『空』 投稿者:鈴木R静



   『空』


 山側からの風が、気持ちのすくような涼気と、みずみずしい樹々
独特の芳香をかすかに乗せて、流れてくる。
 照りつける太陽の陽射しと、それとは裏腹に肌に直接触れてくる
気温のすがすがしさとのコントラストは、ここが山間部であること
を何より頭ではなく、身体に感じさせてくれる。
 大学の夏期休暇を利用して、俺、柏木耕一は、従姉妹である千鶴
さんや初音ちゃんたち四姉妹のもとに再び遊びがてらお世話になっ
ていた。
 彼女たちの家庭的な暖かい雰囲気や、適度に自然の残されたこの
あたりの環境が、俺はとても気に入っている。
「えーと、初音ちゃんはどこだろう」
 柏木家の本宅から、歩いて少しの水門のほとり。
 昼食の後しばらくして、俺は散歩がてら初音ちゃんを捜して、な
かば山に入りかけたこの場所に来ていた。
 光の紗幕を縫って、ぶらぶらと歩いていると……、
「お、いた」
 初音ちゃんが水門のそばでしゃがみこんでるのが目に入った。
「あっ、耕一お兄ちゃん」
 俺が声をかけると、初音ちゃんが振り返った。
「千鶴さんからこっちにいるって聞いたんだ。――なにやってんの
?」
「うん……ちょっと考え事……わたし、考えたいこととかあると、
よくこの場所に来るんだ……」
 そう言って、初音ちゃんはこっちをちらりと覗き見る。
 その意味に気付いて、俺は答える。
「いや、別に用事ってわけじゃないんだけど、なんだか初音ちゃん
の姿が見えなかったから、散歩もかねて、何してんのかなーって」
「ふふっ、そうなんだ」
 微笑む初音ちゃん。なんだかこっちまで嬉しくなってくるような
笑顔。
「お姉ちゃんたちはどうしてた?」
「んー、梓は何かテレビ見てたねえ」
「ふうん。梓お姉ちゃんが昼間っからテレビにかじりついてるなん
てめずらしいね」
「ふん、いい機会だからあいつは小学生向けの教育番組からやりな
おせばいいんだ」
「もう、それは言いすぎだよ」
 そういって初音ちゃんはさらに表情をほころばせた。
 初音ちゃんと一緒にいると、時間が優しいものに変わっていく。
 それから俺たちは水門の隅に座り込んで、きらきら光る水面の波
紋を眺めるとはなしに見やりながら、俺の大学のこと、住んでいる
町の話、この地域、隆山町のイベントである明日の花火大会のこと
などといった、そんなたわいのない会話に興じていたのだが……、
「んっ?」
 瞳が水面に起こった変化を認識するのと、皮膚がその違和感を感
じるのとが、ほぼ同時だった。
 ぽつり……ぽつ、ぽつり。
 水の上にいくつもの小さな円が広がっていく。
 冷たい点のような刺激。
「あ、雨だ」
「でもこんなに晴れてるのに」
 たしかに初音ちゃんのいったとおり、空はまったくの快晴で、そ
こに雨滴が降ってくるというのは不思議な感じだった。
「天気雨ってやつだな」
「そのあたりから狐が飛び出してくるかもしれないね」
「狐の嫁入り……か」
「うん」
 そんな風に考えると、なんだかこの小雨まで愉快に感じられてく
るから不思議だ。しかしたいした雨じゃないとはいえ、このままだ
とふたりとも濡れてしまうことに変わりはない。
「よし、じゃ、そろそろ帰ろっか」
 俺は立ち上がりながら言った。
「えっ」
 初音ちゃんはなぜかびくっと身体を緊張させると、不安そうな表
情になる。
 だが、それも一瞬のことで、すぐにいつもの彼女に戻ると、
「お兄ちゃん、せっかくだから、もうちょっとお話していこうよ」
 と、俺の手を引いて近くの大きな樹を指さした。
「でも濡れちまうぞ」
