廊下を歩く。どこか、行き先がある訳じゃない。行き先なんか、もう、どこにもない。そういう気がする。
初音と耕一さんはまだ、遊んでいるのだろうか。TVでも見てるのか。それとも一緒にお風呂でも……やだな、初音はもう、高校生だって、私、自分で先刻初音に言ったばかりじゃない。
いつからか、右手には庭が見えた。ふらり歩くうち、外の廊下に出てしまったのだった。既に夜が更けている。名前を知らない明るい星が庇の先に見えた。幾多もの星が夜空に立ち止まり、私を見詰めて、悪口をひそひそと呟いている。父が母と死んだ後、そんな妄想にとりつかれて、都会の夜に憧れた時期があった。都会では星が見えない。そんな常套句に縋って、だから私は、自分を苛める為に、この廊下で膝を抱えて夜が明けるまで、体を星たちの元に晒した。誰かが。そんな私を哀れむ誰かが、ここから、この場所から連れ出してくれる事を願って。
人なら誰でもそうかも知れない。辛い事など忘れ、楽しい事だけ見ていたい。だから、醜い現実を束の間忘れさせるエンターテイメントに溺れ、当たり障りのない優しい言葉に頼り、何も考えずに一般論に縋り、形ばかりの理想を振り翳して、何も悪くない誰かの心を傷付ける。私が、初音にしたように。
星が囁く。
そろそろ戻った方がいいんじゃないかな。梓ちゃんも帰って来たんじゃないかな。
私は膝を抱えた腕の中に顔を埋めて返事を返す。
「うん……いいじゃない、もう少し」
目を閉じれば闇、浅い闇が意識を覆う。
そう言えば、初音ちゃんは?
「耕一さんと、遊んでる……」
遠い遠い、何億光年も離れた星への銀河通信へ、電波を乗せる。
……そうか。
「楓と、喧嘩しちゃった」
返事がない。
「喧嘩しちゃった」私は繰り返した。
意識と宇宙が一体になった自閉の暗黒の中で、無数の青い星々が遠く瞬く。空気のない宇宙空間では瞬く筈のない星が、私を見詰め、さざめいている。
「喧嘩……しちゃった……」
短い溜め息の音が私の耳に届いた。
仕方がないな、千鶴は。
「うん、仕方ない」膝を固く閉じる。「どうしようもない事ってあるもん」
そんな事ないさ。
「楓、きっと、許してくれない」
そんな事ない。
「どうしようもないじゃい。幾ら謝ったって、楓は許してくれっこないんだから」
私は顔が重すぎて、もう体が動かない。口だけがただ、言葉を吐き出していく。
「出てっちゃえばいいのよ………みんな。そしたら幸せになれるんだから、みんな」
それじゃ千鶴が幸せになれない。
「いい。仕事だから。私の仕事は、みんなを幸せにする事だから。私は別に幸せになりたいなんて思ってない」
「非道いな」
賢治叔父さんが言った。柏木賢治、それが叔父の名前だ。
「だってそうじゃないですか。私、自分が生きてて、幸せだなんて感じる事なんかありません。大体、ちょっと幸せって思ったら、次は不幸、そんな感じじゃないんですか、人生なんて、普通」
「いや、僕が言うのはさ」叔父は、煙草を胸のポケットから取り出そうとして、左の眉だけを上げ、私に訊いた。「あ、いい?」
「え」煙草を吸うのにわざわざ許可を求める事が珍しくて、私は軽いショックを覚える。「ああ、どうぞ」
「サンクス」叔父はそれでも火は点けずに、右手で煙草をくるくる回し、
「非道い、ってのは、千鶴に、そんな事言わせるようにしちまった奴等の事だよ。ちーちゃんは言わなかったぜ、そんな…………ヒネた事」
「ヒネてて悪かったですね」私は拗ねて横を向く。だが、悪い気分ではなかった。
「それに私、もう、ちーちゃんって年じゃないんですよ?」
