わるちの夏休み 投稿者: 鈴木R静
 このSSを(勝手に/笑)くずたさまに捧げます。
 ホントお待たせしてしまって申し訳ないです(ぺこり)。

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「もう雅史、遅いよ。はやくはやく……おいてっちゃうよ!」
 田園がなだらかに広がる初夏の緑なす風景のなか、そのあぜ道というにはや
や広すぎる小径を早足に近い勢いで駆けている少女の姿がある。
 小柄な身体にはいささか大きすぎるフリーサイズのダボダボのTシャツに薄
茶のショートパンツという彼女の姿は、一見するとあるいはやんちゃな少年の
それとも見まがいそうだが、線の細い、思春期の少女に特有のあやうい過渡期
のかぎろいを残す顔立ちがその印象を裏切る。
 少女の跳ねるように呼ばわる声に答えるいらえは、彼女のはるか後方から聞
こえてくる。
「おーい、ワルチ――嬉しいのはわかるけど、もうちょっとペースをおとそう
よ」
 そう苦笑まじりに叫んだのは、ワルチと呼ばれた少女の後を十メートルほど
も離れてついてきている、四人ほどの男女のなかのひとりだった。
 少年がふたりに少女がふたり。
 雅史に浩之、それにあかりとマルチである。
 そんな雅史の言葉にちょっと不服そうな顔になったワルチも、さすがにひと
りだけ先へ先へと進んでも仕方ないと思ったのか、足取りをゆるめると、彼ら
のほうをふりかえって急かすように大きく手を振ってみせた。
「――もう、ボク、楽しくてしょうがないんだっ!」
 中天にかかった太陽は大気を透明に染め上げて、田圃の青々とした稲の海や、
彼らがいく小径のむきだしの乾いた大地や、その脇をいろどる名も知らぬ雑草
の繁茂や、そして本当に心の底からわいてくるような笑顔を見せるワルチの表
情など、すべてをきらきらと輝かせている。
 彼らの目指すすぐ先には、それを山と呼ぶのもおこがましいようなつつまし
やかな地形の隆起が、こちらも木々の厚い緑衣をまとって風景の一角を形作っ
ている。
 雅史たちが普段通っている大学がある町の、その郊外にあたる場所――そこ
に彼らはやってきていた。
「ワルチちゃんのいうとおり、ピクニックには最適の日和だよね」
 麦わら帽子のふちをおさえながら、あかりがいった。
 ベビーピンクの花柄のワンピースというあかりの姿は、まぶしい陽射しによ
く映えている。手には籐製のランチボックスを下げている。
「わたし、こんな緑がいっぱいのお山まで遠足に来るのって初めてですぅ」
「遠足っていうな――小学校みたいだろうが」
 マルチの声を浩之は苦笑いでさえぎった。マルチは明るいオレンジのチェッ
ク柄のジャンパースカート、浩之はこちらはいつもと変わらぬラフなTシャツ
に短パンという格好である。ちなみに雅史の服装も浩之と似たようなものだが、
こちらはジーパンだ。
「もっともひとりだけ、ピクニックの目的を完全にはき違えているやつもいる
けどな」
 浩之は視線を前方に向ける。
 つられて、雅史とあかりも表情をくずしつつその先に目をやった。
 ワルチがじれったそうに足踏みしている。
 彼らの頬をゆるめさせた原因は、ワルチ自身ではなく、彼女が手に持って肩
にかかえているものにあった。
 ワルチが大事そうに持ってきているのは――大きな虫採り網だった。
「しょうがねえなあ、これだからお子様は……」
 浩之のからかうような口調に、ワルチはぷぅっと頬をふくらせた。
「なんだよ、こんなときでないと虫採りなんてできないだろ。それにマルチ姉
さんだって楽しみにしてるんだからね」
「えっ、えっ、えっ、あ、あの……わ、わたしは……」
 急に話をふられて、マルチは少しく狼狽して浩之とワルチの双方に視線を走
らせた。
 マルチの手には、ワルチから手渡された捕まえた昆虫を入れておく籠がしっ
かりとぶら下げられている。
「へへん、マルチはそんな幼稚なことはしないよな」
