隆山だって温泉地で田舎度は大差ないのに何故、四万なんかにわざわざ行ったのか、なんて話をしなかったね。
高校の頃の思い出話だけで時間潰すなんて、年寄り臭過ぎるかも。
なんで自分の家に帰らず、直でかおりんの家寄ったのかって事も、私、話さなかったね。
楽しかったから場を乱したくなかったのかも。
なんせ……何年ぶりだぁ? 良く覚えてないけどさ。
とにかく、お互いどうしてるかわかんない程会ってなかったんで、会っても気まずくなんないか心配だったのが、楽しく呑めそうなのにほっとして、いい空気を保つんで精一杯だったんだ。
ゆっくりと靄がかかって行くように我に帰っていって、閉じた口の中で舌を鳴らす。
かおりの家で呑んでいた酒はもう効いていない。
夜道の冷気の中で醒めてしまった。
嫌な癖だ。目の前にいない人に頭の中で語り掛けて一人で酔ってる。
小学校の頃から治そう治そうと努力してきたつもりなのに、まるで治る気配がない。
相手に直接話さなくちゃならないものを、自分の頭の中で言い訳めいた補完なんかして満足してしまっているから、私は本物の人間からは厭われる事が多い。
日吉かおりの家からは歩いて帰る事にした。
団地からのバスなんて、もう終っているし、タクシーを呼ぶほどでもない。
こんな深夜、観光の要所から外れた住宅地域では、田舎でも危険だから、と、妹の初音には注意される事が多かった。
27日は初音の誕生日だ。
だから、何。
初音はもう、私と同じ家に住んでいない。
彼女は、実家の方には、ちょくちょく寄っているらしい。
私は、仕事で東京にいる事が多く、というよりも最近では殆どで、1年に何度と会う事もない。
そう言えば、年賀状を返すの忘れた。……まぁ、いいか。
人も物も関係も全てはバラバラに壊れて行く。壊れたものは元には戻らないから、空きの人員をどっかで拾って埋めて行く。それだけが正解だ。
どのみち、私たちはもう、誕生日を祝うような歳でもない。
何事もなく無事に家に辿り付いた。
夜気に当たり続けて頬の皮が張っていた。
私を迎えたのは耕一さんだった。
「おかえり、楓ちゃん」
昔風の平屋の屋敷で、玄関からは、まっすぐに廊下が奥へと続いている。
途中に台所への入り口があり、そこから彼は暖簾を腕で押しながら現れた。
「ただいま」
作った微笑で応えた。
「遅かったね」
「ごめんなさい。姉さんは?」
ひとつ上の姉、梓は、初音と同じようにこの家にはもう居ない。
長女の千鶴の事を訊いたのだ。彼の妻だ。
「あぁ、今日は帰れないみたい」
「そう、ですか」
「うん。あれ、そう言えば四万、行ってたんだって?」
「ああ、お土産は宅配にしちゃったので」
「あははは」
輪郭のハッキリし過ぎたわざとらしい笑い声が気に障った。
いつまで経っても慣れそうにないが、それでも私は微笑を絶やさない。
「それじゃ」
私は自分の部屋へ向かって廊下をまっすぐ歩いて行こうとする。
「あ、ちょっと待って」
「はい」
「ああ、いや、少し話し聴きたいな、とか思って」
彼氏と一緒だったのは知ってる筈、知らなくても分かっている筈だ。
困ったような笑みでかわす。
「聴きたい?」
「ホラ、楓ちゃんに会うの久しぶりだし」
なるほど。要するに、一人でお留守番が寂しかった訳だ。
あんた幾つだよ、と思わなくもない。
幾つになった所で、寂しさが消えるわけでもないか。
バスクリンの黄緑に染まったお風呂に肩まで浸かって膝を丸める。
散々入ってきて、貸し切りもして、今朝も入って、うちでまたお風呂に入っている……
まぁ、貸し切り申し込んだのは、本来の目的で使うためではなかったが。
気持ちはよかった。また今度したいものだ。マンションのバスルームでいいから。
最近は漸く、自分の気持ちが体の快楽と一つになれてきている。
最初の彼氏の時は、別れるまで結局、上に乗っていても乗られていても、そんな自分の状況を、どこか冷静に実況中継しているような感じでエッチしていた。頭の中に言葉が巣食っていると、気持ちが飛ぶまでに時間が長く掛かる。相手が果てて、しばらく指でしてもらって、漸く小さな頂きにのぼりつめるのが殆どいつもで、最後の時までそうだった。
