今日も病棟の奥から悲鳴が聞こえてきた。 どうやら誰かが死んだらしい。 声の主は女性。中年らしい声。 恐らく旦那さんでも死んだのか。 その後に続く泣き声。今度は若い女性。娘さんらしい。 病院にいるとこんなことは四六時中。常に誰かが死んでゆく。 女性の悲鳴、泣き声というのはいつ聞いても、やり切れない思いになる。 僕は牢名主にでもなった気分。2年もいるとそんなもんさ。 まあ、僕には関係ないんだけどさ。 そう、僕には何の関係もないんだ。 だって次は僕の番だもの。 僕もああして、ベッドで一人寂しく死んでゆく。 もっとも僕の場合は、誰も泣きなどしないだろうけど。 ・ ・ ・ 今日も僕は窓から外を眺める。 いつもの時間、この時間、ベルの姿を、僕は探す。 ベルの姿を見つける。 いた。見つけたよ、ベル。 僕はベルの姿を見るだけで、幸福感に満たされる。 君は外を歩き、僕は窓から君の姿を眺める。 途中、立ち止まり、ぽおっと空を見上げる、ベル。 何が可笑しいのか、不意にくすくすと優しげに笑みを浮かべる、ベル。 不意にこちらの方を振り向き、ぼおっと視線を向けるベル。 その視線は僕に与えてくれるもの? その優しげなまなざしは、僕に向けてくれるもの? 君が僕に視線を向けるだけで、僕はどんなに安らぎを得られるだろう。 僕はこうして妄想の中で君と出会い、手を触れ合い、キスをし、交わりあう。 ベル、その靴を脱いで、足の爪先を丸めて、裸足で駆けてごらん。 僕はその瞬間を、永遠の額縁に飾っておくよ。 僕は君に太陽を塗り潰す方法を教えてあげよう。 ・ ・ 2回目の夏が過ぎ、3回目の秋がやってきた。 秋になり、窓の景色にうつる人の服装も、半袖から長袖のそれに変わった。 季節が変わり、ベルの姿が見えなくなった。 長い赤い髪をした娘や、眼鏡を掛けた短髪の娘の姿は今でも見掛ける。 なのに、ベルの姿は見えなくなった。どこへいったのか。 引っ越しでもしたのか。それとも下校の道を変えた? ベルがいるにしろ、いないにしろ、今や僕には窓の景色を覗いて妄想にふける気力すらなくなった。 何をする気も起きなくなり、ただCDをかけて聴くことのみ。 人と話をしないのは相変わらず。ゆえに、僕の世界はもはや完全に僕一人の物。 色んな面倒がやって来ては僕を襲い、そして去ってゆく。 もうすぐ終わりさ。面倒は終わる。 僕にはわかるんだ。終わりだってことが。 ・ ・ ・ ・ 八畳ほどの広さの部屋の真ん中で、僕は寝間着姿のまま、椅子に座っている。 床の上には沸かしたコーヒーを入れたマグカップ。僕の目の前に置いてある。 僕はコーヒーを一呑み。 医者からはコーヒーなんて刺激物、厳禁されていたけど、かまうことない。僕はコーヒーに憧れていたのだ。 初めて呑んだコーヒーの味は、はただ苦いだけで、特に美味いものとは思えなかった。 僕は何をする訳でもなく、ただぼおっとバカみたいに惚おけ、椅子に座る。 やがて部屋の周りから、みしりみしりと軋むような音が聞こえてくる。 周りを見渡す。僕は仰天する。 なんと、「外」が部屋の中に侵入してくるではないか。 部屋を囲う壁の隙間から、「外」が侵入してくる。 入ってくるな、ここは僕の場所だ。入ってくるな。 お前らなんか入ってくるな! 僕は座っていた椅子を、「外」に向けて放おり投げる。 しかし椅子は「外」に捕まり、飲み込まれるようにして、沈んでゆく。 部屋はみしりみしりと音をたて、今にも潰されようとしている。 こうなったら思い切って、「外」に向かって飛び込んだ方が、かえって安全かも知れない。 僕は侵入してくる「外」めがけて、体ごと飛び込む。思った以上に弾力がある。 ぐにゃりぐにゃりとスライムに愛撫されるような感触を受けながら、僕は「外」の中で泳ぐように先へ進む。 苦しい。窒息しそうだ。 何とかもがいてもがいてもがいているうちに、「外」の外へと出られた。 僕は近くにあった木切れに火を付け、ゴミでも燃やすように「外」を燃やした。 小さな火だった「外」はやがて大きな炎に形づき、煙をたてて燃え落ちてゆく。 炎の塊と化した「外」の熱さを肌で感じながら、僕はその熱さを背にし、その場を逃げるようにして走り去った。 それにしても、ここは何処だろう。 取り敢えず、落ち着きを取り戻した僕は周りを見渡す。