ワルチの話 投稿者:鈴木R静


 マルチの妹ロボ・ワルチと、彼女の「ご主人様」佐藤雅史との出会いの過去
が描かれるシリーズ3作目もいよいよクライマックス。自らの殻に閉じ込もっ
たワルチの心を雅史は救うことができるのか?


 [ワルチ・シリーズ3]
 心からの助けを求めて差し伸べられた掌を(連載第11回)


 (前回までのあらすじ)
 雅史の通う高校に、突如転校してきた謎の少女、ワルチ。マルチによく似た
その少女に、雅史は奇妙な親近感を覚える。
 ワルチはその他人と打ち解けようとしない態度や、斜に構えた口調、意地悪
な振る舞いなどで、次第にクラスから孤立していく。
 しかし雅史はそんなワルチにひとり、なにかれとなく世話を焼き、煙たがら
れながらも話しかけ続ける。初めは心を閉ざしていたワルチも、雅史の優しさ
に触れ、徐々に微笑みを取り戻していく。
 一方、浩之はマルチとあまりにそっくりなワルチの調査を密かに(面白半分
に)始める。
 浮かび上がる謎の開発主任、高橋の存在。そして明らかになる、ワルチは人
間ではなくメイドロボだという事実。
 それからしばらく経った放課後、雅史と浩之の会話を盗み聴きし、ショック
を受けたワルチは、雅史たちの制止もむなしく、学校を飛び出す。
 夕暮れの街をさまようワルチ。その足はいつしか雅史との思い出の場所へ。
 雅史や浩之、あかりたちは、それぞれ別れてワルチを探すが、彼女の行方は
杳としてつかめない。そのとき雅史の取った行動は……?

 (登場人物)
ワルチ…………イヤーカバーをつけていない見た目は人間と変わらないメイド
       ロボ。マルチと瓜二つだが、つり目がち、赤っぽい髪、日に焼
       けた健康的な肌などが特徴。性格は勝ち気で、ちょっと意地悪。
       自分のことを「ボク」と呼んでいる。
佐藤雅史………高校2年のサッカー部員。人当たりのよい心優しい少年。
藤田浩之………雅史の親友。後にマルチのご主人様になる。
神岸あかり……雅史、浩之の幼なじみ。
高橋……………三十代前半の開発主任。ワルチの開発者?


