○この二次創作小説は『こみっくパーティー』(Leaf製品)の世界及びキャラクターを使用しています。
○実在の(?)同名文学小説とは一切関係がありません。
○30歳以下には動作保証できません。
○この作品はフィクションです。劇中に登場する団体及び個人は実在する団体、個人とはなんら関係ありません。また、演出上の要請により、一部登場人物が危険な行為、または道義的に反する行為等を行っておりますが、二次創作小説ですので寛大な心で接して下さい。
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【こみパSS】『恩讐の彼方に』
「分かった。それはもう特訓しかないねっ!」
「特訓?」
思わず乗り出してしまった身に付いていけず帽子がずり落ちそうになる。反射的に押さえると今度は手に持っていたステッキが横にいた人に引っかかってしまい、結局両方床に落としてしまった。
「あ、ごめんなさい」
「あ〜も〜初心者なんだからぁ」
引っかけてしまった相手に加害者当人が謝っている内に、もう一人の女の子は通行人に踏み回される前に素早く蛍光糸を織り交ぜた淡泊なピンクの帽子と対象年齢10歳前後の市販おもちゃのステッキを拾い上げた。その彼女はさらに窮屈で軽快に動作し難い格好をしているのだが、よほど慣れているらしく自分の背から地に着くほど伸びている長マントを雑作もなく人で混み合うホールに付けてきている。
「はぁ……よくこんなごちゃごちゃしたところでそんなピラピラしたものつけて無事でいられるわね。踏まれたり引っかけられたりしないの?」
今、自分が経験したことをそのまま尋ねてみた。いくら相手が玄人でもそんな疑問がふつと浮かんで仕方ない混雑ぶりだ。ちょっとホールの中まで出る間にも何人かにぶつかって謝っている。それなのに彼女の方は絡まりそうなほどの布地を流したまますいすいと人間の濁流を泳いでいる。
「だから〜こーゆーのは慣れなんだってば。例えば……ん〜、胸おっきいと肩凝ったりジロジロ見られて恥ずかしくないかなーなんて思うじゃん?」
「そんなのもう慣れたわよ。やだもーオヤジみたいなこと言わないでよ」
胸元を指さされて少し頬を染め、今日初めてコスチュームプレイなるパフォーマンスをしてみたその人物は隠すようになにげに身体を横に向けた。慣れ……そういうものかなぁ、と自分の口から出てきた言葉を反芻して納得する。
「なんやて? 瑞希っちゃん特訓するん?」
「え? いえ、それは」
急に後ろから妙に期待を込めた声が掛けられた。道頓堀の猥雑なネオンサインとおたふくソースが浮かんできそうな声色ではあるが、意外にも彼女は緑壁に囲まれた格式高い温泉宿の娘である。
瑞希が振り向き挨拶と弁解を始める前に、顔の半分が隠れるほど大きな丸眼鏡の彼女は2・3歩先へと勝手に話を進めていく。
「いや〜いつかは覚醒してくれると思っとったで。あんたもこれで立派におたくデビューやねぇ。おめっとさん」
「あのっそんなんじゃなくって」
「まあまあ照れんでええやん。なぁ玲子ちゃん」
ネイティブな神戸弁で一方的に話を進めている彼女は、美形男性キャラクターのコスプレがするりと決まっている玲子へと語りの方向を向ける。朱に浸りきった人種が、無垢な純白を引きずり込んで染めんと画策している目つきだ。同類の意図を察した玲子は口先を揃えて網に引っかかった憐れな一般人を取り込みにかかる。
「いいとこに来てくれたじゃな〜い。由宇ちゃんは原稿描き方面の調教……じゃなくって指導をしてくれない?」
「よっしゃ。じゃあウチは優秀なコーチ集めて来るからあんたはこの子逃がさんといて」
「逃がさんって、ちょっとぉ!」
嫌な予感120%の瑞希の制止などどこ吹く風で、異様に気合いの入った関西同人界の代表格は素早く人混みの中を即売会ホールへと戻っていった。今の内にずらかろうと思い浮かんだ瑞希であったが、初めてのコスプレだったので着替え場所とか順番待ちの規則とかがよく解らない。セーラー服のコスならまだ誤魔化せるのだが、まさかこの派手すぎる格好で一般客でごった返している電車に乗り込むわけにもいかない。
「まーまーそう警戒しないでよ。それより、まずはあたしがコスチュームプレイのイロハってのを教えてあ・げ・る」
「は、はぁ……」
「まずはキャラへの愛ね。愛、それは儚く気高くってやつなのよ。きゃーっ!」
何やら勝手に悶えている玲子に一歩退いてしまいがちになりながら、瑞希は仕方なく、タカラヅカ的衣装を見劣りすることなく着こなしているコスの先輩の教えを聴講することにした。
「で、どうして『カードマスター・ピーチ』のコスすることにしたの?」
「知り合いに聞いたらこれがいいって言ったから」
これは本当だ。他に人材は思いつかなかったので不本意にも相談した大学の同級生は、そのことを聞くと唇の端を上向きに曲げて自分のバイト先へ案内し、予算を聞きもせず次々とグッズを買い物かごに投げ込んで全部レジへと運んでいった。何やら会員入会やら特典付専用カードやらまで作らされた瑞希は、帰宅した後改めて購買物の多さに蒼くなった覚えがある。それでも金額は範囲内だったことと確かに買った物だけで遜色無くコスプレが出来ていたことには彼に感心した。
「はー、なるほどねぇ。自分がしたいってワケじゃなく、見せたい相手が居るからってことねン」
「ち、違っ! あたしは別にっ!」
「いいじゃん。確かにそーゆーのちょっと邪道っぽいけどさ、結局見せびらかすのは同じだし」
「う、うん」
女性が女の子のコスをする場合の動機は大抵“かわいい“とか”流行だから”とかの、雑誌のモデルを真似る池袋系ファッション愛好家と同じ感覚であろう。
「で、やっぱりカレシのため?」
「そんなんじゃないのよっ! あいつってば普段からだらしないし本もろくに売れてないだろうから、せめて協力くらいしてやろうと思って」
途端に音量が大きくなる瑞希の弁解に、周囲から奇異の視線が向く。まだ見られるのに慣れていないコスプレ初体験者は我に返ってコソコソと顔を隠した。その様子がおかしくてクスクス笑い出した玲子は、逃げ出しそうな瑞希に一応のフォローをしてあげる。
確か自分より一つ年上のはずなのだが、玲子にとって瑞希のこの反応は初々しくていぢめがいが……いや、教えがいがありそうに感じた。
「まぁ動機は人それぞれだからいいんじゃな〜い? だけど少しは愛が入ってないとコスも中途半端でどことなくみっともない感じがするのよ」
「そうなの?」