「あ………嫌、かな?」
「え……」訊かれて私は躊躇した。
「まぁ、考えてみりゃ十五だもんな。そーだよなー。高校生だもんなー」
感慨深げに、額を、煙草を挟んだ指の先で軽く叩き、いじけたように目を瞑る。
「あ、まぁ、その………」
「あの、ちーちゃんが高校生だもんなー」
目を開き、叔父は意地悪く笑った。
「もうっ」私はまた横を向く。横を向く私を見て叔父は、ははは、と、ふふふ、の中間の音で、低く笑った。
「ま、実際、千鶴の言う通りなんだけどね。たださ」
「ただ、なんですか?」
私の問いに叔父は再び目を瞑り、少しの間、思いに沈んだ。
「千鶴の言葉には、どこか、幸せになんか絶対なれっこないんだ、って響きがあるんだよな」
言い当てられて、私はうろたえる。
「だって……」
「うかれトンチキになって周りが見えなくなるのも問題だけどさ、嫌な事見詰めてばかりで拗ねてるのも問題があると思うぜ。ちょっとの幸せなら尚更、幸せな気分になれる、いい事なんか、実際、どこにでも転がってるもんだし。気付くか気付かないかの差でさ」
綺麗事だと反論したくて、私はテーブルの上に言葉を探す。黒いガラステーブルの上では、水の入ったコップとかコーヒーのカップとか、そんなものを見付けるだけで、叔父を打ち負かす言葉は何処にも見当たらない。だから仕方なく、歪んだ微笑みで泣き言を呟く事になる。
「そんな事言ったって、私には、幸せになる資格なんか……ないですから」
「資格なんか、誰が決めたんだよ」叔父が苛立つ。まだ火を点けない煙草を手の中で弄び、私から顔を背ける。
「だって」私は俯いて、叔父と同じ方向に視線を向ける。
黒のベストに赤いネクタイのウェイターは、新たに席に就いた客の相手で腰を曲げてオーダーを取る。ゴムの木が、分厚く平べったい葉を茂らせて、彼の姿を半ば隠していた。私は彼を知らないが、向こうは、こっちを知っている筈だ。鶴来屋の従業員で、私たちを知らない者などいない。そういう風に教育されているんだと、もう、ずっと前から知っていた。
「千鶴」
名前を呼ばれて、目を上げた。
叔父は笑っていた。
優しい笑顔だと思った。そんな笑顔を私は、もう、ずっと前から見ていなかった。父が母と死んでからずっと、何処の誰の表情にも。あれから何年も、何年も時間が流れた訳ではないのに、私は、ずっと、見ていなかった。
「千鶴を、幸せにする。梓ちゃんも、幸せにする。楓ちゃんも、幸せにする。初音ちゃんも、幸せにする」叔父は胸を張り、「それが、僕の仕事だ」
煙草を人差し指と中指の間に挟んだ右手の、親指を立てた。そして私に顔を寄せ、小声で囁く。「会社の人間全てを敵に回してもね」
吊られて私は、つい微笑んでしまう。それが恥ずかしくて、皮肉を言う。
「でも、お金だけじゃ、幸せにはなれませんよ」
皮肉のつもりだったんだ。
「だから」叔父は煙草を持たない方の手で私の頭を撫で、「頑張ろうな」
手の中の煙草はくしゃくしゃになってしまっていて、結局、火を点けられる事がないままに、灰皿に捨てられた。
私は残りのコーヒーを口にして、
「千鶴さん?」
名前を呼ばれて目を上げる。
「どうしたの?」
耕一さんが私を見ている。私の目線に合わせてしゃがみこむ。
私の肩に、彼の手が置かれ、ブラウス越しに、掌の熱を感じる。
鈴虫が庭で鳴いていた。暗い藍色の夜闇で満ちる、新館と母屋を繋ぐ渡り廊下だ。耕一さんの後ろに初音が立っているのが見える。新館には、耕一さんの部屋がある。ああ、そうか。もう、そんな時間なのかな?
