桜の淵に、春の瀬に 投稿者:
 淡い暖色が降ってくる。
 夢の続きのように、透き通った千々の光が揺れている。
 遠く聞こえてくる、いままでイヤになるほど耳を左右に抜けていったチャイ
ムの響き。
 ちょっとひび割れたスピーカーが吐き出す、もう頭に馴染んでしまった安っ
ぽいメロディが、こんなにも違って心に流れてくるなんて。
 今日は特別な日。
 だからチャイムの音も、いまだけは静かな鐘のように荘厳に耳朶を撫でてい
く。
 それともまだオレは透き通った夢のなかを漂っているのかな。
 春の陽は薄く、広く、そして暖かい。
 すべてをその色で包み込んで、染め上げてしまう。
 きっとオレもそんな色で見えているのだろう。
 ここは始まったばかりの春の色が、一番最初に降りてくる場所だから。
 散らした花弁がたゆたう光に舞い踊り、空気が頬を染めている。
 ほら。こんなにも奇麗な春に抱かれて……やっぱりこれは夢の続きだ……。
 戯れにも似たまどろみは、ゆっくりと翳った陽射しによっておだやかに破ら
れた。オレはこちら側へと手を引かれる。
「芹香先輩……」
 ささやく言葉に現実感がともなわない。ちゃんとオレの声は出ているだろう
か。
 寝転がっていたオレをのぞき込むようにして、先輩のシルエットが陽光をさ
えぎっている。
 つややかな流れに光がすっと道をあける。
 オレの目から見て斜め右にたたずむ先輩のセーラー服に、太陽のぬくみをいっ
ぱいに含んだ微風がそっと夢の残滓を吹きつける。
 さやさやと音が生まれる。
 透明な春の傘のもと、先輩もその色に染まっている。
 いつもと同じ、ちょっととぼけたような、午睡から覚めたばかりみたいな芹
香先輩の瞳。整った小さな顔立ち。
 でも、今日は特別な日。
 もういつもの先輩じゃないんだ。
 オレは身を起こす。
「終わったんだ……」
  これが夢ならどんなにかいいのに。
  はい……そういって先輩はうなずく。
  校庭の方から、潮騒のように喧騒がここまで溶け出してくる。
「そっか……おめでとう、先輩」
  でもこれは夢じゃないし、夢であってはいけない現実だ。
  夢は心地いいけれど、醒めない夢のないように、オレは、オレたちはちゃん
と事実を受け止めないといけない。
  それは未来へ向かうためには避けて通ることのできない道だから。
  先輩はちょっとシュンとしている。困ったとき、悲しいときによくする表情
で。
「ほら、先輩……先輩にそんな顔は似合わないよ。今日はめでたい日だろ」
  寂しいのはオレもいっしょだ。
「……だから、そんな顔しないで」
  卒業の日。
  別れのとき。
  校舎裏の大きな桜――この学校に植えられている桜の木のなかでも一際大き
なこいつの下で、見事な枝振りに見守られ……。
  オレと芹香先輩の時間はゆっくりと紡がれていく。
  もう、明日からは毎日会うこともできないんだな。
  卒業式が近づくにつれ、頭ではそのことを強引に押え込み、納得したつもり
だった。
  それでも……ダメだ。
  この瞬間には、そんな理性なんて無意味に吹き飛んでしまう。
  持て余す感情に引きずられるように、オレは立ち上がる。
  動きに合わせて、ふわりと桜のかけらが弧をゆるめる。
  身体いっぱいに散っていた薄桃色の点描も、それに加わる。
  先輩はオレのすぐ傍らまで寄り添うと、細かい埃を払おうとする。
「ああ、いいよ……自分でするよ」
  でも先輩はふるふると首を振ると、まるでダダっ子にでもいいきかせるよう
な仕種で、二度三度と制服の背をはたいてくれた。
  そんなささいな、そして毅然とした――というのはちょっとおおげさかもし
れないが――態度でさえも、上品でかわいらしいのは、もう反則とさえいって
いい。
  あらためて思う。
  こんなに何もかもが奇麗で、オレとは違いすぎる人が……この女性(ひと)
がオレの想い人なんだな。
  来栖川グループのご令嬢で、本来オレとは出逢う機会さえないはずの人。
  それでもオレたちは巡り逢い、同じ時を共有することができた。
