Abbey road 投稿者:枯野草莉 投稿日:10月1日(金)00時06分

 ドアが開く。からん、と響き渡るのは、静かな喫茶店だからこその耳心地良い音色だった。
 飲んでいた珈琲を置いた。新しく入ってきた客を見るともなしに見てしまっていた自分に気付く。おそらく、曲の切れ目だったせいだ。店内の片隅で歌い続けているジュークボックスの、くすんだ音が懐かしい。切ないメロディだ。その男は、それまでに入ってきた客と、取り立てて何が違うと言うほどのこともなかったのだが、茶髪が目を引いたのかもしれない。それであっても大したことではないのだが、私はつい、口の端を歪めていた。
 服装は抑えめのグレーを基調としている。ネクタイを軽く弛めているのだが、だらしないとは感じない。静かな歩調。その割に妙に目立つという、どこか不思議な雰囲気を持つ男だった。驚いてしまってから、彼の印象のちぐはぐさに好意を抱く。精悍な横顔は真面目にも見えるし、誰もを馬鹿にしているようにも映る。面白い男だ。男に興味を持ったのは久々かも知れない。
 よくよく見れば、若い。自分よりも歳は上のようだ。二十四、五くらいだろうか。落ち着いた風体を差し引けば、二十歳でも通るかも知れない。
 どこかで見たことがある。どこだっただろうか。思い出せないが、忌避する感覚は受けない。嫌な存在として記憶しているわけではないようだ。
 その男は真っ直ぐに店の隅にあるテーブルに向かった。ジュークボックスを物珍しげに見つめている。コインを入れなくても歌い出すという、店用の造りから考えても、70年代か、それ以降のものだろう。とうにあちこちが剥げ、淡い鉄色が覗いている。そろそろ寿命になっていてもおかしくない。褒めるのであれば、味がある、とでも言うべきだろう。
「ふうん」
 と、男は興味深げに頷いた。子供に似た、無邪気な目の輝きだった。必要もないのにわざわざコインを入れて、曲目を選んだ。古いヒット曲。決して明るくはない。が、陰鬱というほどでもない。静かな唄だった。
 店員もほとんど雇っていないこの喫茶店では、混み出す夕刻以外の時間、マスターが独りで切り盛りしている。当然ながらマスターが注文を聞きに行く、その足音のリズムは一定だった。時折この店に来るようになって気付いたことだが、むさ苦しい髭面と低い声のおかげで誤解されやすいとはいえ、彼はなかなか気の良い人物らしい。
 ただ、趣味人であることは否定できない。なにせこんな小さな店だ。どう考えても、そう儲かるわけがない。
 注文の内容に耳を欹てていると、茶髪の男がこちらに顔を向けた。すっと音もなく立ち上がり、私のいる窓際の席まで近寄ってくる。合意も取らずに座られてしまった。自分の珈琲カップと皿をテーブルに置いてすぐ、口を開いた。
「僕と一緒に夜明けのコーヒーでもどうだい?」
 一瞬、口籠もってしまった。問いの口調から窺える楽しそうな様子はこちらの反応に対してのものだろう。注視していたことをいつからか気付かれていたらしい。冗談に代えた口説き文句にしては、つまらない。今では笑いの種にもならない言葉だ。芝居がかった言い方が些か過ぎるのも問題だろう。
 だが、覗き見していたことは事実だ。怒り出しても仕方ないと思う。そう告げると、彼は小さく苦笑した。
「いや、こっちも視界の端で注目してたのさ。いつナンパされるのかなと思って」
「それはそれは。期待させて申し訳ありません。ですが、こちらから声をかける可能性は最後まで無かったでしょうね」
「へえ、そんな美人なのに、どうして」
「男が嫌いですから」
 正確に言えば、男を恋愛対象と見ていない、ということなのだが。軽そうな相手を前にすると、話を早く切り上げるため、つい手っ取り早い言い方をしてしまう。悪い癖だ。誤解されると面倒でもある。
「ってことは、女性が好きってことかな?」
「ええ。その通りです」
 ふたつの違いに気を遣っているあたり、そういった趣味にも、それなりに理解があるのかもしれない。男になりたいという思考と、女性が好きであるという精神性は、端から見れば同じかも知れないが、当人にしてみればまるで違う。何故なら、私は、男になりたいとは思わない。
「ああ、じゃあ、俺も同じ。やっぱり女性のが好きだから」
「そうですか」
「まあ、それはさておき。えーと、相席、良い?」
「かまいませんわ。事後承諾でなければ、もっと良かったのですが」
「堅いね」
「性格なので」
「そ。ところでお名前は? ……ああ、その前に名乗っておこう。こっちは緒方英二。よろしく」
