この家に。 耕一お兄ちゃんが、この家に来てくれたのは9月の頃。私の新学期が始まって間もない頃。 耕一お兄ちゃんは私の従兄だ。だから、千鶴お姉ちゃんや梓お姉ちゃんや楓お姉ちゃんにとっ ても従兄弟で、もしかしたら、それ以上の特別な存在かもしんない。というのはつまり、耕一お 兄ちゃんのお父さんであるところの叔父さんが、私たち四人と一緒に暮らしていたからで、それ っていうのは両親が死んでしまった私と私のお姉ちゃんたちの面倒を見る為で、十年位前からず っとそうだったからだ。当たり前の事のように十年を、私たちは叔父さんと一緒に過ごしてきた。 当たり前の事のように十年を、耕一お兄ちゃんが叔父さんと一緒に過ごさなかったように。 けれど耕一お兄ちゃんはあの9月、夏休み、予定していた旅行を取りやめてまで私たちの家に 来てくれた。 私は嬉しかったけれど、けれど、哀しい。 だから、特別。 叔父さんに一番なついていたのは楓お姉ちゃん。 日が暮れる。まだ5時でも、夜が来る。だって、冬だし。 静かな足音が聞こえていた。 とた、とた、とた、と近づいてきて、居間で、おこたに浸かって寝そべって『暗闇のスキャナ ー』なんて文庫本を読んでた私に声を掛ける人がいる。 「ただいま」静かな声。重みのある声。 楓お姉ちゃんだった。 「おかえりなさい。楓お姉ちゃん」 私は顔を上げる。 しゅ、しゅるっ。 赤のPコートを脱ぐと、制服が現れる。なんかえっちだった。何故なら、楓お姉ちゃんの学校 の制服は、セーラー服で、襟が紺色でラインがふたつ。リボンは黄色で地は白。そういうスタン ダードだから今時、すごくえっちで、ちょっと目を逸らして、持っていた本を、そのページで伏 せて、それからまた、お姉ちゃんを見上げた。今は長袖。あの頃はまだ半袖だった。 夜の庭と廊下を仕切るガラス戸に、半透明の楓お姉ちゃんの影が映っている。この居間と廊下 とを隔てる障子はずっと開きっぱなしで、障子の縁の近くに、楓お姉ちゃんの本体は立っている 。なんだか障子の精霊って感じだ。座敷わらしって線も捨てがたいけど、敢えて『障子子』と命 名しよう。あの影、『障子子』。決定。 「今まで学校?」私は訊いてみる。もうすぐ冬休みだから、学校終わるのは早い筈だ。通ってる 学校が違うから良くは分からないけど。 「まさか」と言った後、コートを腕に掛けて、『障子子』楓お姉ちゃんは少し、続ける言葉に迷 っている。「ちょっと本屋に立ち寄って、喫茶店入って、とかしてたら遅くなっちゃった」 私は本体に顔を向ける。 「へぇ。楓お姉ちゃんでも、喫茶店とか入るんだ?」 何故かそのひとことに照れたみたいで、私の目を見おろしていた楓お姉ちゃんの視線がずれて 、畳の上をふらふら、ふらついた。 「入る、わよぉ」不器用な照れ笑いで咳き込んで途切れ途切れに口ごもる。それから「悪い?」 なんて自信なさげに、完全にそっぽを向いた。ガラスの向こうの『障子子』と睨み合っている。 「悪いなんて。でも、耕一お兄ちゃんが聞いたら、びっくりするかも」 どきっ と、したようだった。私の方を振り向いてしまう。 しゅっ。 と、靴下が廊下の上を擦る音。 あ……なんか…悪いこと言ったかな……… 「そ、……ぅかな」 「あ、ほら、男のヒトって、女の子に勝手なイメージ持ってるってゆうかぁ」 取り繕う私。 けれど、きっと耕一お兄ちゃんは、楓お姉ちゃんは無口で暗いヒトになったと今でも信じている。 