Oedipus 前編 投稿者: ジン・ジャザム
 彼は息を引き取った。
 彼女をその腕に抱いたままで。
 彼を殺したのは、彼女。
 人在らざる彼女の鬼の爪。
 自らを殺した彼女を、それでも彼は、残された温もりを伝えることで、彼女への愛を示
した。
 彼の生命の炎が尽きてもなお伝わってくる彼の温もりの中で、彼女は静かに泣いた。
 ……どうして、私を抱き締めてくれる人はいなくなってしまうの?
 ……お父様もお母様も叔父様も、そして貴方まで失って、私どうすればいいの?
 愛する人を、支えてくれる人を失った彼女の心は、今、脆くも崩れ去ろうとしていた。
 虚ろな瞳で、頼りない足取りで帰路に就く彼女。
 家に辿り着く。
 姉妹4人で暮らすにはあまりに大きすぎる屋敷だ。
 廊下を通り、居間へ。
 そこで彼女は気付いた。
 部屋中に充満する、むせ返るような血臭に。
 そして、胸をえぐられ絶命している二人の妹に。
 彼女には何も理解できなかった。
 何も理解できず、ただ呆然と妹たちの骸を見つめるだけだった。

「遅かったな……。」

 そんな声が聞こえた。
 彼女の正面、妹たちの骸を見下ろすように一人の男が立っていた。
 その右腕を真っ赤に染めて。
 男が彼女を見ながら、笑う。
「退屈だったんでな……少し遊ばせてもらったよ。」
 笑いながら、近付いてくる。
「さあ、さっきの続きを始めようじゃないか。美しい生命の炎を見せてくれよ……。」
 さっきの続き。
 その言葉には彼女にとって重大な意味があった。
 彼女が、彼女の愛する人を殺した理由があった。
 だが……
 彼女は、それすら理解できなかった。
 理解する心を失っていた。
「……?」
 先程から微動だにしない彼女を訝ってか、男が彼女の顔を覗き込んだ。
 男が見たのは、魂が抜け落ちたかのような、彼女の虚ろな表情だった。
 男は激昂し、彼女の胸ぐらを掴む。
「……貴様! 俺が憎くないのか!? 俺を殺したいとは思わないのか!? 貴様の妹を
殺したのは俺だぞ! 貴様の仇はここにいるぞ! さあ、戦え!!」
 だが、それでも彼女の様子に変化はなかった。
 男は失望し、凶器と化した己の爪を彼女の脳天に振り下ろそうとする。
 そこで、彼の動きが止まった。
 ……もはや血の渇きを癒せぬのなら、もう一つの渇望を満たせばいい。
 ……数少ない同族の女だ。殺すのは惜しい。
 ……血を残さねばならない。本能に従い、俺の、狩猟者の血を。

