真昼の光は嘘をつく その6 投稿者: 沢村奈唯美


「着きましたよ」
 ブレーキペダルから足を離して、飯山さんは後ろを向く。
「あ、はい。ご苦労様です」
 私の返事を確認してから、彼は車のドアを開けた。私が手を掛けなくても、運転席からの操作で後部座席のドアは開くようになっている。タクシーと同じだ。
 アスファルトに両足をゆっくりと下ろし、まだシートに腰をつけたままで私はひとつ、溜め息をついた。
「溜め息をひとつつくと、幸せがひとつ逃げる、そう言いますよ」
 私の溜め息を聞きつけて飯山さんが言う。
「そうなの?」
 振り向いた私の目を飯山さんが見ていた。目を見て話す、そんな自分達よりも上の世代特有の仕草に私はいつも怯えてしまう。悟られてはいけない、他人、への怯えを隠すのに、いつも成功しているわけではなかった。長い年月、自分を見てきた相手になら尚更だ。尚更、隠しておきたいのに直感でバレてしまう。
「会長は強気でないと」
 それでも私は笑顔を作った。手の内は明かせない。弱みは見せられない。未だ信じ込むことが出来ない『自立』という魔法の文句で強気の笑顔を刻み込んで、凛々しく飯山さんに告げてみる。
「そうね」
 立ち上がる。背後でドアが閉まる音を聞いた。
 私は前を向いている。
 ビルが群れている。五つの別館に守られて、鶴来屋本館が、私の進行方向の直線上にある。最上階は、敷地内を展望出来るようになっており、その都合上、別館は十五階よりも低く作られている。十五階建ての王様と、その周りで頭を垂れる従者たち。ここが、私の仕事場だ。
 悪趣味な物を作ったな。支配欲の権化だ。祖父に対する嫌悪が、束の間、私に、眉をひそめさせた。あなたの所為だ。あなたの所為で、みんな、歪んでしまった。父も母も、叔父も、みんな。
 睨み付けるガラスの正面玄関へ向かって私は歩く。一体、祖父は何を望んだのだろう。そんな事を、いつものように考えながら、アスファルトを蹴っていく。柏木家は、鬼の末裔、または、その鬼を討伐した武家の末裔として、この隆山では由緒正しい家柄だった筈だ。戦後の混乱の中でさえ、不自由のない生活を送った人間であるのに、このビルには、自分の力を誇示しようとする惨めさを感じる。
 ドアへと一歩近づく度に、私は私でなくなる。そんな風であればいいと、本当に思っていた。
 自動ドアが開き私が屋内へと足を踏み入れれば、ドアの両脇に一列ずつ並んだ20人程の従業員達が私に向かって一斉に礼をする。角度は60度だ。マニュアルに、そう記載されている。
「おはようございます、会長」
 綺麗に揃った声の多くは、私よりも年上の人間のものだ。こんな大仰な出迎えに、未だに屈辱を感じる者も少なくはないだろう。私がエレベーターに乗り、その扉が閉まり私の姿が見えなくなるまで、体を起こしてはいけない事になっていた。鶴来屋の従業員は、自分よりも上位にある者への対応を、事細かに教育されているのだ。祖父の遺産だった。聞こえ良く言えば、形式と礼節の伝統を重んじる精神を養う目的を持っている。マニュアルにはそう書いてあった。円錐形の構造を持つ組織に於いて、それは、トップへの服従を容易にさせる役割を果たす。なんだかまるで、『フルメタル・ジャケット』かなんかに出てくるアメリカ海兵隊のようだ。
 私は「おはよう」と、短めの挨拶を一度だけ返し、そのままロビーの奥へ足を進める。 中央に大きなものがひとつ、その周りで幾つもの小さなシャンデリアがそこかしこで煌いている。中央のシャンデリアの真下に川が流れている。流れているのは温泉だ。薄めてはあるらしい。上流には、私の背丈よりも高い山の模型があり、その麓に、表札大のステンレスプレートが、設置されている。照明の黄色に埋もれながら、文字が見える。