確かに楓お姉ちゃんは、私たちの間でも、とりわけ大人しくて、口数の少ない方で、他人に対 しては、もっと口数が少なくなって、落ちついている、とかネクラな、とかのイメージで見られ る事が多い。でもだけど、いつも毎日、何も喋んない訳じゃない。ちょっとだけしか楓お姉ちゃ んを知らないヒトなら、「こんなの柏木楓じゃないよー」とか言い出しそうだけど、怒ったり、 する。声を上げて明るく笑ったりとかだって、する。するんだヨ? 今だって。もっと昔は、耕 一お兄ちゃんの前でだって、そんな楓お姉ちゃんでいられたのに、あの日からだ。ずっと、少し ずつ。 お父さんとお母さんがしんだ日からだ。 死んだ日だからだ。 とた、とた、とた たた、たた、たた、たた 足音。足音。聞こえてくる。廊下をこっちへ歩いてくる足音。 リズムの噛み合わないふたつの足音が、家の奥から、近づいてきた。 楓お姉ちゃんがやってきたのとは逆の方から、梓お姉ちゃんがやってきた。少し後ろに、かお りさんがいた。梓お姉ちゃんは胸に『NIN』のプリントがある白のフリースに枯葉色の棉パン の上に真っ黒なロングダウンで、かおりさんはセーラーな制服の上に深緑のハーフコート羽織っ てる。 かおりさんを見付けて楓お姉ちゃんは表情を固くしてしまう。 「コンニチハ」重い声。重い声。目を向ける事が出来ない。 だからその分私が、明るく挨拶しなければならなかった。 「こんにちはっ」 「あ、おじゃましましたぁっ」カールしてる前髪を跳ねさせて、加来千賀子みたいな、うねった リズムで体を揺らして、かおりさんは挨拶する。とってもモーションの大きいひとだ。バックス バニーみたい。多分、楓お姉ちゃんと同い年なのに、こうして並べて見ると対照的というか、な んかなーって感じがする。どっちも痩せ型なのだけれど、痩せ型のヒトの性格は両極端に分かれ るらしい。と、思った……じゃなくて、ほら、本当の楓お姉ちゃんなら、かおりさんと気が合う タイプなのかも。 って私は考えてみる。事にする。 梓お姉ちゃんが、腰に手を当てて背を反らせた。う〜とかあ〜とか首をぱきぱき言わせて伸び をして、 「じゃ、あたし、かおり送ってくからさ」と言った。 「遅くなるの?」私は訊く。 ん、って首を少し傾いで梓お姉ちゃんが、「いや、駅までだから」って答える。 かおりさんが僅かに口を尖らせていた。『もっと一緒にいましょうよぅ』って感じだったの で私は内心 あははははははは。と笑った。 ふたりは楓お姉ちゃんの脇をすり抜けて玄関へと向かう。ガラスの上を半透明の梓お姉ちゃん とかおりさんが滑っていく。 かおりさんが横を通り過ぎる時に目を伏せた楓お姉ちゃんの姿が、私にはせつなかった。 やっぱり。と思う。 やっぱり。 やっぱり、楓お姉ちゃんはどうしても、こうなんだ。まだ、こうなんだ。そのうち家族になる ひとかも知れないのに、かおりさんは。 楓お姉ちゃんが、こっちを向いた。 その顔に、私の考えていた事を察した驚きがぱっと浮かんで、ものすごく不安気な表情になり 、見ていた私は表情に詰まる。ごめん、とは言わないで楓お姉ちゃんはまた、うつむいてしまう 。相手に意味が通じなくても、ごめん、と言ってしまえたら、こんな時には楽なのに、そういう 事を知らない。うつむいた楓お姉ちゃんに視線をずっと注いでいるのも悪くて、私は読みかけの 文庫本に目を置く。 『暗闇のスキャナー』は、うん、SFだ。 麻薬、物質Dがアメリカ中に蔓延していた。覆面捜査官アークター 「あ、かおりさん、帰っちゃうの?」 