心映しておぼろげに 投稿者:鈴木R静


   『心に映しておぼろげに』


 タイトルはジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの一短編からいただきまし
た(一部変更していますが)。

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 夢を、見ています。
 メイドロボットでも、夢を見るんです。
 お掃除のこと……親切にしていただいた皆さんのこと……セリオさんのこと
……研究所のスタッフの方々……そして、ご主人様のこと。
 わたしの、たったひとりの、大切なご主人様。
『……浩之さんは……わたしの……ご主人様です。……わたしの最初で最後の
ご主人様です……』
 いまでも、折に触れて記憶の底から立ち上ってくる言葉。
『……ご主人様。……わたしのご主人様』
 わたしが、浩之さんを、はじめてご主人様とお呼びしたときの、気持ち。
 浩之さんと過ごした日々が、その楽しかった思い出が、そしてあふれだして
くる大好きという気持ちが、夢という器いっぱいに広がります。
『ずっと……近くいようぜ、朝まで。少しでも、マルチのことを覚えておきた
いんだ』
 あのときいただいたご主人様の優しい心につつまれて、わたしはたゆたうよ
うな記憶の流れに身をまかせます。
 ……ご主人様……浩之さん……。
 どのくらいそうして心を泳がせていたでしょうか。
 わたしは、浩之さんの傍らに立つ方の存在に気が付きます。
 あかりさんです。
 神岸あかりさん。浩之さんの幼なじみで、いつもふたりでいる姿をよく見か
けました。メイドロボットのわたしにも、とてもよくしてくださった、優しい
方です。
 おふたりが、仲良く並んで立つ姿はとてもお似合いで、それを見ているわた
しのほうも、なんだか幸せな気持ちになってきます。
 ……でも……どうしてでしょうか。
 幸せな気持ちに嘘はないのに、どうしてかおふたりの姿を眺めているうちに、
寂しいような、悲しいような感情がかすかにわいてくるんです。
 わたしのデータが、もとのからだから会社の大きなコンピュータのなかに移
されたときに、どこか一部おかしくなってしまいでもしたのでしょうか。
『ロボットだから、平気なんです。……ロボットには、もともと心がありませ
んから。……寂しい気持ちも怖い気持ちもなくて、あるのはデータだけなんで
す』
 きっと、わたしのデータは、あまりにも長い間、ご主人様のことばかり考え
ていたせいで、狂いが生じでもしたのでしょう。
「……本当にそれでいいんですか?」
 どこからか声が聞こえます。
 わたしが生まれてはじめて耳にしたのと同じおっとりとしたその声は、やっ
ぱりあのときと変わらない優しさ、慈しみをはらんで、心に響きます。
 振り返ると、長瀬主任が立っていました。
「……マルチは本当にそれでいいんですか? ほら、あなたの心より、からだ
のほうが正直みたいですよ」
 そういって、主任はふところから取り出したハンカチでわたしの顔をそっと
ぬぐってくれました。
 そのとき、わたしは自分が涙を流していたことを知りました。
「涙がでるのは悲しいからでしょう? どうして悲しいのか、本当はあなたに
もわかっているのではないですか?」
 そのとき、わたしは夢のなかで自分の気持ちを偽ることの無意味さを知りま
した。
 ……わたしはご主人様が大好きです。そして、あかりさんも大好きです。
 ……ふたりとも大好きなんです……。それなのに……。
「……それなのに、ふたりを見ていると、考えたくない感情をいだいてしまう」
 うっ……。
 長瀬主任のその言葉に、いったんはおさまっていた涙が、またぽろぽろとこ
ぼれてきました。
「ああ、すいませんね。ほらほら、涙をふいて……。わたしはマルチを悲しま
せるためにやってきたわけじゃないんですからね」
 うう……。
 ……わたし、きっとデータがおかしくなってしまったんです。大好きなのに
……嫌いになんかなりたくないのに……。こんな矛盾した感情を同時に感じる
のは、プログラムが変になったからです。
「マルチ……それが、心ということなんですよ」
 こころ……。
「楽しいことも、イヤなことも、好きなことも、嫌いなことも、ずっと思って
いたいことも、もう考えたくないことも、すべてひっくるめて、心ということ
なんです」
 わたし、そんな思いをするくらいなら、心なんて欲しくありません。セリオ
さんや、他のメイドロボットの方々と同じだったなら、どんなにか楽だったの
に……。
「でも……もしそうだったら、マルチの、そして浩之くんの大好きという気持
ち、お互いに愛し愛されているという幸せも、なかったんじゃないのかな?」
 ……!
 長瀬主任の瞳がじっとわたしを見つめています。
『でも、わたしは幸せなロボットです。データを書き換えるだけなのに、こん
なに想っていただけるなんて、とっても幸せなロボットです』
『わたしのこの気持ち、これから生まれてくる妹たちにも伝えたい。みんな、
同じように、人間のみなさんを大好きになって欲しいです』