 来栖川電工第七研究開発室に満ちていた静寂は、無粋な闖入者たちによって
いともたやすく破られてしまった。
 荒々しく開け放たれた扉から吐き出された十数人の、かっちりしたスーツ姿
の男たちを前にして、しかし高橋はさして驚いた風でもなかった。
「やあ……これはこれは……皆さん、お揃いで。こんなむさくるしい研究室に
いったい何の御用で」
 時刻は深更をとうに過ぎたあたりとあって、第七研に残っているのは高橋ひ
とりだった。
「来栖川グループ会計局特殊監査部の者だ。開発主任、高橋信二……我々の用
向きは分かっているな?」
 スーツ姿のなかのひとりが来栖川の社員証を示しながら、言う。
 しかし高橋は黙したまま表情を崩そうとしない。
「……資産横領の容疑だ。おとなしくついてきてもらおう。我々も手荒なこと
はしたくない」
「……なるほど、そっちの件か。……オレはてっきり会社の試作ロボに勝手な
システムを組み込んだことかと思ったが……しかしこんなに早く露見するとは、
さすがは天下に名だたる来栖川だ」
「……ワルチのことなら知っていましたよ」
 不意に人垣の後ろから場にそぐわない間延びした声が上がると、スーツの隙
間を縫って、よれよれの白衣に身を包んだ三十過ぎの男が現れた。
「長瀬主任……」
 男は第七研HM開発課の主席開発主任をつとめる長瀬源五郎だった。
「あなたの提案で、マルチの同型機としてもう一台開発されたHMX−12a
型、ワルチ。彼女の心神中枢にあなたが独自の感情システムを付与したことは
知っていましたよ」
 長瀬はもう一度繰り返した。
「……そうですか……ご存じだった、と。……でしたら、なぜ黙っていたんで
す? 内規では社有財産の私用は禁じられていたはず」
「おや、あれは私用だったんですか? それは初耳ですねえ。私はなかなか興
味深い実験だと暖かく見守っていたんですけどねぇ」
「はは、相変わらずですね。自らの手を汚さず、貴重な研究データが得られて、
さぞかし満足ですか」
 長瀬はそれには答えず、ただ微笑みを返しただけだった。
「しかし、分からないのは、どうして人間を手助けする存在であるメイドロボ
に、あのような人に反発するような、他人の言うことを疑ってかかるような、
そういう負の感情システムを付け足したのかということですねぇ」
「ははははっ」
 研究開発室に突然響き渡った高橋の哄笑に、監査部の男たちは気色ばんだが、
長瀬がそれを制する。
 ひとしきり大笑した高橋は、対面の長瀬の瞳を見据えると、なかば自らに言
い聞かせるように語り出した。
「研究者にあるまじきことですが、オレには、主任の開発されたマルチが、心
を持ったロボットではなく、ロボットの形をした人の心に見えたんですよ。精
巧に形作られた人間の心のシミュレータとしての機械にね。生まれながらに無
垢な、交じり気ナシの純真な優しさに設定されたマルチを見て、オレがなんて
思ったかわかりますか? 社の口座から金をちょろまかすような薄汚いこのオ
レが?」
 長瀬は答えない。
「……付け足したという表現は正しくないですね。正確には入れ替えたんです
よ。主任の自慢のマルチの感情システムを、オレの作成したシステムとね。根
幹の基本プログラムは一緒です。こいつはひとつの思考実験でしてね。誰から
も好かれるよう設定されたマルチと、何者にも受け入れられないよう創り出し
たワルチとを使ったね」
「根幹プログラム……ふむ、学習型コンピュータですね」
 そのとき、ふたりのやりとりをじれたように眺めていた、さきほど会計局の
社員証を提示した男が一歩進み出ると、長瀬の耳元で何事かささやいた。
「ああ、そうですか、それはどうもすいませんねえ。どうぞどうぞ、お仕事を
遂行なさってください」
 男はその長瀬の物言いにちょっと眉をひそめたものの、特にそれ以上は何も
言わず、他の男たちに合図を送ると、高橋の腕を取った。
「オレはこれからどうなるんだい?」
「ひとまず我々の事情聴取を受けてもらった後、警察行きということになる。
……さあ、いくぞ」
 高橋は特に抵抗しない。
「誰からも好かれないメイドロボ……ですか。私は少なくともひとりは、彼女
に愛情を注いでいた人間を知っていますがね」
 自分の娘が可愛くない父親などいませんからね――長瀬はそう続けようとし
て、しかし言葉を呑み込んだ。何とはなく、いまの高橋にその言辞を投げかけ
るのは、彼の矜持に対して失礼だと感じたのだ。
「ああ、そうそう、あなたの息子さん、渡米してまで行なった大手術、成功し
たそうで……よかったですねえ」
 男たちに挟まれてすでに長瀬に背中を向けている高橋は何も答えない。
「やったことに対する責任を取ったら、また戻ってきなさい。あなたの能力は
失うには惜しいですからね」
 高橋が振り返った。
「……オレはあんたのそういうところが嫌いなんだよ」
 ぶっきらぼうな口調を吐き出す彼の瞳からはしかし、どんな感情も読み取る
ことはできなかった。
「お願いですから他社にだけはいかないでくださいねぇ〜」
 連れていかれる高橋に向けられた言葉は、そのまま何のいらえもなく、さっ
きまで彼のいた空間に吸い込まれていった。
 そして長瀬ひとりが取り残された。
「思考実験……ですか。心のシミュレータとしてのワルチ。学習型コンピュー
タ……スーパーカオス理論に基ずく可能性の具現化。ふむ、彼はワルチに何を
期待していたんでしょうねえ」
 そうひとりごちる長瀬の面には、悲哀とも、慈しみともとれる表情が浮かぶ
ばかりだった。