 ――男の爪は、彼女の脳天を打ち砕く代わりに、彼女の服を引き裂いた。






                Oedipus





 九月。
 夏休みも終わり、もう暦の上では秋だと言っても、日差しはまだ暑さを忘れてはいない。
 もう西の空が赤く染まっているのに、一向に涼しくなる様子はなかった。
 痛烈に視界に射し込む日差しに毒突きながら、俺はいつもの帰り道を歩く。
 蝉の鳴き声が五月蠅かった。
「耕一。」
 ふと後ろから、俺を呼び止める声が聞こえて振り返る。
 そこにはよく知った顔があった。
「梓叔母さん。」
 スーツ姿の活発そうな女性が、こちらに向かって歩いてくる。
 俺の叔母だ。
 年齢は確か三十代前半。
 気が強そうな瞳をしているが、綺麗な女性である。
「久しぶりだね、元気にしていたかい?」
「はい。」
 俺は短く答える。
 叔母は決して遠くに住んでいるわけではないが、忙しい人なので、俺とはなかなか会う
機会がない。
 叔母は、鶴来屋グループの会長だから。
 鶴来屋グループはうちの家系……つまり柏木家が経営する、この隆山市一番の大企業で
ある。
 高級旅館『鶴来屋』を中核とし、ホテルやペンション、スポーツセンター等も経営し、
五百人の従業者も持つこのグループを統括するのが、今、目の前に立っている女性だ。
 本来は彼女が就くべき役職ではない。
 会長に就くべき人間は他にいる。
 だが、その人は会長を務めるだけの力は持っていない。
 何故なら……
「千……お母さんの方はどう? 元気にしている?」
 叔母は俺に聞いてきた。
 一瞬、躊躇うように、まるで聞きづらいことを聞くかのように。
 そんな叔母の様子に格別な思いもなく、俺はまた淡々と答える。
「別に……いつも通りですよ。変わりありません。」
「……そっか。」
 叔母は少し俯きながら、悲しいような、諦めているような、そんな複雑な表情を浮かべ
る。
 沈黙の時間が流れた。
 ……俺は叔母があまり好きではない。
 叔母は逃げた人だと思うから。
 辛い過去を忘れるために、仕事に没頭している人だと思うから。
 俺たちを捨てた人だと思うから。
 だけど、責める気にもなれない。
 叔母は弱い人だ。
 だから、逃げても仕方がない。
 誰だって苦しいのは嫌だ。
 俺だって、きっと逃げる。
 だから、責めない。
 だけど、好きにもなれない。
 そんなのだから、こんな時は俺からは口を開かない。
 沈黙を破るのはいつも叔母だ。
「耕一。困ったことがあるなら何でも言いなよ。出来るだけ、あたしが何とかしてあげる
からね。」
「はい。」
 叔母の言葉に、俺はやっぱり、短く答えるだけだ。
 ……別に助けてもらいたいとは思わない。
 俺は別に多くを望まないから。
 俺には母さんがいれば、それでいいから。
 でも、そんな俺の考えとは裏腹に叔母は続ける。
「そうだよ。あたしに出来ることなら何だって……だってお前は、あいつの……」
 そこまで、まるで独り言のように話していると、叔母が急に我に返った。
「あっ、いや、何でもない。じゃあ、あたしは行くよ。向こうに車を待たせているからね。」
 無理に明るく振る舞いながら、叔母は背中の向こうを指差した。
 そこには確かに、黒塗りの高級外国車が止まっている。
「はい。あの梓叔母さん……。」
 俺は背中を向けて歩き出そうとする叔母に声をかける。
 俺に呼び止められ、叔母が振り返った。
「んっ? 何だい?」
 俺は叔母を好きにはなれない。
 だけど
「いえ、あの……仕事、無理はしないで下さいね。」
 労りの言葉一つかけてあげられないのは、俺にとっても叔母にとっても悲しいと思う。
 だから自然にそんな言葉が口から出てきた。
「……んっ、大丈夫。ありがとう。」
 叔母は少しだけ嬉しそうに微笑みながら、車に戻った。
 車がエンジンを吹かし、去っていく。
 それを見送ってから、俺は歩き出す。
 この暑さの中でも冷え切っている、人の温もりのない我が家に。


 俺の家は広い。
 柏木の本家だから当然だろうけど。
 家に帰った俺は、いつもの通り、母さんの部屋に向かう。
 部屋の扉を開け、覗き込む。
 母さんはいなかった。
 今度は居間に向かう。
 そこにもいない。
 そして、家中を適当に探してみたけど、母さんは何処にもいなかった。
 ……っていうことは、また、あそこか。
 母さんの居場所が想像できた俺は、自分の部屋に鞄を置いてから、家を出た。
 裏山を登る。
 母さんが家にいない場合、他にいるところといったら、あそこしかない。
 水門だ。
 俺は歩き続ける。
 ふと視界が開けた。水門に出たのだ。
 そして、やっぱり、母さんはそこにいた。
 揺れる水面をただじっと見つめながら。
「母さん、ただいま。」
 母さんの背中に声をかけると、母さんは振り返って微笑んだ。
 無垢な童女のように。
「お帰り。耕ちゃん。」
 母さんは美しい。
 年齢はもう三十代後半になるはずだけど、見た目は二十代前半に見える。
 俺が物心ついたときから、母さんは母さんだった。
 俺は母さんが老いていくのを見たことがない。
 心も躰も。
 母さんはずっと童女のようで、二十代の容姿のままで。
 心が老いなければ、躰も老いることを忘れるのだろうか?
 母さんは十五年前から、時間に取り残されたままなのだろうか?
 そう思えてしまうほどに、母さんは美しい。
 悲痛なまでに。
「おいで。耕ちゃん。」
 呼ばれて、俺は母さんの隣まで近付く。
 すると母さんは、俺の頭を撫でる。
 いつも通りに。
 俺は何も語らず、ただ、それを受け入れる。
 母さんも何も語らず、ただ、俺の頭を撫で続ける。
 俺が生まれたときから、ずっと変わらない時間。
 俺が一番、安らげる時間だ。
「耕ちゃん……」
 母さんが俺の名前を呼ぶ。
 ……耕ちゃん
 ……耕ちゃん
 ……耕一
 耕一……か。
 俺は心の中で自分の名前の意味を問う。
 答えは無論、何処からも返ってこない。
 だから、すぐに考えるのを止めた。
 ………………。
 感じるのは、頬を撫でる風。
 虫の鳴き声。
 そして俺の頭を撫でる、母さんの手の感触。
 俺たちはしばらくずっとそのままでいた。
 日が沈み、空が群青に染まるまで。


