真昼の光は嘘をつく  その4 投稿者: 沢村奈唯美


 朝食の後、会社から迎えの車が来るまでの時間にはいつも仏間に居る。
 仏壇の前で紫の座布団の上に正座を崩し、死んだ叔父と父と母の居る異界への扉の前で、スーツ姿で、茫っとしている。
  K・K、あなたはどう思う?
 目蓋を閉じればその瞬間、私の世界は形を無くす。閉じるその瞬間まで見詰めていた、変えようのない確たる現実は不定形の闇に埋もれ、洞窟で薄明かく発光する苔の様な緑色の染みに転じて黒の中に滲む。その存在の認識が夢幻のようにあやふやになり、私自身が今ここにいる事、それすらも、誰かの作り出した虚構であるかののように、頼りなげに歪んでしまう。多分、私が生きている現実が本当はそういうものであることを、私は望んできたんだろう。昔も、今も。
  K・K、あなたは、こんな私を。
 人の気配を載せて畳を擦る足音に私は吐き出しかけていた息を飲んだ。私が振り向くよりも早く、足音の主は怯えた口調で私の名を呼ぶ。
「千鶴お姉ちゃん」
 初音の声が私の名前を呼んでいる。
「あ、なに?」私は半身を捻り、妹を見上げる。
「うん」初音は顔を背け、両手を背中に回して重ねた。話をどうやって切り出すか、そのためらいが眉間に皺を作る。
 初音が何を話したいのかが、私には分かる。
「楓の事?」なるべく優しい響きを持つようにゆっくりと、私は、初音に訊いた。
「うん……」
 やっぱりね。
 初音は姉想いの妹だ。母が父と死んだ日からそうなった。それが、私たち姉妹が家族でいられる為の条件だと彼女が自分で判断したからだ。あの頃、まだ幼かった妹にその選択をさせてしまった事に私は、今でも罪悪を感じる。真昼の光は嘘をつく。傷ついて歪んでしまった臆病な初音を、これこそが理想の妹の姿なのだと、何も知らない人間たちに照らし出す。
「良かった、よね……?」私の機嫌を伺って弱く、初音は訊いた。
「もちろん。良かったわよぉ」私は微笑んで目を細め、首を一寸揺らして大袈裟な抑揚を付けて答えた。頬を擦るシャギーが痒い。
 初音の言いたい意味が私には分かる。楓の態度、耕一さんへの態度が軟化した事を、喜ぶべきだと私を説得しているのだ。耕一さんが屋敷に来てからずっと、楓は彼を避けてきた。理由は分かる。今の耕一さんを認める事が出来なかったからだ。

