真昼の光は嘘をつく その3 投稿者: 沢村奈唯美
 『それはとても遠い記憶  百年二百年前の
    その頃私住んでいた  名前も忘れた町で』

  部屋でまだ眠っている耕一さんを起こしに外の廊下を渡る。
  朝食の席に今日も楓は居ない。
  その事の言い訳を考えながら、私は廊下を歩く。
  静かな朝。静かな晩夏。
  眠る耕一さんの横で正座して、その閉じた瞼を見つめて、私は昔を想う。
  楓が云うような遠い過去の事には何も意味がない。私が想うのは、私たちが一番幸せだった時期の事だ。幸せだと思えた時期の事だ。
  そんな時期が、私にもあった。
  朝から蝉は鳴き始める。
  
 次の朝は晴れていた。
 夢は見ていない。
 目覚めは悪くなかった。股間の痛みも消えていた。初めての時は、翌朝まで挿入の痕が疼いた事を考えると、セックスにも徐々に慣れてきているのかもしれない。
 ベッドの中で、ショーツの上からその部分を触ってみる。当たり前だが、閉じていた。クリトリスの場所から膣口まで割れ目を右手の中指の腹でなぞってみる。ちょうどここ。この場所を、昨日は耕一さんが、嘗めたり、吸ったり、噛んだりしていたのだ。   私が両手の中指で広げてみせる。  耕一さんがペニスをあてがう。 暖かい肉の棒が、少しずつ、少しずつ、めり込んで来る。少し入っては、私の膣壁がほんの僅かに押し戻し、また少し入っては、僅かに戻って、それを繰り返しやがて、耕一さんはペニスを根元まで埋めてしまう。
 回想は性欲を掻き立てる。実際の行為に於いては未だ苦痛の方が大きいセックスという現象の中から、私が見出だしたいと望むエロスを抽象し理想化して、私の身体に自慰の火を点す。
 慌てて指を離した。馬鹿な事をやっている場合じゃない。会社に遅刻する。
 身体を跳ね起こして、ベッドから抜け出る。パジャマを脱いで、ベッドの上に放り、タンスからブラを出す。ブラを手に見詰め、小さな声でひとりごちた。もっと派手な方がいいかな。
 誰に見られる訳でもなし、と割り切っていられた状況は、今、過去のものになっている。耕一さんの好みってどんなのだろう。そんな事を考えながら、胸に嵌める。
 ブラとショーツだけの姿で、ベッドを整えた。シーツを掛ける。
 ブラウスを着て、スカートを履く。ミスティオで髪を湿らせ、ブラシで髪を梳かす。化粧台の鏡には私が映る。二十三歳の会長の鏡像。色は白く、額の中央で分けた前髪と、頬の横で跳ねるシャギー。その中に枝毛を見付けて鋏で切った。切って置かないとやがて、根元まで裂けてしまう。やっている事は普通のOLと変わりがないのに、私は柏木グループと云う企業グループの会長だ。ああ、一応、会長もOLか。
 時計を見る。ベッドの頭の方にある出窓に置かれたその時計は、金の神殿に文字盤を掲げていた。ギリシャ文字が円周を十二等分する文字盤を巡る針は、やがて7時になる事を私に教えている。時計の横にはティッシュの箱が襞布のカバーを掛けられて置かれ、その隣には、昨日、私が持って来た皿と湯呑みが並んでいる。
 ベッドに片膝を載せ、少し前屈みになって皿と湯呑みを手に取った。皿の上にフォークは載せてある。
 左手に皿、右手に湯呑みを持ち、食堂へと廊下を歩く。
 中廊下はまるで、トンネルのようだ。左右を壁に挟まれ、高い天井と、そこに吊された、雪洞のようなカバーを掛けられた蛍光灯。採光は部屋と部屋との区切りの奥に引っ込んだガラス窓からのみで、暗い光は、摩擦で黒ずんだ廊下板により一層、重厚で年代がかった印象を与えさせる。
 食堂には楓がいた。学校の制服を着て、自分の位置に着いていた。
「あら」私は平静を装う。「珍しいわね」
 楓は何も言葉を発する事なく私を見、ただ、首を前に倒して私に応えた。
 朝食に楓が同席している。珍しい事だった。だが有り得ない事ではない。耕一さんが来る迄は、ずっと姉妹4人揃って朝食を採っていたのだ。いや、5人だ。4人になってからは、全員が揃った事など一度もなかった。
 座卓にはもう、茶碗が並べられていた。楓の左隣の私の席にも、朱色の水玉が飛び散った茶碗が逆さになって置かれている。
「あ、千鶴お姉ちゃん、おはよ」初音が鍋を手に、台所から現れる。FMラジオのアンテナのように、一束、頭の後ろから突き立った髪の毛をふらりと揺らして、「今朝は7時だよ、全員集合! だね」と、明るく笑う。初音も制服を着ていた。
 初音は十五で、高1だ。一番年下のクセに、何故か古い事を良く知っている。TVっ子だからだろう。淋しい人間ほど、TVを見たがる。
「なっつかしいなー」耕一さんが目の端に皺を作って笑う。「ババンがバンバンバン。はぁビバビバ」両手を左右に振って歌う彼を見て、私は苦笑してみせた。耕一さんは二十歳だ。昔は『耕ちゃん』と呼ぶにふさわしく幼かった彼も、今は大学生になっていた。時は流れている。私はもう、彼の事を『耕ちゃん』とは呼ばない。譬えば、ベッドの中でも。
「なんだそりゃ」冷めた視線で梓は、訊くともなく言葉を発した。
