真昼の光は嘘をつく  その2。 投稿者: 沢村奈唯美

 部屋を出て私は、台所へと廊下をゆっくりと歩く。押し広げられ、何十回もの摩擦に耐えた性交の跡は、流水で冷ました直後の火傷のように疼く痛みを残したままで、その所為で歩幅も小さくなってしまう。昨日とは違う涼しい夜だった。月は黄色く藍色の闇から池に歪んで映り、鈴虫がりー、りー、と屋敷の外で鳴く声が小さく聞こえる。
 酷い死に方だった。叔父は自動車ごと崖から転落して死んだ。酷い死に方だった。人間の形を残していたのは、着ている服だけだった。
 そして、ひと月。夏は終わろうとしている。
 気付かなければ気付かないうちにそのまま、私を取り巻く世界は変わって行く。今夜が昨夜より涼しくて、明日は今夜よりも更に涼しいかも知れなくて、そんな小さな差の積み重ねが、後ろを、ふっと振り向いた時に大きな変化として認識される。だから、振り向いていない今の瞬間には、変化は存在していないのだ。気が付けば、秋が過ぎ、冬になっていて、今夜は昨夜よりも暖かかったと春を待つ日に暮らしている。
 電気を消したままの台所で、闇の中の冷蔵庫を開ける。奥から照らすライトが、ぎっしり詰まった食材を影にする。耕一さんが居るからだろう。叔父が生きて居た時でさえ、こんなに食料が入っている事などなかった。
 耕一さんは私の従兄弟にあたる。つまりは叔父の息子だ。私たちと一緒に暮らしていた叔父が死んで、この屋敷に来た。ひと月も後に。冷たいと責めはしない。耕一さんから叔父を奪った私たちに、その資格はない。叔父は仕事の都合で耕一さんと叔母を東京に残し、こちらに来て、両親の居なくなった私たちと十年、十年だ。十年を過ごしたのだ。その十年の間に叔母、耕一さんの母親は死んだ。その死が、耕一さんと叔父の間に断崖を作った。
 チルドルームに詰み込まれた糸こんにゃくの奥に、レトルトの赤飯が6個あった。
 ふっふっふ、これで隠したつもりか、梓。
 戯けた言葉を頭の中だけで声にする。
 食事は次女の梓に一任してある。食事だけではなく、家事全般は、彼女の役目だ。母が父と死んでから、そうなった。最初の頃は私も買い出し位は請け負っていたのだが、あまりの手際の悪さに梓が切れて、今では洗濯物すら干させてもらえない。言い訳をするが、私が家事に疎いのは当たり前なのだ。小学生の頃から、家庭科だけは成績が悪かった。父への反感から、家庭科だけ授業もテストも手を抜いていた。
 私が生まれた時に父が呟いた言葉の事は母から聞いた。
「なんだ、女か」 
 企業のトップらしいリアクションだと思う。祖父が一代で築き上げた鶴来屋グループの、自分が譲り受けた会長のポストを、更に我が子に譲り渡すという妄想に喜々とした毎日を送って居たのだろう。従業員一同も世継ぎが生まれる喜びに満ち満ちている………
 父は認識を誤っていた。世襲など、今の時代、組織を軋ませる要因になるだけだ。
 父の跡を継いで「社長」になっていた叔父が死に、鶴来屋に「会長」のポストが復活し、私がそこに収まる事が決定した当初、役員から造反の狼煙が上がりかけた事がある。副社長の助言に従い、監査部に多少働いて貰って、かねてより反柏木の傾向の強かった宇佐美派の部長をひとり解雇しただけで済んだが、危うく、役員全員一致でこちらが解雇されるところだった。誰でも彼でも、社に後暗い所はあるものだ。それを知って多少の事なら放置しているのは、こんな事態に対処する切り札として使う為だと、後で副社長から教えてもらった。私の断固とした態度と、わざわざ役員会を開いてひとりの部長のクビを言い渡すと言う演出が功を奏したのか、以来、宇佐美派の表立った動きは見られない。らしい。『ゴッドファーザー』みたいだと会長室のソファーに腰を沈めて、その時は思った。本当に、やっている事が映画かなんかみたいで、当事者であるにも関わらず、もう、私には現実の感覚がない。まだ、鬼だの宇宙人だのの方が可愛げがある。
 四角く平たく固い赤飯のパッケージをひとつ手に取り、冷蔵庫の扉を閉めた。
 ケーキ用の小さなフォークで、パックの表面を2回突いて計6個の穴を開け、電子レンジで加熱した。ごおごおと耳障りな音を立て、ターンテーブルが赤飯を回す間に、戸棚から皿を取り出した。
 土瓶にお茶の葉を入れる。さらさら。さらさら。深緑のこよりが、鋼のネットの中に降り注ぐ。私は濃口が好きだ。お湯を注いだ時いつも、膨脹したお茶の葉が溢れ出そうになって、「勿体ない」と梓に怒られる。
 いいじゃない、私がお金を出しているんだから。
 生ゴミのごみ箱へ裂いたビニールパックを捨て、皿に載せた赤飯とお茶を片手ずつに持ち、台所を後にした。
 自分の部屋へ戻ろうと、屋敷を外周する廊下を伝った。柏木邸の、特にこの母屋の構造は迷路のように複雑になっていて、ひとつの部屋に向かうのにも幾つかの道程がある。遠回りになるこの道を選んだのは、夜の景色が見たかったからだ。小股で歩くのは、矢張りまだ股間が痛いから。
 飲み口を摘むようにして持った湯呑みから上る湯気が、掌に熱い。こんな夜中に炭水化物なんか採って、体や美容に良くないだろうな。そう考えると少し鬱になり、顔が下がる。
 大丈夫か。何てったって私、鬼の末裔だし。
 溜め息をついた。
 庭草のそこかしこから、鈴虫は少しうるさい程の声をあげて鳴いている。その声に責められて私は気配と足音を殺し、尚更、歩幅を縮めようとする。目を凝らしても、草の中に虫の姿を見付け出す事など出来る訳がない。分かっていながら、庭に目を向ける。鳴き声だけが聞こえる。姿は見えない。
 りー。  りー。
  りー。   りー。
 広い庭。池がある。石の橋が架かる池は、周囲を砂利が囲んでいた。歪む月。映る星。奥の方には睡蓮の葉。モネの睡蓮の絵を現実の世界に再現した光景が、曇り日の夕方にはそこに見えるかもしれない。池の向こうで、細身の剣のような草が、ぼうぼうと茂っている。
 柏木は鬼の一族。夜と月とに強い。