こころの中で発した疑問には、もう、誰も答えない。
「あ、ごめん」私は言った。「ちょっと夜風に当たろうかな、なんて思ってたら、寝ちゃった」欠伸をしてみせた。
耕一さんから視線を、庭へと移す。遠く、右の方に池が月を映し、塀の向こうに星は、私が思っていたよりも遥か遠くに瞬いていた。
「千鶴さん?」耕一さんが、もう一度、私の名前を呼んだ。
鈴虫が鳴いている。
りー。 りー。
りー。 りー。
「みんなでね」私は膝の上に頭を載せ、脛の上の方を腕で抱いて言った。
「うん」
私の独り言に付き合って、耕一さんは頷いてくれる。
「去年の冬、TV見てたの」
「うん」
後ろを振り向き耕一さんは、初音に無言で合図をした。それから、私の隣に腰を下ろし私と同じ形に座って、膝を抱え、すぐ横の私の顔を見る。廊下を、初音が戻って行く静かな足音が、私には聞こえて、遠ざかるそれが少し辛くて、顎を両膝の間に深く埋める事で耐えようとする。感じるのは自分の体の温もりだ。わたしが生きた人であることの証拠。でもけれど、私はこの世界でいつか、生きながらにして、人ではなくなっていくのかも知れない。
「年末で、大晦日で、紅白歌合戦が後半に入ってて、演歌ばかりになっちゃって。梓が『つまんないよ、コレ』って、文句言って」
一旦、虫の音が途切れた。
時間が停止する。
やがてまた、一匹が、りー、りー、と鳴き始め、それに合わせるように別の一匹が鳴き始め、音は重なり、幾重にも重なり、そして、また、時間は動き出した。
「初音はいい子だから、文句は言わなかった。ほんと、いい子だから」
「うん」
また顔が重くなる。私は目蓋を膝頭に押し当て、初音の涙を思い出す。不当な理由で私に詰られ、驚いた顔をして私を見上げ、涙を、初音は延々と流した。私はそれを見て、気分がいいとさえ思った。
「私は蜜柑を剥きながら、叔父さんの方を見てた。叔父さんは寝そべって不貞る梓に、困ったな、って顔をして」
聞きたいとは思わない父親の話を聞かされて、耕一さんは、きっと嫌な顔をしている。返事がない。それでも私は唇を動かすのを止めなかった。
「楓がね。炬燵から出て、叔父さんの膝に乗ろうとするのよ。側に立っただけで、叔父さんは、楓が何をしたいのか分かったみたいで、優しく、微笑むの。『おいで』って、正座して、炬燵から出て。楓は少しも戸惑う事がなくて、その上に、子供の頃とおんなじように乗るの」
「スケベなジジイだな」耕一さんは矢張り認める事が出来ずに、低く呻く。
その苛立ちが聞こえていながら私は構わがに話し続ける。
「梓も初音も、何も言わないの。それが当たり前のように、みんな、またTVを見て。仕方がないから、私は、自分で蜜柑を剥くの」
鈴虫の鳴く音が聞こえる。
目を閉じていても、私の闇は世界を消してくれなかった。
耕一さんは何も言わない。
「耕一さん?」
「……うん?」
「叔父さんの名前、言える?」
「え?」
私は顔を上げて、微笑みを作る。作った笑みで、耕一さんの顔を見た。
耕一さんは、「忘れた」と言いたそうに、不機嫌な口の結び方で私の頭の一寸上を見、それから、絶対に言いたくはない筈の名前を口に出した。たかだか私の為に。
「賢治、だっけ」
私は不格好な頷き方をしてみせる。斜めに髪を揺らしてシャギーを頬に当てる。
「イニシャル、一緒だね」
え。
耕一さんは戸惑い、考えてみる。
「ホントだ」
池を見た。その水面に、月が、歪んでいる。
「どっちもK・K……」
私は立ち上がった。遅れて耕一さんが立ち上がり、私を支えようとする。肩に回された腕を、私は穏やかに振り払った。
「大丈夫だから」
払った腕の手を、私は掴み、見詰める。
「千鶴さん」
耕一さんの、私の名を呼ぶ声が、長く、余韻を引きずっている。
