もう終業式直前の時期。学校からの帰宅途中、栗原透子はふと思いついた。街のケーキ屋、維納夜曲へと寄ってみることにする。土曜日の正午過ぎだから、まだ太陽は高い位置にあるはずだが、空はどんよりと重々しく曇っていた。
中にいた店員は、麻生明日菜だけだった。二言三言会話を交わし、ケーキを買う。
「新作なんだけど、どう?」
「ふぇぇ……あ、あの」
「ああ、いいからいいから。おまけでもう一個入れておいてあげるわね」
「あ……」
イチゴのショートケーキは美味しそうだった。だが、ふたつは必要ない。透子は好意を無碍にするわけにもいかず、口ごもった。明日菜は楽しそうに箱に入れてくれる。生クリームの甘い香りが漂っていた。
散々迷ったが、透子は決めた。頑張って食べよう。
「……あ、ありがとうございます」
「うむ。いっぱい食べて大きくなんなさいよぉ」
胸をぽんぽんと叩かれた。遠慮がない。
透子は混乱している。どう答えればいいのか考え込んでしまったのだ。その姿を楽しそうに、あるいは懐かしげに見られている。透子の目線は下がっていき、やがて沈黙が店内を満たす。明日菜が気まずさを感じる直前、透子は顔を上げて、叫んだ。
「あ、あたし……が、がんばりますっ」
何を頑張るのやら、そんなことは考えていない。
一瞬、明日菜もぽかんとした顔になる。透子はおろおろと彼女の様子を窺うしかない。どこか違う優しい静寂で、緊張の糸が張りつめていく。その糸がぷつりと切れたかのように、こらえきれず明日菜は笑った。
「おーし、がんばれー!」
にっこりと笑顔で送り出された。透子はぱぁっと明るい顔になる。軽い足取りになって、維納夜曲を出て行った。
今日は、三月二十日だった。
春に近くとも、まだ冬の時期。外は寒さを失ってはいないし、見上げれば、太陽を隠そうと雲の絨毯がふわふわ浮いている。曇り空であたりは暗く、寂しげな風景に見えた。
はぁ、と吐きだした息は白いまま、高く昇っていく。
どうしよう。透子は小食なのだ。食べられないことはないだろうけど、せっかくのケーキだった。どうせなら誰かと食べたいと思うのは当然のことだ。
とはいえ、透子には木田時紀を誘うだけの勇気がなかった。だいたい、彼は学校にいた時点で、今日は用事があるだなどと透子に宣言して、さっさと下校してしまったではないか。しのぶはどうか。それもダメだ。透子のワガママには、いつも困ったり呆れたりした顔をしつつ、決して蔑ろにしない彼女にしても、今日だけは冷たくあしらわれてしまった。
誕生日なのに。
透子は軽かった足を持ち上げるのが、面倒になった。
「……はぁ」
吐き出す息の白さは、感じている冷たさを証明するものだった。
歩みはのろのろとして、重い。小さく動かしてはいくが、やはり寂しいものは寂しい。誕生日を忘れられているというのは、他人に注目されないこと、言い換えれば無関心に慣れている透子にも、少しこたえるものがあった。
木田時紀の場合は、誕生日なんて教えていなかったかもしれない。そう考えると、今持っていた不満はちょっとだけ的はずれな八つ当たりだったろうか。透子は後悔する。反省する。でも、それだけだった。
居場所が無いというのは、ひどく辛い。一度でも希望を持ってしまったほうが、なまじ何にも期待していなかったときの、何倍も、何十倍も、胸が痛みを覚えてしまうような気がした。きっと人間はそういうふうにできているのだと、ぼんやりと思う。
白い息が空に溶けていく。透明になっていく。帰り道から外れた場所を、ゆっくりゆっくり透子は歩く。なだらかな坂を降りていく。何も考えていなかった。ただ、気づいたときには駅の近くにいた。周りを見回す。誰も透子のことなんて気にしていなかったけれど、ひとりきりで取り残された気分で、透子はその家路を急ぐ人の流れを見続けていた。
偶然だった。
透子が立ち止まっていた場所に、白いコートを着た女の子が突撃してきた。ぶつかってしまったのだ。きっ、と睨み付けられる。つり上がった目で怒っていることは分かるのだけれど、なぜか全然怖くなかった。透子は慌てて謝る。
「ふぇええ……あ、ごっ、ごめんなさ」
遮られた。
「そこのアンタ! ごめんで済むなら警察はいらないんだから、えーと! きっちり謝罪してお詫びしてもらうからねっ!」
彼女は、お詫びと謝罪の違いを説明してはくれなかった。
必死に頭を下げる透子をよそに、彼女は、謝られているのに謝れと言ってしまって収拾をつけられなくなっていた。次第になんで怒っていたのか忘れてしまったらしいが、それでもとりあえず文句をつけようと頭をフル稼働。