 「雨月山」
 プレートにはそう記されていた。私は山の右脇を抜け、重役専用エレベーターへと向かった。これも祖父の遺産だ。扉を囲む枠はアールデコ調の細かい直線と曲線を幾重にも重ねたレリーフが施され、扉自体の表面は蔓草と鶴とを模したアールヌーボー調のレリーフが施されている。この新興宗教の祭壇のような仰々しさは間違いなく、他の従業員を威圧する為のものだ。ロビーとの調和と言う名目があるらしいが、それならばそもそも、ロビーに従業員用のエレベーターなど設置しなければいいのだ。実際、一般社員用のエレベーターは客の目からは見えない場所にあった。クリーム色のみすぼらしい扉をしていた。
 エレベーターは既に扉を開けて私を待っていた。私は無言で乗り込み、エレベーター係の青年に声を掛ける。
「ありがとう」
「ありがとうございますっ」背筋を正し、指先を太ももの脇に付け、青年はマニュアル通りに応対する。
 呆れた溜め息は吐き出せない。向こうもやりたくてやっている訳ではないのだ。、失礼にあたる。
 エレベーターはガラスの箱になっている。外の景色が、私の前にはあった。
 昔、上っていくこの箱から外を見るのが好きだった。
 私が、「ちーちゃん」だった頃の話だ。
 私はからだを回して扉の方を向く。雨月山の模型が、閉まり行く扉の向こうに見えた。映画『未知との遭遇』で、主人公が作っていたマッシュポテトの山のようだと思った。部屋一杯に積み上げられたマッシュポテトは、主人公のデジャブを具現化した。同じ様に、雨月山の模型は、私に遠い既視感を与える。
 雨月山には、かつて、鬼の一族が住んで居たと言う伝承がある。幾つかのバージョンでは、「紅葉狩り」で有名な長野県鬼無里の鬼女、紅葉のような美女がその頭領になっているが、その鬼が、やはり紅葉と同じ様に、近隣の村を襲い悪業の限りを尽くしていた。圧倒的な鬼のパワーの前に、人々は為す術もなく、ただ恐怖に打ち震えるのみであったが、その討伐に向かった……………誰だっけ? 名前を忘れたが、とにかく、討伐に向かった侍が、一度は返り討ちに遭いながらも、鬼の娘と恋に落ち、鬼パワーを分け与えられパワーアップし、めでたく悪鬼を一掃し、その鬼の娘と子を設け、それが、柏木のルーツになった。
 だから、柏木は特別な一族なのだ。なにせ、鬼だ。伝統のある家柄は世に数あれど、血の意味が違う。
 祖父は何かと言えばすぐ、その結論を導き出したがった。日経新聞のインタビューにも、事業拡張成功の要因は、終局的には、鬼の力によるものだと話している。インタビューした記者の計らいか編集者の良識か、紙面では祖父の言葉の最後に(笑)がついていたが、実際には、かなり真面目に、『鬼』の血の秀逸を語ったらしい。
 祖父の『鬼』への執着は、殆ど偏執的といってもいい位だったようだが、彼が『鬼』を積極的に利用して商売の成功を収めていたのは確かだ。この鶴来屋内の土産物屋にも置いてあるが、この界隈では、『鬼』を題材にしたブックレットが多く売られている。温泉地としてはかつてからそこそこ名のあった隆山を、知的でミステリアスな観光地に仕立てあげようとした祖父の計画の一環だった。
 更に言えば、今では、るるぶなどの旅行誌に隆山の一大イベントとして必ず大判の写真付きで載っている「隠祭」(Onimaturi)も、実は、かつては、それ程大きな祭ではなかったのだ。