 変わったのは貴方の方です。

 腕を掴んだ耕一さんに楓は叫んだ。
 何日か前の朝だった。この仏間の、今、丁度、初音が立っている辺りだ。

「変わったよね、楓ちゃん。昔はもっと……」
 自分を避けて背を向けた楓の腕を掴んで、耕一さんは、そんな、無神経な事を言った。楓は泣きそうになりながら、耕一さんに振り返ってひとこと、叫んだ。
 楓が何を言いたかったのか私には分かる。その場には居なかったが初音や梓にも分かるだろう。分からないのは、分かりたくない耕一さんだけだ。だから私は、二人の間に入って、会話を止めさせた。耕一さんは、知らなくていい。分からない方がいいのだ。
 楓は耕一さんをずっと想ってきた。何年も何年も姿を見せず、手紙さえ寄越さない耕一さんに、それでも、想いを寄せてきた。
 だから、なのか、楓は叔父に良くなついていた。酔った叔父が、愚痴交じりに耕一さんの事を延々と話し続けるのを聞くのでさえ、嬉しそうだった。梓などは途中で飽きて、さっさと自分の部屋へ戻っていっていた。
 だが耕一さんは父を、叔父を憎んでいる。自分たちを捨て、私たちの家族になった叔父を憎んでいる。叔母、耕一さんの母親の死を、看取ることさえしなかった叔父を憎んでいる。
 楓は耕一さんが叔父を憎むのを認める事が出来なかった。叔父がいつも耕一さんのことを気に掛けていたのを知っている。しかし、耕一さんの苦痛も理解できてしまっている。耕一さんの苦痛を理解できるからこそ、叔父が、どれだけ耕一さんを気に掛けていたか悩んでいたか、それを彼に諭す事が出来ない。何故なら、私たちは、楓は、親を、好きな者を無くす痛みを知っていて、そして、耕一さんから父を奪ったのは他ならぬ私たちだからだ。好きな者を無くしてしまった苦痛が、ゆっくりゆっくり、人の心を蝕んで行くのを知っているから、耕一さんに何も言う事が出来ない。そして、耕一さんを思い遣る限り、楓は「今の」耕一さんを認める事が出来ない。
 だから、避け続けた。どうしていいのかが分からずに辛いから。
 そうだよね、K・K。
 楓は学校が近いから。他の人たちよりゆっくりしてられるんです。
 そういうことにしておいた。梓も、私に話を合せてくれた。見抜かれていると分かっていて、嘘をつき続けた。
 ここに居る間には、耕一さんの心には痕をつけたくはなかった。
「千鶴お姉ちゃん」初音が言った。
「ん?」私は、目が逸れていた事に気が付く。
「楓お姉ちゃんの事、好き?」
「好きよ」
「耕一お兄ちゃんの事は?」
「好き」
 即答する私に、初音は黙り込む。
「そっか」
 無理矢理明るく微笑んで、初音は、また黙った。
 私は笑顔のままで初音を見詰め続ける。不自然な姿勢の所為で、首と背中が痛い。
 暫くしてから初音は、じゃあ、と口を開き、「行ってくるね、学校」
 そう言って、私に背を向ける。
「うん」私は、初音の制服の赤い襟を見詰め、
「いってらっしゃい」呟いた。
 まるで、私から逃げるように初音が、駆け足で仏間から去っていく。廊下の板を踏みつける初音の足音が聞こえなくなった頃私は、膝に手を突き、立ち上がった。
「よっと」声に出る。
 廊下へ出ようとした時、楓と擦れ違った。私と入れ違いに楓が仏間に入る。私が先刻まで座っていた紫の座布団の上に座ろうとする。私は立ち止まり振り返る。
「楓」座布団の上に正座した楓は私に背を向けたまま、顔だけを少し私の方へ曲げて応えた。
「なに?」
「ありがとう」
 身動きをせずに、黙ったまま、楓は応えの言葉を選んでいた。
「やめてよ」
 私は小さく息を吐く。照れているのだと思った。
「いいの。ホント、助かる。耕一さんが東京に帰る迄でもいいから」
「やめてってば」
 強い拒絶の意思をその言葉に感じて私は、心臓の鼓動を押え込もうと腕を組み、胸を抱く。楓の視線は感じていない。塗れた烏の羽と同じ色をしたおかっぱに隠れた瞳は、緑色の畳の縁を見詰めていた。
「私」楓は言った。
 私は楓の言葉を黙って待った。
「好きなのよ? 耕一さんの事」楓は言った。
「知ってる」私は答える。答えて後悔した。迂闊だと呪った。
 私の言葉に傷付いて、楓は、それきり黙ってしまった。姿勢を正して仏壇を見上げる。私は揺れない楓の髪の毛を見詰める。
「じゃあ、私、行ってくるから」楓の耳に届かない事がないようにと意識しながら私は口に出す。
「いってらっしゃい」
 楓も、わざとらしい位の明瞭さで応えた。
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お久しぶりです〜
今までコミケでてんてこまいしてました 笑
とりあえず、4です。
なんか以前一度アップしたような気がするんだけれど、リーフ図書館にも収録されてなかったので、一応^^;;;
ではでは〜

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