ガラスの温度 投稿者:枯野草莉 投稿日:4月14日(水)22時31分


 ――兄妹というのは、楽園のように近くて遠いものだ。家族でありながら異性を感じさせうるほどに不安定で、悲しいくらい危うさに翻弄される存在なんだ。こんなことを吐き捨てた詩人が過去にいたらしい。君は知らないかな。うん、知らないなら良いんだ。君が悪いんじゃないよ。つまらないことを言った僕が悪いんだからさ。そんな顔をしないでくれよ。悪かった。気分を害するつもりはこれっぽっちも無かったんだ。ただ妹のことを頼むって言いたかっただけで……うん、すまない。今、僕は嘘を吐いたみたいだ。妹を取られた兄としての立場から君のことが心底嫌いだったし、愛していた妹の、その初めての恋人である君を憎いとさえ思っている。時々ふっとわき上がる衝動があるんだ。何もかも、この世のあらゆるものが敵で、たったひとりの味方を奪われるような気分ってやつさ。離したくない。離れたくない。瑠璃子に見捨てられたら。そう思うと僕は生きていることすら苦痛で、嫌になってくる。分かってるさ。死にたくないし、死ぬつもりも無いんだ。勇気が無いって笑うかい? ああ、まただ。申し訳ない。僕は君を試すようなことばかり喋ってしまう。君のことは認めているし、瑠璃子には君みたいな人間こそが相応しいんだろうね。そうだね。君が言いたいことはなんとなく分かるよ。壊れたおもちゃを弄ぶような、そんな未練じみた言葉はこれで終わりにしようか。僕は遠くに行くことにした。だから、あとは任せたよ。大丈夫。安心していい。君はおそらく自分を制御出来ないときがいつか来るんじゃないかって恐れているみたいだけど、君はね、君自身が思っているよりも、はるかにまともな人間だからさ。なんだ。その表情を見る限りじゃ理解してたのか。恥ずかしいことを言ってしまったみたいだね。……それと、僕は忘れてしまった分の罪を消すつもりは無い。なんだい、その驚いた顔は。あ。そうか、なんで思い出したのかって聞きたいんだろうけど、大した答えじゃないよ。記憶というものは都合の良いように削られたとしても、決して消えさるわけじゃないんだ。隠されているものは必ず暴かれるものさ。誰ひとりとして、自分の心に嘘をつき続けることは出来ないんだ。分かってる。もう分かってるんだ。その思い出せない自分の行為のことはね。僕が何を思い、瑠璃子に何をしたか。そんなことはいつかは分かってしまうことだったんだ。そんな顔をしないでくれよ。責めてるわけじゃないし、同じ過ちを繰り返すつもりも皆無だ。そう。考えたんだ。瑠璃子は教えてはくれなかったけど、僕らを救ってくれたのは君なんだろう。幸い、病院のベッドのなかで考える時間はたっぷりとあったからね。推測するのに十分な材料はあったし、まあ、おせっかいな人間がいたというのもあるんだけど……。ははは、赤いだろ? 彼女に張り手を貰った顔が腫れたままなのは、まあ、気にしないでくれないかな。そうなんだ。君が思っている通りだよ。昨日、謝ったんだ。謝ったけど、きっと許してくれないだろうし、許して欲しいと言えるわけじゃない。でも僕はこれからも謝り続けるつもりだ。そうすべきだと思っているし、僕が彼女に出来ることはしてあげたい。僕はもう間違えた道を選ぶつもりはないよ。彼女の望むようにするさ。そうだね、君には感謝している。いろいろと手を回してくれたのも君なんだろう? いや、瑠璃子のためだってことはちゃんと理解してるけど、それでも感謝するよ。ありがとう。


 月島拓也が入院していた病院のベッドで目覚め、傍らでずっとついていた瑠璃子の介護を受け、以前のような受け答えができるよう恢復するまでには約一年半の時間が必要だった。彼以外の人間、すなわち生徒会の他の面々が学校に復帰したのが三ヶ月ほどだったことを考えると、早いとも遅いとも言える期間である。太田香奈子に関しては医師達の予想より遙かに早く意識を取り戻した。脳に物理的な異常は無かった代わりに、精神的なショックの大きさが問題となった。未だに完全な治療法が確立されていない分野であるため、心神喪失状態が長く続くかと思われたのである。思考が明晰になった後、精神異常の検査を行われたことは仕方あるまい。実際、事件以前からの病状を危ぶんだ教師や家族の意向もあった。本人と藍原瑞穂の強い希望もあって一年間の休学期間を設け、そのまま復帰するか、それとも他校に移るかの選定を行ったというのは、もはや公然の秘密である。
 さて、月島拓也と同様に運び込まれた瑠璃子ではあるが、これといった異常は認められなかった。後遺症も無いとされたのは、当然のことではある。但し、拓也の見舞いと称して度々病室に入り込んだことから、院内の医師からは煙たがられているらしい。彼女のような人種に慣れているのか、看護婦からは全く気味悪がられておらず、逆に可愛い可愛いともてはやされていることが最近ちょっと煩わしい、というのは瑠璃子の談である。
「またお菓子もらっちゃった。太るね」
 病院に寄った帰り道、そう語る瑠璃子の言葉に祐介は戸惑う。
「ええと、できればあんまり食べ過ぎないでほしいな」
「長瀬ちゃんは、そのほうがいいのかな」