  そう……あの日もこんな風に、桜の美しい春の始めの候だった。
  あれから一年。
  わかっていたはずの、瞬間がつらい。
「そういやさ……よくセバスのジイさんが離してくれたな」
「……」
「え、隙を見て勝手に逃げてきたって?  凄いことするお嬢様だな」
  たわいのない会話が、こんなにも大切なものだったなんて。
  その声も、髪も、真っ白な肌も、細い指も、心も……こんなにもいとおしい
のに……離したくないのに……。
  ただ会いたかったんだ。
  その顔が見たかったんだ。
  それ以外の用事があったわけじゃない。
  だから……なんとなく押し黙ってしまうと、そこに沈黙が入り込む。
  雄弁な沈黙。
  語りたいことは、いいたいことはたくさんあるのに、いざその段になるとど
うして言葉にできないのかな。
  静かな、口数の少ない芹香先輩も、いつもこんな気持ちを抱えているのだろ
うか。
  芹香先輩は言葉じゃなく、いつだってその雰囲気で、物腰で語っている。
  それは、とても真摯で、純粋な想いに裏打ちされている。
  だけど……先輩のことをよく知らない人間には、知ろうとしない者には、そ
れが伝わらない。
  伝わらない事実なんて無意味だろうか。
  いや、オレはそうは思わない。
  誰も知ろうしなくても、真実は欺きようのない本当の姿で、先輩をこんなに
も魅力的に見せている。
  それに……。
  オレは芹香先輩の、丁寧に造られたフランス人形みたいな横顔を見つめる。
  本当はそんなこと、どうだっていいんだ。
  オレが、オレだけがわかっていれば、それで……。
  オレだけの先輩……。
  風が見えない言葉をささやいて、オレたちの上に重なった花のいくつかを誘っ
ていく。
  桜は春の花だ。
  数多の人々の想いを映し、刻んで、また伝えてきた。
「先輩……」
  芹香先輩の姿が揺れる。
  けぶるようなまなざしが俺を見つめている。
「こんな話を、聞いたことがあるんだ……」
  それは以前、芹香先輩につきあって街の古本屋で時間をつぶした時、なにげ
なく手に取った本で見つけたコラムの一節だった。
「桜には……桜の花のひとひらには、幾万もの言葉が込められてるって」
「……」
「大昔の言霊信仰みたいな意味なのか、それとも単なる比喩なのかはオレもよ
くわかんないんだけどさ」
  こういう話、ちょっとオカルトチックな事柄には芹香先輩の方が詳しいだろ
う。でもオレがいいたいのはそっちの方じゃない。
「つまり、だから桜ってのはこんなにも美しくて、こんなにも日本人の、オレ
たちの心を打つんだって……そんな話」
  先輩は黙ってオレの言葉に耳を傾けている。
  先輩との会話はこんな風にオレがしゃべって、芹香先輩が静かにうなずいて
いるような展開が多い。
  でもそれは、とても気持ちのかよいあった深く多情なものだ。
「桜は決してその言葉を主張したりはしないけど、そんなことは関係なしに、
花はどこまでも奇麗で……」
  芹香先輩がオレのなかに映っている。
「そんな話を知らなくったって、桜は桜なんだ……」
  先輩のなかにもオレが映っている。
「先輩はいまのままでいい……ありのままでいいんだ。純粋であることは、絶
対に悪いことじゃないんだ……」
  先輩の唇が、浩之さん、という形を作る。
「それに文句をいう奴はオレがぶっとばしてやる。……オレが芹香の言葉にな
る。ずっとずっと、守っていく。……だから……」  
  芹香の身体が投げ出されるように泳いで、
「……待っててくれよ、先輩」
  オレは力強く芹香を受け止めた。
  春の香りに、芹香のいい匂いが混じって、鼻腔をくすぐる。
  少し早い春のなか、満開の桜の深みに抱(いだ)かれて……。
  重なり合った輪郭を彩るように花たちが響きあう。
  遠い祝福は聞こえているか。
  誓いは前途の道標になり得るか。
  ただ、芹香のぬくもりだけを感じながら……。
  桜はオレたちを春の色で包み込んでいた。
                                (了)