そういうのも気になってたんだろうな、別れた理由。
男というのも意外とデリケートらしい。
黄緑の中に私の二本の足がひしゃげて沈んでいる。
かおりが私を呼んだ訳を考える。
殆ど音信不通だった相手に突然に連絡したくなる時はどんな時か。
かおりが私に自分との何らかの共通項とか類似点を見出していて、その関係の相談とか愚痴とかしたい時。
私とかおりの共通項。
なんだろう。
私はノンケだし。
分かりそうで分からずに、右手の握り拳を、左手の指と指の間に入れる。指のストレッチで、大学の頃、ギターをやっていて身についた癖だった。もう、音楽はやっていない。東京に出る事になった時、趣味は全部捨てた。アナログレコードもギターも売り払って、東京の貸しマンションにもこの家の私の部屋にも置いてはいない。映画はたまに観るが、彼氏と一緒に決まってワーナーマイカルで、彼の趣味に合わせて適当な感想をいつも言っている。千鶴姉さんとカルト映画について延々論議していた頃とは、もう違う。仕事や仕事の人間関係で毎日疲れ続けていくのに、下らない事で議論してエネルギーを浪費したくない。
それが社会人の正しい在り方というものだ。
いや、自虐は止めよう。
……今度会ったら訊いといた方がいいのかも知れないな。
会う事があれば、の話しだ。明後日には私はまた、東京に戻っている。
お風呂から上がってパジャマに着替えて居間へ向かった。
耕一さんは上座で私を待っていた。
「おっ、風呂あがり」
ビールが座卓の上に置いてある。
コップはふたつで、盆の上で一つ、逆さに口が伏せられていた。
かおりの家を早く出てきた意味がない。
明日中に終らせなきゃいけない仕事を持ち帰って来てしまったら、夜通し呑むのを断ったのだ。
「私、1時までには寝ますよ? 疲れてるし」
キッパリ断っても角が立つから、1時間だけ付き合う事にする。
「あははは。夜中まで呑んで語り明かす程、若くないって、オレだって」
「幾つでしたっけ?」
耕一さんの向かいの席に腰を下ろす。
「にじゅう……」
「8? 9?」
「……なな」
「そうしときましょうか」
耕一さんが盆の上のコップを裏返し、私に渡した。
「かなわないなァ、楓ちゃんには」
指が触れて、私は薄く笑った。
指先が触れる事にすら怯える程に好きだった気持ちは、もう遥か彼方で、そこに存在しているのかどうかさえも怪しい。消えて無くなっているかもしれない。
私が片手で握ったコップへ、耕一さんはビールを注いでくれる。
「とりあえず、おかえりなさい」
「ただいま、です」
ビール瓶が遠ざかると、耕一さんの視線が私の顔に注がれた。
「楽しかった?」
「なんか、凄く風情ありました」
「まぁ、風情なら、ここも結構なものだと思うけどね」
「江戸時代の温泉旅館の建物が残ってるんですよ。ちゃんと泊まれて。泊まったのはそこじゃないんだけど」
「へぇ」
頷くような仕草で首を振りながら、彼は、自分の体の右前に置いてあったコップを手に取る。
そこに注がれているビールは半分程に減っていた。
泡がコップの内側、口から水面までに、洗い流し忘れた洗剤のように垂れている。
「すっごい、川が綺麗でした。川に沿って細い道があって、そこに家とか旅館が並んでるんですけど」
「お風呂は単純泉?」
「いや、食塩泉で」
「じゃ、飲用出来んだ」
「ええ、飲みましたよ。こう、町の中で、ひしゃくで掬って」
私にはもう関係のない事ではあるが、この家が温泉旅館の元締めみたいな商売をしている所為で、そういう話しになってしまう。家業を継いだのは千鶴姉さんだ。だから、旦那の元に帰れない程にまで忙しい。旦那の耕一さんは、全く別な仕事をしている。千鶴姉さんのコネで就職なんかしたら、夫婦とも何を言われるか分からないから、そういう事になった。ただ言われるだけなら我慢すればいいが、女性で実力の伴わない世襲CEOという事で色々な方面から煙たがられている。彼女の唯一の味方だった社長も一昨年、脳卒中で急に死んでしまった。国内旅行の需要は年々減少の一途だし、鶴来屋の明日が宮崎シーガイアになっていても別におかしくはないのだから、彼女がCEOの座を明渡すのも遠い日の話しじゃないだろうし、それどころか、今後、鶴来屋にいられるのかさえ、かなり怪しい。