「うん。まあ」
 こんな会話も、拓也が退院してしまえばもう無いだろう。伝言を受けて病院の屋上に呼び出され、多少驚くような話を聞かされた祐介であったが、拓也の選んだ道を肯定するつもりだった。拓也はあと数日でこの街を出て行くのだ。そして彼が向かう地は、好条件で迎え入れてくれる。どこにも瑕疵は見あたらない。
「お兄ちゃん、なにか言ってた?」
「ちょっとね」
「これからのこと、かな」
 彼女は遠くに行くことを知っているのか、知らないのか。たぶん、ふたりにはどうでもいいことだ。この兄妹はその程度で切れるほどやわな絆は持っていない。距離は関係ない。瑠璃子は決して兄を見捨てることは無いし、拓也もまた、妹を傷つけることは無い。月島拓也が新しい未来を探し始めた。それで十分ではないか。瑠璃子は兄の選択を喜ぶはずである。そこに翳りはなく、狂気の扉に手を伸ばすことも無い。だが、何か足りないのではないか。祐介の胸の裡でざわめくものがあった。
 瑠璃子が悲しげな目を見せることは、もうなくなったとしても。
 軋む音がした。どこからか、冷たい影が忍び寄って来ていた。その暗さは祐介の目の前に広がり、空を仰がせた。いくつもの雲が太陽を遮りながら、ゆらゆらと漂っている。
「瑠璃子さんは、」
 迷いが浮かび、祐介は言葉を止めた。
 息をそろそろと吐き出す。腕を大きく伸ばし、瑠璃子の手を握った。じっとりと汗ばんだ手のひらを重ね、祐介は動揺を隠すように足を速めた。
 瑠璃子は引っ張られた腕から力を抜いた。ととと、と歩調を早くする。前方から冷たい風が吹いてきた。制服のスカートが一瞬翻りそうになった。一年半前から少しだけ伸びた髪も、ふわりと浮いた。前髪を払おうと鞄を持った手を動かそうとする。祐介が気づいて空いている手を瑠璃子の額に当てた。目にかかっていた一房の髪が後ろに流れた。つられるように振り返る瑠璃子の視界に、拓也の姿が入った。不思議に思いながらも声をかけようとした瞬間、彼の体は路地を折れたか、すでに消えていた。
「いま、お兄ちゃんがいたよ」
「……月島さんが、そこに」
 韜晦は止めよう。祐介がそう決意するまでの間は全く空かなかった。いつもより幾分強い口調で、強い言葉で。
「追いかけよう」
「長瀬ちゃん?」
 今度は走り出す。瑠璃子と繋いだ手はしっかりと握り直し、今そこにいた拓也を追跡する。コンクリートの狭い道を抜ける。じゃっと小石を蹴る音がして、慌ててその方向に急ぐ。瑠璃子の息が乱れているのが祐介の耳に届いて、視線を合わせた。頷く瑠璃子。祐介は多少無理やりに瑠璃子を立ち止まらせるように、速度を落とした。口を開かれる前に耳を澄ませた。すぐそばにいる。たぶん、そこの角を曲がればそこに。
 影が伸びる。ふたりぶんの影が。夕焼けの綺麗さがやけに際だって見えた。オレンジ色の空は焼けている。太陽の沈みかけた姿は色鮮やかだ。橙と群青の狭間を隔てず、ただゆっくりと溶かしていくようだった。
 祐介に凝っていた疑問の正体が、ふっと明確な形になった。そうだ。拓也は別れの言葉ひとつも言わず消えるつもりだったのだ。だから祐介に話した。瑠璃子には黙ったままで、逃げるように去ろうとした。一目見てから、そんな感傷に浸ったのかもしれない。祐介が確信しているのは、拓也が離別を散々迷ったであろうこと。そして、瑠璃子は引き留めないというあやふやな予感。
 なだらかな静寂、しかるのち来る帳の降りる時刻。沈黙を破るのはどちらが先でも良かった。だから祐介は、瑠璃子の手を引いて、前に進んだ。強く握りしめていた手を離すと、すぐに瑠璃子の背中を押して、拓也の前に出した。
 黙りこくるふたり。ひどく不器用な子供のようだった。
 拓也は触れるのを恐れるごとく、一定の距離を保った。瑠璃子はそんな拓也を見守って、そこから動こうとはしなかった。透明な壁があった。ふたりは優しくあろうとしていた。ふたつの重なり合わない影。夜に混じった空気が、ゆるやかに流れていた。
 どれだけの時間が経っただろう。ふと風に誘われるように拓也が腕を伸ばした。震えていた。その手のひらは瑠璃子の頭のうえに乗った。心地よい重さが感じられた。瑠璃子もまた、腕を持ち上げた。微笑みが生まれた。手と手が触れあい、少しだけ冷たい肌が温められた。しばらくそうしていた拓也だったが、安堵したみたいな表情になり、祐介を見た。表情は消えた。息を吐き出してから、背中を向けた。歩き出す。瑠璃子から離れていく。兄が遠ざかっていくのを妹は優しい瞳で見つめていた。不意に拓也は立ち止まり、振り返った。祐介を見据え、それから深々と頭を下げた。自らの意志でどこかへと去りゆく彼を引き留めようとは思わなかった。きっと、聞けば居場所は教えてくれる。もう会わないつもりも無いし、訪ねれば彼は歓迎さえしてくれると祐介は思った。だが、これは別れだった。拓也と瑠璃子は、確かな別れを経験したのだ。
 あとには静かな足音だけが響いていた。雲の隙間から漏れた月明かりが照らすなか、瑠璃子と祐介は、彼の背中が見えなくなるまで、そのしっかりとした足音が聞こえなくなるまで、動くこともなく、じっと見送っていた。