 浩之はマルチの目を見つめてニヤニヤしながら問い詰める。その声にはます
ます揶揄の色が濃くなっている。
「あの……わたしは……でも、浩之さんに、その……」
 本心では、実はマルチも初めての経験になる「虫採り」が楽しみでしょうが
なかったのだが、かといって浩之の意地悪な質問にも何と答えたものかと困り
果てて、思わず知らず涙がその瞳を滲ませ始める。
「もう、浩之ちゃん!」
 あかりが半ば以上怒ったように声を荒げる。
 浩之はこうなったときのあかりにはとことん弱い。
「う……ま、まあ、こんないい天気だもんな、虫採りだってしたくなるよな。
だからさ、泣くなよ、マルチ、な?」
「うう……ひろゆきさぁ〜〜〜ん」
 半ベソのマルチとおろおろとそれを見て取り乱す浩之に、傍らの雅史はしょ
うがないなあといった様子で苦笑する。
「ホント、浩之みたいなのがご主人様だなんて、マルチ姉さんは不幸だね。― 
―ボクの雅史はそんなひどいことは絶対いわないもんね」
 ワルチの声がかぶさる。
「ううぅ……で、でも、浩之さんは本当は優しいご主人様なんですぅ。だから
ワルチちゃんもあんまり悪くいわないでほしいです……」
「まあ、姉さんが幸せならボクはそれでいいんだけどさ……今度姉さんを泣か
せたらボクが承知しないからな、浩之」
「へーい、どーせオレが悪いんですよぉーだ」
 すっかり悪者扱いの浩之は、しょげかえるような、しかしどこかむくれたよ
うにもとれる態度でそっぽを向いた。
「さ、もうちょっとしたら着くからさ、がんばろ、みんな」
 あかりがこちらも苦笑しながらフォローにまわる。
 吹きすぎていく微風は心地よいぬくもりとさわやかな涼気を同時にはらんで、
彼らの間を流れていく。
 なんのかんのと話に興じながらも、ワルチたちの足取りは軽い。
 目的地は、もうすぐそこまで迫っていた。

 木々の呼吸が空気に溶け出しているのがわかる。
 緑の下生えも大気に湿ったような草いきれを放って、微かな湿りけにも似た
潤いを感じさせる。
 陽の光もここでは梢によってやわらげられ、上方からの細かな影と混じり合っ
て過ごしやすいおだやかなものとして、やんわりと降りそそいでくる。
 ――道中の先に見えていた小山の、その裾野にあたる草むらで、いまワルチ
とマルチのふたりは夢中になって昆虫を追いかけていた。
 ワルチの背丈の五倍ほどはあるだろうか、そんな中程度の高さの立木がそれ
ほど密でもなくこのあたりでは天を目指して根を下ろしている。
 ごくゆるやかな傾斜を覆う雑草の絨毯も、それほど丈があるわけではなく、
せいぜいあってくるぶしまでである。
 遊び、駆けずりまわるには最適の場所といえた。特に今回のように虫採りを
楽しむような場合には、これ以上はないという絶好の環境だろう。
「はぁ、はぁ……少し休みませんかぁ、ワルチちゃん……」
「え、ボクは全然平気だけど……うん、姉さんがそういうんなら、ちょっと休
もっか」
 ふたりは連れだって、手近なスペースに腰を落とした。
「ふぅー、疲れましたぁ、こんなに走り回ったのは生まれて初めてのような気
がしますぅ」
「うん、ボクもこんなに駆けずりまわったのは久しぶりだよ。虫採りって楽し
いね、姉さん」
「はいですぅ……でも……」
「ん……?」
「ずいぶん遠くに来てしまいました。浩之さんたちにあまり離れすぎないよう
にっていわれてたのに……」
「大丈夫だって、姉さん。浩之たちならあそこでいまごろおしゃべりでもしな
がら昼食を食べてるよ」
 そういってワルチがほぼ水平に指さした方向には、木々の隙間からため池の
水面が楕円形に長く伸びているのがのぞまれた。ここからだと、ちょうど掌に
乗るくらいの小皿の大きさぐらいに見える。その左端はこのあたり、すぐ近く
まで続いている。
 朝がたワルチたちが通ってきた小径も視界の隅にとらえることができる。
 一キロはないだろうが、それにしても池の外縁に沿ってひたすら駆けている