 十月の中頃、これからの季節の満月の夜、一面紅に染まった雨月山に向けて、満月の夜、鬼の面を付けた男女が、一列に並び、太鼓の音に合わせて、気が違ったように飛び跳ねるような踊りを山に捧げる。この踊りは「依る喰う」(Erukuu)と呼ばれ、これは、死者の魂を身体に依らせ、その御霊の業を、生者のエネルギーで喰いつくす為の儀式である事からその名が付いたと言う。鬼の面は「隠」(Oni)、つまり、現世から隠れてしまった者を示しており、細部は違えど、踊りによる死者の浄化と言う構造は、青森県や、三重県の一部、また、遠く海を隔てたインドネシアのアプリコット諸島などにも在るらしいのだが、雨月山の「隠祭」が興味深いのは、それが、山岳信仰と結び付いている点だ。死者の世界と生者の世界を隔てる神の障壁が、雨月山を媒体にして形成されていると考えられていたらしく、それを裏付けるかのように、雨月山の何処かには、死者を彼岸へと連れて行く船が埋もれているという伝承が残っている。
 雨月山近辺のみの小さな風習であり、ただ山を見ながら踊るだけであったこの祭りだが、祖父の手によって、今では、近隣の自治体同志が、その日の為に何か月もかけて作った山車を鶴来屋近辺で喧嘩しながら引き回し、更に、山車の上に乗った太鼓役のドラに合わせて、松明を持って鬼の面を付けた村人たちが、町中飛び跳ねながら踊り歩くと言う、日本各地の祭のハイブリッドの様な、なんだか良く意味の分からないものになってしまっている。鶴来屋の客寄せの為に、何か郷土の伝承と結び付いたイベントが欲しいという事で、当時の広報担当が、アレンジしたのだという。
 だが、その派手さ故に客の目は引く。当然、鶴来屋の利益にもなり、この地を訪れた観光客たちも喜ぶ。私たちの仕事は客を喜ばせることであって、民芸の保存ではない。だから、これでいいのだ。客たちに、醜い自分の姿をいっとき忘れさせてあげられるエンターテインメントであれば、嘘八百であっても。
  でしょう、K・K。
 文系出身の私個人としては、とっても嫌だけど。ゼミの教授にも昔、冷たい目で見られたことあるし。一応、すみませんとは謝ってはおいたけれど、何がすみませんなのか、自分が悔しくて仕方なかった。
 エレベーターが最上階に到着した。
 扉が開いて、私は一瞬だけ後ろを振り向き、またすぐに前へ向き直り私は足を進める。私の背よりも低くなるように、頭を垂れているエレベーターボーイの前を背筋を伸ばして進んで行く。ちらりと見えた十五階のエレベーターからの外界は、ちーちゃんが見た、あの日の景色とは違っていた。
  あのね。
  あのね。やっぱり。
 十五階。ここが、私のオフィスになる。ドアまで敷かれた赤い絨毯を蹴り、木目の見える焦げ茶の扉の前に立つ。「会長室」と彫られた真鍮のプレートが、私の目の高さに架けられていた。私が会長になる前、叔父がこの部屋を使っていた頃には、プレートは「社長室」だった。
 中にあるのは、艦船のブリッジのように三面が展望出来る異常に広い部屋だ。
 目蓋を一度閉じ、息を吸って、ドアを開けた。
 展望が開く。左右には別館の屋上。
 自動で部屋に明りが点る。
 黒い皮のソファーを照らす。飾りの書籍棚を照らす。デスクを照らす。青い絨毯を照らす。部屋を囲むガラスはその光を反射しない。黒い皮のソファーと、飾りばかりの書籍棚を壁面に、青い絨毯は正面に私が就くべきデスクを置く。
 デスクの奥に、またデジャブを覚えてドアを閉めずに私は立ち止まる。眩む光に、目を細める。
 ………K・K…………………………
 後ろ手にドアを閉め、デスクへ向かった。
 チェアーを引いてデスクに就く。チークのデスクの、横に長い黒い天板には、コンピューターのモニターが置かれている。チェアーの左に置いてある大きなタワー型の本体にキーを差し込んで回し、電源を入れた。メモリを数えるのに時間がかかって、OSの起動が遅い。
 7623
 7758
 7836
 画面の左で、コンピューターは白い文字をカウントして行く。約1秒をかけて100を数える。私はカウントを見詰めている。
 この椅子に。