「篠塚です。篠塚弥生」
「おいおい、本当に教えてくれるとは思わなかったな」
「名前を知った程度で、人間が手に入るとは思いませんから」
「……なるほど」
「それで、ご用件は」
「こぅして弥生さんとお話ししたい、と思った。というのじゃ不満かい」
「語るのでしたら外でどうぞ。会話がしたいのであれば、それ相応の内容を」
「じゃあ、……そうだな。なら、少し黙っておこうか」
 本当に口を噤んだ。しばらく珈琲を啜る音だけが店内を満たしていた。客の姿は私たち以外に無い。時間が時間だからだろう。窓の外、路上も薄い白で染まっている。夜空に目を遣れば、深い黒に雪がちらついた。
 バックグラウンドにかかる歌。先程まで流れていたその曲が終わると、80年代のグループソングに切り替わる。かすれた声。磨り減ったレコードが叫ぶ、ひずんだ音色。
 手を挙げ、マスターに珈琲のおかわりを頼む。それを聞いていた緒方英二氏は、横から紅茶の注文を追加した。
 また、沈黙があった。こういった静寂は嫌いではない。壁にかかっているワイエスの風景画に視線を向ける。写実的というよりは、現実の模倣にも見えるそれは、結局は虚構でしかないのだ。この無言の対話も同じだ。意味を求めているのは自分であって、それを相手に押しつけるのは少々底意地が悪い。
 あたかも彼が存在しないかの如く、自然と外に目を向けていた。雪の量はそれほどではないが、知らぬ間に風の勢いが強まっている。ガラス窓に叩き付けられる真白い結晶は美しくもあり、儚くもあり、そして汚い。
 こんな冬の日に出歩く人間は多くない。そして、わざわざ喫茶店で時間を潰すような人間は、更に少ない。だというのに、見知らぬ相手と同じテーブルについて、無意味な時間を過ごしている。つまらない。本当に、つまらない。
「うぅん、やっぱり落とせそうにないな」
「ええ、おそらく。あなたが何時間粘られても、無駄ではないかと……」
「ま、だろうな。本気じゃないと、相手にもされないってとこか」
 緒方氏は、おどけるように肩をすくめてそんなふうに零した。それから紅茶に砂糖をいくらか入れ、ゆっくりとミルクを流し込む。透明な紅に、白が混ざるその様子をしばらく見つめていたかと思うと、自分の顔が消えるまでスプーンでかき混ぜた。
 幾分落胆した表情で、手元のカップをあおる。砂糖を入れすぎたとでも言いたげに口の端を上げる。空になったティーカップに銀のスプーンを入れ、その音を聴く。
「ああ、そうだ。弥生さんさ、この茶髪、どう思う?」
「今ではさほど珍しくはありませんわ」
「いや、そういう意味じゃなくて……似合ってるかな、と」
「よろしいのでは」
「本音は?」
「どうでもいい、といったところです」
「あっはっは。そりゃそうだ。……率直な意見、ありがとう。やっぱりそうか。いや、妹が言うには、真面目じゃないくせに黒くするよりはマシじゃない? だとか言われて困ってたんだ。うん、やっぱり気にするほどのもんでもないな。よし、次は白く染めることにしよう」
「……ああ、今、思い出しました」
「何を?」
「緒方英二、という名前と、あなたの顔を。確か……作曲家でしたか」
「作曲から歌手まで、ひいてはアイドルから芸術家、果ては演出まで、とりあえず楽しそうなことはなんでもやるよ。いやはや、知らずに付き合ってくれてたとは思わなかった。弥生さんってさ、実はいいひと?」
「態度は相手に依って使い分けることにしています」
「キッツイなあ。弥生ねえさんは」
「……それで、長い枕だったようですが、何のご用件でしょうか」
「スカウト」
「それなら」
 言葉を遮り、緒方氏はきっぱりと言い切った。
「の、つもりだったんだけど……話してて分かったのは、弥生さんはライトの下に出たがるタイプじゃないらしい。いや、たぶんこなせるだろうけど、それだけだ」
 語るのではなく、同意を求めているのが理解できた。視線が合う。こちらを見つめたまま身じろぎもしない彼の、瞳の光は、ぎらぎらと熱を放つかのようだった。
「今度……というか、俺は再来月、自分のプロダクションを立ち上げる。ただ、多少人手が足りなくてね。有能な人間を集めている途中なんだ」
 目の真剣さとは裏腹に、顔はにやにやと笑っている。試していると感じるのは、穿ちすぎか。いや、むしろ彼は、自分を試しているのだろう。
「君が今どんな会社にいるか知らないが、可能であれば、引き抜きたい」
「質問が」
「どうぞ」
「緒方さんは自分の趣味で人材を集めているのでしょうか」