 柏木耕一。
 俺の名前。
 そして、俺の父さんの名前。
 父さんはこの世にいない。
 十五年前、俺が生まれる前に死んだ。
 いや、そのとき死んだのは、父さんだけではない。
 柏木楓。
 柏木初音。
 俺の叔母に当たる、二人の少女も死んだ。
 殺されたのだ。
 生き残ったのは柏木千鶴……俺の母さんと、その時たまたま家にいなかった柏木梓、俺
の叔母の二人だけだった。
 そのときはちょうど連続殺人事件の真っ最中で、父さんたちを殺したのもその連続殺人
犯ではないかと騒がられた。
 それに以前にも、柏木前会長夫婦の事故死、柏木賢治会長代理の事故死……つまり俺の
祖父たちの死亡事件があって、話題性は大きかった。
 曰く『呪われた柏木家の惨劇』と。
 結局、事件はとあるマンションの一室から、麻薬中毒の大学生と、さらわれた二人の女
性――片方は叔母の高校の後輩だったらしい――の死体が見つかったことで幕を閉じた。
 全てはその大学生とやらの犯行だったらしい。
 そして、世間がこの事件を忘れ去ろうとした頃、母さんは俺を生んだ。
 父親のことは、母さんは誰にも話さなかったらしい。
 というか、話せるような状態ではなかった。
 母さんの心は、あの惨劇の夜以来、ずっと壊れたままだったから。
 ただ母さんが生まれた俺のことを「耕ちゃん」と呼んだことから、叔母は俺が柏木耕一
の子供ではないかと推測したという。
 だから、俺は父と同じ名前、「柏木耕一」と名付けられた。
 叔母からはそう教えられた。
 詳しいことは分からない。
 叔母は昔のことを話したがらないから。
 そして、やがて叔母は家を出た。
 壊れた母さんと俺を捨てて。
 捨てたというのとは違うんだろうけど。
 今も彼女は俺たちの生活に必要なものの全てを用意してくれるし。
 だけど、壊れた母さんとこの惨劇があった家で一緒に過ごすことは拒んだのだ。
 心が耐えきれないから。
 そして叔母は大学を卒業し、会長代理の足立さんから、鶴来屋グループを受け継いだ。
 本来の会長であるはずの母さんの代わりに。
 ……だから、別に叔母のことを恨んでなんかはいないんだ。
 俺には母さんとの二人の生活があればいいのだから。
 ただ一つだけ、辛いことがあるとすれば、それは

「耕ちゃん……」

 母さんが見ている「耕ちゃん」は俺ではないんじゃないか、ということ。
 母さんの見ている「耕ちゃん」は父さんなんじゃないか、ということ。
 そんなことを考えるとき
 そのときは、ふと胸が痛くなる。
 自分のいる場所を見失ったような気持ちになる。
 それだけだ。
 それも考えなければ済むことだ。
 だから、大丈夫。
 俺は寂しくなんかない。
 俺の頭を撫でてくれる母さんとの時間があれば、俺は永遠の中にだって、止まった時間
の中にだって生きていける。
 それだけでいい。
 そう思っていた。
 ずっと。
 ずっと。


ごつっ
 俺の頬が殴られる音を、俺は何処か遠い場所から聞いていた。
 殴られた頬の痛みも、倒れたときの土の感触も、倒れた後、腹部に追い打ちで決まった
蹴りの衝撃も全部ちゃんと感じていたけど、なんか非現実的だった。
 俺は俺の傍観者だった。
「けっ……相変わらず気持ち悪りぃ奴だな。」
「ムカツクんだよ、てめー見てっとよ。ああコラ?」
 俺を殴った奴らの声が聞こえる。
 あからさまな嫌悪、侮蔑、嘲笑。
 だけど、それもまるで他人事だ。
 俺には関係ない。
「二度とオレらの前にツラ見せんじゃねぇよ、分かったか?」
 お前らの方から近付いてくるくせにな。
 まっ、どうでもいいけど。
 頬に冷たい感触。
 奴らが唾を吐き捨てたらしい。
 まっ、どうでもいいけど。
 奴らが去ってから、俺はゆっくりと立ち上がる。
 身体のあちこちが痛んだ……まっ、どうでもいいけど。
 よろよろと歩き出す。
 ここは公園の林の中だ。
 人通りはない。
 適当な広い場所まで出て、水道で傷口を洗う。
 水が傷口に滲みて、思わず俺は顔をしかめた。
 そこへ……