「そうそう。あたしが暑い中を我慢してこーんな格好してるのもみーんな愛!なのよ〜」
女性が美形キャラの男装する場合は特に同性からのチェックが厳しい。身の程知らずなコスをすると会場を出た後何をされるか判らないほどだ。故に特に人気のある男性キャラのコスをしていて尚かつ認められている玲子はなかなかのレベルのコスチュームプレイヤーなのであろう。
その玄人が基本理念を説いているのだから、初経験者の瑞希に反論の余地はなかった。
「というわけで、早速実習ね。まずはキャラを深く知りましょ〜」
「って言うと?」
「最近、ゲームもやらずに格ゲーのコスをする子が多いのよね。そういうのってカメコに撮影を頼まれてもてんでちくはぐなポーズしかとれないの」
「うーん。それはちょっとみっともないかも」
「でしょでしょ? だからせめて決めポーズくらいは練習しとかないとねっ」
言われて気付くと、瑞希自身このキャラクターの番組は先週慌てて録画した一回しか見たこと無かったりする。毎週同じような見せ場があるルーチンワークな作品なので今回は事足りたのだが、性格とか人間関係とかの細かい設定までは拾得できていない。
瑞希は星の飾りが付いたステッキを両手で少し強く握りしめ、その後ろに隠れるように呟く。
「い、一応ちょっとは練習したんだけど……台詞が長くて」
親に見つからないよう鍵を掛けた私室の中で小声で練習してはいたのだった。もしその場を父親とかに見つかったりしたら、気まずくて一週間は口を利けなかったであろう。
「初心者ならそのくらいでも大したものかな。でも瑞希ちゃん、元々綺麗だから何着てもイケてそうだよ」
「そ、そう? ありがと」
「でも小学生って設定のキャラにしては、ちょっとチチが出過ぎてるわね〜」
「仕方ないでしょ、これは!」
皆が一斉に変装しているこの場では雰囲気に溶け込んでいられるが、一歩外に出れば異様に浮かび上がることこの上ないであろう。昨晩ポーズの練習中、姿見鏡に映ったそれを思い出すと再度赤面してしまう。
「ま、それはそれとしてぇ〜、確かにピーチの台詞は長いしポーズも派手だモンね。狭いここじゃ向かないかも」
玲子は辺りを見回して両手を振り回せる程度の空き地を探した。しかし見渡す限り目立つ衣装を付けたコスプレイヤーとカメコの頭でホールは埋め尽くされている。
「仕方ないね。別のキャラの練習でもしよっか」
「別の?」
「うん、ここでも出来るようなやつ。ピーチは中級者向けだから後でやろうね」
「でもこのキャラと違うんでしょ」
「まずはハートからよハートっ! ピーチに限らず“キャラの真似したい”って心が大切なんだから。んでもって最後は愛っ!」
「は、はあ……」
よく解らないが『とりあえず簡単なキャラからやりましょう』ということらしい。だが瑞希のデータベースに記録されているコミックやアニメキャラの絶対数は少ない。辛うじて断片的な情報があるだけだ。
「じゃあ知ってるのだけね」
「うん。やってみて」
瑞希は玲子だけに聞こえる程度の声と小さい動作で思い出せたキャラクターの真似をとりあえずしてみた。とあるキャラクターが偶然自分の名前と似ていたので覚えていたのだ。
「プリティー・ウイッチー・はづ……」
「ド阿呆ーっ!!」
ベシィ!
もうちょっとで恥ずかしさを押しての初レッスンを完了せんとする瑞希の安心しきった後頭部に、嫌がるハリセンが無理矢理叩き付けられた。
「痛っ! 何よ、も〜っ!?」
「“何よ”やてぇ〜? あんた、今自分がどれほど危険な事したんか分かっとんのか?」
確認するまでもなくそれが誰なのか瑞希にも玲子にも分かっていた。どこからか戻ってきた由宇が、身体だけ充分発育しきったピーチをいきなりどついたのである。
「あなたの言ったとおりに練習していただけじゃない!」
「それが阿呆やいうとんのやっ!」
ベシッ!
「ちょっとぉ、やめてったら!」
「今ウチが止めへんかったらえらいことになっとったんやで」
頭を押さえつつ防御している瑞希に、持ち込み禁止のはずの武器を携帯している関西娘は睨みを利かせた真剣な顔で言い出した。瑞希には何がなんだか理解不可能であった。こみパに出かける直前、テレビをつけたら放送していたアニメがどこかで見覚えがあったので、登場人物の台詞を一応覚えておいたのだ。完全に子供向けの番組だったので変身の呪文も決め台詞も短く印象に残り易く、一度聞いただけですんなり頭に入っている。
「いくら名前が一字違いやからって、世間をなめとったらあかんで。そのアニメやるんやったらまず始めに主役からやらんかい」
「別になめてるわけじゃ……それに主役って眼鏡を掛けたあの子じゃないの? だって同人誌じゃそうなっていたわよ」
「甘い。三宮高砂屋のきんつばとモロゾフのミルクチョコレートを食べながらひやしあめ飲むくらい甘すぎるわっ! そのキャラは現在裏人気No.1なんやで。もしそんな中途半端な演技をディープなおたくに見つかってみぃ。ただでさえ会場が混んでいて殺気立ってるっちゅうのにそんなもん見せられたら正気無くしてまうでホンマ」
「え? ええっ?」
「変身呪文ならまだマシや。魔法の呪文を唱える所まで聞かれてみぃ。キレた暴徒はあんたを××して××したあと、×××で×××までされて×××××に無理矢理××××××で抵抗しても×××さらに××××××ついでに×××しかも×××××となってまうんや。はぁ〜ギリギリでウチが間に合おうてラッキーやったわ」
「な、な、なっ……」
「んでそいつらが機嫌悪うして東海方面の列車が止まって神戸に帰れんかったらあんたの責任やで。あっちは妙にその方面のフェチが多いからなぁ」
「どうしてそうなるのよ!?」
ついこの前までパンピーだった瑞希には一般的なヒロインと影のヒロインが存在する視聴者の二重構造が未だ把握し切れていないのであった。具体的には本来の視聴ターゲットと大きなお友達の二層である。
「まあええわ。それよりポーズを自分から取ろうっちゅう段階まで行ってるって事はコスの基本は大体できたんやね」
「まーねぇ。ちゃ〜んと“愛”ってことまで教えといたから」
「さっすがコスの大手・チーム一喝の玲子ちゃん。さて、次はウチらが原稿描きをゆりかごから墓場まで教え込んだるわ」
今の由宇の表情を瑞希はどこかで見たことがあると感じた。そう、それは以前自分がコスプレについて尋ねたときの悪魔の化身の表情にそっくりだった。
「あ、やっぱりわたし遠慮する」
「なんやてぇ!? ウチらをここまで燃えさせておいてそれで済むかい。ほれ、あんたもなんか言ってやりぃ」
