真昼の光は嘘をつく  その8 投稿者: 沢村奈唯美\
「んとね」歩きながら初音が切り出した。まだ私に瀬を向けたままでいる。「楓お姉ちゃん、前から、あのエプロン持ってたんだよ」
「ふうん、そうなんだぁ」私は驚いてみせる。
「うん。と言っても、耕一お兄ちゃんが来るちょっと前からだけど」
 何の為に? 予想はつく。婉曲になっているが、初音の言いたいのも、結局はそこなのだと、私には分かる。
「そうなんだ」私は同じ返事を繰り返す。
「うん」
 私の部屋の前で、初音と私は向き合った。私はドアに背をつけ、首を前にスライドさせて、背の低い初音の瞳を覗こうとした。初音は目を合わせようとしない。朝と同じ様に手を後ろに、落ち着かない態度で言葉に迷っていた。
 私は初音が口を開くのを待っていた。初音が、楓の事で私に何かを言いたいのだと分かっていて、分からないフリをしていた。
「楓お姉ちゃんの事なんだけどっ」
 ほらね。
 束ねた長い髪が跳ね上がる程に勢い良く初音は切り出した。あの前髪のアンテナが大きく揺れる。私は乳房の後ろ側で泡立ちはじめたマイナスの感情を振り切って、私と視線を合わせた初音の為に大人の笑顔を作った。
「なあに?」優しい笑顔を。
 初音は言う。
「楓お姉ちゃんもね、耕一お兄ちゃんが好きだったんだ。ずっと」
 私は笑顔を崩さない。優しい表情を浮かべたままで訊く。
「楓に聞いたの?」
 初音は静かに首を横に振った。私から背けた顔が私の記憶の中で、台所のエプロン姿の楓に重なる。
 みんな、私から顔を背けたがる。
「分かるよ………その位」
 私は、少しの間黙り呟く。「そうね」
 初音はまた私を見上げて黙る。そしてまた、顔を背ける。揺れて現れた髪のリボンの細い赤が、私の網膜に焼き付く。
「私だって、バカじゃない」 怒ったような低い小さい声で初音が呟く。
 その言葉が伝えているのは、私のこの笑顔の意味が初音に見透かされているという事。
 分かってて、分かっていて、この子は………
 私は恥辱で唇を閉ざす。
「千鶴お姉ちゃんは、楓お姉ちゃん好きでしょ?」
 最初の問いでは、答えなかった。
 初音が顔を上げる。
「好きだよね?」
 見透かされていると分かっているのにそれでも、私はまた笑顔を作る。
「うん、もちろん」
「じゃあ、許してあげれるよね?」
「許すも何も」
「だって、耕一お兄ちゃんは千鶴お姉ちゃんと」
「初音ッ」私は初音を睨めつける。
 初音は縮み上がって目を閉じ、ひっ、と声を漏らした。
 怖いでしょ?  だって、私、鬼だもの。
「そんな事、あなたに言われる筋合いじゃない」冷静に、そして冷徹に、私は一語一語を口にする。
「それに、許すだの許されないだの、傷付くのを怖がってる様な人間に、人から好かれる資格なんかない。そうでしょ?」
 嫌になる程陳腐な台詞だと思った。嘘だ。一般論でしかない。しかし、例え嘘でも、その言葉は間違いなく初音を傷付けると私には分かっていた。分かっていたから言ったのだ。
 初音の言葉にはいつも棘がない。相手を傷付ける言葉を口にするのを避けている。それは、相手への思い遣りというよりはむしろ、自分の心を他人の棘から守る為の処世術だと言える。相手に敵意を抱かせない接し方をする事で、自分に向けられる棘をなくそうとしているのだ。傷付けたくなくて、傷付きたくなくて、いつもひとりで臆病に震えている、それが初音の本当の姿だ。そして、ひとりになりたくなくて他人を傷付けまいとするのに、その所為で自分の本心を表には出せずに、心の内側で余計ひとりになっていく。
 初音は私を見上げた目を見開き眉を寄せ上げて、顔を歪めた。涙が浮かびだす。
 私を睨みながら、初音は涙を零す。涙の雫があとからあとから流れ繋がり、遂には、顔を上げていられなくなる。
 初音は泣く。肩を震わせて息を啜る。泣き続ける初音に苛立って、私は薄く笑う。罰だわ。いい気味だ。一体、誰の為に毎日毎日こんな思いして働いてると思ってるのよ。泣きなさい、せいぜい。
 初音は泣きやまなかった。泣きなさい、と心の中で命令しておきながら、初音の嗚咽が私の苛立ちを加速させていく。耐えきれなくなって強い言葉で初音を諭す。
「なんで泣くのよ? こんな事ぐらいで。あなたもう、高校生でしょ」
 なぜ泣くのよ、こんな事くらいで。私が高校生の時には、こんな些細な言葉で泣く事なんか許されなかった。甘えた考えには、こっちが泣きたくなるよ、全く。
「なんで」詰まらせる声を所々裏返し、初音は私に向かって言う。「なんで、そういう事言うの? どうして言うの?」
