キン肉マン・マルチ 第二章(15) 投稿者:助造 投稿日:7月28日(土)02時05分
 前回までのあらすじ

 東鳩超人選手権三位決定戦も終盤。
 圧倒的な琴音の力の前にも屈せず、立ち上がり続ける智子。
 しかし、それを幾度も叩き伏せる琴音。

 …今回は琴音の昔話だけです。

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     キン肉マン・マルチ 第二章 東鳩超人選手権編 第十五話




 恐怖。
 困惑。
 絶望。
 悲しみ。
 苦しみ。
 裏切り。

 負の感情―――とでも言うのが一番しっくり来るのだろうか。それらの状態を表
す言葉は幾つもあるが、その時の琴音の心情を表してくれる言葉は何処を探しても
見つからない。敢えて言うならば、それらのどれにも当てはまり、それでいて“負”
の濃度がそのどれよりも濃く、深い。
 その色は、おそらく雨を降らせ続けているこの雲の色のようなものだろうか。
 鈍色で暗く、濁っている。
 先が見えない不透明。
 今、琴音の心はそのような色に染まっているのかもしれない。


 絶え間なく降り注ぐ雨の音。
 時折、雷光と共に響く轟音。
 それに混じって聞こえてくるのは、肉が肉を打つ音だった。

 それは一発の拳打から始まった。
 それは今まで琴音が受けてきたもので一番重く、一番痛い一撃。
 そしてその『一番』が次々と更新されていく。
 蹴りが思い切り臀部を叩いた時。
 拳が思い切り顔面にめり込んできた時。
 膝が引き絞ったの腹部に埋まってきた時。
 肘が頭部を打ち抜いたとき。
 そのどれもが琴音にとって一番重く、一番痛かった。
 何故こうも痛いのだろうか。
 その答えはわかっている。
 相手が―――亜矢子さんだから。

 人を信じる。
 一人の人を信じ続ける。
 それはひどく難しいことであると琴音は思う。
 まず、それだけの人に出会えることがなければ、それはありえない。
 普通はそこでまず終わる。
 そんな人に出会うという確率は、人の一生の中では限りなく0に近い、と思う。
 仮にそんな人に出会うことが出来たとしても、今度はそこから信頼関係を作るま
でに、人は信頼し続けることに挫折する。
 あるときはわが身の可愛さに、またあるときは避けられぬ、そう、運命とでもい
うしかない不可視の何かによって、信頼という脆い絆は絶たれてしまう。

 しかし、その多くが潰える中で、必ず例外というものが存在する。
 ひどく脆く、儚い、信頼という鎖で繋がりつづける者がいる。
 一人の人を信頼することが出来る。
 そんな人は幸せだ、と琴音は思っていた。
 そして強い人なのだ、と思っていた。
 …少なくとも私には出来そうにもない。
 人を信じることで、傷付きたくはない。
 信頼という思いの先に、裏切りという結末が待っていた場合、その脆い絆は、人
に大きく深い傷を残して消えていく。

 残るのは傷付いた自分だけかもしれない、という大きすぎるリスク。
 それだけのリスクを背負ってまで人を信頼することに意味があるのか?
 …ない。
 少し前まで、琴音はそう思っていた。
 
 それが変わったのは―――亜矢子に会ってからだった。
 誰にも理解できるはずがないと考えていた琴音の能力の苦悩。
 亜矢子はそれからすら、琴音を解き放っていった。
 そう、何もかもが上手くいった。
 上手すぎる、と今思えば少し疑わしくなるほどに。
 しかし、琴音は毛の先ほども疑わなかった。
 そう、琴音は亜矢子を信じていたからだ。
 自分に多くのものを与えてくれ、苦しみから解放してくれた亜矢子。
 友達とも、先輩後輩とも違うような関係。
 心地のよい時間をくれた人。

 ―――信じていた人。
 ―――好きな人。

 なのに―――

「どう…して…」
 琴音は先程から同じ言葉を何度も心の中で反芻し、そしてそれを口に出していた。
 亜矢子の表情からは、その心情を読み取ることは出来ない。ただ、矢継ぎ早に琴
音を殴り、蹴っている。琴音はまともに防御することも出来ずに、ただそれを一方
的に受けている。