まるで借金の取り立てと優勝前の阪神ファンを足したような口調で、由宇は後ろから誰かを引っぱり出した。
「こら離せ〜っ! パンダの分際で人間様をゆーかいするつもり?」
「こいつは時々意味不明なこと口走るけど気にせんといてな。これでもテクニックだけはあるから」
「むかむかむっかぁ〜。“だけ”とはなによ“だけ”とは!?」
周囲の人に遠慮も気配りもせず、由宇に引っぱり出されたライトグリーンが映えるショートカットの少女はバタバタと手足を振り回している。瑞希も彼女に見覚えがあった。知り合いの同人誌販売を心配で何度か嫌々ながら手伝ったことがあり、そのブースに時々現れては妙なことを言うだけ言って去っていった小柄な自称天才の女の子だ。
「あたしは下々にへいこらしないと買って貰えないへたれパンダと違ってちょお売れっ子人気作家で、スケブ描きとかで忙しいんだからぁ!」
「帰りたかったら早う済ませたらええんや。あんたの邪道な同人誌でも少しはまともなとこがあることを弁解するチャンスやで」
「きぃ〜っ! この珍獣がぁ! 言わせておけばぁ〜っ!!」
おろついている生徒役を完全に無視し、教師役の二人は毎度恒例のコミニュケーションを始めている。瑞希としてはとにかく解放して貰いたかったし、それにとても恥ずかしいが早急にこの格好で行かねばならない場所があるのだ。
「あ、あのぉ、私もう行ってもいいかな?」
「むむっ、あんた、どっかで見たことあると思ったらあいつのブースでうろちょろしていた売り子!」
「え、まあそうだけど」
確かこの娘も自分より年下だったはずなのだが……一人くらい自分を丁重に扱ってくれる人は居ないのかと自分の存在に疑問を投げつけたくなる瑞希であった。それはそうと、やっと自分の方を向いてくれたけたたましい女の子は遠慮も前置きも挨拶もせず本題を切り出す。
「この大庭詠美ちゃん様に教えて貰おうなんて、本当ならへっぽこ潜水艦が不沈空母信濃と戦おうってくらい無謀なのよ。それでも教えてほしい? そう。そうなのね。 あたしってばちょお忙しいちょお人気作家だけど、今日のあたしは機嫌がいいからぱーへくとなテクの一部を特別に教えたげてもいいわよ」
「は、はぁ」
いや別に教えてほしいとは一言も……と言い出したい限りの瑞希であったが、やたらに一方的なこの女の子はこちらの意志を無視して進めていくので話に意見を挟む合間すらない。
「で、二枚返しくらいはとーぜん出来るわよね」
「え?」
聞いたこともない単語が出てきて、瑞希はきょとんとするしかなかった。これもおたく世界の専門用語なのだろうか。彼女の表情を伺っていた由宇が一応のフォローを入れてくれる。
「ああ、瑞希っちゃん、それは“別々の原稿を右手と左手で同時に描けるか”ってことや」
「そんな器用なこと出来るわけないわよ」
「なんや、そないなことも出来へんかったんかい。ホンマに初心者やったんね」
「だから最初からそうだって……」
「けどこのくらいは出来るやろ?」
由宇はどこからともなく取り出した漫画専用紙を左手で壁に押さえると、これまたいつの間にか取り出していたGペンを右に握り紙に向かって突進させた。
「うりゃあああ! 炎のペン!」
凝視する瑞希の目前で焔が軌道を描いた。動き始めた由宇の手先から突然火線が迸り、空に跡を残す。
「え? え? ええ〜っ!?」
「何を驚いとんねん。こんなん基本中の基本やないか」
隷属遺伝子騒動が無ければ講談社から某特別チームが人体発火として取材に来ても不思議ではない現象である。瑞希は目を丸くして横にいる詠美の肩を握って揺さぶった。
「そんなの出来るわけないじゃない! そうでしょ!?」
「は? あたし出来るよ。こんなの出来てとーぜんじゃん」
「う、嘘ぉ!?」
「もしかしてあんたこれも出来ないの? マジマジマジぃ〜? うざったいくらい多いへっぽこサークルの作家でも出来るわよ、こんくらい」
さも当然の涼しい顔しかしていない詠美に、瑞希の常識はマグニチュード8クラスに揺るぎつつあった。唖然とするしかない同人未経験者に、六甲の雌虎はなおも赤熱の解説を続ける。
「最初はペンと紙の摩擦で火を出すことから始めるんやけど、そのうち空気との摩擦でも炎が出るようになる。そしたら一応及第点やね」
「だいたい、こんなことどんな役に立つっていうのよーっ?」
もはや論理的否定をしてアイデンティティを防ぐしか手だてはない。これを専門用語で合理化といい、今の瑞希に残された精神的解決方法の最後の砦であった。
「何言ってん瑞希っちゃん。これほど役に立つテクはあらへんで。ペン入れした直後にインクが熱で乾くんやから、滲まんしすぐ消しゴムかけても大丈夫やしで、時間は大幅に短縮される。秘技・原稿二枚返しと併用すればペン入れと同時に仕上げまで出来るんやで」
「はううぅぅ……」
「一流の作家になるとペン先が光速を超えると謂われとるんや。すると描こうとする前に原稿が仕上がっとるんやで。便利やな〜。基本にして奥義とはまさにこのことや」
「そんなパラドックス、古典的過ぎるわよーっ!」
完全に自我防衛方法を閉ざされたアダルトタッチなカードマスターピーチには既に逃げ場が無くなっていた。どうしてちょっと売り子ついでにコスしただけでここまでしなければいけないのか、との疑問が浮かぶ余裕さえ今の彼女には無かった。
「しゃーないなぁ。それやったらもっと簡単な基礎からやな」
瑞希の狼狽えぶりを見て取った中堅同人作家は一応やさしめにフォローをしてあげた。それでも瞳の奥に妖しく燃える揺らめきは未だ健在なのであった。
「じゃあまず気合いの入れ方から始めよか」
「気合い?」
「そや。同人はすべからく気合いやで。テクなんか後からいくらでも着いてきよる。気合いがないのにテクだけあっても邪道に陥るだけや。外道サークル『cat or fish?』がいっちゃん悪い例と覚えとき」
「パ、パンダぁ〜っ!」
噛みつこうとする最悪例主催者の顔を押さえ、由宇は8割ほど真剣な表情で解説を続ける。
「ただ気合いかて段階はある。最初からプロレベルはさすがにムリや。まずは入門編から始めなあかん」
「そ、そうね」
一応尤もらしい説明を受けて、瑞希は相づちでも打つかのような感じで頷いていた。本当はもうこんな所逃げ出したくて仕方がない。
「んで今日は長年こみパを見守り続けているこの人に特別コーチとして来ていただきました。パンパカパーン!」
由宇がすいと横に動くと、その後ろに女性が一人立っていた。一見警備員のような制服に身を包み、落ち着かずそわそわしている。少しずれた眼鏡がとぼけた感じを醸し出していた。