うちに、気づいてみればひどく遠くまできてしまったことになる。
 いまごろあのため池のほとりで雅史たちはビニールござを広げてくつろいで
でもいるだろうか。
「それよりさ……ほら、姉さん、見て見て!」
 ワルチはそういって虫籠を誇らしげに突き出して見せた。
 その小さな格子枠でできた立方体の奥には、一匹のちょうちょが、仕切られ
た空間にいまだとまどっているかのようなたよりない動きで、あっちへこっち
へ、虹色の色彩を振りまきながら翔びまわっていた。
「綺麗ですねぇ」
 マルチは瞳を輝かせて、食いいるようにその可憐な生き物のはばたきを見つ
めながらいった。
「ふふん、どうだい、姉さん」
 自慢そうな様子のワルチ。
 雅史たちと別れて小一時間ほども昆虫たちを追いかけまわしていたふたりの
成果が、このひとひらのちょうちょだった。ワルチがついさっき捕まえたもの
だ。
 なんという名なのかはわからない。だが、その虹の輝きにも似た鮮やかな一
対の翅は、初めての体験ということもあってワルチたちの意識には忘れられな
い記憶として焼きついたのだった。
 しばらくそうやって、ちょうちょのはばたく様を飽かず眺めていたふたりだっ
たが、ややもあって、
「じゃあ、そろそろ戻りましょうか〜、浩之さんたちもいいかげん心配してい
ると思いますし」
「うん……そうだね」
 ふたりはお尻をはたきながら立ち上がった。
「それじゃ、ちょうちょさんは逃がしてあげますね。ごめんなさいですぅ、閉
じ込めたりして」
 マルチがそういって虫籠に手をかけようとするのを、あわててワルチは横か
らそれをひったくった。
「だ、駄目だよ、姉さん、こいつはボクが捕まえたんだからね、勝手に逃がし
たりしちゃあ」
 その表情には、いま初めてそのことに思い至ったといったようなとまどいが
見え隠れしている。どこか悪戯を叱られた子供のような、相手のいってること
がわかってはいるが、自分でもよく理解できない強情さがそれを認めたくない
という、そんな幼さゆえのとまどい。
「え、でも……逃がしてあげないんですか? ……かわいそうですぅ」
 困惑したようにマルチはいった。どこか諭すような口調も微かに感じられる。
「うう……でも嫌なものは嫌なんだ!」
 ふいにワルチは、虫籠を抱えて走り出した。
 マルチから逃げ出そうとでもいうように、彼女からより遠くにあたる方向へ
と駆け出していく。
「ああ、どこへいくんですか〜、ワルチちゃん!」
 マルチがあたふたと追いかけようとして、そのほんの一瞬、まばたきした瞬
間に、ワルチの姿は神隠しにでもあったように不意にかき消えてしまっていた。
「え? ……ワルチちゃん?」
 わけがわからず、マルチは呆然とワルチが消えた方向へとなかば無意識に歩
を進める。
 二歩、三歩……。
 ワルチがいなくなったその同じ瞬間に、何かが土をこすって滑るような響き、
そして軽い水しぶきに似た音が立ち上ったのだが、動転したマルチにはその
意味するところはまったく理解できていなかった。いや、そんな物音がしたこ
とにさえ気がいっていなかったのだ。
 五歩、六歩……。
「あっ!?」
 そしてマルチは、ワルチの姿が消えてしまったわけを身を持って知ることに
なった。

「う……ん」
 最初に意識を取り戻したのはワルチだった。
 まず知覚されたのは、自分がなかば以上液体――水らしかった――に仰向け
でつかっているということだった。そして身体に何か重たいものがのしかかっ
ている感覚。薄暗い。そしてこう、なんだか非常に土臭い。
 目覚め始めると、ワルチは早かった。すぐさま覚醒していく。
「そうだ……いきなり地面がぽっかりなくなって……身体のバランスを崩して
そのまま……」
 最初に彼女が連想したのは、落とし穴だった。自分はうっかり誰かが仕掛け
た落とし穴にでもはまってしまったのだと思ったのだ。
 しかしすぐにその考えを打ち消す。これはそんな単純なものじゃない。
「姉さん、大丈夫!?」