「うー、えーと、なに言おうとしてたか忘れちゃったじゃないのよっ。アンタのせいだからねっ」
「ごめ……ごめんなさい」
「な、なんで泣くのよ」
「ごめ…ごめんな」
ぐすっ……ぐすっ……と鼻をすする音。微妙に人波の流れが滞る。そこかしこに見物人ができていた。ひそひそ話まで聞こえてくるようだった。
「許してあげるから泣かないでよぉっ! ああもうっ、このクイーンオブキングスたる詠美ちゃん様が悪いみたいじゃないっ」
昔指摘されたものの、まだ間違っている。正しくはクイーンオブクイーンズである。しかも同人界の、と枕をつけないと意味が分からない。
もうなにがなんだか。周囲の好奇の目に耐えきれなくなった詠美が、透子を引っ張って、引きずって、そのまま路地裏に連れ込んだ。
「ふぇ……おそ、おそわないでくださぁ」
「だだだ、誰が襲うっていうのよっ!」
無論、詠美ちゃん様である。
「お金……あんまり無いけど……渡すから……ゆるし……許して……」
透子は怯えきっていた。詠美のことは、ほとんどやーさんか強請扱いである。
路地裏からも連れ出した。明るいところじゃないと誤解されっぱなしになることに、詠美でさえ気づいたのである。
頭を抱えて悩み出す詠美に、透子はひっくひっくと涙を止める努力で応えた。
が、詠美はすでにパニクっており、手を掴んだまま走り出す。
透子は握られたままの手をふりほどくわけにもいかず、がくがくと揺れながらも脇を締め、ケーキ入りの箱だけは大事に抱えていた。
やがてたどり着いたのは詠美の家である。
「もうっ、とりあえず入んなさいよ」
むすっとした顔の詠美がドアを開けた。不満たらたらなのは透子にも分かる。分かるが、どうすることもできない。ややこしいことになった、とは、何故かふたりとも思っていない。どちらもがまだ混乱から抜け出していないのである。
「お……おじゃまします」
「ただいまー。あっと、ママ、紅茶ちょーだい。ふたりぶんお願い」
「あら詠美ちゃん、おかえりなさい。お友達? どなた?」
「……うー。そんなの、あたしがしってるわけないじゃないっ」
癇癪を起こしたように叫んでから、詠美が部屋に入っていく。一応泣きやんだが、どうしていいのか分からず戸惑っている透子もついていく。それを詠美の母親が不思議そうに見ていた。
「で、あんた、だれなのよ。名前は?」
尖った口調で聞かれ、びくっと震えてから、透子は答えた。
「栗原透子」
「とーこ?」
「とうこ、です……けどぉ」
「ふーん。あたしの名前は詠美よ。大庭詠美」
「えーみさん?」
「え、い、み! 詠美よっ。そうね、あんたには詠美ちゃん様って呼ぶことを許してあげるわ」
「えっと、詠美ちゃん様、ですか?」
「……やっぱり、さん付けにしていーわ」
「詠美さん」
どうにも、詠美にとっても高圧的に出にくい相手だった。ゆっくりとした敬語で言われると、どこかのコミパスタッフを思い出す。頭の上がらない相手には偉そうにしにくいではないか。
「で、なんで連れてきちゃったんだっけ」
「さあ……」
「さあ、じゃないわよ」
なんとなく詠美が窓の外を見た。雪が降っていた。
「……うわ。降ってるじゃないっ」
「ふぇ……ホントだ……」
「あんた、敬語使わないで話しなさいよ。これ、めーれーだかんね。今からっ」
「で、でもぉ」
「あたしがきょかしてあげるから、ほら」
「う、うん……」
「あ。なんで連れてきたのか思い出した。そっか、ムカついて怒って――」
ここから数分間、文句が詠美の語彙の続く限り出てくる。同じ表現ばかりになってきたころに、透子がぽつりとつぶやく。
「……傘、ないんだった……」
「それは、あたしのせいじゃないわよ」
「うん。……分かってる」
顔を見合わせた。
「ま、傘くらい貸してあげるから。山より心のひろぉい詠美ちゃん様に感謝しなさいよ」
「ありがとお、詠美さん」
「……むー。大庭さんのが良かったかも。なんか、いっつもそんなふうに呼ばれたことないから、すっごくヘンな感じがするし。っていうか! なんであたしがあんたのために悩まなきゃいけないのよぅっ」
会話は続く。
べつにたいしたことを話したわけではなく、詠美がなにか自慢して、透子がそれをすごいと目を輝かせて……それだけのことだった。
雪のあいだの雨宿り。時間つぶし。詠美としたら、やはり自分のせいで透子が足止め喰らわされてしまったと思ったこともあったのかもしれない。そんなこと、彼女はけっして認めようとはしないが。