「はい、おじゃましましたっ」 千鶴お姉ちゃんとかおりさんの声が聞こえる。 は、捜査のため自ら物質Dを服用、捜査官仲間にも知らさずに中毒者のグループに潜入し 彼らと日々を共にしていた。だがある日、彼は上司から命令され 「ケーキあるんだけど、食べていかないかしら? 一日早いけどクリスマス」 盗聴器を仕掛け、アークターという名のヤク中を 彼自身を観察せよと。彼はその命令に従うが……。 千鶴お姉ちゃん、クリスマスは、明後日だよ。……明日はイヴで、クリスマス前日なんだ。み んな間違えてるかもしれないけれど。 「ホールで買ってきちゃったから、余っちゃうと思うの。私たちだけだと」 ちら。 と見ると、楓お姉ちゃんが、聞き耳を立てていた。 「まーた、千鶴姉は、そーゆーボケかますぅ」梓お姉ちゃんが言う。 「なによー」って、すねる頼りない千鶴お姉ちゃんの声。 思い出す。思い出す。 思い出す。思い出す。 私は昔、地球人じゃなかった。どこか遠い星からここを訪れた宇宙人で、ここに住んでいた耕 一さんと出会って、恋をした。 思い出す、思い出す。 青い月の下、私は、耕一さんを見付けた。 じゃばじゃばじゃば 川の流れる音。濁流。逆流。夢の逆流。流れていく。約束の海へ。 私は月を見ていた。丸い月。巨大な蒼い月だった。私の目に映る空の殆どを、全て覆ってしま っている。月以外の空は晴れ。月の光が滲んで、紺色の、風が吹く闇。 ごぉぉう、ひょおおおう。 それが風の音。 私の目に映るのは、大小さまざまな幾つものクレーター。月の表面に影をつくる。その名前を 私は全て言う事が出来る。 言えるわ……、全て。 風は月にも届いているのだろうか。月の表面にも風は吹いている。左下、あそこに見える、な めらかな黒は、海。風化を続けて、たおやかに滅んでゆく闇。 そして振り向くと、あの人は、そこにいた。 ぎゃっ ぎゃっ 砂利が鳴る。聴いた事のある音だ。 玄関から門までの石畳の回りに敷き詰められた砂利を踏んだ時の音。小さい頃、いつか又訪れ てくれる筈の耕一さんを待ちながら、私はひとりでそこで遊んだ。 私を見付けて、あの人が、目を細めた。 耳慣れぬ異星の言葉が、その口を出る。私の耳へと届く。届いて、私は。 おまえはうつくしいな…… それが嘘でも構わない。構わない、嘘でいい。私の頭がつくりあげた妄想でもいい。妄想でも 、信じ込む事が出来れば、私にとっては本当の事になる。真実になる。 あの人が好きだという事が本当の事になる。本当の事にしたい。 証拠が必要だった。 何年も会わない従兄の事を、ずっと好きでいる事の証拠、理由が私には必要だった。自分の恋 が正しい事かどうか、これが本当に恋なのか、確信が持てない。誰とも上手に付き合えなくて、 人間なんか誰もみんな大っ嫌いで、けれど本当は淋しくて、誰か他人を好きになっている自分を 見付けて安心したい。 だから、この気持ちは、恋であって欲しかった。 運命なら、納得出来る。何百年を経てきた前世からの恋だもの、こんなに長い間、好きなまま なのも仕方がない。 耕一さんが私を見詰める。 私はエディフェル。そういう名前だったの。 あの日からだ。父が母と死んだ日からだ。 お父さんもお母さんも死んだ。いっぺんに、死んでしまった。 死んだら人はどうなるの? どうにもならない。無にすらなれない。お父さんやお母さんや叔父さんは死んで、いなくなっ たけど、生きていたという記憶が私の中に残ってる。それは辛い。