「こんなのすぐに止むよ、ね」
 こうして俺たちは大木の根元でしばらく雨宿り――といってもた
いした屋根の代わりにはならなかったが――することになった。
「ねえ、お兄ちゃん、話っていうのは……ね……」
 大きな幹に背中をあずけながら、ひとりごちるようにいう初音ち
ゃん。
「話っていうと?」
「……ええと」
 なんだか言いにくそうにもじもじとしている様子の彼女だったが、
唐突に、
「……お兄ちゃんって……付き合ってる人って……いるのかな?」
 そんな質問を投げかけてきた。
 俺はいきなりな問いかけにちょっと面食らったが、それとは別に、
そのとき、俺の脳裏に閃いたひとりの女性の像があった。
 彼女の名前は……。
「……いないよ」
 俺がつぶやくように答えると、
「わたしが……恋人に……なったげよっか……」
 初音ちゃんは消え入りそうな声でそんな言葉を紡ぎ出した。
「うん、初音ちゃんみたいな可愛い娘と付き合えたらいいね。親戚
じゃなかったら絶対放っとかないんだけどな」
「そう……だよね。お兄ちゃんにとって私は従姉妹だもんね……」
 それからなんとなく押し黙ってしまった俺たちの沈黙は、再び彼
女の声で破られることになった。
「楓お姉ちゃんね……お兄ちゃんのこと……」
「えっ!?」
 不意に持ち出された名前に、俺は心を見透かされたような気がし
て、軽い狼狽に陥る。
 そんな俺の表情を、まじまじと見つめる初音ちゃん。
 悲しさ、つらさ、自己嫌悪、そんな想いのいりまじった、痛いほ
どに真摯な瞳。
「う、ううん、なんでもないの、なんでも……あ、そ、そう、お兄
ちゃんの家は、ここからは遠いんだったよね」
 そう訊ねてくる初音ちゃん。
「あ、ああ、その話」
 たしかに俺がいま住んでる町は、ここからは電車を何本も乗り継
がないといけない距離にある。
「でも大学があるってこと以外は、とりたてて目立ったものもない、
ちっぽけな町だぜ」
「それでも、うらやましいな。わたし、隆山から一度も出たことが
ないんだ」
「修学旅行とかは?」
「もう、そういうのは除くの」
「はは、ごめんごめん」
 それから、少しの間。首を傾けて視線を上向かせる初音ちゃん。
 湿った柔らかな髪が、わずかの風にあおられて揺れる。
「わたしはこの空しか識らないんだ」
 彼女の見はるかす先を追って、俺も双眸を蒼穹へとやる。
 一面青を刷いたカンバスに、綿雲が白を添える。
  そして、絹糸のような驟雨。
「やっぱり、こんなに晴れた空から雨が降ってくるなんて、変な感
じだよな」
「そうかな、わたしはそうは思わないな」
「――」
「空の色って、なんだか海の碧(あお)みたいだね」
「うーん、どうだろう」
 天いっぱいの青空は絵の具を溶かしこんだような純色、抜けるよ
うな彩度の圧力となって俺の目には映っていた。
 海の碧ってのはもっと底昏い何かをはらんだ、暗清色の広がりじ
ゃなかっただろうか――少なくとも俺の記憶の中の海は。
「やっぱりこの空の色と、俺の識ってる海の色ってのは違うような
気がする」
「ふふ、それでもわたしにはこの色彩は海の色と一緒なんだよ」
 俺の住む町はたいして都会というわけじゃないが、その空ははた
してこれほどに無垢な青だっただろうか。
 もっと薄ぼんやりとした色ではなかったか。
 煤煙や細塵が多い都市の空ほど青みが失われて、白っぽい色相に
なる、と聞いたことがある。
「だから、海同然の空だから、こんな風に水の雫がこぼれてきたっ
て、全然不思議じゃないと思うんだ」
「――」
「いまみたいに同じ空を見上げていても、お兄ちゃんの見ている青