透子としても、人恋しさに素直になっていただけだった。見知らぬ相手と話すことは、苦手で、怖いことなのだけれど、詠美を相手にしていると、なぜか全然怖くない。むしろ親近感のようなものまで湧いてきてしまった。
話し込むうちに雪も深くなってくる。止む気配は、もうしばらくはなさそうだった。
「ふぇぇ……」
「こりゃダメみたいね。フン、雪のくせに詠美ちゃん様の家にまで遠慮しないで降るなんて身の程しらずよっ」
訳の分からない怒り方に、透子は笑った。
詠美も、紅茶を飲みながら話していたが、なんだか気分が良い。自慢話を続けてみる。漫画の話、周りの人間の話、パンダがどうたら、ポチの馬鹿ばかばかぁっ、と叫んでみたり。
はっと思い出して、透子は床に置いておいた箱を取り出す。
「これ……どうぞ」
「へ? ケーキ?」
「うん」
「あたしと一緒に食べようっての?」
「う、うん。ダメかなぁ」
「な、なによぉ、あたしがそんな心の狭い人間だって思ってるんじゃないでしょーね!」
維納夜曲で買ったケーキと、新作の美味しそうなもの。詠美が欲しそうにしていた新作は譲り渡し、透子はショートケーキを食べる。
黙々と、食べる。
いつしか雪も止んでいた。まだ晴れていないけれど、これだけ強く降ったのだから、そう時間を待たずとも雲は散るだろう。
「……お、美味しかったわよ」
「うん」
詠美がそっぽを向いて言った。
「今のケーキ、また持ってきなさいよ」
透子は立ち上がる。帰り支度をしていた。
詠美は引き留めなかった。
「……あの」
「なによ」
「楽しかったから、その、ありがと……」
語尾は小さくなってしまったけれど、詠美は照れ隠しか振り向かない。
「もう帰るの?」
「うん」
寂しげな表情が一瞬だけ浮かんだのを、透子は見逃さなかった。指摘はしない。詠美のほうは、鼻を鳴らして透子を見下ろすつもりで、ふーん、とだけ。
「そっ。じゃあね」
「さよなら、詠美さん」
「あーもうっ、ちゃんで良いわよ、詠美ちゃんで。なんか、うー!」
言葉にならないもどかしさで身もだえしていた。ふみゅぅ〜! と詠美のうめき声が、透子の耳に届いた。
「じゃあ、ばいばい、詠美ちゃん」
「また、来なさいよ。したぼく二号にしてあげるから」
「したぼく? ……下僕、かなぁ」
「……どっちだっていいじゃないっ。じゃあね透子っ」
傘はいらないだろう。詠美の母親が玄関まで見送りに来てくれたので、深々と頭を下げて透子は出て行った。
道路を埋め尽くす雪の上を歩いていく。途中、なんだか小柄な関西弁の女性と、そのひとにハリセンではたかれている男性を先頭に、わいわいがやがやと詠美の家へと向かう集団とすれ違った。大きな包みやら、ケーキの箱やら、楽しそうに歩いていく姿があったのだ。透子は邪魔にならないように避ける。きっとあのひとたちは詠美の家に行ったのだろう。そう考えるとなんだか素敵だった。透子まで嬉しくなってくる。
帰り道、どっちだろう。
ゆっくりと歩いていく。歩いて、歩いて、結局家に着いたのは遅くなってしまった。もう夜なのだ。怒られるかな、と不安になりながらも、透子は笑顔で家のドアを開ける。
目があった。
どちらからというわけでもなく、単純に、目がそこにあって、偶然、見ていただけだ。
時紀としのぶが、なぜか並んで透子の家の玄関で、ドアの方を向いていた。
「遅かったじゃないっ」
しのぶの怒った顔は、心配の裏返しだろうか。
「……ったく……あー、だりぃ」
「あんたねぇ……」
ふたりはどれだけのことを、ふたりきりで愚痴ったのか分からないけれど。何時間も待たせてしまったらしい。それで透子の家の中でいろいろとあったらしい。
にらみ合いが始まりそうな予感がしたが、透子はついつい笑ってしまった。
ふたりがここにいる理由はなんとなく分かってしまったのだ。泣きそうなくらい嬉しかった。泣かないように笑おうとして、楽しくて笑いたくて、やっぱり嬉しくて笑った。透子が今日、不思議な偶然に出逢ったことが、とても綺麗な夢のように思えて。
透子が笑ったことで、ばつの悪そうな顔でふたりは顔を背けて、片方は笑顔を作って、片方は面倒くさそうに、奥へと引っ込んでいった。
ケーキの甘い匂い、美味しそうな料理の香り。それから、透子の母親の呼ぶ声が聞こえた。
小さな祝福が、ここにあった。
きっと、こんな優しさなら誰の上にも降り注ぐのだろう。平凡で偶然な、積み重なった様々な想いが伝わるように。
ハッピーバースデイ、透子&詠美。