 ワルチはすっかりもとの調子を取り戻すと――さいわい派手な外傷や致命的
な打ち身などはないようだった――彼女の上でいまだぐったりと瞼を閉じてい
る己のただひとりの姉の身体を揺さぶった。マルチはうつむけの体勢だったの
で、ちょうどワルチとは向かい合わせということになる。
 ――その、すぐ目の前にある貌が小さく身じろぎしたかと思うと、ゆっくり
と感情がその面に立ちあらわれてくる。
 小さな頭、たよりなげな幼い顔立ち、かぼそい肢体――ワルチは彼女の姉が
いまだこの世に生まれていくばくもたっていない、やっとこの世界のさまざま
な事象を吸収し始めたばかりの、人間でいうところの赤ちゃんに相当する一体
のメイドロボにしかすぎないということが、いまさらのように自覚されていた。
「これはボクの責任だ……何があろうとも姉さんだけは守らなくちゃ……!」
 しかし彼女は気づいていない。そんなマルチの姿は、自分自身を映す鏡なの
だということが。ワルチはマルチの同型機――いってみれば同じ雛形から生ま
れた双子といってもいい存在である。だからその姿は瓜二つといってよかった
し、性格も普段はいかに正反対に見えようとも、その根幹にある想いは同一の
ものだ――かつてそのことを彼女に教えてくれたのが、彼女のたったひとりの
ご主人様、雅史だった。自らをかえりみず、他人のことをこそ気遣う気持ち― 
―それこそが雅史が彼女に思い出させてくれた、もっとも大切な想い。
「あ……ワルチちゃん……わたし……!?」
「大丈夫っ? 姉さん?」
 彼女の言葉にマルチはまだ何が起こったのか判然としない様子で、ぽや〜と
した視線を周囲に振り向けた。
 どうやらマルチの方もワルチ同様目立ったけがは無いようだった。
 ワルチも、マルチより少しは冷静な目で自分たちが陥った状況を検分にかか
る。
 彼女たちのまわりは真っ黒な土の壁で囲まれている。広さは1メートル四方
のほぼ正方形といったところか。この狭い空間にふたりは折り重なって倒れて
いたことになる。空間――そう、空間。ワルチは上方に顔を向けて、思わず絶
望のうめきを漏らした。前後左右の湿った黒壁は切り立った崖を思わせる垂直
さでまっすぐ高みへと伸びている。その高さは優に大人の背丈の倍はある。
 ワルチは自分たちがとんでもない深みに落ち込んだことを知った。
 しかしなんだってこんなところにこんな竪穴が……?
 まったくわけがわからない。胸中に理不尽な怒りが込み上げてくる。
 次に注意がいったのは、自分たちの身体を濡らしている、水深30センチほ
どの水たまり――というにはあまりに多すぎる水量だったが――だった。
「井戸か何かでしょうか〜」
 マルチの言葉に、うーん、と考え込んだワルチは、しかしすぐにその違和感
の正体をさとった。
 へたりこんだ彼女たちの腰までも濡らすこの水は、ゆるやかではあったけれ
ども確かに一方から他方へと流れている。これは井戸ではけっしてありえない
……いや、むしろ……。
 ワルチはきょろきょろと何かを探るように視線をさまよわせ、ほどなくして
目的の箇所を発見した。さっきまで薄暗がりのヴェールに隠されて見落として
いた部分だった。
「見てよ、姉さん」
 彼女が指し示した場所をのぞき込んだマルチも、ようやくここがどんなとこ
ろかが理解された。
 土壁の一部に、水位に合わせるような形で取り付けられた鉄格子が見て取れ
た。明らかに水はここから来ているのがわかる。とすれば……確信とともに反
対側へと目をやれば、やはり同様の鉄格子に今度は水が流れ込んでいるのがわ
かる。
「これは……」
「……うん」
 マルチとワルチの脳裏に、さまざまな情報が断片的に浮かんでは消えていく。
 ――来がけに見るとはなしに視界の隅におさめていた広い田圃の情景。
 ――おそらく雅史たちが縁にたたずんでいるだろう、ため池のその水面。
 ……あのあぜ道のほとりの水の流れは、いったいどこからやってきていたの
だろう?