でも、それはそれでいいかもしれない。元々彼女、あの仕事嫌いだし。一生掛かっても払い切れないような借金さえ背負わなければ。
何が出来る訳でもなく、何をしても意味がないから、私たちは、沈み掛けの船から逃げ出すようにして自分自身の人生を歩んでいる。
解決の仕方も解らないような事の前では、家族なんか心の支えにもなれないし、同情なんかで引きずられてこっちまで暗い海の底に沈むなんて、一切、ゴメンだ。
それが冷たいと厭うなら、首でも吊ったらいい。
もしかしたら来世では、もっと単純な世界に生まれているかもしれない。
いや、不用なものを捨てて歩いて行くのも、充分、単純か……
だから、何。
みんなそうして生きている。
みんな、だ。
例外なんていない。
私の手は、載せていたもの全てを指の間から次々と零して行き、落ちたものの何をも掬えない。
予定通りに、1時には、お開きにした。
後片付けをしてから、私は自分の部屋に戻った。
耕一さんはお風呂に入っている。
この時間ので入らなかったのは、後にも先にも誰も続いて入る人がいなかったのが嫌だったのだろうか。
B5のノートPCは会社から支給されたものだった。
私は、ベッドの上に座っていて、それを伸ばした腿の上に乗せている。
携帯を繋げてメールをチェックしていた。
先に東京に戻っている彼氏から一通。
マメな人だ。
初音と梓姉さんは、明日来るんだろうか。
来られても、そう相手はしてあげれないかもしれない。
初音は来るな。婚約者と一緒に。
電源を落として画面が消えるまでの間、初音と、まだ見た事のない彼女の婚約者の並んだ姿を想像した。
どうせ幸せそうに決まっているので、初音は笑顔にしておく。
誕生日おめでとう。
婚約者の方は上手く想像出来ないので、紳士服の広告に載ってそうな辺り障りのない笑顔をのっけておいた。
それから、結婚、おめでとう。
梓姉さんは、かおりんと一緒かな。来るとしたらだけど。
でも、梓姉さんはともかく、初音ペアに負けじと、かおりんが来たがって無理矢理連れてくるかもしれない。
で、千鶴姉さんが帰って来たら、耕一さんがその横に居るから……
……そうか。
全員揃った図で、耕一さんとかおりんが並んで思い浮かんで、漸く、分かった。
ノートPCに向けれていた顔を、背中の、窓へ、視線を、夜の闇へ向ける。
頑張って欲しかったのに。
その思いが、酷く身勝手な事だと、すぐに気付いて壁を軽く殴った。
けれど私の場合は、耕一さんが結婚しちゃったんだから、仕方ないじゃない。
大丈夫、かおりんなら、いい人見つかるって。女でも男でも。
私だって見つけられたんだし。
そしたら、いつものパワーで押し切っちゃいなよ。
幸せになれるよ、かおりんなら。
随分とまた身勝手な事を言う。私。
本当に嫌な癖だ。
全てはバラバラになって何一つ戻らない。
何一つ、例外はない。
それなのに、誕生日の何が、そんなにめでたいと言うのだろう。
生きれば生きるだけ、積み重なっていく苦痛の意味を、強く、深く、感じて行ってしまうだけなのに。
ドアを開けて部屋の外に出た。
姉妹と耕一さんの各部屋を繋げる廊下には窓がない。
足首の辺りの位置、常夜灯が等間隔で、鬱なオレンジ色を放っている。
足音が向かってくるのが聞こえる。
だんだんと耳に障りだし、動けなくなる。
「お」
耕一さんが暗がりの中の私を発見して声を上げ、私は俯いてしまっていた顔を上げる。
立ち止まって、途絶えている足音。
「あ、ども」
「何やってんの?」
笑いながら言って、耕一さんはまた近付いてくる。
常夜灯が零す光の溜まりの中で、過る彼の素足はオレンジに染まる。