 全てが上手く行くと思っていた。
 今までのことが嘘のように―――
 

 ふと、亜矢子の拳が解け、手刀のような形へと変わる。
 真っ直ぐに伸ばされた五本の指のうち、親指だけそれから抜かれる。
 貫手。
 伸ばした状態の指で、相手の身体を突く攻撃。相当に指を鍛えていなければ、指
の方を痛めてしまうが、拳と違って指の分の長さが加わるので、リーチは長くなる。
そしてその指で、人体の“急所”と呼ばれる部分を突くのだ。
徹底的に指を鍛え上げた者なら、貫手は刃物のごとき鋭さを持つようになる。
 その貫手が琴音に向かってくる。狙いは顔、それも目である。
 それに気付いた瞬間、冷たい、氷のようなものが背中を這ったような感覚がした。
 身体中に鳥肌が立った。
「ひっ!?」
 短い悲鳴を上げて、琴音は顔を反らしてそれを避ける。
 亜矢子の貫手が、琴音の髪の毛を数本だけちぎっていった。
 目突きは、噛み付きと並び、何でもありと呼ばれるヴァーリトゥード・ルールです
ら禁止されている攻撃である。それを躊躇なく使ってくるということは、この闘いが
そういう闘いであること…つまり、亜矢子が琴音を殺そうとさえしていることを証明
するのに、充分だった。
 再度、亜矢子の貫手が琴音を襲う。
 琴音の左脇腹を狙ったものだった。
 左腕でそれを防御しようとするが、それを潜り抜けて貫手は脇腹に到達した。

 それは貫手というより、引っ掻いたような攻撃だったのかもしれない。

 じゃっ。

 そんな音がした。
 どこか水っぽい、初めて聞く音だった。
 そしてその音と共に、何か生暖かいものが飛沫をあげた。
 飛沫をあげた“液体”が、亜矢子の顔に当たる。
 それは赤かった。
 それで初めて気付いたように、琴音は自分の脇腹を見る。
 …抉られていた。
 赤く染まったその中に、僅かに白い物が見え隠れする。
 ―――肋骨だった。

「―――ぃ、いやぁぁぁぁっっ!!!!」

 叫んだ途端、その傷に気付いた途端、激痛が走った。
 血がどくどくと流れ出ているのがわかる。
 慌てて手で脇腹を押さえるが、流れる血液は指の隙間を潜り抜けて零れ落ちる。
 傷は深い。
 立っているだけで絶え間なく激痛が襲ってくる。
 琴音は脇腹を押さえて蹲った。
 
 衝撃。

 頭上から何か重いものが降ってきた。
 抗うことをさせてもらえない、圧倒的な力だった。
 
 がつんっ。

 額が思い切り床にぶち当たった。
 目の前にある床の木目が、歪んで見えていた。

 ごっ。

 額を床に密着させたままの状態で、後頭部を思い切り踏みつけられる。
 そうすると、勿論、顔面が床に叩き伏せられる。
 鼻や、口などの比較的軟らかい部分が床と激しく接触すれば、当然切れる。
 琴音は口の中が濃い血の味がするのを感じた。

 ぐしゃっ。

 再度、踏みつけられる。
 頭を上げていたのが、災いした。
 勢いのついた状態で、床に顔が叩きつけられることになる。
 頭に来る衝撃が増す。
 ぐりっ。
 鼻が、嫌な音を立てたのを琴音は聞いた。
 ぬるり、と液体が鼻を通るのがわかる。
 鼻血はそのまま床に零れ落ちた。

 ごりっ。

 上からの衝撃。
 自らの鼻血で出来た血溜まりに、顔面から突っ込んだ。
 顔中、血塗れになっている…?
 朦朧とした意識の中でそんなことを思った。
 
 ―――死ぬ?

 琴音は初めて、明確な“死”というものを感じた。
 今までに、幾度か自殺という形で、死を思い浮かべたことがあったが、それらは全
て琴音の思考の中でのものであり、決してリアルな死ではなかった。
 しかし、これは違う。
 明確な“死”がすぐ傍に来ている。
 …亜矢子によって齎されたものだ。
 ―――これが、本当の死。
 不思議と、怖くはなかった。
 身体は震えているのかもしれないが、琴音にはわからなかった。
 何も感じなくなってきている。
 音が聞こえない。
 何も聞こえない。
 少しずつ、何も感じなくなってきている。