 ……池の水を農業用に利用しているのだとしたら、それはどうやって……?
「ワルチちゃん……これは……」
「きっと水路だよ、姉さん! ため池の水を地下を通して田圃まで引いてるん
だ!」
 しかし……。
 再びワルチはやるせない感情を込めて頭上の空を見上げた。
 わかったからといって、状況が好転したわけではない。
 この壁をどうにかして登れないだろうか? 左右の壁に手足をついてみたら
可能かも……?
 やってみる価値はありそうだった。
「わぁ、よかったですぅ」
 そのときマルチがおよそ場違いな声を上げた。
 気勢を削がれた格好で、ワルチは何事かと姉の方をうかがった。
 マルチの手には、虫籠が大事そうに抱えられていた。
「ちょうちょさんも無事だったんですね」
 虫籠なかのちょうちょは、自分たちを見舞った災難など知らぬげに、さっき
と変わらぬ調子で限られた空間の裡を飛び回っている。
 見れば、虫採り網も傍らに落ちている。
 すっかりちょうちょのことなど忘れていたワルチだったが、なんとなく嬉し
くなって、ちょうちょとマルチの姿を見つめるうちに思わず微笑みがこぼれて
きた。
 しかしそれも束の間、すぐさま厳しい表情を取り戻す。
 蝶のことは姉さんに任せておけば大丈夫、いま自分が為すべきことはふたり
がここから脱出できる方策をなんとしても見つけ出すこと――そう自らにいい
きかせると、ワルチはいまごろになって痛み出した節々を気にしながら、泥だ
らけ、びしょ濡れの手足を持ち上げて、絶壁にも似た周囲の黒壁の登攀へと挑
んでいった。

 どのくらいこの薄暗い穴蔵に閉じ込められているのだろう。
 すでにワルチたちにとって時間の感覚は意味を為さなくなっていた。
 差し込む光がさらに弱まり、天井の青みを帯びていた空が徐々に翳ってきた
ことから、夕暮れが近いことは察せられた。
「姉さん……ボク……」
 土壁によりかかって頼りなくつぶやくワルチの手足は、すでに半分乾いて茶
色くなりかけた黒土で覆われている。
 黒い壁の表面は手を触れてみるとおそろしく湿り気を含んでいて、軽いぬか
るみとさえいっていい状態だということがわかった。それでもワルチは果敢に
挑戦を繰り返し、最善をつくしたのだが、ついには精も魂も尽き果てて、深い
竪穴の底に立ち尽くしたのだった。
 どうしても登り切ることができない。自力での脱出は絶望的なのだろうか。
 濡れた衣服が緩慢な疲れを運んでくる。薄汚れた身体がみじめさを助長して、
泣きたい思いにかられる。
「ワルチちゃん……」
 応えるマルチの瞳は、こんな状況だというのに、驚くほどおだやかだった。
「姉さん……ボク、恐いよ……これからどうなるんだろうって、不安で不安で
しょうがないよ……このまま電気が切れて、動けなくなって、何も見えなく、
何も感じなくなって……誰にも見つけてもらえなかったらどうしようって……
このままもう雅史に会えなくなるんじゃないかって考えただけで、どうにかなっ
ちゃいそうだよ……! どうして姉さんはそんなに落ち着いていられるのさっ
!」
 いつしかつぶやきは叩き付けるような激昂へと変わっていた。それはどうし
ようもない不安、焦燥の裏返し。ただ自分はこの苛立ちを姉さんにぶつけてい