「ね、ねぇ由宇ちゃん、私スタッフだからそんなに時間が……」
「まあまあ、牧やんだって新鋭同人作家の誕生に手を貸すのは本望やろ?」
「それはそうですけど」
この女性は一目で年上だと分かった。どこがどうと箇条書きに出来るわけではないが、外面の柔らかさの中にも一縷の信頼と落ち着きが垣間見える。
それまで年下の女の子にタメ口までされて、とかく気の置けない状況に陥らされていた瑞希には多少頼りなさそうでも年長者が来てくれたことに安堵が生じた。
「えーと、会場運営係の方ですか?」
「あ、はい。牧村南と言います。よろしくお願いします」
物腰低くあちらから頭を下げて来た。遅れて慌てて瑞希も自分の名を言って挨拶をする。こんな半変質者が何万人と集う会場内でまともな常識人に会えたのは、瑞希にとって珍しさを通り過ぎ感動ですらあった。
とにかくすぐにでもこの異様な場から解放してくれるよう頼んでみようとした矢先、彼女から話を切りだした。
「あの、それでは時間もないので早速特訓開始しますね」
「す、するんですかぁ?」
出足を払われた瑞希はさらに南が何かを取り出すのを目撃した。もじもじと後ろ手に隠して持っていたのはその手の必須アイテム・竹刀であった。
「では九十九里浜に移動しましょう」
「って待ってよ! この格好で海岸まで行けるわけないじゃない!」
「そんな……もうジープまで予約しちゃったのに、今更言われても隊長困ります」
竹刀と逆の手を口まで持って行き、斜め下に俯いてとても悲しそうな顔をしている。しかも自称“隊長”。これで砂丘と来たらすることは一目瞭然である。瑞希はぐるっと身を翻し、由宇に掴みかからんとする勢いで談判した。
「ちょっとぉ! どうして海岸でジープに追われて竹刀で叩かれながらマラソンしなきゃならないのよっ!」
「走り込みは全ての基本やないか」
「それと漫画とどう関係があるのよっ!?」
「じゃあ光線出すのとしばきとどう関係があるのか言うてみ」
「それはあたしが聞きたいわよっ!」
由宇は“やれやれ”とでも言いたげな面持ちで次のカリキュラムに移ることを告げた。
「っていうかもういいから私を自由にしてぇ!」
「なに言うとんのや瑞希っちゃん。一度思いこんだら星を掴むまで振り返らないのが人生っちゅうモンやで。諦めたらあかん」
むちゃくちゃな論理に瑞希が反論を試みようとする前に、由宇はまた別の一人を目の前に連れだした。
「こ、こんにちはです。塚本千紗といいます。よろしくお願いしますです」
「え、は、はい。よろしく」
疝気に逸らされるがごとく、瑞希の怒りはこの小さな女の子の畏まり方に霧散されてしまった。それにしても今度は何なのだろう。紹介されたこの女の子は不安げに振るえてすらいて、とても自分に何をか指導できるとは思えない。
「あの〜、それでは早速作業を始めていただきますです」
「作業?」
「はいです。まずは製本の方法からです」
「製本?」
訝しげにオウム返しする瑞希に、由宇が明朗な声で説明をしてきた。
「同人たる者、売り手でも買い手でも本の出来方を知ってないのは手落ちっちゅうもんや。現場の苦労も知らんとあぶく銭ばかり掴もうとしくさる高級官僚にはあんたも頭に来るやろ?」
「それはそうだけど」
「やろ? 同人界でもな、箸にも棒にも引っかからんクズ同人誌を原価の10倍近い値段で売っとるド外道サークルがあるんや。その名も『cat or fi……」
「パンダぁ〜っ! それ以上世迷い事言ったら天が許さないんだからあっ!」
由宇と詠美はまた別の方面へと行ってしまったようだ。残された瑞希は仕方なく小さな教官の指導に耳を傾けた。
「はい。ではこの印刷物をこう順番に並べていただいてですね……」
瑞希はちらと千紗の背後を見た。いつの間にやら運び込まれていた数万枚にも及ぶであろう用紙がホールに堆く積まれている。
「千紗ちゃん、あなたのおうちってもしかして印刷所かな?」
「にゃあ! ど、どうしてそれを知ってるですか?」
ギロリ
瑞希は、高校生のはずなのに小学生にしか見えない末妹に手を掛ける男を睨む長女のような眼光を千紗に照射した。
「にゃ……にゃあ。で、ではですね、これは止めて次にページを留めて本にする製本機の使い方を……えと、説明書、説明書が見つからないですぅ」
ギロギロッ
「にゃにゃにゃあ〜。そ、それでは次に出来上がった本の配達の実習をですね……」
ギロギロギロッ
「さ、最後にブースでのお手伝いの方法を……」
ギロギロギロギロリッ
「にゃあ〜〜〜っ! 瑞希のお姉さん怖いですぅ」
髪のリボンが未だ愛くるしい小学生……ではなく高校生の彼女は、大学生になって一段と世間ズレした瑞希の威圧に断崖絶壁の縁まで追いやられていた。もはやこれまで、と覚悟を決めかかった千紗の記憶に、ニューロンの発火が一条の光のごとく励起された。
「そ、そうだったです。こんなこともあろうかと教えて貰った対処法を覚えておいたですよ。えと……『むふふふ。バレちゃったよーね。実はこの小娘の身体はゆーれいのあたしが乗っ取っているの!』」
「……」
「……」
瑞希の精神ゲージは刹那冥界最下層付近にまで急落したが、直後に元の位置まで回復しさらに徐々に上昇していった。もちろん喜びとか感動方向への伸びではない。
「『あたしは入稿寸前に交通事故で死んじゃったちしばり霊よ! 可哀想? そう、そう思うわよね!? あたしってばぱーへくとに不幸な美少女なんだから!』」
「……」
「……」
力の限り台本棒読みの自演をしている千紗に、ブルーLEDに似た凍る視線が二つ注がれている。少しはアレンジすれはいいのに、下手に記銘力抜群なのが彼女の不幸でもあった。
「ううっ、そうだったです。とってもとっても可哀想な人ですよ。それからそれからぁ、『あんたたち、あたしをじょーぶつさせたいと思っているわよね? いいわ。あたしの最後の原稿を製本したら天国へ行ったげる。でももし逆らったりしたら、この座敷童にいっしょお取り憑くんだから!』 え、そうだったですか? でもでもぉ、そうすると幽霊さんと千紗はお風呂も一緒寝るのも一緒ですね。にゃああ〜〜、おトイレも一緒ですぅ。それは困りますですぅ」
急に狼狽えだしたつかもと印刷一人娘のマスクofぎやまんは既にひび割れつつあった。
「ふにゃああ……詠美のお姉さん、助けてほしいですぅ」
「バカバカバカバカーっ! あたしの名を出すんじゃなーい!」