 …これも意外といいものかもしれない。
 ふとそう思った。
 このまま何も感じなくなっていって…そう、まるで眠るような感覚。
 その眠りが覚めないだけ。
 いつまでも覚めない眠り…。
 …悪くないな。
 うん、悪くない。
 眠っている間は嫌なことを全て忘れられるし。
 とても居心地のよい、夢という名の世界に身を置くことが出来る時間。
 何度も、目が覚めなければいいと思った…。
 そう、何度も、何度も…。
 だけど、そう思うのはいつも、もう目が覚めている後。
 目が覚めれば、私はまた怯えながら、長い時間を過ごさなきゃならない。
 …自分の能力に。
 そう、怯えながら。
 ああ、だけど…最近は少し違ってきてたんだ…。
 少しずつ、怯えずに過ごせるようになってきてたんだっけ?
 そう、楽しくなってきてた…。
 どうしてだったかな?
 ………あ、思い出した。
 亜矢子さんだ。
 初めて、私の能力のことをどうにかしてくれた人だ。
 そう、本当にどうにもならなかったものを、どうにかしてくれた人。
 嬉しかったな…。
 このまま、怯えずに生きていけると思った。
 私も“幸せ”になれるかもしれないと思った。
 そう思えるようにしてくれた。
 …私、亜矢子さん好きだな。
 いや、別に変な意味じゃなくて。
 本当に好きだな。
 ずっと一緒にいたい。
 亜矢子さんと一緒なら楽しい。
 ふふ…私、どうしてこんなこと考えてるんだろ?
 そんなこと考えてる場合じゃないんだったっけ。
 下手すると死にそうなんだ、私。
 下手しなくてもかな?

 あ、目の前に亜矢子さんがいる。
 亜矢子さんが私を殴ってる。
 痛くは―――ないや、もう感じなくなってきたのかな。
 もういいや。
 私、亜矢子さんに殴られてるんだから。
 私、亜矢子さんに嫌われたみたいだから。
 もういいかな。
 早く眠りたい…。
 亜矢子さん、私を眠らせてください。
 ずっと覚めない夢を見させてください。
 
 あれ…?
 どうしてですか?
 亜矢子さん…泣きそうな顔してる?
 まるでそっちが殴られているような顔ですよ?
 殴られているのは私。
 痛いのは私なのに…。
 亜矢子さん、もっと痛そうにしてる。
 どうして…。


「………!!」
 
 亜矢子は無言で、琴音に攻撃を加え続けていた。
 だが、無表情ではない。
 悲痛極まりない、と言った顔をしていた。
 琴音は蹲っている。
 亜矢子はそれを蹴り続けている。


 亜矢子さ…ん?
 その目から出ているのは…汗ですか?
 …違う。
 私もよく知っている。
 いつも部屋で一人、あれを流していたから…。
 涙。
 亜矢子さん、泣いてる。
 泣きながら、私を蹴ってる。

 泣きながら―――私を殺そうとしてる?

 
「………!!!」

 亜矢子の頬を伝う涙は、もう汗と偽ることは出来そうにもなかった。
 それでも、その足の動きを止めることはない。

 亜矢子が更にその蹴りを強く放った。



 眠れる。
 これで夢を見続けることが出来るのかな?
 この蹴り…。
 この亜矢子さんの蹴りで“終わる”のかな。
 最後に、亜矢子さんの顔を見ておきたい気がするけど…。
 でも…それは出来そうにないな。
 私に届くまであと30cmくらい。
 微塵の手加減もない下段の踵蹴りだ。
 きっとあれを喰らえば私は死ぬ。
 私は眠れる。
 あと20cm。
 ずっと夢を見ることができる。
 あと10cm。
 時間にすればあとコンマ数秒も掛からない。


 さようなら、亜矢子さん―――




 ばんっ。


 

 …音?
 何の音だろう。
 私の身体が蹴りを受けて鳴った音かな?
 いや、それならもっとくぐもった音だ。
 だったら一体何かな?

 琴音は聴覚が戻り、意識も少しずつ鮮明になってきた。


 ―――琴音ちゃんにとって…悲しいことになったりするかもしれないってことだよ。


 不意に、あの時の亜矢子の言葉が思い浮かんだ。
 身体を起こし、音のした方に目を向ける。

 亜矢子はいつものように微笑んでいた。
 血塗れの身体で。
 それが返り血などでないということは、誰が見てもわかった。

 ふらり、とその身体が、糸の切れた操り人形のように前に倒れた―――
 


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 結局、書くしかねぇんだな、と。
 いや、ここ数日掲示板が止まっていましたので…。

 この話、とっととケリつけます。(汗)