……約束の時間より早く来てしまった。 持ち合わせの場所に、まだ彼女はいない。 僕は、上着のポケットの中に手を入れると、空を見上げた。 冬の空は、青く澄みきってる。 ……『あの事件』から、数ヶ月たっていた。 あの時の記憶も薄れ、平穏な時間が過ぎていく。 まだ傷痕が癒えない者を残して続く、静かな日々。 だがそれは同時に、僕にとって…。 僕と沙織ちゃんが付き合うようになってから数ヶ月。 自分が意外とよく喋ること。 自然に笑えること。 素直に、楽しいと思えることが増えたこと。 そしてなにより、僕が『僕』であること。 沙織ちゃんは、たくさんのことを僕に教えてくれた。 自分でも、気が付かなかった『僕』を見せてくれた。 『祐くん』 彼女から名を呼ばれるたび。 『祐くん』 僕が今ここに、存在することを。 『祐くん』 失いかけた『僕』を呼び戻す。 新たなる『僕』を呼び覚ます。 彼女が僕の名を呼ぶから。 僕は『僕』でいられる。 彼女が僕の名を呼ぶから。 僕は『僕』を見失わない。 たとえ、僕の心が再び、『狂気の扉』に近づいたとしても。 彼女が僕の名を呼ぶかぎり。 僕は『現実の世界』に戻ってくる。 「うわっ!! 」 突然、背後から誰かに抱き着かれ、僕は声を上げた。 ……こんなことをするのは……。 「えへへ……。待った? 」 僕の背中越しに聞きなれた、それでいて僕を落ち着かせる、いつもの声。 「……寒いね」 そう言うと彼女は、さらに僕に強く抱き着いてきた。 「……うん」 僕は、そう一言だけ返事をした。吐く息は白い。 「くすくす、でも、祐くんの背中は暖かいね……」 「沙織ちゃん……」 僕が彼女の名を呼ぶと、沙織ちゃんは僕の横に移動し僕の腕と自分の腕を絡ませた。 「いこっか? 祐くん」 彼女はにっこりと微笑み、僕を促す。 「うん」 僕も笑顔を浮かべ答える。 そして二人は歩き出す。 確かに色づきはじめたこの世界を。 ===了=== −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−