声がきこえる 投稿者:枯野草莉 投稿日:4月16日(金)03時41分

 朝からずっと雨の気配があたりに立ちこめていた。街中を見回してみても、誰もが他人のことなど気にもとめない透明な空気。憂鬱をまき散らして歩き回る人々の姿ばかり、初音の目に映る。だから、この日は一日中、そんな風に過ぎていくはずだったのかもしれない。
 見上げれば重苦しい空の灰色はどこか冷たくて、悲しげに思えた。まだ降らぬ雨は涙か。いいや、そこまで詩的なことを思うつもりは初音にはなかった。ただ、誰か他にそんなことを思う人間がいるのかもしれない。そこに哀しみを見いだしてしまうような、誰かが。
 あれから数年が経った。記憶は褪せないし、風景もほとんど変わることのないままだ。あらゆるものが異なっているというのに、そこには何も変化がない。
 今日という日は、命日ということになっていた。耕一の。そしておそらく、千鶴にとっても。

 ――鬼が現れた。

 それだけのことだ。それだけのことで、いとも簡単に日常は裏返り、柏木家のささやかな日々は決壊してしまった。長いあいだ支えであったはずの従兄弟は、儚くも命を失った。信頼できたはずの長姉は直後に姿を消した。消息は不明のままだった。だが初音は聞かなくとも、どうなったのか分かっていた。楓の態度。梓の憔悴。全てが指し示している結論は疑う余地もない。聞くことを躊躇わせた理由はただひとつ、信じたくなかったからだ。
 その後、鬼の噂も断たれた。代わりに罪ばかりが遺された。幸福を続けるに足る理由を初音達は失くし、もはや隆山に生活の基盤は無くなった。元に戻れないことだけがはっきりとしていた。家を出て行ったあと何年も帰ってこない姉たち。連絡は取っているが、ここ一年は会ってすらいない。三人で集まるなら、この日くらいなものだろう。けれど、あえて一年で最も辛い日を選ぶというのも難しい。
 今思えば、夢のような日々だった。
 何もかもが楽しくて、嬉しくて、全てが幸せだと胸を張って語れたあのころ。初音は名残のある街を歩きながら思いを馳せていた。コンクリートの道を踏みしめながら、ゆっくりと。薄い雨雲はもしかしたらどこかに流されて、何時間か後には晴れてくれるだろうか。湿度の高さが暑さと相まって、初音に汗をかかせた。ひたいの雫を手の甲でぬぐう。
 視界にはいるのは、たとえばうらぶれた場所の、小さなゲームセンター。
 店先をのぞき込むと、昔からおんぼろだったクレーンゲームがちゃんと動いていた。小学生らしき子供達が騒ぎながら、ときにケースを叩いたりもしながら、機械の動きに一喜一憂している姿があった。これも、いつも変わらない光景のひとつだった。
 ああ、それはツメが甘くなってるから取れないんだよ。
 初音は中にあったぬいぐるみを、よほど物欲しげな目で見ていたのだろう。隣りにいた耕一が笑ってそう言った。初音はそうなんだぁ、と素直に頷いて、でも、と続けた。
 なんだい初音ちゃん。
 耕一の言葉に初音はこう答えた。ちょっとだけ甘えた声で。だってそうすれば、耕一はいつだって優しく初音に接してくれたから。
 一回。一回だけやってみようよー。
 少し考えたあと、耕一は張り切った様子でクレーンの前に向かった。
 よし、二百円ある。一回ずつやろうか。で、初音ちゃん、狙うのはどれにする?