右の拳を堅く握りしめ一歩前に出ようとしていた瑞希を、由宇が左右に首を振りながら肩を掴んで止めた。常なら真っ先にハリセンでぶっ叩いているはずなのに、あまりの哀れさに憐憫の深いため息をつくのが精一杯である。
よくよく見ると積まれている本の後ろには全て『cat or fish?』の奥付が入っている。口論中の詠美が突如戦線を離脱したので、対戦相手だった由宇はその積載物を一回りして正体を確かめた。
「はー、締め切り日までに原稿間に合わなかったんやね。それでも無理矢理千紗ちぃに印刷させたんやけど、結局製本までは出来なかったんやろ?」
「ぎくぎくぎくぅっ!」
「どうせ大バカ詠美のことやから、全部千紗ちぃの責任にした上に入れ知恵して誰かに手伝わそうって魂胆やないんか?」
「ぎくぎくぎくぎくぎくぅ〜っ!」
狼狽える千紗とさらに上回る自失ぶりの詠美に、瑞希の冷たい視線は容赦なく降り注がれていた。
「にゃあ〜っ! 詠美のお姉さん、やっぱり悪いことは出来ないようになっていますです。早く一緒に謝るですよぉ」
「ふにゅううう……。きょ、今日はこれくらいで許しといてあげる! 覚えていなさいよっ!」
タタタタッ
「ああっ、待ってほしいですぅ! ふえぇ……不況期だと、うちみたいなよわっちぃ印刷所はお得意さまに逆らえないですよぉ」
パタパタ……
トロッコに山と積まれていた用紙があったにしては異様に素早い撤収をして、詠美と千紗はホールから姿を消していった。本来なら二人の襟首を捕まえているはずの由宇も、あまりの情けなさに後を追う気になれず長息を吐いていた。
「ま、ええわ。次行こ次」
「ってまだやるのぉ?」
あっという間に立ち直った由宇はさらなる特訓スケジュールを敢行すべく、最後の助っ人を呼び寄せた。
クイッ
「え?」
瑞希は背後から袖を引っ張られるのを感じて怪訝に振り向いた。華やかな服飾が多数靡いているこの場において、それだけはぽつんと浮いて……いや沈み込んで“居る”という認識すら困難に感じる。長く腰まで伸びた見事な黒髪は手入れがそれほど行き届いていないように見えるにも関わらず、同性の瑞希からしても羨ましいほど艶やかに照り返っている。
「おお、来たかい。わざわざ呼び出してすまんかったな」
ふるふる
その女の子は顔の表情を変えずに首だけ横に振って意思表示をした。濃い目のグリーンガーネットを想わせる大粒の瞳が二つじっと瑞希を見つめる。
「こんにちは……長谷部……彩です」
喧噪でほとんどかき消された声の中に、辛うじてそのような淡い挨拶が聞いて取れた。注意してようが耳が拾い逃してしまっても仕方がなさそうな音量である。瑞希の方も丁寧な自己紹介をしようと唇を開きかけたが、直前に彩がふるふるとそれを遠慮する。まるで訪問客からの菓子折を謙ってお断りする接待主のようだ。
「知ってます……」
「え? そうなの?」
コクリ
瑞希としては初対面のはずなので、彼女が一方的に自分を知っていたのだろう。とするとあいつがこの子と知り合いで、それでこの子は私を覚えていたんだ、と瑞希は素早く状況分解析と相関図再構築をした。ついでにどんな関係なのかをじっくり問い質す案も即決している。
それにしてもこの子はどういった特訓をするつもりなのだろう、と瑞希は様々に想像した。気合いとか根性とかにはほど遠く見えるし、ペン先から炎を出せる特技があるようにも思えない。ましてやコスプレクイーンだったり非常識な買い手を上手に捌ける売り子の達人では無いであろう。
前回と同じくまずは由宇から次の説明が為された。
「さっきの眼力で気合いはもうあることは分かったわ」
「ち、違うの。あれは」
「まぁええやん。あの気合いを原稿にぶつければ必殺技修得も遠い先じゃないで」
そんなもの得たくもない、未だ一般人を捨てきれない瑞希であった。
「長谷やんはな、こう見えてもなかなか渋いテクを持つ同人作家なんや。単に上辺だけ派手などこぞの大バカと違うて、玄人好みの本格派やねん」
「へぇ〜、そうなんだ」
渋いとか本格派などと言われても具体的にピンとこないのだが、何となく分かるような気がして瑞希はふんふんと頷いた。
「いえ……そんなことありません」
彩はふるふると否定しながら遠慮がちに謙遜を示す。そして顔を上げてこうも続けた。
「それに……詠美さんはすごいです。私なんてまだまだ……」
「友達だからってあーんなスカタンの肩もたんでええんやで。あんたも少しははっきり言うやったほうがええねん」
「いいえ……本当に……」
それっきり押し黙ってしまった彩に、由宇は「ま、あんたがそれならええけどな」と区切って話題を変えた。
「まぁそういうことで、同人目指すんならいい見本を知っとくのが一番や。間違って、どこぞの外道のようにただ売上伸ばしたいがための手抜きを最初に覚えたら、もう終わったも同然やで」
「だから……詠美さんはそんな……」
「むふふふ。やーっぱ彩Pはあたしのことよく分かってるじゃなーい。その忠誠心に免じてこんどはもっと原稿描きの手伝いさせてあげるからね」
底抜けに脳天気な自己賛美が会話に割って入ってきた。視覚で正体を確認するまでもなく、由宇のこめかみにピリリと青筋が走る。
「おんどれ、さっきの今でようツラ出せたな」
「ふふーん。あたしってば同人界のちょお女帝だから、ちょおっと声を掛ければ製本手伝わせていただきますってファンなんて選り取りみどりよ!」
「どーせ原価200円もしないたわけた新刊を一冊タダでやるとか抜かして働かせてるんやろ」
「う、うっさいわね! じんぼーよじんぼー! パンダと違って人間の仲間が多んだからっ!」
また再会された口喧嘩に、瑞希はげんなりと肩を落としていた。
クイッ
「え? 何?」
クイックイッ
「そっちに行くの?」
コクリ
彩のか細い指が瑞希の袖を掴み、病的なまでに白い腕でどんどんどこかへ引っ張っていく。髪型のため一見して分からないが、瑞希より彩の方が僅かに身長が高いようだ。それとプロポーションは瑞希の方が良い、というより彩が痩せすぎているため、フラフラと歩いている彼女はまるで重い荷物を引っ張っているかのようだ。しかも瑞希の衣装が今や表人気No.1キャラであり、加えて着ている人間の素材の良さもあって、二人の歩く姿に視線が集中している。
注目されることに慣れていない瑞希は恥ずかしくて自然と壁際寄りをコソコソ歩くようになった。彩の方は視線が注がれていることにすら気付かず、普段通り短い歩幅で長めのスカートを床に摺るようにペタペタと進んでいる。
「ねぇ、どこまで行くの?」