 かつての想いがあふれてきます。
 でも……わたしはメイドロボットです。浩之さんは人間の方です。わたしは
自分の気持ちに流されてはいけないんです。……浩之さんには、あかりさんが
ふさわしいんです。
「そうかもしれないね」
 ……。
「でも、そうじゃないかもしれない。どっちが正しいなんてことは誰にもわか
らないんですよ」
 でも、わたしは……誰も傷つけたくないんです。浩之さんも、あかりさんも
大好きなんです。わたしのせいで、もしかしたら誰かが不幸になるかもしれな
いなんて、いやなんです。
「そうだね。マルチがそう思うんだったら、そうならないように行動するのも
いいかもしれませんね。……でもね、そうやって自分の気持ちから目を背けて
いるとき、マルチは自分で自分の心を傷つけているんですよ」
 それでも……そうであっても、わたしのせいでつらい思いをする人がひとり
でもいるのなら……。
「結局、決めるのは自分自身なんです。まわりのわたしたちは、助言をするこ
とはできても、直接救ってあげることはできないんです」
 わたしは、ひどいロボットです。醜いロボットです。こんなにみなさんによ
くしてもらったのに、わたしはその人たちのことよりも、自分のことばかりを
考えているんです。自分のことばかりが大切なんです。
「そう考えているマルチも本当なら、それにたいして自責の念じみた思いをい
だいているマルチも本当なんです。浩之くん、あかりくんが大好きなマルチも
本当なら、ふたりにたいして後ろ向きの感情を持ってしまうマルチもまた本当
なんです。それが心という、やっかいだけれども、かけがえのないものなんで
すよ。あなたがそこまで自分の心をわかっているのなら、己の気持ちに素直に
行動したらいいんです。それがいやなことだと思うなら、しなくてもいいんで
す。……決めるのは、自分なんです。誰にもあなたを責める権利なんてないん
ですよ」
 わたしは……。
「……そして、世の中というのは、なんでも杓子定規ではかれるというわけで
もありませんからね。……浩之くんも、あかりくんも、そしてマルチも……み
んなが幸せに暮らせる道というのも、またあるのかもしれませんね」
 みんなが幸せでいられる……道……。
「わたしたちは、もっと自由に生きられるんです。ただ己の心に問いなさい。
自分が信じることを為しなさい。その結果、深い後悔に襲われるようなことが
あったら、また考えなさい。その後悔を感じている自分とは何だろう、と。そ
れがいやなことだと感じるならば、ではどうすればいいのかな、と。私たちは、
そして心というのは、そうやって生きていくしかないんですよ」
 わたしは……わたしは……。
『……ご主人様…………(大好きです。ずっとずっと、忘れません)……(た
とえ、何年経とうとも)』
 ……会いたいです。もう一度、ご主人様に会いたいですぅ。マルチは、マル
チは、一日として、浩之さんのことを忘れたことはありません。
 研究所の方々にも、学校のみなさんにも、犬さんにも、バスで知り合ったお
ばさんにも、セリオさんにも、雅史さんにも、そして、そして ……あかりさ
んにも……わたしが出会ったすべての人たちに、また会いたいです……。
 わたしは、顔中がくしゃくしゃになるくらい、たくさんの涙をあふれさせて
いました。
「幾十、幾百の夜の果て、間断なく続く夢の狭間で、あなたはまたその気持ち
を忘れてしまうかもしれないですね。なんとなれば、昨日のマルチもまた同じ
ことを思い、そして今日のことをわすれてしまったマルチが、また明日には同
じ想いをいだいているかもしれないのですから。……しかし、それがあなたの
真実ならば、どんなに今日の気持ちを忘れてしまっても、きっとあなたの奥深
くで、おぼろげに、でもけっして消しようのない輝きとなって、マルチの心を
照らしてくれると思いますよ……」
 夢の周期が終わりに近づいたようです。
 意識することのできない、あらがうことのできない力がゆっくりとわたしを
のみこんでいきます。
 眠りのなかの眠り。夢のなかの、さらに深い知覚することさえできない夢の
領域。
 すでに、わたしのまわりから、浩之さんも、あかりさんも、長瀬主任も、い
なくなっています。
 この力にすっかりのまれてしまったら、わたしはまた夢を見ている自分に気
付くでしょう。夢と夢の間にどれほどの時間が存在しようと、わたしの意識は
それを知ることはできず、夢はこの飛び石状に途切れることなく続く心の連続
体の、そのひとコマにしかすぎないのですから。
 ……忘れたくない、ご主人様のこと。
 ……浩之さんに、もう一度会いたい。
 浩之さん、マルチは、その想いを心に映しておぼろげに――いつか夢の覚め
る日がくるという奇跡を今日も信じています。
                                (了)

                           Image Thema "Book of Days" By Enya
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