耕一さんと手を繋いだまま横に並んで、私は、渡り廊下を母屋へと戻る。鍵の開いた扉を引き開けて、母屋の中に入る。暗い、明りのない建物の中で、手を繋いだそのまま、自分の部屋までを戻った。バカみたいだな、と頭の中で冷静になっている部分があって、それでも、並んで歩く自分と耕一さんの姿を、嫌いにはなれなかった。嫌いにならなくちゃ、いけないのだろうか。私に、その資格がないのだとしたら………
部屋の中までついてこようとした耕一さんを、戸口で体を反転させ塞いで、押し止めた。
「ごめんなさい、今日は疲れてるから」
そう言った私に、耕一さんは、僅かに目を細める。90パーセントの確立で、侮辱されたと、思っている。
「分かってるよ」
そう言って、去って行った。
ドアを閉めた。
ベッドに腰をかけて、うなだれた。今日はもう寝よう、そう思った。ああ、でも、明日も会社があるんだ、と気が付き、まだお風呂にも入っていないんだと思い出した。
サボっちゃいたいな。
あのね
やつぱり
ためいき。
もう、みんな、いつのまにか、本当に大人になっていたんだ。
ひとりで生きる事の出来る人の事を、大人と言う。
お金とか、生活とか、そういうことじゃない。心を誰かに寄りかからせる必要のなくなった人の事だ。
そして、私は必要じゃない。
だったら、K・K、
私は…………
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何ゆえか、PIAキャロット2を
パソコン版、サターン版 同日(同時じゃないところがポイント 爆)
に買ってしまったので、「エコーズへようこそ!」というSSでも書こうと思ったのだけれど、
理奈「それじゃ、この制服で始めますね!」
どーゆー訳だか青色の派手なメイド服を着て、にこりと微笑む理奈ちゃんに迎えられ、英二さんは夢の世界へと旅立ちかけているようだった。折悪しく、
さぁ、でかけよ〜 ぼうけんの旅へ
じゅんびなんかいらーないー
などとと、随分古い謎な曲が店内には響いている。
英二「…………なんか………」
うっとりモード全壊……いや、全快……全開な英二さん。
目の前では理奈ちゃんが、青の制服の裾、股の間に手を揃えているのがもはやセクシャル スーサイド。危うくこっちもポールのミラクル大作戦になりかけたところを、なんとか理性を保たせて聞き返す。
冬弥「なんか?」
英二「スーパーコスプレイメクラ ウェディン☆・ベルのようじゃないか、青年?」
由綺「すーぱーこすぷれ?」
由綺の疑問は無視された。
冬弥「ピアキャロの制服があるのは聖コス☆゜レ学園なんじゃ……」
弥生「…………あるのは横浜校だけらしいですよ」
冬弥「…………よく知ってますね」
不適な笑みを浮かべる弥生さん。この時ばかりは俺も、彼女の事を人生の先輩として尊敬の眼差しで仰ぎ見た。
しかし、かく言う俺も、既にインターネットで調査済み、ADのバイトで貯まる一方の金を社会に還元する為に、明日にでも伊勢崎町へ行こうと思っていたところだ。
ふと、英二さんを見ると、目があってしまった。
熱くたぎったその瞳が、彼もまた、同じ明日の予定を立てていたことを告げている。男同士にのみ、繋げる事の出来る爽やかな友情。
英二「はっはっは」
英二さんが笑っている。だから、俺も笑った。ふたりの明日の為に。
冬弥「お互い悪よのぅ、青年」
見ると、弥生さんも何故だか笑っていた。理奈ちゃんと由綺も釣られて笑っている。
はっはっは。
冬弥「いやいやいや、英二さんには適いませぬ」
わっっはっっはっはっは。
はっはっはっ
フランク長瀬「なんて爽やかな青年達だろう…」
そんな風にして一日が過ぎた。
とかなっちゃいそうなんで、止めました (笑)