 そうだよね、K・K。

 再び廊下に顔を戻した。
 縁側に誰かが腰を下ろそうとしているのを、私は捕らえて目を凝らす。
 そのシルエットから判るのは、おかっぱの頭と、細い足。細い腕。低い背。
 妹だ。
 三女の楓だった。
 柏木家には4人の娘が居る。年の順に、私、梓、楓、初音だ。私以外の3人は全員まだ高校生で、楓は2年生だった。私だけが既に、大学を卒業して社会人にまでなってしまっている。
 楓は、無口で人見知りをする性質だ。この屋敷に来た耕一さんとも、未だ、あまり話をしていないらしい。
「楓?」
 まだ距離は離れている。声を掛けると、楓は私の方を振り向き、明瞭な発音で言った。
「千鶴姉さん」
 姉妹に対しては言葉を濁す事がない。
 暗い闇の所為で、表情の細かい部分までは読み取る事が出来なかった。だが、いつもと同じ、怒ったような険しさを含む視線を私は感じて、虚勢を張る。
「どうしたのよ。寝なきゃダメじゃない。こんな時間」
 私は楓の側へと近づいていく。近付いてくる私を楓はずっと見ていた。夜に同化した、あの、黒目がちな瞳は私を睨み続けている。
 足を進める。池の中の月を見ながら、私は、足を進める。厳つい梁の立ち並ぶ庇が邪魔をして、月は、そこにしか見る事が出来ない。
「何してるのよ?」
「夜の景色が、見たくなって」楓が言った。「それ、夜食?」
 私は手にしていた湯飲みと赤飯との重量を思い出す。
「まあ、ね」
 楓の左に腰を下ろそうとした。よいしょ、と口にしながら、体育座りの且つこうから足を伸ばし、濡れ縁の外へ放り出す。
 鈴虫の鳴く声が幾つも、幾つも、耳に届く。少し、気まずい。私には、楓に対し後ろ暗い部分があった。
「食べる? お赤飯」湯呑みを廊下の上に置き、赤飯の皿を楓の方へと差し出した。
 楓はその皿を、ちらりとだけ見てそして、庭へと目を向けた。
「いらない、ありがとう」
「そう」
 赤飯の皿を膝の上に置く。端に載せておいたフォークで、赤飯を千切って口に運んだ。
 黒い水面に映る月の姿。歪む月は細部がぼやけ、その為にかえって本物の月よりも美しい。
 もち米が固い。加熱し過ぎて水分が飛んでいる。レトルトでさえ、この有様か。いいけどね。フォークでまた千切り、また、口に運ぶ。大丈夫、食べれなくはない。私、鬼だし。噛み砕く。
 食感の悪い赤飯を、お茶で飲みくだそうと湯呑みを唇につけた時、楓が告げた。
「こうしてると、思い出すんだ」
 私は少しだけ、口から湯呑みを離す。
「私がエディフェルだった頃」楓は言った。
 ふうん。私は両手で湯呑みを抱え、再び口に戻した。啜って、苦さを感じ、満足する。
 そうだな、矢張り、お茶は濃口でなくてはいけない。
 楓は月を見ていた。池に映る歪んだ月を。
 自分の還る場所への郷愁を、その星に馳せるように。

 楓は宇宙人だ。私たちの両親が死んでから、そうなった。

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あっ、痴漢電車の中編がアップされてる〜〜 ^^
大笑いさせていただきました。次も期待しています。 笑

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