坂下好恵 三年目の春(5) 投稿者:助造 投稿日:1月27日(土)17時38分
「…けど…言えなかった…」

「言えなかった……?」

 藤田のその行為。綾香に想いを寄せながら、自分の想いを伝えることは無かった
という行為を、私はどうしても理解することができなかった。

「どうして言わなかったの?」
「…何で…だろうな……」

 藤田のその言葉に、私は苛立ちを覚えた。
理由も無く綾香に想いを伝えられなかった、と言っているような藤田の言葉にだ。
 藤田の話を聞いている限りでは、藤田は絶対に綾香に惹かれていたのだ。
藤田自身もその事を認めている。


「あの時…」

「綾香に負けた時、試合をする前までは勝っても負けても言うつもりだった。
 自分の気持ちを……全部、な。
 でも、どうしてかな…綾香に負けたとき、俺の中で何かが引っかかった。」
「引っかかった?」

「綾香に負けて、ちょっとショック受けてたのかもしれないな…
 気が動転していたのかもしれない…」


「負けてこんな事言っても、かっこつかねえんじゃねーか、って…
 そんなくだらねえ事が、一瞬だけ頭に浮かんじまった。」


「浮かんだのは一瞬だけだったかもしれない。だけど、俺はそんなことを
 考えていたんだと思うと、今までやってきたことが全部嘘で固めていた
 ように思えてきたんだ。」
「嘘で……固める?」

「俺はさ、その勝負は綾香を励ませれば、って気持ちで始めたはずだったんだ。
 でもよ…綾香を励ます事ができればいいその勝負で、俺は勝ったら告白、
 なんてことを考えていたんだよ。だから、かっこつかねえなんて思ったんだろうな。
 でも、それじゃ俺は綾香を励ますためじゃなくて、俺が綾香に告白するための…綾香を
 手に入れるための手段みたいな気持ちでこの勝負をやってたんじゃね―か? って
 思ったんだ。」

「だったら励ますなんてことは嘘じゃねーか……」

「そう思ったらよ、次々と浮かんできたよ。」

 きっと、俺が勝ってたら綾香に言う願いは『俺のものになれ』みたいなことを
言うつもりじゃなかったのか? 綾香を励ます、なんてものは上辺だけで
本当はそんなことを狙ってたんじゃねーのか? つーことは、本気で綾香が
そんなムチャクチャな事をきくと思って、俺はこの勝負をしていたのか?
 ……だったら、俺って物凄く馬鹿じゃねーか…そんなことがあるはずが無い。
ただのこんな勝負の勝敗で、人の心を自分の物にできるわけが無いのに…
 仮にも、そんなことで綾香を手に入れて何の意味があるんだ?
 そもそも綾香を手に入れるって何だ? 俺の綾香への想いってなんなんだ?
俺はなんで綾香を求めているんだ? 綾香の何が欲しいんだ?
励ますつもりで、なんて嘘の勝負考えて、どんな願いも聞く、なんて馬鹿なことを信じてまで
俺は綾香が欲しかったのか……

 本当か…? 俺はそこまで綾香のことが欲しかったのか?……


「………結局よ、何が俺の本当の気持ちなのか、何が偽っていないものなのかが
 わかんなくなっちまった。いや、全部嘘なのかもしれねえ…綾香への気持ちさえも。」

「終いにゃよ、綾香に負けたことで、自分はこんなことを考えるようになっちまったんだ、
 綾香が俺に負けてれば…なんて考えちまってさ。」

「そんなことを思った自分が悔しくてよ。綾香のせいにしちまった自分がどうしようもなく
 情けなくなってよ………」

 藤田の顔が苦々しく歪む。
一番触れたくない部分を思い出したかのように…

「あの時…自分にムカついて、俺は…泣いたんだよ……」


 綾香にとって、この俺の涙がどれだけつらい物なのかわかった。

 まるであの時と同じなんだ、綾香にとって。
自分が勝って、勝った人は泣いて…そこまでやったことに、
追い詰めてしまった事に気付けなかった自分が歯痒くて……
 でも、それを絶対に表面に出さない。
綾香の事だ。これからも俺とは今まで通りに振舞うんだろうな。

 そうやってまた、綾香は悩むんだろう。俺の事で気にしつづけるだろう…。
 だって…今、俺を見ている綾香の顔は泣きそうな顔じゃないか……


 違うんだ綾香。
 これはお前のせいじゃないんだ。
 あの時とは違うんだ。
 お前のせいで俺は泣いているんじゃないんだ。
 お前に追い詰められたんじゃないんだ。
 お前が苦しむ必要なんてないんだ。
 つらい思いをする必要なんてないんだ……