本当に、何もかも無くなって しまえば、楽なのに。 柏木楓をやめたかった。 お父さんもお母さんも叔父さんも、いずれ生まれ変わって、もう一度私と巡り会う。柏木楓じ ゃない私と。だから私には、私が柏木楓である必要がない。 エルクゥ・ラダ・エゼ…… 私はエディフェル。そう呼ばれていた。もっと昔には、もっと違う名前だったかもしれない。 幾つもの時代、幾つもの名前で呼ばれて、耕一さんと再び巡り会う為に、今はここに存在してい る。 けれど、耕一さんは私を選ばなかった。 しゅっ。 靴下と畳が擦れ合う。 楓お姉ちゃんが、居間に入ってきた。屈んで、私の頭の側で膝を曲げる。暴走族のヒトが、コ ンビニの前で座るみたいに、お尻を下に付けない座り方をして、読んでいたページで開いて伏せ てある、私の本を上から覆い被さるように覗き込む。そのままの姿勢で訊いた。 「『暗闇のスキャナー』?」 「うん」私は答える。 「私、持ってるよ?」 えっ、と私は言った。「なんだぁ、持ってるなら借りれば良かったね。楓お姉ちゃん」 「買ったの?」 「古本屋さんで」 「まぁ、損はないんじゃない? 女の子の読む本じゃないけど」 「あははははは」 お姉ちゃんは立ち上がりながら言う。 「私は『ヴァリス』の方が好きだけどね」 結局、ケーキは5人で食べた。真っ白なクリームの雪に覆われた柔らかいスポンジケーキの間 に、苺が入っている、見た目はシンプルこの上ないけれど、それ故に何故か心惹かれて、私は、 包丁を入れるのをためらってしまう。私の方を向いているチョコレートの板が、『Merry Christmas』と祝福の呪文を唱え掛ける。 もったいないなー、と思ってしまって切るのを躊躇してる私の手から、優しく、千鶴お姉ちゃ んは包丁を取って、それを見て慌てた梓お姉ちゃんに奪い取られた。千鶴お姉ちゃんのケーキカ ットは、成功した試しがないのだ、不器用だから。 梓お姉ちゃんは、手際よくケーキを5等分する。家事は大体、梓お姉ちゃんの仕事。だから、 こういう事は手慣れていて、誰のが大きすぎるとか、小さすぎるとか、そう言う事は全然なくて 、切られずに脇に置いておかれたチョコレートの板は、最後に、私の分の1/5の上に乗せられ た。 楓お姉ちゃんが、ぽそりと言う。「ロウソク……」 あ……仕方がないので、取り分けられて、それぞれの手元に置かれた後のケーキの上に、一本 ずつ蝋燭を立てて、ケーキを買った時に一緒に付いてきた、というマッチで火を灯した。電気を 消してメリー・クリスマス。みんなで言って、いっせーのせで息を吹きかけ火を消した。電気を 点けて、ケーキにフォークを入れると、スポンジとスポンジの間は、苺で一杯に詰まっていた。 私はケーキを口に運ぶ。甘い感触、酸っぱい感触、スポンジとクリームの混じる味、苺の歯触 りは ざくっ って音になる。 5人でケーキを食べた。いつものように、話題を振るのは、千鶴お姉ちゃん。かおりさんは会 話に積極的で、梓お姉ちゃんは、千鶴お姉ちゃんの言葉にもかおりさんの言葉にも機敏に反応す るし、楓お姉ちゃんは、黙って食べ続けている。私は大抵がフォロー役。あはは、と笑ってみた り、まぁまぁと宥めてみたり。 ケーキは残らなかった。 これで例年通り。 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ よし、なんとかリアルタイムだぞ、っと (笑) あ、司堂 馨さん、メールありがとうございます〜 メール、送りますね。