見覚えのある場所だった。 見たことのある並木。 見たことのある建物。 見たことのある坂道。 間違いない、ここは病院の前だ。 僕が毎日、病室の窓から眺めていた、外の景色だ。 横に病院の建物。前には丘に続く、一本坂。 その向こうに人影が見える。 小さな女の子の影。髪は短く、白銀色。かげろうの様な君。 そう、ベル。丘の上にはベルがいる。なぜ、今、ここに、ベルがいるの? いや、そんなことはどうでもいいんだ。丘の上にはベルがいる。それだけでいいんだ。 僕はベルを追いかけ、丘の上へ、坂道を駈け登った。 坂道を駈け登る僕。ベルの姿を追いかける。 だけど、いつまでたってもベルに追い着くことができない。 坂道はどこまでも続く。いつになっても丘の上に到達できない。 どこまで駆けても丘の上には辿り着けない。全力疾走しているのに、何故なんだろう。 不思議と心臓は発作が起きず、痛みも苦しさも感じない。寧ろ走れば走るほど壮快になってゆく。 やがて僕の目の前に、一匹の猫が横切る。マンガで描いたら、赤塚不二夫調て感じのペンタッチな猫。 猫は僕を一瞥し、なすがままに、なすがままに、などと訳の分からぬことをいう。 猫のくせに生意気だと、無性に腹を立てた僕は猫の尻を蹴り上げ、坂道の下へと落としてやった。 不意に僕は後ろを振り向く。 すると今度は背広姿に紫色のネクタイ、ロンドンブーツを履いて、焼きいもの屋台を引っ張るマイクDの姿。 焼きいも屋なのに、何故か気違いみたいに大きなイングリッシュホルンを吹いて、道を横切っている。 さらに空を見上げる。ピンクとマーマレードが混ざったような色をした空の中には、 ダイヤモンドを抱いて天を舞うルーシーと、巨大な豚が群れをなして空を飛ぶ姿。 これはいったい何なんだ。気が狂いそうだ。 何も見なかったような振りをして、僕は再び丘の上へ駈けようと、頂上の方へ顔を向ける。 ベルの姿がどこにもいない。ベルの姿が消えた。 どこに行ったのかベルは。忽然と姿を消した。 だけど他にすることのない僕は再び丘の上へ向かって、坂道を駈け始めた。 駆けても駆けても丘の上には辿り着けない。ベルの姿も見えなくなり、僕はただ焦燥感が増すばかり。 とりあえず一休みしようと、立っている道の上に腰を下ろした。 そして腰を下ろすや否や、道の底が抜けた。僕は底の底の底へと落ちていった。 ・ ・ ・ どのくらい落ちたのか、底の底の底に着いた僕は砂の上で眠っていた。 水の中にいるらしいが、不思議に息ができる。 ここはどうやら深海の底。周りは暗く、光など見えない。草も生き物もいない、僕一人の世界。 静寂と闇が支配する世界。僕はそこで眠っていた。 だがどことなんとなく、体の様子がおかしい。何かに埋まっているようだ。 見ると僕の体、下半分が砂の中に埋もれていた。 体は今も、少しずつ少しずつ、下へ下へ、砂の中へと沈んでゆく。 さながらそれは、蟻地獄。もがこうとすればするほど、僕の体は砂の中へと埋もれてゆく。 もがいてももかいてももがいてももがいても、上へ、外へ辿り着くことなどできはしない。 さらに追い打ちをかけるように、土砂が僕を覆い被せるように、僕の頭上へ振り注ぐ。 もうもがいても無駄なんだ。 その内に僕はもがくのを諦め、さっきの猫が言ってたように、なすがままに身をまかせように思った。 もういいんだ。なにもかも。全ては終わる。もうすぐ終わるんだ。楽になれるんだ。 下半身はおろか、僕の上半身は首も頭も含め、砂の中へと埋もれていった。手を残して。 意識も感覚も薄れ、眠ってゆく。 これでそう、終わりなんだ。 僕が意識を薄め眠ろうとすると、ふと、手に心地好い感触を覚えた。 温かい感触。小さな手。柔らかな手。 これはベル?ベルの手? 僕には分かる。分かるんだ。間違いない、ベルだ。 ベルが僕の頭上にいる。真上にいる。僕の手をベルが握ってくれている。 その手から僕に感情が伝わってくる。 そこへゆけ 手から伝わる、「そこ」とは何なのか、それは僕には分からない。 でも僕の上にはベルがいる。それだけで充分だ。それ以上に何を求める? 僕は諦めを捨て、再びもがいてやる。もがいてもがいてもがきまくってやるんだ。 僕はベルの手を力の丈一杯に掴み、逆の手で砂をかきわけるように泳ぐ。 