 没しかけた夕日が、山稜を、そして天の下辺を茜色に燃え上がらせ、雲のは
たてに幻想的な色味を添える。
 ワルチは体育座りに膝を抱えてうずくまり、奇妙にゆがんで伸び切った、真
っ黒なもうひとりの自分の戯画(カリカチュア)を見つめていた。
 しかし彼女の勝ち気な意志の強さを表わしたかのような、そのつり目がちの
双眸は、その実、何も見てはいなかった。
 ワルチの、そして雅史たちの通う東鳩高校の、校舎からは少し離れた位置に
存在する第三グランドには、まったく人の気配がない。唯一の例外を除いては。
 サッカー部の副練習場でもあるこのグランドには、年期の入った古ぼけたゴ
ールネットが向かい合わせに置かれている。
 その側面の支柱にもたれかかるようにして、ワルチの姿はあった。
 ――考えまいとしても、思考はどうしてもあのときの状況をたどってしまう。
(……彼女、最近やっと僕になついてきてくれたみたいなんだ……)
(……でもよー雅史、なんでお前あんなのにそこまで世話を焼くかねー。オレ
にゃそのへんがよくわからねーぜ……)
(……でも馴れてきたら可愛いもんだよ……)
(……けっ、所詮ペットだろー……)
(……それはそうだけどね……)
 それから先の会話は聴いていない。いたたまれずに逃げ出したからだ。物音
でワルチに気づいた雅史たちが何か叫びながら追いかけてきたようだったが、
彼女は簡単に振り切ってしまった。マルチと違い、ワルチはその気になればか
なりの運動能力を発揮できた。
 どうしてこんなに悲しいのだろう。
 以前のワルチからは想像もつかない心の働きだった。かつての彼女なら、こ
のような屈辱を受けようものなら、ありとあらゆる手を使って反撃を試みただ
ろうからだ。いまはそんな衝動は欠片も湧いてこなかった。ただただ、心が痛
かった。これまでに経験したことのないような切ないうずき。
 雅史のやつがボクの心神プログラムを狂わせたんだ。
 そう思ったところで、彼に対する恨みがましい感情はやはり立ちのぼっては
こなかった。
 雅史……。
 彼女はスカートのポケットから真新しい学生証を取り出すと、じっと見つめ
た。学生証には必要最低限の記入事項以外、よけいなことはたったひとつしか
書かれてはいなかった。
 ワルチがこの高校に転入してきて数日経った日のこと、まだ学生証を受け取
りにいっていなかった彼女に、雅史が教務課に出向いてこの学生証をもらって
きてくれたことがあった。余計なことを、と邪険にあしらったが、さらに彼は
「何か困ったことがあったら手助けできるかもしれないから」と無理矢理自分
の電話番号を書き添えてしまったのだ。
 そういえば、結局雅史に電話をすることもなかった。
 学生証を見つめるうち、不意に激情にかられたワルチは、立ち上がりざま、
腕を振りかぶる。
 しかしそのまま、動きを止めてしまい、
 うっ、ううう……、
 地面に叩き付けようと学生証を握り締めた掌を、そのままだらりと力なくお
ろすと、がっくりと膝をついてしまう。
 できない……、できないよ……。
 ワルチの頬を濡らすものがあった。
 なんだか視界が滲んで映る。なんだろう、この感じ。そうか、これが泣くっ
てことなんだ。……マルチだけかと思ってたけど、ボクにも涙を流す機能はつ
いてたんだな……。
 それは彼女が生まれて初めて経験する、涙という形であふれ出した感情の発
露だった。
 主任……どうしてこんな風にボクを造ったのさ。こんな、こんな思いをする
くらいだったら、心なんていらないよ。セリオたちみたいにしてくれてたら、
どんなにか楽だったのに……。
 自分のなかで何かが変わってしまった。他人を受け入れず、誰にも心を許さ
なかった季節には持ちえなかった何かが、胸のうちに生じてしまった。あるい
はその意味するところも分からずに、いたずらに堅持することに執着するばか
りだった何かが失われたのか。
 いっそこのまま研究所には戻らず、どこかでひっそりとバッテリー切れを待
って機能を停止させてしまおうか?
 ――そんなことを考えたときだった。
「ワルチーーー!」
 不意に呼ばれたその声に、ワルチがびくりと反応したのは。