いくつものホールに分かれた広い会場をしばらく歩くと、さすがに少し疲れた瑞希が彩に尋ねる。一つのホールの幅が数百mもあってそれが横に並んでおり、しかもコンサートホールまで途中にあった。今日は有名声優アイドルのイベントがあるらしく、入り口付近には既に長蛇の列が出来ている。そのため一方通行の廊下が多く遠回りを余儀なくされ、結局1km近い距離を歩いてきたことになった。
「あそこ……です」
やっと着いたらしい。彩は一度立ち止まってカタログで会場案内図を確認した。そして図面とホール入り口の掲示が一致していることを確認して中に瑞希を引っ張った。
「えーと、ここは……企業ブース?」
入るときに横目でちらりと掲示を見た瑞希は、中に入ってその意味を実感した。他の同人誌即売会場と違い、間を広く取った大きなブースにボックス型の簡易店舗が設営されている。展示品も本ではなく、キャラクター商品や新作ゲームプレゼンのためのモニターテレビが多い。同人誌会場と変わらないところは、ここでも人気企業には長蛇の列が続いていることだ。
入ってすぐは歩みを止めてきょろきょろと辺りを見回していた彩だったが、一点に何かを見つけた途端一直線にそれに向かって瑞希を引いていく。
「え? これ?」
コクリ
それは町中のゲーセンでよく見かけるダンスゲームであった。家庭用移植版が近々発売されるらしく、それの先行展示がなされているのだった。モニター画面とコンシューマ機器、それと床には専用コントローラつまり足踏みマットが並べられていて、何人かが試しにプレイしている。ゲームショーであるならばプレイヤーがずっと並んでなかなかプレイできなかったであろうが、同人誌即売会がメインの本日においては脇役でしかないようだ。それでも一通り目当ての同人誌を買い終わった人間があと1時間もすればここに集まって暇を潰し始めることだろう。待ち時間無くプレイ出来るのは今の内だけだ。
「これが特訓と何の関係が?」
「とても……難しいです」
「は?」
瑞希が横に並んでいる彩を見ると、小さな拳をぎむむと握りしめて真剣な目をしていた。先程までと同じく無表情なのだが、今は熱意に溢れている……ような気がする。まるで数百回も相対した積年の敵を前にしているみたいだ。
「あたしがやるの?」
コクリ
「いいけど……私、ゲームなんてしたことないよ」
「頑張って……ください」
瑞希は空いていたモニターの前に行き、コントローラーのスタートスイッチを入れた。よく解らないがとにかく矢印と同じプレートを踏んでいけばいいらしい。曲のセレクトは一番簡単なのからにした。僅かにCDが回る音と読み込みのため機械が動いている音がして、すぐにゲームが開始された。
「えーと上・上・下・下・左・右・左・右……っと」
初体験&初挑戦ではあったが、持ち前の反射神経と動体視力で次々バーを消していく。選んだ曲は初級者用だったのだがラストでは流石に難しいパターンが多く、ゲージが赤く点滅してのぎりぎりオールクリアだった。
「やったぁ! クリア出来たわ! でも一番簡単なレベルなんだから当たり前かな。今度はもう少し難しい曲に挑戦してみようっと」
瑞希はモニターに映るゲームオーバーの文字を確認した後、彩の居る後ろを振り向いた。
じわ……
「え?」
そこには瞳の両端に滴を湛えた彩が何やら居たたまれなさそうに立っていた。口惜しい、との感情がどことなく伝わってくる。しかしそれは瑞希に対してではなく、自分の不甲斐なさへの憤怒のようであった。
「あの、どうしたの? あたし、何かした?」
瑞希の問いかけが全く聞こえていないのか、彩は何も答えず、代わりに懐から光る円形物を振るえる手で取りだした。そしてどうしてよいのか分からずにいる瑞希の頭から幅の広い紐を通し、首に掛けて胸の前に金色の輝きを置く。
「これ……お父さんの形見……金メダル」
「はぁ? あ、ありがとう」
彼女の意味不明行為に、瑞希はお礼を言うしか思い浮かぶことがなかった。
「もう……」
「え?」
「もう、あなたに教えることはありません……」
ダッ!
来たときの歩みの遅さが信じられないほどの速度で、彩ははらはらと大粒の涙を散らして会場を駆けだしていった。
「ちょっ、ちょっとぉ!?」
理解不能な突然の彩の脱兎に、瑞希は後を追いかけるすべもなく呆然と立ちつくしていた。こんな一面なら誰でも一回目でクリアできるようなゲームをさせられて、しかも悲しそうに逃げ出されては一体どうしたらいいのか思考がまとまらない。
だんだん正気に戻ってくると、周囲が騒がしくなっていることに気付いた。いつの間にか十数人のギャラリーが足を止めて自分に注目している。そういえば自分の今の格好は……。
「しまった!」
瑞希は心の中でそう叫んだ。セーラー服でダンスゲーをする女の子は頻繁に見かけるようになったので今ではもうそれほどの新鮮さはないが、アニメのコスプレして踊る女性を町中で拝むのはほぼ不可能であろう。展示会社の社員などは、これを広告に使おうと写真まで撮っている。
「ど、どうも〜」
かなりレベルの高いピーチコスプレイヤーは愛想笑いを振りまいて素早くその場を立ち去った。髪型も変えているし後ろ姿だけしか撮られていないし、もし雑誌に写真とか載ってもバレないわよね……と祈るように自分を慰める彼女であった。
「あ、瑞希っちゃ〜ん、どないしたん?」
廊下まで出ると向こうから由宇と詠美が早歩きで近付いてきている。異世界に異端な格好で一人放り出されていた瑞希には、繁華街で迷子になった幼子が母親を見つけた途端に泣き出す心境が理解できた。
「こっち、こっちー! ああよかったぁ」
「いつの間にか居なくなってるさかい、びっくりしたで」
「それにしても、よくここにいるって分かったわね」
「あんた探しているうちに長谷やんに会うてな、ここにいる言うから来てみたんや」
なるほど、と瑞希は合点がいった。コスプレホールからここまではほとんど会場の両端同士の位置関係にある。本来なら一度はぐれたら二度とは会えかったであろう。
「それにしても瑞希っちゃん、あんた見直したで」
「え?」
「あの長谷やんを泣かすほどの才能を持っとるなんて気付かなんだわ」
「ちょおむかむか〜っ! 彩Pだけでも生意気なのに、まだこのあたしの女帝の座を狙おうなんて女がいるのね〜っ!?」
「大バカ詠美は長谷やんの爪の垢でも煎じて飲んだらさっさと帰って寝とらんかい」
「な、な、ぬぁんですってぇ〜っ!」
またまたまたTPOに構わず不毛な口論が開始される。起爆剤の一端となった自分への評価を理解できず、瑞希は「え? え?」と疑問の渦を脳裏に渦巻かせていた。
「あのぉ、どういうことなの?」
