坂下好恵 三年目の春(4) 投稿者:助造 投稿日:1月24日(水)22時25分
 綾香と初めて会ったのは去年の春だった。

 下校途中、家の近くにある公園を通ってたらよ、ちっちゃな子どもが泣いててな。
つい、声を掛けちまったんだよ。
で、話を聞いてると、自分の猫が公園の木の上に登って、下りて来れなくなったんだそうだ。
その子が泣きながら俺に、猫を助けてくれ、って言うんだよ。
なんであの時話し掛けたのか…。はっきり言って後悔したな…
なんてったって、その木は優に3メートルはある木だったんだから。
木登りできるような枝もない。高いトコまでいける梯子もない。……ヤバイ、と思ったよ。

 結局、俺にできたのは蹴って木を揺らして落ちてきたところを拾う、って方法しかなかったんだ。
本気でガンガン、ガンガン蹴るんだけどよ、その木はびくともしなかった。
 何度も俺には無理だ、って言おうと思ったんだが、ず〜っと心配そうに俺の顔を覗き込んでるんだよ、その子。
俺が無理なんて言おうもんなら、その場で泣き出しそうな面してさ。
それを見たらそんな事も言えなくなっちまってさ。蹴るしかなくなったワケだ。

 俺が木を蹴るたびに、木の葉ががさがさと音を立てるんだ。
 その音と一緒に、木の葉もハラハラ落ちてくる。
 でも、全然猫が落ちてくる気配はなかった。
 これだけ揺れてんのにどうして落ちてこないんだ……なんて思ったな。
 猫と葉っぱじゃ重さのレベルが違うのに。



「俺も意地になって木を蹴りつづけたよ。猫は落ちてこなかったけどな。」
「どうしてそこまで……」
「わかんねーよな。やっぱり……」
「………………」
「そこまでして助ける義理があるわけでもない。何か見返りがあるわけでもない。
 見返りどころか、ただ面倒なだけだ。」
「………………」
「でもよ…面倒だけどさ、目の前で泣きそうになってる奴がいると…
 ほっとけないんだよ、俺。」
藤田が照れくさそうに頭を掻く。

「ふ〜ん……意外と優しいんだね、藤田は。」
「…俺は、優しくなんかねーよ。」
「……そう」

優しいという言葉を聞いた途端、藤田は強く否定した。



「……で、木を相手に一人で悪戦苦闘してるうちに声を掛けられたんだよ。」 
「それが……綾香だったんだ。」

 そう言う藤田の顔には、さっきまでの憂いを帯びた表情はなく、
ただ…懐かしそうな顔で話していた。


 誰だ? と思って振り返ってみると、知らない女が立ってた。
知ってるはずもない。隣りの寺女の生徒だったんだからな。
で、見知らぬ女……って、もう、綾香って呼んでもいいな。綾香が俺に手伝ってやろうか? って
訊いてきた。俺も一人では正直言って無理そうだったんで助かったと思ったよ。
俺が下になって、綾香が俺の肩に乗って立ち上がる事で、なんとか猫まで手が届いた。
で、綾香の協力もあって無事、猫を助ける事ができたんだ。
 女の子は猫を自分の胸に抱くと、とても嬉しそうな顔してさ、
ありがとうお姉ちゃん! とだけ言って走って行っちまった。
つまり………俺には礼ナシだったんだよ。

 綾香のヤツ、俺のこと笑ってな。その後、かわいそうに思ったんだか知らないが
俺にご褒美だ、って言って自分が食ってた食いかけのアイスを差し出したんだよ。

「食いかけの?」
「ああ、そうだ。一応貰うだけは貰っておいたんだがな…。」

 藤田はそう言って苦笑する。

「で、その時は綾香を変なやつとしか思わなかったよ。」
「確かにそれじゃ、変なやつと言えば変な奴ね…」
「その時は、な…」
「?」

 藤田はそう言って空を見上げた。もう既に空にはいくつかの星が輝いている。
太陽はとっくに沈み、辺りは薄暗くなっていた。
 空を見上げる藤田の横顔。それはさっきと同じどこか憂いを帯びた表情だった。
 何が藤田にこのような顔をさせるのだろうか?
私はふと、そんな事を考えている自分に気付いた。

「続き……」
「ん?」
「続き、聞きたいか?」

 そう訊く藤田の声はいつもと変わらぬ声だった。
だが、その表情は…聞かないでくれ、といっているかのようだった。

「え、ええ………聞かせてもらえる?」

 少し考えたが……私は聞きたかった。
 藤田は少し溜め息をつき、また話を始めた。


 二度目に会ったのはそれから一ヶ月くらいした時だった。
綾香の名前を知ったのはその日だったかな…
強引にいろんなところに連れ回されたりもした。
子供たちに混じって河川敷で草野球をしたり、くだらない事で笑いあったり…
下校中にちょっとした悪戯をして綾香の肘打ちをもらったりもしたな。
 
 まだ知り合ってほとんど時間は経ってないのに、俺は綾香の様々な面を知った。
会う約束はしていないのに、俺と綾香はばったり会う事がよくあったな。
会ったらまた河川敷に行った。商店街を歩いたりもした。ゲーセンで遊んで、勝負して
女のクセにあいつはすっげぇ上手かった。

 本当に気が合ってたんだと思う。綾香と一緒にいる時間は楽しかったし、充実していた。


「…で、気が付いてみれば…俺は綾香に惚れてたんだ。」

 その言葉を言い放った時の藤田の顔。
今まで一番つらそうな、そして悲しそうな顔をしていた。

「あんたが……綾香に?」
「…ああ、多分な」
「多分?」
「本当に綾香のことが好きだったのか…そう聞かれるとわからなくなってくる。」
「どういう意味?」


 俺は綾香のことが好きだ。
そう思った日、俺は綾香を探したよ。初めて会った場所、再会した商店街、
遊んだゲーセン、膝枕してもらったベンチ。
いろいろな場所を探して、俺は綾香を河川敷で見つけた。
 その日、俺は綾香から昔の話を聞いたんだ。

 綾香がまだニューヨークにいた頃の話。幼い頃の思い出。
憧れた人。その人と一緒にいたくて空手を始めた事。そして……憧れた人に勝った時の話。
 綾香は…その事を気にしていたんだよ。今までずっと。
考えてみれば、それが初めて綾香の弱さをみた時だったと思う。
綾香が後悔をしていたから。
 いつも強気で、でもそれだけの実力を兼ね備えていて、それでいてそれを自慢することもない。
世界有数のお嬢様で、だけどそれを微塵も感じさせないあの性格。
明るくて、何よりも前向きな綾香が……あの時は後悔をしていた。
 だからなのかな…俺はそんな綾香を励ますみたいな意味で勝負を挑んだんだ。

「勝負?」
「ああ、綾香の一番得意な物で勝負した。」
「得意な物って……」
「そう、格闘技だったよ。期限は一週間、俺は綾香に一撃でも入れれば
 勝ち、っていうルールだった。負けた方は勝った方のいうことを何でも一つ聞く、
 っていう賭け付きで。」


 最初は綾香を女だってこともあったし、ナメてた。一発くらい楽勝、なんて思ってたな。
だけどよ、実際やってみるとこれがまた強い強い。俺なんか全く相手にならないくらいな。
結局、一発も当てられないまま、最終日になったんだ。

 結果は俺の負け。
 完敗だった。


「この勝負で勝ったら……俺は綾香に言うつもりだったんだ。」

「好きだ、って……」


「…でも、言えなかった…」