こっから出んだ!! 足を動かし、腕を動かし、腰をくねらせ、首をぐんと上げる。 上へ、上へ、上へと僕は体をじたばた、みっともなく動かす。 上に行くんだ! 上へ行くんだ。 上へ。 上へ。 上へ。 少しずつ、少しずつと体は上へと這い上がり、やがて頭が現れる。 頭を出し、首を出し、腕をだし、体を出す。僕は砂の中から再び外へと這いだした。 目の前にベルが立つ。全裸の姿。にこりともすんともしない、すました表情。 僕はベルと向かい合い、まず奇妙な感情に囚われた。何から話せばよいものやら。 こういう場合、やはり僕から話しだすべきなのかな。こんにちわ、とかいったりして。でもなんか間が抜けてるな。 あれほど望んでいたベルとの面と向かっての対面なのに、いざとなると臆病だ。 僕がまごまごしているうちに、ベルは手を差し出して僕の手を握りしめた。 ベルは視線を上に見上げる。何かを指しているようだ。 無言のベルだけど、何を言わんとしているのか、僕には理解できた。 上へ舞い上がるんだね、ベル。 僕の表情を見て察したのか、ベルはそこで初めてにっこりと微笑んだ。 僕とベルは手を取り合い、深海の底から上へと舞い上がる。 足をばたつかせ、上へ上へと泳いでゆく。何だか宇宙遊泳でもしているような気分だ。 何となく下に視線を向けてみる。僕が埋もれていた底は暗闇におおわれ、何も見えない。 それはどことなしに麦畑に似ている。麦を黒で塗りつくしたような。 やがてそれすらも見えなくなり、底が何処にあったのかなんてことも、何も分からなくなった。 ベルは首を振り、振り返っちゃいけないとでも言うかの様な仕草を見せる。 僕も再び上を向き、泳いでいった。 僕は上へと上がるたびに、感覚を取り戻してゆくのを感じる。 触覚。 視覚。 味覚。 聴覚。 愛情。 憎悪。 疑心。 信頼。 懇願。 哀願。 創造。 破壊。 行為。 闘争。 調和。 過去。 未来。 現在。 死。 そして、生。 上を見上げると光がさしてくる。 近づけば近づくほどに身を焼き尽くすかの様な熱さ。 しかしそれは今までに見たことのない輝き。 僕は初めて太陽の眩しさを知った。 外へ出た。広い広い、太陽の下の、僕らの世界。 そして僕らは太陽の元で、お互いを確認した。 僕は強大な矢を背に受け、真実を知る。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 御家族の方々は? 心電図上昇 カンフル、カンフル、カンフルを 間違って生を受けた僕ら?ふざけんな 。 。 。 。 。 。 。 。 雫 雫 雫 雫 雫 雫 雫 雫 雫 雫 雫 雫 雫 雫 雫 雫が僕の顔を濡らす。それで目を覚ました。 目が覚めると、そこは救急医療室だった。 僕は大きな検査台に寝かされ、酸素吸入器を着け、頭、腕、首、胴と電線をつけられていた。 医師、かんごふ、そして僕の両親が周りを囲み、僕の姿を見やっている。 様々な表情が見て取れる。今の僕には。 はらはらと涙を腫らし、鼻と口を押さえ泣きじゃくる母。 何かを抑えているかの様に我慢をし、眼を充血させ、平家ガニの様な表情でぶるぶると体を震わす父。 一仕事が終わり、安堵感からか一息ついている医師。 倒れかかるような母の体を支え、背中を撫でる看護婦。 今にして分かった。ここが、僕の帰るべき世界だったんだ。この雫が流れる世界こそが。 後で聞いた話なのだが、僕の様態は相当危険な状態だったらしい。 急激な心臓発作が起き、何も為す術はなし。医師も万全を尽くしたが、決断をしたという。 暇の際ということで、担当医は両親を呼び、検査室に同室させていたというのだ。 あの状態で持ち直すというのは奇跡的なことで、医師も首を傾げていた、というのは看護婦の言。 でも僕には分かるんだ。誰が僕を絶望の淵から救ってくれたのか。 僕はあの妄想の一件は胸の内に秘め、誰にも明かさなかった。 だってそんなこと言ったらみんな、今度は心臓じゃなくて気が狂ったと思われるものね。 ・ ・ ・ それから2週間程が過ぎた。僕は購買部で雑誌でも買おうと思い、鼻歌交じりで廊下を歩いていた。 すると向こう側から急患らしいストレッチャーが、何人かの看護に傾がれ走ってくる。 僕は廊下の角に体を動かし、通路を譲る。