 それは、その声は、ワルチにとって忘れようにもけっして忘れることのでき
ないものだった。
「雅史……」
 ワルチは驚いて立ち上がった。急いで涙をぬぐう。
 グランドの入りぎわに立っていたのは、まぎれもなく佐藤雅史だった。上下
をかためた学生服は薄汚れて泥だらけで、汗にまみれたその顔は走りどおしだ
ったのか、とても苦しげだ。肩で息をしている。
「はあはあ……なんとなくここじゃないかって、ピンときたんだ……あのとき、
ワルチは初めて自分からボクに会いに来てくれたんだよね……」
 ……そして、ゴールポストそばで雅史はサッカーの話を彼女と語り合ったの
だ。といっても、サッカーのことなど何も知らなかったワルチに、雅史が一方
的に解説をしただけのたわいのないものだったが。しかし、それはふたりの間
に初めて、まぎれもない心の交流が成り立った瞬間だったのだ。
「ワルチ……浩之やあかりちゃんも君のこと探してるよ。……もしさっきの話
を誤解してるんだったら、あやまるよ。……あれは、うちのハムスターが子供
を生んだって話だったんだ」
 そう言いながら、ゆっくりとワルチのほうに近づいていく雅史。
「来ないで!」
 雅史が驚いて足を止める。
「ワルチ……?」
 ワルチにとって、すでにそんなことはどうでもよかった。
 ただ、疲れ果て、ぼろぼろになった雅史を認めたとき、もう自分は彼に関わ
ってはいけない――そんな想いだけが脳裏に渦巻いていたのだ。
「なんだってそんなにボクを追い回すのさ……もう放っといてよっ!」
「……ワルチ」
 しかし雅史の顔には、ちょっと困ったような、しょうがないなあといった表
情しか浮かんではこなかった。
「……来るなっていってるだろう」
 雅史が小走りに駆け寄ってくるのが見えた。
 逃げなきゃ……もう雅史を巻き込んじゃいけない……。
 しかし意志に反して、その視線は雅史に吸い付けられたように反らすことが
できない。
 ボクは本当は雅史に捕まえられたいんだろうか。……でも、ボクのせいで雅
史に迷惑をかけるなんて耐えられない……。
 逡巡も束の間。
「あっ」
 気付けば……。
 雅史は立ち尽くすワルチに追い付くと、しっかりと彼女を抱きしめていた。
 雅史はそんなに背の高いほうではないが、ワルチは女の子のなかでも小柄な
部類なので、ちょうど彼女の頭が胸のあたりにくる格好になる。
「離して……」
 弱々しくつぶやく。
 しかしワルチは雅史の腕のなかに囚えられながら、いままで感じたことのな
い不思議な安らぎを感じていた。
 でも……。
 自問する。
 ここはボクがいてもいい場所じゃない。ボクはここにいちゃいけない……。
「ワルチ……」
 雅史がささやく。
「もう逃げないで……他の誰が君のことを迷惑がっても、僕だけには遠慮しな
いで……。僕だけにはその子供みたいな剥き出しの気持ちのままで接してくれ
ていいんだ。……僕をもっともっと困らせてくれていいんだ」
「雅史……」
「僕には分かってたよ。最初に会ったときから……。ワルチが、助けて、助け
てって皆に手を差し伸べていたのが……」
「はっ、なに……いってるのか……ぜんぜん……意味がわかんないよ……」
 ワルチの声はかすれるようで、よく聞き取れない。
「心からの助けを求めて差し伸べられた掌を拒む手を……僕は持たない」
 ぎゅっと、ワルチを抱く手に力を込める。
「さっきだって、ワルチは泣いてたじゃないか。どんなに涙をごまかしたって、
真っ赤な瞳や、さみしいよ、心が痛いよって叫んでいた気持ちまでは隠せやし
ないよ」
「ボク……ボク……」
 どうしてマルチはあんなによく涙を流すのか、いままでは理解できなかった。
ロボットには不必要な機能だと思っていた。……でも、いまなら分かるような
気がする。
「……ボク……ここにいても……いいの?」
 不意に口をついて出た言葉。思えばいつだってこの質問を周囲に発していた
のかもしれない。でも、答えを聞くのが怖くて、他者から明確な拒絶を示され
るのにおびえて、自分から距離を取っていた。初めて口にする言葉。雅史にだ
け聞こえるようにつぶやいたボクの気持ち。
「ここにいて欲しいんだ。もう僕のそばから離れないで……ずっとずっと……
つらいことがあっても、ここなら君を守ることができる……」
「雅史……まさし……」
 こらえていたものがあふれだすのを止めることはできなかった。あたたかい
雫は、ワルチの顔を、そして雅史の胸元を濡らしていく。
「まさし……ボクの……ご主人様……」
「えっ」
「雅史はボクの……ご主人様だ。もうボクには雅史しか見えないよ。いまも、
これからもずっと……」
 雅史はこれは例の、ちょっと困ったような顔をする。
「イヤ……かな。やっぱり……迷惑?」
「ていうか、いままでどおり雅史とワルチでいいんじゃないかな。ご主人様だ
なんて、くすぐったいよ。雅史って呼んでよ」
「いやだ。ボクは自分勝手なやつだから、ご主人様のことは、ご主人様って呼
ぶんだ」
 ふたりの空間に柔らかい沈黙がおりる。雅史とワルチ――ふたりはようやく
お互いの欠けていた大切なものを見いだしたことを、知った。
「でも、ワルチって最初、マルチと似ているのは外見だけで、後はまるっきり
正反対なのかなって思ってたけど、やっぱりふたりはそっくりだね」
「……」
「そそっかしいところも……その優しいところも」
「……ボクは優しくなんかないよ」
「……そうだね」
 そしてふたたび、沈黙。
  いまこのときが、ずっと続けばいいのに……おずおずと遠慮がちに雅史の身
体に腕をまわしながら、ワルチは静かにまぶたを閉じると、身も心も彼女のご
主人様に投げ出していった。
                         (以下、次号に続く)