るだけなんだと頭ではわかっていても、ワルチには己の唇からほとばしる感情
の奔流を止めることができなかった。
 そんな彼女を、マルチはただそっと抱きしめた。
「ね、姉さん……」
 ひとつになって動きを止める、ふたりのメイドロボット。
「……マルチ姉さん……」
「ワルチちゃん、わたしも恐くないわけじゃないんですぅ……でも、浩之さん
や雅史さん、あかりさんたちのことを思うと、何故か落ち着いてくるんです…
…きっと浩之さんたちにまかせておけば大丈夫って……」
 ワルチはぽろぽろと涙があふれてくるのをどうすることもできなかった。ま
るで、そのマルチの一言が引き金になったとでもいうように。
「う……うう……姉さん……ボク……ボク、こんなところに閉じ込められて、
すごく恐かったんだっ……やっぱりボクは駄目なメイドロボなんだ、いっつも
雅史や姉さんの足を引っ張ってばかりで……うう……ぐすっ……」
 顔中をくしゃくしゃにして、ワルチは自分が何をしゃべっているのかも自覚
せず、ただただ独白し続けた。
 マルチもまた、ワルチの震える身体をそっと抱きしめてやるばかりだった。
「わたしも、きっとひとりだったら耐えられなかったと思うんですぅ……きっ
と側にワルチちゃんがいてくれたから……」
「姉さん……」
 そのとき、ふいにワルチはなんだかずっと遠い昔に聞いたようなそんな錯覚
さえ覚える、妙になつかしいような、そんな声を聞いたように思った。
 かすかな、うっかりすると聞き逃してしまいそうな、かぼそい声。
 ゆっくりとその響きはワルチたちの耳朶を打つ大きさを増していく。
「おーい、マルチぃー、ワルチー、いるかぁ、いたら返事しろぉー」
「わるちぃー、大丈夫かーい」
「マルチちゃーん、ワルチちゃーん……」
 声はいまやはっきりとそんな言葉をつむぎだしていた。
 もう間違えようがなかった。
「ひろゆきさぁーん、ここですぅ」
 マルチが精一杯の大声でそれに応える。
 その叫びが届いたらしく、声は「そこかぁ、待ってろよぉー」そんなことを
叫び返しながら、だんだんと近づいてくるのがわかった。
 ワルチも我を忘れて歓喜にまかせて声を張り上げそうになる。しかし彼女の
いまだ冷静な部分が警鐘を鳴らす。
 何か変だ……いや、違う、変というより何か大切なことを忘れてる……考え
ろ、考えろ、頭は使うためにあるんだ……このおかしいと思う気持ちの原因は
なんだ……?
 ……そもそもボクたちがこんな目にあったもともとの原因ってのは何だった
ろう……?
 瞬間、閃くものがあった。いけない!
「ダメだよ、まさしぃー、来ちゃダメだ!」
 このままじゃ雅史たちまでボクたちの二の舞いになっちゃう、そもそも、こ
の穴ってのは外からじゃ見えないからこそ、落ちたんじゃないか。
「穴が……すごく深い穴が開いてるんだよ! だから……!」
 しかし声からとまどった感じは伝わってくるものの、やはりこちらに近づい
てくる気配は変わらなかった。
 いけない、雅史たちはこっちの状況がよくわかってないんだ……どうしよう、
どうしたらいい? きっとこのままじゃ雅史たちまで落ちちゃうよ!
 声は――雅史たちはどんどん迫ってくる。もうすぐそこまで来ている……!
 ……どうしよう!