 格好良いところを見せようというのではなかった。単純に初音のためだった。初音にはそれが分かった。なぜだかすごく分かった。
 ぬいぐるみが取れなかったのは、仕方のないことだった。初めにも言われた通り、店側の設定が取れないようにしてあったのだ。もっとお金をかければ取れるかもしれないけれど、慣れている人間にだってたったの二回で狙い通りに行くだなんてことはそうはない。初音にも分かったことだ。そのくらいのことが耕一に分からなかったはずがなかった。
 頑張った。わざわざケースの横に回りこんで、視線をずらした。高さや距離を見て、しっかりと腕を伸ばして、ボタンを押した。ききき、と動くクレーン。何かに引っかかる動作をしながらも、順調に狙いを定めていたネコのぬいぐるみまでたどり着く。手を離す。丁度良い場所だった。ネコの耳の部分に引っかかった。掴む。初音が喜んだ瞬間、かくん、と滑り抜けるように下に落ちていった。
 二回目に初音がやったら、今度は掠りもしなかった。
 それで落ち込むことはなかった。残念だな、とは思ったけれど。ワガママを言ったのは初音のほうであったし、耕一と一緒に遊べたことの方が嬉しかった。慰めようとしての言葉をかけられて、初音はおかしくて笑った。耕一の悔しそうな声で、笑った。
 次の日、夕飯後に耕一が問題のネコのぬいぐるみを持ってきた。初音はとても驚いた。他に数個のぬいぐるみもあったけれど、プレゼントだと告げたあとはほいほい初音に全部を渡して、持ちきれなくなったところに向けて、自信満々におどけてみせたものだ。
 もちろん、いくらぐらいかかったのか、そんなことを初音は聞かなかった。こういうときになんて言えばいいのか、初音はちゃんと知っていたからだ。
 ありがとう、耕一お兄ちゃん。
 照れくさそうに鼻の頭をかいていた。さらに次の日、一人でくだんのゲームセンターの店先を覗いたとき、透明なケースの中身は大量に減っていた。ネコのぬいぐるみがあった場所の周辺だけに、ぽっかりと穴が空いたようだった。
 やがて道を通るたびに、そんなことを思い出すようになった。それは多々ある思い出のひとかけら。流した涙の一滴にも満たないほど、小さな出来事だったけれど。
 今はどうなっているのか。まさか何年も経って同じままなんてことはない。色とりどりの手に収まるほどの大きさの動物。少し大きな人形。なんだか奇妙な形のお化け。いつか初音が見たのとはまるで違う、何かのキャラクターたち。虚ろな瞳で天井を見上げていた。彼らの姿の脇には、ケースに映り込んだ初音の顔があった。昔は届かなかったあたりにある顔。あれから背丈がいくらか伸びたせいだろう。まだ耕一の身長には遠いし、成長も止まってしまったようだから、たぶん追いつくことは無い。
 いつまでも見ているのもどうかと考えた。そのまま離れることには抵抗があった。記憶のままに財布から百円を取り出し、投入口にかるく入れた。ちゃりんと小さな音がして、軽快なBGMが流れ出す。わくわくはしなかった。何が欲しいというわけでもない。丸いボタンに指を置く。強く押し込む。動き出す機械の、何年も前とほとんど変わらない滑り出し。不意に、いつかのネコのぬいぐるみに似た動物の姿が見えた気がした。手を離した。止まった。
 降りていくクレーンは、まだツメが弱いままなのだろうか。初音の疑問に答えるごとく、丁度良い場所に近づいた。それを掴んだ。揺れながら、期待させるように上へと持ち上がった。その途端、落ちて目の前に転がってきた。うん、やっぱり難しいね。初音はつぶやいて、息をはき出した。その場から離れる。ゲームセンターを背中にして、振り返らずに遠ざかっていった。
 街を回るには今日は暑すぎる。久々の商店街を散歩する気にはなれない。店舗ごとの自動ドアが開くと流れ出るクーラーの冷気に当たる。見知った顔もあるにはあるのだが、初音に声をかけようする者はいなかった。いまいち確信を持てないでいるのかもしれない。髪を切ったこと、背が伸びたこと、あるいは街から出て行ったこと。だから誰かに期待するなんてことはしてはいなかったのだ。
 むろん、事件以降も親交が続いた足立社長や鶴来屋の面々、あるいは親戚、用が無くなった後も気遣いからかよく顔を出していた刑事など、そういった人間は除いての話である。