「なに? 知らんのか?」耕一さんが左隣の梓に目を向けた。
「知らん」梓の返答は素っ気がない。
 耕一さんが舌打ちをした。「ドリフが昔、やってたろう」
 食卓を背に、昨日の湯呑みと皿を台所へと持って行く私は、暖簾を頭で押しながら、視界を遮る紺の木綿に目蓋を閉じる。
 耕一さんが、ドリフの「8時だヨ! 全員集合」について梓にレクチャーしている声が聞こえていた。
 確か土曜の夜8時だったと思うんだけど、その辺りにやっていたドリフターズ、ドリフは知ってるよな? のコント番組で、高視聴率番組だったんだ。ヒゲダンスとかシラケドリとか、すげえ流行って、結構下品でPTAから苦情とかもすっごくあって。
 シンクに置かれたターコイズブルーのプラスティックの桶の中に、皿と湯呑みを置いた。フォークは皿に載せたままにしておいた。後で、梓が洗うだろう。蛇口を捻り、桶の中へ水を注ぐ。水圧でフォークは跳ねて皿の上から落ちてしまった。水の落ちる先を桶から外し、流れる水で顔と手を洗って、手拭いで拭き、食堂へ戻る。
 まだ、「8時だヨ! 全員集合」についてのレクチャーは続いていた。
「ナマムギナマゴメナマタマゴ ナマムギナマゴメナマタマゴ イェイ!」
  ででんででん ででんででん ででんででんで でーん
 手を交差させながら耕一さんが踊っていた。多分、知っているのは私だけだ。志村けんが、合唱団のコーナーで踊っていた早口言葉のダンスだ。皆の軽い沈黙が僅かに重い。初音でさえ、自分のリアクションに戸惑っていた。
「ち、千鶴さんは知ってるよね?」耕一さんの視線が私を捕らえた。
「え。はい」私は答えて、そして歌ってみせる。「しーらけどーりー とーんでいーくー みなみのそーらーへー ミジメ ミジメーですね」
「そうそう!」耕一さんは手を叩いて喜んだ。単純な所は可愛いとは思う。私も嬉しそうな微笑みを浮かべてみせた。
 梓が溜め息をついたのを私は聞き逃さなかった。
 初音が私の茶碗を梓に手渡し、梓はそこに御飯をよそる。御飯のよそられた茶碗は楓に渡され、席に着いた私の胸の前に置かれた。私の席は、楓と初音の間だ。真向かいに耕一さんが居る。昨夜のセックスなんてなかったように、何を装う事もなく、自然にそこに居る。楓が私の目を見た。前を向いて耕一さんを見ていながら私は、楓の視線を感じとる。
「楓ちゃん知ってるよね? 「全員集合」?」耕一さんが楓を見た。急に話を振られて、楓は、一寸、目を見開く。
 楓は返答に詰まった。俯き加減に卓上の湯呑みへ視線を向かわせ、すぐ側の私に漸く聞こえる程度の小さな声で答える。
「ええ。まぁ」
 私は声をあげる。「うそぉ?」
 楓は俯いたまま、しかし、はっきり聞き取れる声量で、
「ニンニキニキニキ、ですね」
 恥ずかしげに照れて笑った。
 梓が、唖然として目を丸くしている。「おい、楓……」
「なに?」楓は姉を見る。
 俯いた顔から上目遣いで睨む楓の視線に梓は怯えもせずに「おまえ、毒キノコでも食ったんじゃねーか?」
「あはは」初音は嬉しそうだった。姉想いなのだ。
 耕一さんも嬉しそうだった。浮かれているのが見て分かる。そして彼の心を浮かれさせたものが何だか、私には分かる。この屋敷に来て初めて見た、楓の、笑顔だ。
「うーん、おしいっ。それは「ドリフの西遊記」だよ、楓くん。当時はピンクレディがエンディングを歌っていたんだ」
「そうですか……」楓は空の湯呑みを手に取って、口につける。すぐに空である事に気付き、口から離して、食卓の上に視線をきょろきょろと彷徨わせた。
 梓が、急須にお湯を入れた。楓の両手に包まれた湯呑みの中にお茶を注ごうと手を伸ばす。
「ほれ」
「あ……ありがとう」
「熱いぞ、気をつけろ」
「うん……」楓はテーブルの上に湯呑みを置いて、手を離す。離した手のやり場に今度は困って、顎を撫でたり座卓の端に指を掛けたりした。
 健気だな。私は思った。可愛いよ、そういう姿って。きっと、男の人から見ても。
 さ、食べよーぜ、と言う梓の声で朝食は始まる。
 成る程、梓は、いかりや長介なのか。
 楓は食事中、言葉を発しなかった。ただ、耕一さんは、初めて楓が朝食の席に現れた事が余程嬉しかったのか、或いは楓を気遣ったのか、楓に積極的に話をふった。楓は首を縦に振るか横に振るかでそれに応え、昨夜の濡れ縁と同じ位置にいる私は昨夜と同じように横目で、楓の表情を逐一伺った。楓は、始終俯き、その顔は、微笑んではいなかった。
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久々野さん
「愛する事の責任」、ダーク、というのとはちょっと違う気もします。
 このテーマで長いのを書かれるのも良いかと思いました。
感想をくれた方、ありがとうございます。
なんか、ホントに18禁ですが、村上龍の「トパーズ」だって一般書籍で売ってるから大丈夫!!……か? 笑
 
 

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