 せっぱつまったワルチの目に、マルチが手にしている虫籠が飛び込んできた。
 閉じ込められたちょうちょ――閉じ込められたボクたち。
 狙い澄ました符号のように、シチュエーションの類似が想起される。
 さっきまでの不安が蘇ってくる。
「ごめんね……ボク、やっとわかったよ、すごくひどいことをしてたんだね…
…やっぱりボクはダメなメイドロボットだね……でもいまだけは、ボクたちを、
ううん、マルチ姉さんをどうか助けて……!」
 ワルチはマルチの手から虫籠を奪い取ると、高く掲げ、その出入り口を大き
く開け放った。
 蝶は、まるでその瞬間を待ち望んでいたかのような素早さで、虹色の残像の
尾を引きながら空へと昇っていった。
「おわっ!」
 上方から息を呑む小さな叫びが上がった。
 足もとから突然ちょうちょが飛び出してきたのだ。普通の人間なら驚いて思
わず足を止めてしまうところだ。そして浩之たちは幸いにもいたってノーマル
な感性の持ち主だったので、すんでのところでどうにかワルチたちが陥ったと
同じ運命にみまわれるのを回避することができたのだった。
 ワルチは、ふぅーと長く安堵の息を吐いた。それは万感の思いのこもった、
これまでのいきさつの全てをないまぜにした、そんな嘆息だった。
「ワルチちゃん……ちょうちょさん、逃がしてあげたんですね……」
「うん……やっぱりちょうちょは広い大空を翔んでるからこそ、ちょうちょな
んだね。……ボク、今回のことでいろいろなことがわかったような気がするん
だ……」
 お互いに見つめあうふたりのメイドロボットたちの頭上から、安否を確認す
る雅史、浩之たちの声が降ってくる。
「うん、どうにか大丈夫だよ!」
 ワルチは晴れやかな笑顔で心配そうにのぞき込む三様の顔たちに手を振って
みせた。それは今回のピクニックの来がけに小径で雅史たちにしてみせた仕種
となんら変わらぬ、元気いっぱいの、いつものワルチの姿であった。
 でも――ワルチは気がついている。どんなに同じに見えても、きっと今日の
朝までのボクといまのボクは違っているはず――それがマルチ姉さんがボクに
教えてくれたことだから……!
 ……その後、ワルチたちは虫採り網を上下に渡してロープ代わりにし、雅史
と浩之に引っ張り上げてもらうことで、どうにか窮地を脱することができたの
だった。
 あかりはすり傷だらけ、泥だらけの上、全身びしょ濡れという散々な格好な
ワルチたちに目をむきながらもてきぱきと事後処理に奔走してくれ、浩之は浩
之で無事とわかった途端、いつもの皮肉っぽい調子でそんな彼女たちの様子を
からかい始めた。もっともそれはひどく温かい想いの満ちた口調ではあっのだ
けれど。
 そして――雅史は、自分が泥だらけになるのもかまわず、すっと無言でワル
チを抱きしめたのだった。奇しくもそれは、つい先ほどマルチが取った行動と
まっく同じものでもあった。
 無言――いや、たった一言、ワルチにだけ聞こえるように耳もとで、
「……もう二度と僕にことわりなくいなくなったりしないでくれよ」
 そうささやきながら。
「ごめんね、まさし……」
 一度はおさまったはずの涙が、再び滲んでくる。
「ワルチちゃんって、すごいんですぅ。わたしが何もできないでいるのに、ワ
ルチちゃんはなんとか自力で脱出しようと何度も壁を登ろうとしたり、それに
さっきもとっさに蝶さんを逃がしてあげて浩之さんたちへの合図にしたり……」
 ……ううん、違うよ、姉さん……。
 雅史の優しい抱擁のなかで、そっとワルチはかぶりを振った。
 ……姉さんは……ワルチ姉さんはボクなんかよりずっとずっとすごくて……
そしてずっとずっと……素敵だよ‥‥!
 ボクもいつか姉さんが立っているのと同じ場所に立って、姉さんが見ている
のと同じものを……きっと……。
 陽はいつの間にか沈み始めていて、柿色のとばりを五人に投げかけてくる。
 いろいろなことがありすぎて、時間の経過がまったくいつもとは違うように
感じられた、そんな波乱に富んだ一日が、ようやく暮れようとしている。
 ワルチの生まれて初めての夏休みは、こうして過ぎていこうとしていた。
 ……でも、この胸の裡に芽生えた想いはきっと忘れない――そうワルチは自
分に誓って、ぎゅっと彼女の大切なご主人様をその存在を確かめるように抱き
返したのだった。
                                (了)

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 やっと完成しました……疲れました。
 本当に久々のSSです。
 感想とかいただけると嬉しいです。
 また次回作で会えるといいですね。
 それでは……。