ストレッチャーに乗っている患者の顔がちらりと見え隠れした。 それは見知った顔。白銀色でショートヘアーの少女。白く、雪のような肌の色。 ベル。 ベルが?まさか。そんなこと。。 眼の錯覚?いや、そうさ。そうに違いない。 だってベルがこんなところに来るはずがないもの。 急患を乗せたストレッチャーは右へ曲がり、エレベーターに乗り込んで姿を消して行った。 僕は何事もなかったかの様に、再び歩き始めた。 ・ ・ ・ 更に月日が過ぎた。 設備が整っていないという理由から、僕は今まで入院していた病院を退院し、循環器病センターというところに移った。 そこで更に専門的な検査を受け、手術に踏み切ることになったのだ。 大変困難な手術だったそうだが、無事に成功。4ヶ月後、僕はセンターを退院した。 しばらくの間は静養が必要だと言う医師の指示に従い、父の実家である新潟は糸魚川の山村へと引越した。 僕はそこで1年余りの月日を過ごした。冬の大雪には母も僕も参ったけど、そこで暮した日々は今でも忘れられない。 綺麗な空気、のどかな山の景色、優しい村の人々、今でもいい思い出だ。 今や僕は妄想の中を駆け回るということはなくなったが、忘れられないものはある。 ベル。 ベルはどうしているだろう。僕を救ってくれたベル。あのカゲロウのようなベル。 できることならもう一度会いたい。夢の中でもかまわない。 でもあの発作の中で見た妄想の世界以来、僕はベルに会うことはなかった。 ・ ・ ・ ・ 糸魚川で一年余り、静養の日を過ごした僕は東京へともどった。 両親のかねてからの願いもあり、僕は人より4年遅れて高校へと入学した。 皮肉なことに僕の入学した高校は、あの病室の窓から覗いては妄想を働かして見ていた学生達の通っていた高校だ。 ちょっと老けた高校生の僕は、あの病院の前を通る坂道を登って、毎日通学している。 今度は僕が窓の景色の住人になったのだ。何とも皮肉なものだな。 逆に僕はあの病院を通りがかる度に、病院の方を振り向き、見ている。 僕がいたあの病室、あの窓はいつも灰色がかったカーテンがかかっており、誰が主であるのかは分からない。 ひょっとしたら僕の様な妄想狂な奴が、あの時の僕と同じように、窓の外を見ては妄想にふけっているのかもしれないね。 何てことを考えながらあの窓を見ていたら、ふとカーテンが開いた。 そこには人影が立っていた。 それは見知った人。忘れられない人。僕を救ったプリマドンナ。 僕は鞄を放おりだし、そのまま無我夢中で病院の中へ駆けていった。 門を越え、ドアを開け、階段を駈け昇る。 2階、3階、4階と駈け昇る。 途中、見知った看護婦さんが僕を一瞥し声をかけたが、それを無視し、あの病室へと駆け込む。 そして僕が2年余りを過ごしたあの病室の前へ、ドアの前へと立つ。 ドアの前には『面会謝接』の立て札が掛けられてあったが、そんなの今の僕には眼中にない。 僕は胸の鼓動を抑えながら、ドアを静かに開けた。 そして、その目の前には立っていた。彼女が。 ベルが。 ベルは寝間着姿で窓辺に手を乗せ、僕の方に視線を向けて立っていた。 ベルは少々やつれた表情をしていたが、白銀色の髪と空ろげで透き通るような肌と瞳はまさしくベルだった。 僕達は、否、僕はついに会えたんだ。僕の目の前にいる、本当のベルに。 でもどうしてベルがこんな病院のこんな個室部屋で? いや、他に聞きたいことは、聞かなきゃいけないことは、そして僕が言わなきゃならないことは他にあるんだ。 そんな僕を知ってか知らずか、先に口を開いたのはベルの方だった。 「……電波、届いた……?」 届いたさ、届かない訳がないじゃないか。確かに届いたよ、ベル。 でも電波ってどういう意味?僕には君の言ってる意味がよくわからないな。 でもそんなことはどうでもいいんだ。 1歩2歩とゆっくりと僕の方へ近づくベルは、両手で僕の手を包み、握ってくれた。 妄想の中の時の感触とは違い、僕の目の前にいるベルの手はとても冷たかった。 でも、僕にはそれが何よりもリアルに感じられたんだ。 そう、それが僕の求めていたリアルだったんだ。 窓からさしこむ陽の光は、彼女と僕、ベルとセバスチャンを温かく包みこむ。 それ以上、何を求める? 『ベル&セバスチャン』(完)