とわたしの見ている碧は、きっと違って映ってるんだね。――わた
し、夏のこんな空をながめていると、だんだん時間の感覚がなくな
ってきて、いつのまにか上と下の、天地の区別もあやふやになって、
気付いたらわたしは空を仰いでるんじゃなくて、この海みたいな空
にむかってダイビングしてるみたいに落ち込んでいってるんじゃな
いかって、そんな錯覚にとらわれることがあるんだ……」
 中途からは独白めいたつぶやきのような言葉。
 そして――、
 すっ、と静かに初音ちゃんはまぶたを閉じた。
 ああ、たったいま、彼女は俺たちの真上に広がる茫漠たる大海に
その身を投げ出したのだろうか。
 その刹那、俺は初めて本当の意味で、初音ちゃんの横顔を見て、
綺麗だな――とそんな本能めいた感情に襲われた。
 俺も彼女にならって空をのぞみ、瞳を閉じる。
 長いようで短いような時間の連なり。
 どちらが先をまぶたを開けたのか。
 雨はあがっていた。
 俺は傍らの初音ちゃんに視線をやって、驚いた。
 彼女はぽろぽろと涙を流していた。
「は、初音ちゃん……」
「駄目だよ……わたし……もう、いままでと同じ気持ちで、この空
を見ることはできないよ……」
 ……だって、わかっちゃったから……お兄ちゃんの心……楓お姉
ちゃんのこと……そして、そのときわたしが何を考えたか……。
「わたし……自分のことしか考えてない……すごく自分勝手な娘だ
……お兄ちゃん、こんな娘は嫌いだよね……」
 俺はただ、そっと彼女を抱きしめた。
「初音ちゃんは、すごく優しいよ……優しすぎるから、そんな風に
自分を責めるんだ……初音ちゃんは悪くない」
「うう……こういちお兄ちゃん……」
 わたし、きっと、こんな空を見るたびに思い出すよ……今日のこ
と……自分が初めて何者かわかった今日のことを……。
 しばらく俺は初音ちゃんを両の腕に包み込んでいたが、ややもあ
って、
「――戻ろうか」
 それだけを口にする。
「――うん」
 俺たちは連れだって水門のほとりを離れると、家路についた。
 ほどなくして――もう柏木家も目前に迫ったとき、
「……あ、あのね、お兄ちゃん」
 さっきまで後ろをついてきていた彼女が、不意に正面にまわりこ
んで言った。
「ん? どうした」
「あ、あの……」
「――」
 一瞬、初音ちゃんの面によぎったものがあった。あれは――哀し
み?
 いや、気のせいかもしれない。その、あったのかなかったのかさ
え定かではない一瞬など嘘だったのだと証明するかように、いま俺
の前に立っている彼女は、まったくいつもの平静な初音ちゃんその
ものだったからだ。
「お兄ちゃんは、いつまでも……初音のお兄ちゃんでいてね」
「ああ、俺はいつだって初音ちゃんのことを妹みたいに思ってるよ
……だからいつでも甘えていいんだぜ」
「……うん」
「――」
「お兄ちゃん……明日は花火大会だね」
「ああ」
「わたし、明日のために浴衣を新調したんだよ」
「へえ、そりゃ、楽しみだな」
「ふふ、お兄ちゃん、明日は一緒に花火を観にいこうね」
「皆で、だろ」
「ふふ、そうだね――くしゅん」
 小さなくしゃみ。
「ほれ見ろ、だからいわんこっちゃない」
 初音ちゃんは困ったような顔をして、ちょこんっと舌を出した。
 それは夏の日のささやかな出来事。
 でも……、
 空を見るたび、思い出す。
 心に残った小さな痛み。
 それとも時が癒すだろうか。
 この切なさは……この空とともに、ずっとずっと、胸の隅に残り
続ける……。
                           (了)