「…結局、それすら言えなかった。」


「俺は綾香を励ますどころか、綾香に一番苦い思い出を……
 一番嫌な思い出を思い出させてしまっただけだった……。」



「それ以来、俺と綾香の関係は続いてる。偶に街で見かけたりしたら遊んだりする
 くらいのものだけどな…」

そう言って溜め息をつき、私の顔を見据える。

「坂下…お前、さっき俺に、意外と優しいんだね、って言ったよな?」
「あ、ああ……言った…」

「わかったろ? 俺は優しくなんてねえんだ。優しいようにしてても…
 それは俺の本心じゃないんだよ。下心があって、それを隠すために
 惚れた女に嘘をつくような…ヤツなんだよ。」


「結局はそれで綾香を苦しめたんだ、俺は…」
「…………………」

 藤田が自嘲気味に言う言葉。
 私はそんな藤田の言葉をただ聞いている事しかできなかった。 


「藤田……」
「ん…?」

「お前は今でも……綾香への気持ちは変わってないのか…?」
「なんだよ、いきなり……」

 自分でもどうしてそんなことを訊いたのかわからなかった。
ただ…藤田の答えに、何かを期待している自分がそこにいたのだ。

「……さあ…な、今は俺にそんな資格はないのかもしれない。でも、あの時
 に戻れるなら……俺は綾香に伝えたい…」

「……そう…」
「坂下?」
「つまり、藤田はまだ綾香のことが好きなのね?」
「……あ、ああ…そうかもな」


 それきり、互いに何も話さなかった。
もう、どの部活も練習を終え、学校は不気味なほど静かだった。

 この沈黙の間、私はさっきの藤田の話のことだけが頭にあった。
 綾香と藤田。去年の春の思い出。苦くてつらい…二人だけしか知らない過去。
私はそれを第三者として知ってしまった。藤田から話を聞いて…
 どうしてだ?
どうして藤田は私にこの話を聞かせてくれたのだろうか…
思い出したくないはずの思い出だ。話していたときの顔を見ればわかる。
それを私に話してくれるほどの理由。それが私にはわからない。
確かに聞きたいと言ったこともあったが、あれは藤田の話の途中でだ。
話すにしても、綾香との勝負まで語らなければいい。
 だが、藤田は何一つ隠さずに私に話した。
綾香に負けたことも、そして泣いたという事も……綾香が好きだったということも…
私には藤田からその話を聞かされるだけの何があるというのだろうか?
自分の過去を、決していい過去ではない過去を全て吐き出すかのように…

 何が藤田に話させたのだろうか? 何が私を選ばせたのだろうか?


「藤田…あんた、どうして私にこんな話を…?」
「そう言われれば……はは、俺、なんでこんなこと坂下に話してるんだろうな。」
 藤田が苦笑してそう言う。

「わざわざ…坂下に恥をさらしてるようなもんなのにな…」
「…………………」
「でも……あえて理由を言うならよ…」

「なんとなく、かな…?」
「……はぁ?」
「だから、なんとなく、だよ。なんとなくお前に聞いて欲しかった。」
 笑いながらそう言う。

「…藤田って、やっぱり変なヤツだ…」
「俺が? 変なヤツ…かなあ……」
「うん、断言できる。」
「断言するなよ、おい。」

 そう言って、二人とも笑った。
静かな校舎に、私たちの笑い声だけが響いていた。


「そろそろ帰るな、俺。」
「私は着替えて帰らなきゃいけないけどね。」
 今思えば、まだ道着のままだった。さっさと着替えて帰るか…

「じゃ、俺も待ってる。」
「……は?」
「坂下が来るまで待ってるよ。夜道に女の子一人で帰すのは…さすがにアレだろ?」
「私を誰だと思ってるの? 大丈夫よ、一人で。」
「ん〜……でも待ってるよ、うん。」
「帰る、って言ったって…私とあんたじゃ帰る道も違うんじゃ―――」
「だったら、校門まででいいさ。遠回りして送ってやってもいいぞ?」
「………わかった。ちょっと待ってて、すぐ戻ってくるから。」

 私はそう言って更衣室に戻っていった。

 途中、どうして藤田が私にここまでするのかが気になったが、
考えてもどうしようのないことなので、私はそのまま更衣室へと向かった。