 通学路だった路地や十字路を過ぎ、ようやく家に着いた。もう、誰も住んでいない柏木家に。管理人に任せているから、室内が崩壊しているだとか、廃屋と化しているなどということは無いにしても、やはり人間の気配が無い家屋は雰囲気が淀んでいくらしい。荒廃していると言い換えても良いほどである。
 初音がここに住んでも良かった。梓が東京の大学に通いたいと出て行って、楓が思い詰めたように、何か考えでもあるのか姉を追った。優しい姉たちは傷ついたが、変わりはしなかった。だから見捨てられたのではないこと理解できた。初音には選ぶ権利があった。
 それでも、ここを捨てた。今となっては財産として以外、全く価値が無くなった場所だった。未練が無いといえば嘘になる。でも、良いのだ。この家には家族がいないし、きっと待っていても、ふたりは帰ってくることはないだろう。ここには悲しいことがありすぎた。笑顔で受け入れるにはあまりに重くて、初音は一人で抱えられるほど強くはなかった。誰かのためならば微笑んでいられる初音でさえ、ここで孤独に耐える理由さえ、とうに喪ってしまった。
 生まれた幻像をすり抜け、さらに遠くにある虚像に焦点を合わせる。あるいは過去に。遙か未来に。生まれ変わりという連鎖が、こんな悲劇を生み出すというのなら。
 わき上がる衝動があったが、初音はまた涙をこらえた。リネットの哀しみを鎮める。息を落ち着ける。
 違う。そういうことじゃない。
 欲しかったのは安らぎだった。家族だった。平穏だった。そしてそれらは、すべてここにあった。もう無いものを求めてしまうこと。しかし、誰が責めることができるだろう。苦しまずに済むのなら、それは素晴らしいことだったろうに。
 それも違う。生きるということは、その先にあるものを望むことだった。初音はいつも教わっていたのだ。苦しんでも、それで得られるものもあるのだと。でも。だから。
 千鶴お姉ちゃん、ごめんね。
 泣きそうになる。長姉はこの家を、家族を守りたかった。いつだって守ろうとしていたのだ。何も教えてもらわなくても、それくらいわたしにだって分かってたんだよ。でも、一人で抱えこむことがこんなに辛いことだなんて思わなかった。わたしはね、待っていることに疲れちゃったんだ。だから、ごめんね。この家はもう手放すから。
 家の中には入らない。近づくだけでも思い出がひとつ、またひとつと蘇る。何もかもが鮮明に思い出せた。すべてが初音にとって、抱きしめるには大きすぎる記憶ばかりだ。
 いやだな。いつかの食事は楽しかったなぁ、なんて思っちゃうよ。
 梓お姉ちゃんと千鶴お姉ちゃんがいつも通りに喧嘩してたとき、楓お姉ちゃんが静かに避難しちゃって、なのに一番被害受けそうなときには、ちゃんと耕一お兄ちゃんが割り込んで。やっぱりあのころが一番楽しかった。みんな、耕一お兄ちゃんのことが大好きだった。
 あはは。涙、出てきた。
 ねえ、家のなかには誰もいないのに、なんだかそこからひょっこりと顔を出してくれそうな気がするよ。それでね、暗くなってきたら、美味しそうなご飯の匂いが流れてくるんだもん。お腹を空かせたらみんな一緒に居間に集まって……
 だが、そんなことはありえない。それは幻想だ。そうでなければ夢だった。あたたかな幻を打ち消すように、初音はかぶりを振った。
 不意に輝きが見えた。不思議そうに空を仰ぐ初音の頭上から、白い光があたりを照らしていた。いつの間にか、朝には降るとばかり思っていた雨雲が本当に去っていたのだ。雲間から差し込む夏片の光はただ眩しかった。
 手を翳す。目を閉じる。
 初音を呼ぶ声がきこえた。
 ……あれ? 初音じゃないか?
 梓だった。聞き間違えなどではない。続けざまに楓の声が重なった。ここにいないはずだったふたりの声が耳に届いた瞬間、胸の奥、愛しさが溢れ出す。ほほを滑り落ちた雫は冷たかった。それで現実なのだと、否応なく理解できた。初音の目尻に溜まっていた大粒の涙は、止めどなく流れ続けた。楓の声が優しく響いた。
 もう、泣き虫なんだから。初音ったら、ほんとに昔から変わらないわね。
 初音は泣き笑いの表情のままで、でも気が付いたときにはもう、ふたりの姉の元に駆けだしていた。

(了)