 延々と初音は泣き続けた。両方の掌で交互に涙を拭い、洟を啜り、怒って、涙を瞳から溢れさせながら言葉を繋げる。
「私、私、嫌だから、そういうの嫌だから、嫌だから、仲良く、ずっと、みんな暮らすの続けたいから、だから、嫌な事全部、我慢して、いい子に、なろうって、みんなで、ずっと、このまま、やって行きたくて」
 出来る訳ないでしょ、そんなの。初音の足元に視線を落とし、私は口に出さずにそう思う。甘ったれないで。
 やがて、廊下の向こうから近付いてくる足音が聞こえ、楓が私たちを見つけた。初音が泣く声を耳にして楓は、初音の側へと駆け寄ってくる。
「何やってるのよ」楓は、あのエプロン姿のままで、きっ、と私を睨み付けた。
「別に……」私は楓から目を逸らす。
 楓の声を聞いて体を震わせ、しゃくりあげる息を飲み、初音は、必死で泣きやもうとした。
「なんでも、ないヨ? なんでも、ない」泣き腫らして赤く、まだ涙の止まらない目を無理矢理上げて笑顔を作る。「ね、千鶴お姉ちゃん?」
 呼吸はまだ乱れたままで、不規則で掠れた息の、歯を擦っていく音が、微かな反響を従えて暗い廊下に響いている。私は何も言わなかった。何も言わずに初音を見た。流れて落ちる妹の涙を見た。
「じゃ、私、部屋にいるから」初音は言った。無理な笑顔のまま楓に背を向けて、ゆっくり、奥の自分の部屋へと歩いて行く。
 嗚咽を抑えきれずに漏れてゆく、不規則な初音の息の音が、だんたんと遠ざかって行く。
 私と楓が、その後ろ姿をじっと見ている。
 初音の部屋のドアが小さな音を立てて閉まる。
 耳を澄ませば、泣き声は、密やかにまだ部屋の奥から続いていた。
「信じられない」初音の泣き声を庇うように耳に届く楓の呟き。
 私は楓を見る。
「なにが?」私は訊いた。
「なんで初音泣かすのよ。関係ないじゃない」
「関係ないって、何?」私はドアに凭れ、意味が分からないフリで、楓の言葉を嘲笑う。
 何を今更、お姉さんぶってるのよ。エディフェルの時には、みんなを裏切った癖に。
 ヒステリックに、楓は叫んだ。
「馬鹿にしないで」
 驚いて私は目を見開く。楓は私を見詰めていた。真っ直ぐ私の目を睨み付ける。
「馬鹿にしないでよ」怒気を孕んだ低い声が同じ言葉を、先刻よりもっと重い調子で繰り返す。
 静かに、楓は私を睨み付けたまま、暫く黙る。やがて、反応のない私に楓が言う。
「玄関、鍵、閉めたでしょ、姉さん」
 楓の言葉に戸惑い、私は首を僅かに傾げる。
「耕一さん、締め出されてたわよ、先刻。千鶴姉さんにとっては結局、耕一さんって、その程度の人なのね」
 嘲りもせず怒りを隠さない楓の声が、私の背筋を凍らせる。そうだ、靴は4人分しかなかった。私は、耕一さんを数えていなかったのだ。
「それだけなら別に、責めたりしない。でも」楓は言う。「これで分かった」楓は続ける。「結局、自分の事しか頭にないんだ」楓は言った。
「偽善者」
 吐き捨てた。
 私は楓から目を逸らせずに、ドアに背を預けたままで、右手に力を込め、その手にバックを掴んでいた事を思い出す。そうだ。そうだ、この中には秘書課の子から貰ったフォションのチョコが入っていて、後でみんなで食べようと思って、それで、私は……………
 K・K、なんで私、忘れてたんだろう、そんな大事な事。
「私が邪魔だったら、いつでも出てってあげる。こんな屋敷なんか、別に私、興味ない」
 腕にかかる重みを私は思い出す。私は箱を抱えていた。抱えている箱の中身は富山さんから今日貰ったMMX対応のパソコンで、みんなに見せて自慢しようと思っていて、それで…………それで私は………
 なんで、なんで思い出さなかったんだろう。
 疲れてたんだ。会社で、嫌な事があって、疲れてたから、それで、だから。
 楓の言葉が続いている。
「でも、初音は、初音が、みんなの事、真剣に考えてるの、分かってるから、私は」
 右の目だ。
 右の目から、涙が、ひとしずく、流れ落ちた。
 私の右目から。
 楓が言葉を止める。
「……それなのに、千鶴姉さんは」いつもの調子に戻った。耕一さんと話す時の楓のいつもの、自信なさげな口調で、顔を背けて、しばらく床の一点を見詰めていた。
 やがて、言った。
「馬鹿にしないでよ」
 私たち、そんなに馬鹿じゃない。

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>久々野さん
えーーー、残さないんですかーーーーーー、これ。(笑)
グラサン掛けてるセリオがなんか可愛いのに。

むっ! 今日は映画の日(神奈川)だ!
TAXIを見に行かねば!!