 この椅子にK・K、あなたは居た。
 私が訪ねると、仕事中でも微笑んで、「どうしたの?」と目を細め、優しく訊いた。
 私には、いつでも、あなたの微笑みは作り笑顔だと分かる。けれど、それは私を思い遣ってのものだったから、私は、あなたが本心を私に話さない事に寂しさを感じていても、嬉しいと思った。思う事にした。
  あのね。やっぱり。
 真昼の光は嘘をつく。幸せそうな笑顔だけを、私に残す。
 ノックの音がした。私は、顔を上げて乱れ髪を掌で後ろへ撫でつけながら大きな声を出す。
「はい?」
 この時間に来るのが誰だかは分かっている。副社長の富山さんだ。
「富山です」
「どうぞ」
 ドアを開け、富山さんが中に入ってくる。
「おはようございます」立ち上がって、私の方から挨拶をした。
「おはようございます、会長」富山さんが腰を曲げる。
 富山さんには、私の指南役を努めて貰っている。五十半ばの男性で、後ろに撫で上げられた髪は白髪染めで自然な感じのグレーに染められている。ロマンス・グレー。ちょっと意味が違うか……。私は年上好みらしい。運転手の飯山さん同様、幼い頃からの私を、よく知って居る人物でもあり、その所為で「会長の腰巾着」と役員からは嫌われていた。すみません、と謝りたくて仕方がない。
 富山さんは私の真向かいに歩んで来ると、まず、デスク越しに「お座りになって下さい」と言った。
「あ、すみません」こういうことでしか、謝る事が出来ない。
 言われた通りに私はチェアーに腰を下ろす。
 富山さんは困惑して笑みを作る。
「コンピューターはもう起動しましたか?」
「あ、はい」
 モニターを見ると既に、鶴をデザイン化した鶴来屋オリジナルの壁紙の上に、10個余りのアイコンが張り付けられていた。
「それでは始めましょうか」
 私はマウスを掌に包み、ショートカットのアイコンをダブルクリックする。
 ひと月前は、そんな単語の意味を全く理解出来なかった。
 私の通っていた文学部ではレポートを書く為のワープロが使えれば、それで何とかなったのだ。
 ハードディスクがカチカチ言っている。カチカチ言う度にパソコンの中の部品が少しずつ欠けていくような気がするから、嫌いな音だった。
 富山さんが、デスクを回り込んで私の背後に立った。
「はい、『ファイル』にカーソルを持っていって下さい」
「はい」
 富山さんの指示に従って、マウスを動かし、キーボードを叩く。そんな風にして、午前中はエクセルの講習で終わった。社員には知られてはならない、内緒の講習だ。
 富山さんが会長室から出て行った後、コンピューターの電源を落として、私は、椅子を回転させて窓の外を見た。空は青い。パソコンのモニタと私との相性は最悪で、紫外線カットのフィルターを掛けていてさえ、一時間もすれば、後頭部に痛みを覚えて来る。疲れた。鬼のクセに、なんだかだらしない。
 瞼を閉じて、上から目を右手の指先で揉んだ。引き出しから目薬を出して差す。この間、駅前のドラッグストアで買ったロートPROだ。ビタミン配合、OA専用と札が張られていて六百円ちょっとだった。一応、領収書を切って貰ってはいたが、経理にはまだ提出していない。会長ともあろう者が、僅か六百円を請求するのは、なんだか気が引ける。
 染みる感覚が、かえって気持ち良かった。目から零れた雫を拭くティッシュを出し忘れていて、面倒臭かった私は手の甲で、それを拭った。
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9821シリーズ マルチ……懐かしい 笑
今では床の間の置物と貸してます

http://www.0462.ne.jp/users/nayurin/index.html