「もちろん。見る目には自信がある」
 嘲笑いたくなる。その衝動を堪え、もうひとつ冷静に訊く。
「ご自分の失敗するヴィジョンは見えない?」
「ああ、見えるさ。成功も失敗も弁えている。けど、自分にならやれるとも思っている。才能がある人間がその才能を活かさないのは、罪だろう?」
「その気持ちは、分かります」
 しばらく考えるべきだ。魅力的な提案などとは、口が裂けても言えないだろう。先行きの知れない、未だ形にすらなっていない不安定な未来。泥の船じみた足場を誰が好んで選ぶというのか。
 しかし。
「……具体的なプランを」
「乗り気になった?」
「いいえ。ですが、どうせ今の会社も潮時ですから」
 噂になり始めていたのだ。捨てた彼女のことが。いや、捨てたという言葉では語弊がある。初めから試すだけだったのだから。熱を上げたのは相手の側であり、私は暫しの間、つきあいを続けていたにすぎない。
 真にきれいな人間など、所詮、幻想でしかないということだ。
「よしよし、ええっと、まず確実に成功させるための、最初の大仕事が――」
 話を聞くにつれ、緒方氏の着想に舌を巻くことになった。緒方プロダクション。実績は一切無いとはいえ、注目度の大きさだけは期待できる。天才と呼ばれる緒方英二の演出力は有名だ。当人の能力もさることながら、彼が選んだスタッフも傑出した能力を持っているらしい。また、プロフェッショナルの引き抜き交渉は大方終わっており、人員確保というよりは、新しい才覚のある人物を捜しているというのが、先程の話であるようだ。
 そして、期待の新アイドル。緒方理奈のデビューを控えている。
 写真を見せられた。確かに、綺麗な娘だと思う。そしてそれ以上に印象的なのは、その意志の強さが垣間見える、澄んだ瞳だ。兄と似て人を小馬鹿にした雰囲気は微塵も感じられない。それが良いことなのか悪いことなのかはこの際置いておくことにするが、とにかく彼女は成功するだろう。
 人間の才能には酷く差がある。格の違いであるとか、纏っている気配であるとか、そういった形のない、だが確かに感じる気配だ。成功する人間は、そういった強い空気を津園に持っているものだ。彼女にはそれがある。歌唱力もあるということだから、国内には、もはや敵無しだろう。
 彼女の成功の後に続く数々の新人。その誰もが、煌めくような才能を持っているに違いない。自分の手で集めた者たち。彼らに、緒方氏は絶対の自信を持っている。そのことに共感してしまった。
 嘆息する。カップの底にかすかに残った珈琲。すでに冷めているのを知りながら、私はそれを飲み干した。
「ああ、そうそう。名刺はこれ。あと、事務所はこの近くに構えるつもりだから……」
「伺っておきますわ。後ほど、連絡するかも知れません」
 受け取りながら、自分のコートを手に取る。伝票を取ろうとしたら、見あたらない。緒方氏が目だけで笑っていた。手の中には一枚の紙。払わせろと言ったところで、無駄だろう。ここは任せておくことにする。
「しないかもしれない?」
「ええ」
 そんなやり取りに、私はかるく笑った。
「んー。弥生さんは、マネージャー向きかな」
「その場合、私に手を出されないような相手の方が良いかも知れません」
「いや、むしろ弥生さんが……そうだな、恋するような娘が欲しい」
「いるでしょうか」
「さて、どうだろう。弥生さんは、いないと?」
「……いるかも、しれませんね」
 どちらからともなく苦笑を浮かべた。マスターはカウンターの向こう側で、グラスを延々と磨いている。ジュークボックスは、ビートルズを流し始めていた。どういった選曲だったのか、いまいち掴みきれないまま、私は外に出ていった。
 そして、私は彼の元で働くことになるのだろう。言いしれぬ予感に身を任せながら、奇跡の如く起こりえぬ出逢いを求めて、熾いた熱に身を焦がす。
 彼をそこに残したまま、ドアを静かに開ける。また、からん、と音が鳴る。
 いつしか風は止んでいた。暗く高い空から音もなく、降りしきる雪の歌を聴くとも無しに聴いている。音のない世界を歩く。歩き続ける。
 リフレインする景色を振り返らず、白く染まった道を踏みしめるたび、その感触に、どこか私の知らないその場所から、笑いがこみ上げてくる。ウォーキングインザスノウ。この雪が降るあいだ、私は足跡をいくつも付けて、ただひたすらに、前だけを見て、歩き、歩き、どこまでも歩き、見つかることのない宝石を探しに行く。
 与えるために。奪うように。

(了)