「どういうって長谷やんがあんたのこと、すごい実力で私なんて足元にも及びません、なんて唇を噛みしめて言うたんや」
「ふにゅう。あれでも彩Pはあたしと合体本が出来るくらいいちおー実力はあるんだから。あの子以上に上手い絵描きがそんなゴロゴロいられたら、あたしが困るの!」
何が困るか、という追求は藪蛇になりそうなので瑞希は口を噤んでいた。とにかくこの二人は何やら彩の言動を誤解しているようだ。詳細説明及び訂正を為そうとしたが、先に由宇の強引さが早かった。
「なら行くで」
「は?」
「打っても響かん子やねぇ。とにかくこっち来いや」
彩同様由宇も瑞希の意向に何の構いもせずどんどん手を引っ張っていく。もう半ば諦観状態の瑞希は、やれやれとため息を付いて歩速を合わせた。複雑な回廊を数分進むとまた元のコスプレ会場にたどり着く。やっと休めると気が抜けかけた瑞希は、自分を引く手にここで止まる意志がないことを感じた。
「どこまで行くの?」
「もうちいと先や。パンピーには知られてない通路があってな」
「知られてない、って……」
「ああ、ここや」
由宇は振り返って慎重にキョロキョロと見回すと、そこにあった扉を素早く開けて瑞希を引っ張り込んだ。僅かに遅れて詠美も飛び込む。出入り口は静かに高速で閉じられ、会場から3人の女性が居なくなったことに気付いた者はなかった。
扉の裏にあった階段をさらに数分昇ると厚いドアが果てに待っていた。施錠はしてあったもののつまみを回せば解除できるほどの簡易な警備だった。開けた途端に空調で加工されていない風が吹き込んでくる。幾分か排気ガスに侵されているものの、自然な肌触りが瑞希の頬にそよいだ。
「へぇ、ここって屋上に通じてたんだ」
「まあな。でも牧やんに知られたら鍵かけられるから内緒やで」
「あー、言ーてやろー言ってやろー。パンダの抜け穴言ってやろー」
「アホが。ここまで着いてきたらあんたも同罪や」
「ぬくくぅ……」
こんな言い合いはしているが、詠美が疑問無くここまで着いてきているのは実は既知だったからであろう。つまり知ってる人は知っている場所なのだ。
「ふぅーん。みんなここで息抜きをするのね」
「そんなことや。でもな、使うときは気ぃ付けんとあかんで。先客が居る場合があるからな」
「これだけ広いなら、別に一緒にいてもいいんじゃない?」
「ただ休んどるダケならええけどなぁ。むふふ……たまにイタしとるカップルもおんねん」
「ええ〜っ」
「ホンマならこみパでそないことする輩はどついたるとこやねんど、ウチも馬に蹴られるのは堪忍や。そやさかいに、黙認しとるっちゅうわけや」
確かに多少声を出しても誰にも聞かれないだろうし、屋上であるここを覗ける場所も他には存在しない。恰好といえば恰好の密会場所になり得る。
「さて、それはそうとして、ウチらも始めよか」
そう言って由宇はどこからともなく持ち出したロープを握っている。顔には妖しげな笑みを浮かべ、にじりにじりと瑞希に歩み寄る。
「な、何をするの?」
「ここまで来て“何を”はないやろ。そんなおぼこみたいに白々しい事言わんでもええがな」
「ちょ、ちょっとぉ……」
瑞希は手すりに沿ってじわじわと下がるが、すぐに角に追い込まれて退路を断たれた。逆光で影となっている由宇の顔に眼鏡だけが白く光る。
「詠美ちゃん、助けてよ〜っ!」
「別にいーじゃんそのくらい。パンダは縛るの上手いから大人しくしてたほうがいーんじゃない?」
「そんなぁっ!」
いつもは油と水のくせにこのときに限って由宇の行動を邪魔しようとはしない。協力的でもないのが救いだが、傍観しているだけなら共犯者と変わりない。
「ふっふっふっ……痛くせんから安心せいや。すぐ済むかんね」
「い、いやああぁぁぁ〜っ!!」
「って、そこまで大げさに嫌がらんでもええやないか」
「う、うん」
瑞希の腰と両肩には先程のロープが巻き付けられている。ただし手足の自由は損なわれておらず、ただ解けないようしっかりと結びつけられているだけだ。
「いっつも完売当たり前のあたしと違って、パンダは売れ残りの在庫抱えて泣く泣く山に帰る運命なのよ。だから荷物縛りが異常に進化しちゃって」
「ここで勝負してもええんやで」
「きゃー、パンダが野生化して怖〜い」
まだ充分余りのあるロープの端を由宇はブンブンと振り回してちょお女帝様を威嚇している。詠美の方は、久しぶりに技ありを取って気分がいいのか必要以上につっかかることはしなかった。
「あの〜、それでこのロープどうするの?」
「あ、そやった。瑞希っちゃんの特訓が先やったな」
「まだやるのぉ?」
予想していたこととはいえ、そろそろいいかげん解放して貰いたい瑞希であった。第一このロープでどんな特訓を……と考えた瑞希の脳裏に真っ先に最悪の結論が弾き出された。無意識的にも意識的にも身体が柵から遠ざかる。
「じゃあ説明したるわ。まずこの紙と鉛筆とペンを持つんや」
「え?」
「え?やない。ほれ、持ってや」
「これでいい?」
「そしたら後は下書きしてペン入れするだけや。簡単やろ?」
「う、うん」
漫画は描いた事なんて無いから簡単ではないのだが、先程予想した特訓内容より安全であるのは確かだ。だとしたらこのロープは一体なんのためなのだろうか。
「じゃあ紙を落とすで」
「は?」
「は?やない。ウチが落としたらスタートや。同じなこと何遍も言わせんといてぇな」
さすがの瑞希も情報の統合に時間がかかってしまった。そして導き出された結果に血の気が引いていく。いくらなんでもそれは……と崩れそうになる自我に最後の抵抗を示し、ひきつる表情に堅い笑みを張り付けた。
「えーとぉ、それって落とした紙と一緒に飛び降りて漫画を描くとか、そーゆーことだったりしてぇ。あははは、本当に猪名川さんってば冗談きついんだからぁ」
「最初やけどそのくらいはできるやろ」
最初に予想した最悪の結論は、信じたくないことに的中してしまっていたようだ。水たまりの上に張った薄氷が割れるように、瑞希の瞬時に凍り付いた表情にひびが入る。
「いやああああ〜〜〜っ!!」
次の瞬間、脊髄反射に近い速度で瑞希の脚は出入り口に向かってダッシュしていた。思考とか感情とかを使う余裕は既に無く、低次の生存機能だけが彼女を支配していた。しかしその懸命さも虚しく、身体にしっかと固定されていたロープは無情にもドアに辿り着く寸前にピンと伸びきって進行を停止させた。
「長谷やんをびびらせるほどのあんたが何を乱心しとんねん」
「は、離してぇ〜!」
