあるので、うまく足を使えないということもある。
 だが、今度はあかりの方が前へ詰めて来た。
 あっという間に二人の距離はなくなっていた。
「くっ!?」
 あかりは、巧く郷野と組み合った。
 郷野も、あかりの襟を掴もうとした。
 その時だった。
 突然、郷野の頭に衝撃が走った。
 郷野にはそれが何なのかはわからなかった。
 ただ、視界がぐらりと揺れた。

「………!」
 それを見ていた主審は、言葉を失った。
 あかりは襟を引いたり押したりする崩しの動作に乗じて、郷野にフックを見舞ったのだ。
 襟首が乱れていたとは言え、襟を掴んだままのフックだったので、重さは本物のフックに比べれ
ば乗っていなかったかもしれないが、それでも、あかりの放ったフックはモロに顎を直撃していた。
 ボクシングで言う、ジョーと呼ばれる急所だった。
 そこを打たれれば、脳が揺れる。
 脳震盪を起こすのだ。
 主審は、この乱取りを止めるか否かを迷った。
 今のフックは故意であれば明らかに反則行為である。
 だが、故意であるという確証はない。
 故意なのかどうかが、わからなかった。
 それほどまでに、あかりが“巧い”打ち方をしたのだ。
 
 あかりは今まで襟を掴んでいた手とは逆の手で襟を取っていた。
 いわゆる逆襟である。
 ぐらついた郷野の身体を軽く押し、そして思い切り引いた。
 その時には、あかりの左足が郷野の右腕を跨ぐように跳ね上がっていた。
 飛びつき十字固め。
 柔道に似た、ロシアの国技でもある格闘技、サンボの技である。
 立ったままの状態から相手に飛びつき、相手を倒した時には柔道の関節技である腕拉ぎ十字固め
を極めているという技だ。
 名前は飛びつきだが、飛びつくというよりはぶら下がる感じに近い。
 相手の襟を掴んだまま、跳び、ぶら下がるように相手を前に引き倒す。
 その際の勢いに乗じて、足で相手の頭を刈り、腕をとって十字固めの形に持っていく。
 どっ。
 あかりの身体が背中から落ちて、音を立てる。
 下は畳なので、ダメージは全くと言っていいほどない。
 倒れこんだ時には、あかりの股関が郷野の右腕の付け根辺りを挟み、両腕で抱え込むように右腕を
取っていた。
 頭はあかりの左足に押さえつけられている。
「くあっ!!」
 完璧に腕拉ぎ十字固めが極まっていた。
 この技は腕が完全に伸びきってしまえば逃れる事はできないと言っていい。
 後は梃子の原理で…肘関節が破壊されるだけだ。
「神岸っ!! そこまでだっ!!」
 主審が叫ぶ。
 関節技が完全に極まっているので、続行不可能と判断したためだ。
「…………」
 だが、あかりは腕を放さない。
 更に
「神岸っ!!」
「っ!!」
 郷野の顔が真っ青な物に変わっていく。
 玉のような汗が顔中に浮かんでいた。
 郷野は今、腕の中に一本の線が入ったような気がしていた。
 そして、その線が徐々に徐々に伸ばされていくのである。
 極限まで引き伸ばされた線は…やがて中心辺りから切れ始める。
 ぴち、ぴち、とその線は細くなって行き、そして―――

 びきっ。

「っっ!!!?」
「神岸ぃぃっっ!!!」

 主審の叫び声に混じって、郷野の右腕の肘関節が破壊される音をあかりは聞いていた。
 ふ〜ん、とでも言いたそうな、つまらなそうな顔だった。
 ただ、目だけは鋭かった。
 寒気がするような冷たさが、その瞳にあった。





 その後、あかりは道場を出てきた。
 破門にさせられたのだ。
 別に構わなかった。
 柔道自体はこの半年間で十分学んだと思っている。
 それに…柔道よりも、もっと楽しめそうな“場所”をあかりは既に見つけていた。

「EBC、か―――」
 
 期待感に胸を躍らせ、あかりは一人、笑った。
 やはり、冷ややかな笑みだった。



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 あー、この話。
 ちなみにToHeart本編から6年後っていう設定です。

 話は変わりますが…。
 実は、柔道のIHで2連覇したっていう、ええ? 嘘だろ?みたいな人が知り合いにいます。
 最近、その人に柔道をちょこっと習ってみてるんですが…。
 いやはや、やっぱすげーなー、とか思いました。
 今回は身をもって体験した事も参考にしつつ書いてみたり。




 最後に、無口の人さん、感想ありがとうございました。
 あかりは…反則系プッツン女みたくなってますが、今後、その辺も明かしていく予定っス。
 何時になるかはわかりませんが(汗笑)