「無様だな。」

 そんな声が聞こえた。
 俺は声の聞こえた方を振り返る。
 そこには見知らぬ中年の男が立っていた。
 眼鏡をかけた、どちらかと言えば優男。
 しかし、俺はその裏に秘められた何とも言えない鋭さに気付いていた。
 普通の人じゃない。
 そんな気がする。
「誰ですか、貴方は?」
 俺は男に尋ねた。
 だが、返ってきたのは質問に対する答えではなかった。
「見ていたよ……さっき。最初から最後まで全部な。」
 そう言いながら、楽しそうに笑う男。
 だから、どうしたというのだろう?
 そんなことを言って、俺が怒り出すとでも思っているのか?
 馬鹿馬鹿しい。
「それが? 別にどうだっていいですよ……。」
 俺は男を無視して、その場から去ろうとした。
 そんな俺に男はまだ話しかけてくる。
「悔しくはないのか?」
「全然。」
「腹は立たないのか、あの連中に……。」
「いつものことです。気にしていませんよ。」
 答えながらも、俺は歩き出している。
 男の方は振り向かない。
 背中から男の溜め息が聞こえた。
「そうか、残念だな。お前はその気にさえすれば、あんなクズども、一人残らず狩り殺す
力があるというのにな……。」
 そんなことをして何になるんだ?
 本当に馬鹿馬鹿しい。
 だいたい、力って何だ?
 そんなもの、あるワケないじゃないか。
 だいたい俺、喧嘩は弱いし。
 ……まったく何なんだよ、今の人?
 気狂いか?
 別に春じゃなくても出て来るんだな、ああいう危ない奴。
 さっさと帰ろう、変なことに巻き込まれる前に。
 俺はその後、一度も振り返らずに、その場を後にした。


「どうしたの、耕ちゃん?」
 俺の怪我に気付いたのか、母さんは心配そうに尋ねてきた。
「別に。何でもないよ、派手に転んだだけ。」
 母さんに心配はかけさせたくないし、家にまで外のことを持ち出したくはない。
 だから俺はそう答えた。
 だけど、母さんは更に追求してくる。
「でも、辛そうよ?」
「そんなことないって。気のせいだよ。」
 俺は口の端だけで笑ってみせる。
「だって、耕ちゃん……泣いているわよ?」
「………………えっ?」
 そこで初めて俺は、自分の頬を濡らす涙に気付いた。
 慌てて目を擦ってみる。
 だが、涙は拭えなかった。
 擦ったせいで視界がぼやけて、何も見えなくなる。
「そんな……そんなはず……ないのに……別に……本当に何も……どうだっていいのに…
…何で……」
 一度、涙に気付くと、それは止めどもなく次から次へと溢れてくる。
 悔しい。
 悔しかった。
 奴らにやられたことじゃない。
 あんな程度の連中にされたことで泣かなきゃいけない、自分の弱さが悔しかった。
「耕ちゃん、大丈夫……?」
「大……うっ……丈……ひくっ……夫……うっうっ……」
 まだ泣き止めない俺。
 そのときだった。

ふわっ……

 静かに、優しく、母さんの手が俺の頭を包み込んだ。
 そして、そのまま母さんは俺を自分の胸に抱き締める。 
「耕ちゃん……甘えてもいいんだよ?」
「……んっ……。」
 俺は素直に母さんの胸に抱かれた。
 そして嗚咽する。
「耕ちゃん……大丈夫……大丈夫よ。私がついているから……。」
 母さんの声はあくまで優しい。
 母さんの胸の中。
 やはり、ここだけが俺の唯一安らげる場所で、帰れる場所。
 だから……母さんだけいればいい。
 母さんがいれば、この場所があれば、俺は生きていける。
 他に何も、俺の未来だっていらない。
 母さんと同じ時間にいられるのなら。
「耕ちゃん……」
 母さんがまた俺の名を呼ぶ。
 俺の名前を……俺の名前。
 柏木耕一。
 ……本当に、俺の名前?
 それは本当に俺の名前なの、母さん?
 母さんの瞳に映っているのは俺じゃなくて……柏木耕一。父さんじゃないの?
 俺の本当に柏木耕一なの?
 母さん。
 答えて欲しい。
 俺は本当にここにいてもいいの?
 母さんが本当に求めているのは、誰?
 ……母さんは答えない。
 そうだ。
 母さんは一度も、俺の呼びかけに応えたことはない。
 応えられない。
 ……なんだか、とても悲しくなった。
 こんなにも安らいでいるのに、
 こんなにも満たされているのに、
 さっきよりも、ずっと。
 だから、俺は泣き続けた。
 そのことを忘れてしまうために。
 この場所を、俺にとって唯一絶対の場所に変えるために。
 ずっと、ずっと、泣き続ける。
 泣き疲れて、そのまま母さんの胸の中で眠ってしまうまで。