瑞希と繋がるロープを両手でしっかと握りしめ、由宇はぐいぐいと逃走者を引き寄せる。既に瞳は尋常でなく、狂気の火種が可燃物の前に到着した状態であると感知できた。
「ホンマならこの特訓は中級者レベルなんやけど、金メダル同人ならこんくらいはせんと不足やろ?」
「出来るわけないわよ〜っ!」
「慣れてきたら明石海峡大橋の天辺からダイブするんや。波間に浮かべた樽に乗っけた用紙を描けたら卒業やな」
さも実行経験があるような口調で由宇は修行過程を語る。瑞希は、つまりはそのうち自分にさせるつもりなのだと、戦々恐々のうちに悟った。
「あ、あたしは漫画なんて描く気はないんだってば!」
「『炎のペン』と『原稿二枚返し』を合わせ、さらに集中力を究極にまで高めて可能な技『原稿居合い描き』や! これが出来てやっと一人前の同人作家やで。」
「あたしの話、聞いてる!?」
「しかもペンを超光速で動かせば、位置エネルギーを使って時空の歪みを上乗せ可能。つまり飛び降りる高さが高いほど、描く前に完了している原稿の枚数が多くなるっちゅうことや。締め切り間際のプロなんて東京タワーの常連やで」
「全然聞いてない〜っ!」
勝手に燃え上がっている由宇には最早瑞希の声は届かないようだ。荒波に漂う藁をつかむように、特訓被験予定者は狂気の教官にこの場で唯一対抗できうる存在へと救助を求めた。
「詠美ちゃん、あの子に何とか言ってよ! こんなこと出来るわけ無いじゃない! そうでしょ!?」
「あたし出来るよ」
「え?」
「今朝もレインボーブリッジでしてきたとこなんだから。んでそのままあの座敷童の印刷所に入稿。やっぱあたしってちょお天才だし!」
「ええ〜っ!?」
「なになになにぃ〜? そんなことも出来ないの? まじまじぃ〜?」
高級貴族が貧民を見下す目つきで詠美は瑞希を見ていた。冗談とか芝居とか嘘とかを一切含んでいない、憐れみの視線であった。
白く意識がフェイドアウトして数秒後、瑞希は柵を越えた欄干にその身を置いていた。安全地帯と同じ速度なのに、その場の風はいやに強く感じる。
「はにゃ〜ん」
「おおっ、コスプレキャラの演技もするとは流石に余裕やな」
というか既に現実逃避であった。一応専門的には反動形成を含んだ解離性の意識障害という。由宇が、紙と一緒に飛び降りれば数秒は描く時間があるから楽なんやで、などと説明している声が耳に届いてはいた。しかし瑞希の意識にそれを充分認識する余裕はないのであった。
下から風が吹き上げてピーチの短いスカートをまくり上げる。地面を通る人間の頭が小豆ほどにしか見えないここの高さでは、幸か不幸かそれは通行人に発見されることはなかった。
「そんじゃ行くで。3・2・1……」
「あ、いたいたぁ!」
突然ドアが開いて快活な口調が外へ出てきた。まさに紙を離さんとしていた由宇の指がピタリと止まる。
「なんや、玲子ちゃんかいな。どないしたん?」
「悪いけど、瑞希ちゃん貸してくんない?」
「ほええ〜?」
自分の名が呼ばれて、瑞希は朦朧としながらも反応だけはした。屋上への出入り口から長いマントと黒いスーツを着込んだ女の子が近付いてくる。細身で紫っぽい光沢のショートカット姿は、身長の高さもあって男性キャラのコスをするのに申し分ないルックスである。
「そろそろ即売会場のブースに行かないと、この子のカレシに見せる時間なくなっちゃうから」
そう言って玲子は柵外にいた瑞希を内側へと引っ張り込んだ。ロープは堅く結ばれていたので一人ではなかなか解けなかったが、由宇がポイントを指示してやるとすんなり緩んで簡単に外せた。
「しゃあないなぁ。もうちっと特訓したかったんやけど」
「ああっ、そーいえばあたしってばブースを売り子に任せたままだった! スケブもまだ山のよーにあるんだったぁ! ふにゅうう……」
「げっ、しもた! ウチも新刊放り出したままやったわ!」
「パンダの本なんて人間に読めないんだから、居ても居なくても同じじゃん」
「なんやてコラ。あんたんとこのちり紙にもならんクズ本に比べたらなんぼかマシやわ。あ、外道と比べたりしたらウチの本が可哀想やったな」
「ちょおむかむかぁ〜!」
いつまで経っても終わろうとしない喧嘩を尻目に、玲子はぼうっとしている瑞希の手を引いて再び会場内へと戻っていった。そして更衣場でもう一度ピーチの服装を整えてやって、即売会場へと押していく。
「瑞希」
「はにゃ〜」
「瑞希!」
「ほえぇ〜」
「おい、瑞希ってば!」
聞き慣れた低めの声に意識は鮮明へと戻っていった。目の前には本が平積みで置かれており、その向こうで頬を僅かに赤く染めた青年が立っている。
「瑞希、その格好……」
「え……あ、こ、これは、その……」
今度は彼女の方が真っ赤になる番だった。前日までに覚悟は決めていたはずなのだが、いざ本人を前にすると真っ直ぐ顔を見られない。厳密ではないが気まずい部類と近しい空気が二人の周囲を硬直させる。どちらも先に言葉をかけ出せないで、動くのも止まっているのも居たたまれない。
「おおっ同志瑞希よ。我輩がにらんだ通り、ピーチのコスが超絶似合うではないか! 少し育ちすぎではあるがな」
「な、何よ! あんたが選んだんじゃない!!」
固まっていた時空はそれで一気に従来の流転を回復した。隣で売り子をしていた小径丸眼鏡の男はニタニタと掴み所のない表情で率直な感想を述べ、瑞希はそれに対し感情のみで構成された返答をする。
「ふふ……これならば吾輩とまいはに〜、そして同志瑞希の三英傑でおたく界を支配するのも時間の問題であるな。次から同志瑞希も原稿描きに加わることに同意してくれるだろう」
「それだけは嫌っ!!」
「な、何だよ瑞希。そんなに拒絶することないじゃないか」
「とにかく嫌あっ!!」
ここのサークル主催者兼メインライターの彼には、何があったのか知らないが彼女の頑なな拒否が以前より酷くなったような気がした。まだまだ瑞希の同人漫画への偏見は解けそうもないのであった。
終わり
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こんにちは
これも2年前にNIFに登録した作品なんですよね〜。っていうか2年もリーフ系SS書いてないのか。ヤバッ。
DC版『こみパ』は下手したらDC版『AIR』より後になりそうな感じがしますね〜。まぁ両方買うからいいけど(笑)。
それと前回はミスとトラブルが重なって3回も同じものを登録をしてしまいました(しかも何故か削除できず)。申し訳ございません。
e-mail:KHF11063@nifty.ne.jp