だから、何。
「酔ってる?」
目の前で彼が訊いた。
「全然」
笑いながら答える。
耕一さんは苦笑いを含めた声を発しながら、私の左をすり抜けようとする。
「じゃ、おやすみ」
風呂あがりの体熱の放射を首で感じた。
「あ、耕一さん」
「何」
振り返った彼の目を見上げて、見詰める。
「ちょっと、目を閉じてみてくれますか?」
「何」
「いいから」
彼が何か、それ以上のものを期待するのなら、それでもいい。
お互い子供じゃないんだし、大した事じゃない。
どうせ明後日には、また別々の暮らしをするのだ。
目を閉じた彼へ、つま先を伸ばす。
最後の1センチが届かない。
「あ、もうちょっと背、屈めて」
「ん」
耕一さんは、私の今の彼氏よりも硬い唇をしている事が分かった。
私の部屋は、すぐ、そこだ。
大した事じゃない。
お互いこれから、お互いの相手と、もっと気持ちのいいエッチを何回も何回もしていくのだ。一回の記憶なんて、その中へ埋もれて砕け、やがては跡形もなくなる。
そういう人間になってしまったと思われたところで、私に何か不都合がある訳じゃない。
間違って耕一さんが東京にやってきたりしても、何かがまた壊れるだけ。
どのみち、最後には全てがバラバラになっていく。
日頃、私たちには弱さを直接的には見せようとしない耕一さんが、不安を私に漏らしたのを、私は有体に慰めた。
彼の、誰かの、怯えを、不安を、不満を、受けとめる事なんて出来ない。
私は私の事で手一杯なのだ。
だから、何。
耕一さんは、もうこの部屋に居ない。
もう居ないから、電気を消した。
この部屋には何もない。
何もかもを売り尽くして、捨て尽くしてしまった。
まだ机がある。まだベッドがある。まだ絨毯がある。まだ空気がある。まだ私がある。生きる為なら、部屋があるというだけでも、充分過ぎる。
だから、何、それが何だと言うのだ。
何もない。
私は、何も持っていない。
何も、持ってなんかいない。
温もりの跡が生温く、私の体を苛んでいる。
湿り気を帯びたシーツの皺が、私を汚している。
この苦痛が欲しかった。
生きる分だけ苦痛が続くのだとしたら、苦痛を感じる事でしか、生きる証は立てられない。
衝突する事で他人がいるのを理解するのだとしたら、他人がいるのを理解する為に、衝突しなければならない。
安らぎも癒しも安易で堕落だから、もっともっと、苦しまなければならない。
苦しむ事だけだ。生きる意味なんて。
みんな、そうだ。
多分、みんな、そうなんだ。
みんな……
だから、それが何。
横に寝転がったままで膝を丸める。
丸めた膝を抱えた。
膝の間に顔を埋めると、震えるつもりはなかったのに、体が震えた。
肺から零れ出す息が咽喉にかけあがる前に、胸でつかえた。
そういう状態が暫らく続いて、やがて言葉が頭から消えて行く。
何も考えないで震えて、息を詰まらせていた。
涙だけが流れなかった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
イベント掲示板に投稿したものの続きです〜。
向こうはテーマがあったので大人になりきれない子供というので書いてみましたが
(そう言えばこないだビデオで見た『テルミン』でブライアン・ウィルソンが『丁度、僕らがターゲットにしていた25歳ぐらいの年齢層は『大人になりきれない子供』で……』と言っていて、ああ、アメリカでもやっぱそうか、と思ったりも(笑))
今回も、その線では……あるのかな?
タイトルは、NINE INCH NAILSという僕の大好きな
アメリカのバンドの曲です。
というか、こないだ出たばかりのライブ版のタイトルだったりして。
2枚組のデラックス版とライブ版のみの1枚のとがあるんだけど
2枚組の2枚目は涙出る程悲しく美しい作品です。割とKEY系に近いかも。
Voは男の……デスというかパンクというかに近いので
抵抗ある方もいらっしゃるかもしれませんが
歌詞も、もう絶望的で美しいので機会があれば是非。